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戦後70年の原爆ドーム「保存運動盛り上げた女子高生の存在を知ってほしい」

2015-08-06 14:51:07 | 福島、原発

http://www.huffingtonpost.jp/takeshi-inomoto/genbaku-atomic-bomb-dome_b_7937124.html?ncid=fcbklnkjphpmg00000001

  朝日小学生新聞・朝日中高生 新聞記者

戦後70年の原爆ドーム「保存運動盛り上げた女子高生の存在を知ってほしい」

投稿日: 2015年08月05日 15時10分 JST 更新: 2015年08月05日 15時10分 JST
GENBAKU
猪野元健

 

原爆ドームは今年で「100歳」、被爆70年の年です。保存運動が高まった大きなきっかけが、原爆で被爆し、白血病で亡くなった女子高生の楮山ヒロ子さんの日記です。同級生が楮山さんの存在を広めたいと、情報を集めて冊子を制作中です。

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中学生時代の楮山ヒロ子さん(右から2人目)=同級生提供

1945年8月6日の広島。米軍によって投下された原爆は、ドームのほぼ真上で爆発しました。楮山さんは当時1歳で、1・5キロほどはなれた場所で被爆しました。

原爆ドームは1915年に広島県物産陳列館として完成しました。原爆で焼け野原になった広島で、屋根の鉄骨や壁などの一部が奇跡的に残りました。

戦後、市民の間で、戦争のこわさを伝えるために保存しようという意見と、悲しみや憎しみを思い出させるから壊そうという意見がありました。

「あの痛々しい産業奨励館(原爆ドームのこと)だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろう」

楮山さんが16歳に白血病で亡くなる前の年につづった日記の一部です。保存か壊すかの結論が出ない中、地元の子どもたちの団体「広島折鶴の会」はこの言葉に大きな刺激を受け、原爆ドームの保存運動のための活動を始めました。

保存への機運は高まり、広島市議会は66年に永久保存を決定。96年には世界遺産に登録され、世界中の人が訪れています。
    

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国内外の多くの人が訪れる世界遺産・原爆ドーム=広島市

「楮山さんのことを伝えていきたい」
中学生の時、同じクラスだった寺田正弘さん(71歳)たち3人は3年前に楮山さんの情報を集め始めました。楮山さんは原爆ドームの保存につながる大きな役割を果たしたものの、知名度が低く、資料も少なかったからです。

同級生ら30人ほどに聞き取り調査をしたところ、「小柄で明るく、笑顔が印象的」「運動神経がよく、いつも一生懸命」という声が多く寄せられました。さらに、書き残されたものなどを調べると、生きることへの意志の強さが感じられる一面も見えてきました。

中学校を卒業する際、同級生の吉村勝文さんへのよせ書きにはこうあります。「万が一 君死を望むことあれど けっして死んでわならぬ」。「君が正しいと思ったことはきっとやりとげるんだぞ! おれの顔を忘れるでねぞ!」(いずれも原文ママ)。田村純子さんへは「しっかりやれよ」とありました。「ふつうなら『お元気でね』くらいですよね」と田村さんはふり返ります。

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楮山さんが中学校を卒業するときに吉村さんに向けて書いたよせ書き
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一部を拡大

原爆で被爆すると、時間がたってから白血病などの病気になることがあります。楮山さんのお葬式にも行った田村さんはこう考えています。

「生前に被爆した話は聞いたことがありませんでしたが、本人は原爆症のこわさをか抱えて生活を送っていたのでしょう。だからいつも頑張っていたのかもしれません」

寺田さんたちは、楮山さんの生い立ちや人となりなどをまとめた冊子を今年中には完成させたいと考えています。原爆ドームの案内板や観光パンフレットなどに楮山さんのことが紹介されることを願っています。

子どもたちには「苦しいことがあっても、それを乗り越えていこうとした生き方も知ってほしいです」と話します。

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楮山さんの情報を集めている同級生の寺田正弘さん(中央)ら

この記事は、「朝日小学生新聞」4月27日付に掲載した記事を加筆・修正しました。ジュニア朝日のホームページ(http://www.asagaku.com)では、「朝日小学生新聞」「朝日中高生新聞」のサンプルや記事の一部も見られます。

 

 


平和宣言【平成27年(2015年)】 広島市

2015-08-06 14:04:17 | 福島、原発

画像byレオ 伊藤さんFB

 

広島市 The City of Hiroshima

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1110537278566/index.html

平和宣言【平成27年(2015年)】

平和記念式典で平和宣言をよむ市長の写真

広島市は毎年8月6日に、原爆死没者への追悼とともに核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を願って平和記念式典を行い、広島市長が「平和宣言」を世界に向けて発表しています。広島・長崎の悲惨な体験を再び世界の人々が経験することのないよう、核兵器をこの地球上からなくし、いつまでも続く平和な世界を確立しようと、これからも平和宣言は訴え続けていきます。

平和宣言


私たちの故郷(ふるさと)には、温かい家族の暮らし、人情あふれる地域の絆、季節を彩る祭り、歴史に育まれた伝統文化や建物、子どもたちが遊ぶ川辺などがありました。1945年8月6日午前8時15分、その全てが一発の原子爆弾で破壊されました。きのこ雲の下には、抱き合う黒焦げの親子、無数の遺体が浮かぶ川、焼け崩れた建物。幾万という人々が炎に焼かれ、その年の暮れまでにかけがえのない14万もの命が奪われ、その中には朝鮮半島や、中国、東南アジアの人々、米軍の捕虜なども含まれていました。

辛うじて生き延びた人々も人生を大きく歪められ、深刻な心身の後遺症や差別・偏見に苦しめられてきました。生きるために盗みと喧嘩を繰り返した子どもたち、幼くして原爆孤児となり今も一人で暮らす男性、被爆が分かり離婚させられた女性など――苦しみは続いたのです。

「広島をまどうてくれ!」これは、故郷(ふるさと)や家族、そして身も心も元通りにしてほしいという被爆者の悲痛な叫びです。

広島県物産陳列館として開館し100年、被爆から70年。歴史の証人として、今も広島を見つめ続ける原爆ドームを前に、皆さんと共に、改めて原爆被害の実相を受け止め、被爆者の思いを噛みしめたいと思います。

しかし、世界には、いまだに1万5千発を超える核兵器が存在し、核保有国等の為政者は、自国中心的な考えに陥ったまま、核による威嚇にこだわる言動を繰り返しています。また、核戦争や核爆発に至りかねない数多くの事件や事故が明らかになり、テロリストによる使用も懸念されています。

核兵器が存在する限り、いつ誰が被爆者になるか分かりません。ひとたび発生した被害は国境を越え無差別に広がります。世界中の皆さん、被爆者の言葉とヒロシマの心をしっかり受け止め、自らの問題として真剣に考えてください。

当時16歳の女性は「家族、友人、隣人などの和を膨らませ、大きな和に育てていくことが世界平和につながる。思いやり、やさしさ、連帯。理屈ではなく体で感じなければならない。」と訴えます。当時12歳の男性は「戦争は大人も子どもも同じ悲惨を味わう。思いやり、いたわり、他人や自分を愛することが平和の原点だ。」と強調します。

辛く悲しい境遇の中で思い悩み、「憎しみ」や「拒絶」を乗り越え、紡ぎ出した悲痛なメッセージです。その心には、人類の未来を見据えた「人類愛」と「寛容」があります。

人間は、国籍や民族、宗教、言語などの違いを乗り越え、同じ地球に暮らし一度きりの人生を懸命に生きるのです。私たちは「共に生きる」ために、「非人道性の極み」、「絶対悪」である核兵器の廃絶を目指さなければなりません。そのための行動を始めるのは今です。既に若い人々による署名や投稿、行進など様々な取組も始まっています。共に大きなうねりを創りましょう。

被爆70年という節目の今年、被爆者の平均年齢は80歳を超えました。広島市は、被爆の実相を守り、世界中に広め、次世代に伝えるための取組を強化するとともに、加盟都市が6,700を超えた平和首長会議の会長として、2020年までの核兵器廃絶と核兵器禁止条約の交渉開始に向けた世界的な流れを加速させるために、強い決意を持って全力で取り組みます。

今、各国の為政者に求められているのは、「人類愛」と「寛容」を基にした国民の幸福の追求ではないでしょうか。為政者が顔を合わせ、対話を重ねることが核兵器廃絶への第一歩となります。そうして得られる信頼を基礎にした、武力に依存しない幅広い安全保障の仕組みを創り出していかなければなりません。その実現に忍耐強く取り組むことが重要であり、日本国憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を世界へ広めることが求められます。

来年、日本の伊勢志摩で開催される主要国首脳会議、それに先立つ広島での外相会合は、核兵器廃絶に向けたメッセージを発信する絶好の機会です。オバマ大統領をはじめとする各国の為政者の皆さん、被爆地を訪れて、被爆者の思いを直接聴き、被爆の実相に触れてください。核兵器禁止条約を含む法的枠組みの議論を始めなければならないという確信につながるはずです。

日本政府には、核保有国と非核保有国の橋渡し役として、議論の開始を主導するよう期待するとともに、広島を議論と発信の場とすることを提案します。また、高齢となった被爆者をはじめ、今この時も放射線の影響に苦しんでいる多くの人々の苦悩に寄り添い、支援策を充実すること、とりわけ「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。

私たちは、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、被爆者をはじめ先人が、これまで核兵器廃絶と広島の復興に生涯をかけ尽くしてきたことに感謝します。そして、世界の人々に対し、決意を新たに、共に核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて力を尽くすよう訴えます。

 

平成27年(2015年)8月6日

広島市長 松井 一實

 

 

平和宣言について

広島市が世界最初の原子爆弾の惨禍を経験し、2年目の昭和22年(1947年)に、永遠の平和を確立しようという広島市民の願いを全世界の人々に伝え、世界的行事の一つにまで発展させたいと念願して、平和祭が行われることになりました。

平和祭は、同年8月5日から3日間行われましたが、6日には現在の平和記念公園の広場で式典が開かれ、この中で初めての平和宣言が浜井信三市長によって読み上げられました。この時の平和宣言は、

「この恐るべき兵器は恒久平和の必然性と真実性を確認せしめる「思想革命」を招来せしめた。すなわちこれによって原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界の人々に明白に認識せしめたからである。これこそ絶対平和の創造であり、新しい人生と世界の誕生を物語るものでなくてはならない」
「今われわれが為すべきことは全身全霊をあげて平和への道を邁進し、もって新しい文明へのさきがけとなることでなければならない。
この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。
ここに平和塔の下、われわれはかくのごとく平和を宣言する」

と述べています。

このように戦争を否定し、平和を求める広島市民の心の底からの叫びが、一つの形となって表れました。

平和宣言は、広島市長が毎年8月6日の平和記念式典において発表していますが、その表現や内容には、その時代が反映されています。原水爆禁止の文字が平和宣言に初めて現れたのは、第1回原水爆禁止世界大会が開かれた翌年、昭和31年(1956年)の渡辺忠雄市長のときでした。また、戦後26年目の昭和46年(1971年)、山田節男市長は「次の世代に戦争と平和の意義を正しく継承するための平和教育」を平和宣言に明示し、昭和57年(1982年)荒木武市長は、6月の第2回国連軍縮特別総会で提唱した平和のための世界的な都市連帯の呼びかけを、その年の平和宣言に取り入れました。今日では、この都市連帯の輪は、平和首長会議として世界に大きく広がっています。

平成3年(1991年)平岡敬市長は、「日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人々に、大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う」と述べました。また、平成8年(1996年)の平和宣言では、包括的核実験禁止条約の合意が「核実験の全面禁止につながること」への期待を表明するとともに、被爆の実相を語り継ぎ、広く伝えていくために「平和文化の創造」と「被爆資料の集大成」を求めました。平成9年度の平和宣言では、核兵器のない世界を実現するために、日本政府に対して「「核の傘」に頼らない安全保障体制構築への努力」を求めると同時に、私たちが言語・宗教・習俗などの違いをこえて世界の人々と率直な対話を進めることの必要性を訴えました。

平成11年(1999年)秋葉忠利市長は、被爆者が原爆の惨苦や絶望を乗り越え、ひたむきに核兵器の廃絶を訴え続けてきた足跡を称えた上で、核兵器は人類滅亡を引き起こす絶対悪であるとの真実に基づき、核兵器を廃絶する強い意志を持つことが何よりも大切であることを訴えました。また、宣言の歴史で初めて「です・ます調」の文体を用いました。平成12年(2000年)の平和宣言では、戦争と科学技術の世紀であった20世紀を振り返り、憎しみや暴力の連鎖を断ち「和解」への道を拓くよう訴え、平成13年(2001年)には、21世紀最初の平和宣言として、21世紀を核兵器のない「平和と人道の世紀」にするため、和解や人道を重視する勇気を持つよう訴えました。平成16年(2004年)の平和宣言では、被爆後75年目に当る2020年までに地球上から全ての核兵器を廃絶するために、「核兵器廃絶のための緊急行動」への支持を訴えました。

平成23年(2011年)松井一實市長は、被爆者の高齢化が進み体験を語れる方が少なくなる中、ヒロシマの原点である被爆体験や平和への思いを次世代、そして世界の人々に共有してもらうことが重要であると考え、初めて、被爆者から頂いた被爆体験談を直接盛り込みました。また、平成27年(2015年)には、為政者をはじめとする世界の人々に対し、核兵器廃絶の取組の原動力となる信念を固めるために必要な行動理念(「人類愛」と「寛容」)を提示しました。

広島・長崎の悲惨な体験を再び世界の人々が経験することのないよう、核兵器をこの地上からなくし、いつまでも続く平和な世界を確立しようと、これからも平和宣言は訴え続けていきます。

 

 


広島の原爆投下から70年、設計した父が願った核廃絶

2015-08-06 03:03:55 | 福島、原発

HuffPost Japan

http://www.huffingtonpost.jp/joyce-olum-galaski/hiroshima_b_7937604.html

Joyce Olum Galaski Headshot

広島の原爆投下から70年、設計した父が願った核廃絶

投稿日: 2015年08月05日 17時34分 JST 更新: 2015年08月05日 17時34分 JST
MANHATTAN PROJECT NUCLEAR
 
 

70年前、父ポール・オラムはニューメキシコのアラモゴードの近くの砂漠で同僚たちと立っていた。2年半を費やして新しい兵器となる最初の原爆を設計し、威力を発揮するかどうかをその眼で見ようと待っていた。光が空を覆い、その後に巨大なキノコ雲が現われた。プロジェクトは成功だった。父たちは地球上で最も強力な兵器を設計し、作り上げた。

3週間後の1945年8月6日、アメリカは広島に原爆を投下した。そしてその3日後、もうひとつの原爆が長崎に投下された。2つの原爆はあっという間に10万人以上もの命を奪い、さらに10万人近くの人たちがその後被曝によって死亡している。父は広島への原爆投下に対して複雑な気持ちだった。原爆は早く戦争を終結させるものと思われたが、それによって失われる命があまりに多すぎた。そして父は、長崎への原爆投下は良心を欠くものだと感じた。3日間というインターバルは、投降するには短すぎるからだ。

長崎への原爆投下の6日後、日本は投降すると発表した。第二次大戦は終結したが、核武装の競争が始まった。父はその後、核兵器の管理と縮小をずっと訴えていくこととなった。

1980年代までに、アメリカとソ連はいずれも、広島と長崎に投下された原爆よりもはるかに強力な「発射可能な」戦略核兵器を2万7000発ほど保有していた。どちらの国にも人類を何回も滅ぼすのに十分な核があった。

父が母ヴィヴィアンとともにロスアラモスに向かったのは1943年、わずか24歳であった。戦争が終わった後、彼はコーネル大学の数学教授という素晴らしいキャリアに就き、後にオレゴン大学の学部長、そして大学総長となっている。しかし何をしていても、父は核兵器の恐ろしさと軍縮の重要性について話す責任を感じていた。

1983年、ポールとヴィヴィアンは原爆が設計されたロスアラモス国立研究所の創立40周年記念式典に招待された。2人は人類を滅ぼしかねない核兵器の保有につながる、原爆の元凶となったこの建物を祝う気分にはなれなかった。ポールは核武装競争を終わらせ、恒久的な核兵器の廃絶を訴える嘆願書を書いた。嘆願書には5人のノーベル賞受賞者を含めて70人の科学者が署名をし、広く公表された。科学者たちは「心から人類の未来が恐ろしくなった」と書いている。

父と他の多くの人たちの努力により、核武装競争にターニングポイントが訪れた。アメリカとソ連、後のロシアの間で条約が結ばれ、核弾頭数の減少と、発射可能な状態からの退役が始まった。2001年に父が亡くなった時には、発射可能な戦略核弾頭の総数は1万4000発まで減少していた。2011年に発効した新START(第4次戦略兵器削減条約)で、アメリカとロシアは今後の戦略核弾頭の配備の総数を3000発まで減らす予定だ。しかし文明を滅ぼすには、これでもまだ十分な数である。

残念ながら、核兵器の恐ろしさは人々の意識から消えてしまったようだ。おそらく気候変動への懸念が核の恐怖に取って代わってしまったのかもしれない。気候変動は非常に深刻な脅威だが、脅威の性質としては別物だ。気候変動で数十年の間に何十億もの人が死亡し、世界に人が住めなくなってしまうかもしれない。核戦争ではあっという間に何十億もの人が死亡し、世界全体が放射性降下物と核の冬(都市が燃えていることで成層圏にまで煤煙が届き、その結果引き起こされる深刻な地球寒冷化の現象)によって人が住めなくなってしまうかもしれない。

なので、核軍縮を継続していくことは重要だ。でないと、アメリカとロシアは今にも新しい核武装競争を始めてしまうかもしれない。現在のアメリカの計画では新しい核弾頭とミサイル、爆撃機とそれを運ぶ潜水艦を含め、今後30年以上に総額で1兆ドルの予算が充てられている。この巨額の投資でアメリカが安全になるわけではない。我々の現在の核保有の目標は、抑止力として必要なところをはるかに超えたところにある。そうでないとこれらの核兵器がいつか悪い人間の手に渡ってしまった時、意図的に、偶然に、使われるリスクが高くなってしまう。

もうたくさんだ。父がロスアラモスで書いた核軍縮の嘆願書から30年以上経ったが、未だに核兵器は人類の存在を脅かす脅威となっている。核兵器を廃絶する時がやって来ている。そうすれば今から30年後、子供たちに「100年ほど前に、私たちの祖父ポール・オラムがニューメキシコのアラモゴードの近くの砂漠で立っていた...」というブログを書く必要がなくなる。

 

 


8/6 NHKスペシャル『きのこ雲の下で何が起きていたのか』~“生と死の境界線”の橋の写真を立体映像に

2015-08-06 02:40:33 | ご案内

ガジェット通信

http://getnews.jp/archives/1072628

 

被爆地ヒロシマ“生と死の境界線”の橋の写真を立体映像に NHKスペシャル『世界で2枚だけ・きのこ雲の下の写真』8月6日放送

DATE:2015.08.05 18:00 BY:
 

太平洋戦争終戦から70年。1945年8月6日、広島に飛来したB29“エノラ・ゲイ”から落とされた世界初の原子爆弾“リトル・ボーイ”により、放射線と熱風、強烈な爆風が街を襲い、爆心地から半径2km以内のほとんどの建物が吹き飛び、その年の末までに14万人以上の命が奪われたとされています。

しかし、その当時に熱線、爆風、放射線にさらされた人々の全体像は70年後の今日でも正確に把握されておらず、平均年齢80歳を超えた被爆者たちは、「いまだ“原爆死”の凄惨を伝えきれていない」という思いを強めているといいます。

そのような節目の年に、NHKは上空を覆う巨大なきのこ雲の下の惨状を記録した世界で2枚だけの写真をもとに鮮明な立体映像化するプロジェクトをフランス公共放送F5と国際共同制作。2015年8月6日19時30分から20時35分にNHK総合で放送となります。

爆心地から約2kmの地点にある“御幸橋”。原爆投下の3時間後に橋の上で撮影された白黒写真が2枚だけ残されています。そこにはのべ50名あまりの人々の姿が写し出されており、凄惨な状況を伝える貴重な記録として伝わっています。

この写真をもとに取材を進めると、写っていた被爆者のうち2名、さらにその場に居合わせた30名以上の被爆者が健在であることがわかりました。その方々の証言に加えて最新の映像技術や医学的知見をもとに立体映像にすることで、これまで不明だった新たな事実が浮かび上がることになりました。

立体映像処理の過程においては、証言をもとに写真に何が写っているのかを発見していき、熱傷の専門家や時代考証家が、写っている傷や事実について確認。さらに、被爆者によって写真に写っている人の動きや声・音が詳細に伝えられ、モーションキャプチャーで写真の人物を動かしていきます。そのうえで、被爆者に見てもらい検証を重ねたとのこと。

火傷で皮膚を剥がされた痛みに耐える人たちや、うずくまる瀕死の人たちが、爆心地周辺で被爆し、命からがら橋まで辿り着いた“生と死の境界線”の様子を克明に再現したこのプロジェクト。人類初の核兵器による攻撃とその被害の大きさを、改めて詳細に伝えるドキュメンタリーとして、意義深い内容であるといえるのではないでしょうか。

 

NHKスペシャル『きのこ雲の下で何が起きていたのか』

放送:NHK総合 
   2015年8月6日(木)
   午後7時30分~8時35分

NHKスペシャル「70年目の戦争と平和」サイト
http://www.nhk.or.jp/special/70years/

 

 

 


70年目の広島・長崎「原爆の父」の後悔  早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語

2015-08-06 02:30:07 | 福島、原発

http://thepage.jp/detail/20150805-00000004-wordleaf

70年目の広島・長崎「原爆の父」の後悔 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語

   [2015/08/05]
 

[写真]広島への原爆投下の3日後、長崎にも原爆が投下された(ロイター/アフロ)

 

 8月6日は広島、9日は長崎に原爆が投下された日です。原爆によって、広島では14万人、長崎では7万人の命が奪われました。では原爆とはどのようなものだったのか? どういう経緯で生まれたのか? 戦後70年を迎える今年、「原爆の父」と呼ばれるオッペンハイマーという人物を中心にあらためて振り返ってみました。

 

「模擬原爆」投下から70年 大阪で投下の真相に迫る集い

 

《マンハッタン計画》

 1938年12月、ヒトラー政権下のドイツの科学者が核分裂エネルギーを発見しました。分裂性のウラン235に中性子を当てて得られる巨大なエネルギーを爆弾にする可能性が生まれたのです。ナチスの迫害から逃れてアメリカにいたアインシュタインら亡命ユダヤ人は、ドイツの原爆開発をアメリカが注視し、迅速な行動を取るべきとの書簡をルーズヴェルト大統領に送ります。

 39年に「ウラン委員会」が置かれ、ニューヨーク・マンハッタン管区の陸軍研究所に由来する「マンハッタン計画」が、イギリスと共同で秘密裏に始まりました。兵器としての開発は41年10月以降です。43年設立のニューメキシコ州ロスアラモス研究所を中心に進められました。初代所長が物理学者のユダヤ系アメリカ人の物理学者ロバート・オッペンハイマー。ナチスより先に原爆を製造するのが至上命題でした。

 原爆の製造には天然ウランに0.7%しか含まれていないウラン235を濃縮する必要があるので、天然ウラン6000トンを内外で獲得し、濃縮工場はもとよりウランから、原爆に応用できるもう1つの元素プルトニウムを分離する工場、爆弾製造所などを続々と造り、最大で約12万人ともいわれる人員と、当時の日本の国家予算をも上回る20億ドルもの巨費を投じてまい進します。

 所長のオッペンハイマーは、1904年生まれ。いわば「万能の天才」で12歳で研究論文を書き上げてハーバード大学化学科をトップで卒業しました。25歳で大学助教授、32歳で教授へ就任しています。能力に加えてユダヤ系の一流原子物理学者のリクルーターとしても手腕を発揮しました。44年には最大の難関であったウラン濃縮のメドが立ちました。

 ところが翌45年5月、最大の不安材料であったナチス・ドイツが降伏。ヒトラーは直前に自殺しました。第二次世界大戦を戦う枢軸国が日本のみとなっても、4月に死去したルーズヴェルト大統領の後任として副大統領から昇格したトルーマン大統領の下、原爆製造は進められます。

 そしてついに、テネシー州オークリッジの施設でウラン型の、ワシントン州ハンフォードではプルトニウム型の原爆計3つの製造に成功し、7月にニューメキシコ州アラモゴードでプルトニウム型の核実験に挑みます。これが暗号名トリニティ(三位一体)から取った「トリニティ実験」です。

 

《トリニティ実験》

 実験は成功に終わり、オッペンハイマーは興奮に体を震わせたといわれています。実験場がある場所は観光地としても有名なサンタフェから車で約3時間半のところにあり、今でも4月と10月の2回、一般公開されています。

 45年5月には、日本への原爆投下を具体的にどこにするか会合が持たれ、京都、広島、横浜、小倉の4都市が挙がっていました。7月には対日戦争終結のため米英ソの首脳が集まってのポツダム会談が行われ、宣言が出されました。4月から就任していた鈴木貫太郎首相は表向き宣言受諾を拒否しつつも、中立条約を結んでいたソ連の仲介などで、何とか終戦に至れないか密かにはかっていました。

 トリニティ実験成功の報はポツダム会談の直前に、トルーマン大統領へ届いています。しかし宣言には原爆の存在はまったく述べられていませんでした。実験が行われたのと同じ日に、ウラン型原爆が出撃基地のあるテニアン島へ運ばれていきます。

 

《広島・長崎に原爆投下》

 8月6日朝、戦略爆撃機B29の一機で愛称「エノラ・ゲイ」が広島にウラン型原爆「リトルボーイ」を投下。世界で初めて原子力が戦争目的に使われ、14万人が亡くなりました。9日にはプルトニウム型原爆「ファットマン」が長崎に落とされ、7万人の命を奪いました。

 日本軍および政府の動揺は激しく、同日に対日参戦したソ連の動向も相まってポツダム宣言の受諾を最終的に昭和天皇が決断し、レコードに吹き込んだ終戦の詔書が15日に流され、事実上、終戦となりました。詔書に「敵は新(あらた)に残虐なる爆弾を使用して」とあるように、原爆のもたらした脅威は甚大でした。

 この結果を「原爆の父」となったオッペンハイマーはどう受け取ったのでしょうか。彼は日本への投下を支持しており、広島での「成果」を自慢げに研究員へ語ったとされています。ところが広島、長崎の惨状を知ってからは態度が微妙に変わります。

 

《核兵器の国際的管理呼びかけ》

 自らの発明で信じがたい人命を失い、トップ科学者ゆえに投下後の放射能被ばくも予見できたオッペンハイマーがふさぎ込んでいたり、後悔とも取れるような発言をしたのを多くの人が証言しています。10月には研究所を去りました。

 戦後すぐに主張を始めたのが「核兵器の国際管理」です。連合国勝利でまだ沸き返っている中、いち早くソ連が原爆を開発し、他にも拡散するのを予見して、そうなる前に核管理の枠組みを作ってしまうのが得策という発想です。果たして49年に核実験を成功させ、以後米ソの冷戦が激化していきます。

 オッペンハイマーらがイメージしていた国際管理とは多少異なった形ながら、1968年には核兵器拡散防止条約(NPT)が制定され、今日まで不完全とはいえ、核不拡散の唯一の防波堤となっています。

 また彼は原爆よりさらに大きな威力がある水素爆弾開発にも反対しました。原爆以上の惨禍を出現させないためであるとか、アメリカの水爆実験成功が却ってソ連の開発を促進する契機になるからとか、反対の理由は諸説あります。原子力委員会に所属していた彼の発言は推進派も一目置かざるを得ませんでした。

 いわば「邪魔者」になってきたオッペンハイマーを襲うのが「赤狩り」です。共和党のマッカーシー上院議員を中心とる政府内に巣くう共産主義者のあぶり出しに彼も引っかかってしまうのです。

 ナチスに対抗すべく、愛国者としてマンハッタン計画に参加する前のオッペンハイマーは、30年代の一時期左翼系の知識人と交流していたほか、弟や妻が共産党員や元党員であったなどの行動が米連邦捜査局(FBI)などの尾行や盗聴で明らかにされ、「スパイ」の疑いをかけられました。結局、危険人物とのレッテルを貼られ、公職から追放されてしまいます。そのまま静かな一学究に戻り、67年に死去しました。

 直前の63年、民主党のジョンソン大統領がアメリカの物理学に貢献した者に与えられるエンリコ・フェルミ賞を授与して名誉を回復したのが、せめてもの救いでした。

 

《「我は死神なり、世界の破壊者なり」》

 後年になって核実験を振り返って回想した言葉として有名です。ヒンズー教の聖典の一節から引き出したとされています。「原子力は生と死の両面を持った神である」とも述べています。

 オッペンハイマーは原爆投下には賛成したし、製造そのものを後悔した様子もありません。ナチスに対抗するという信念は間違っていなかったし、他に選択肢もなかったと。では何を後悔したのかというと、はっきりしたことは分かりませんが、原爆を生み出した行為自体を罪として抱えていたのではないでしょうか。

 「破壊者なり」の言葉の前に述べた「世界は今までと同じ世界ではなくなった」が、それをうかがわせます。国際管理を訴えたのと合わせて考察すると、核兵器を二度と使わせないようにしようというのが「原爆の父」としてできる、せめてもの罪滅ぼしと考えていたのかもしれません。

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■坂東太郎(ばんどう・たろう) 毎日新聞記者などを経て現在、早稲田塾論文科講師、日本ニュース時事能力検定協会監事、十文字学園女子大学非常勤講師を務める。著書に『マスコミの秘密』『時事問題の裏技』『ニュースの歴史学』など。【早稲田塾公式サイト】(http://www.wasedajuku.com/)


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