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「バターン死の行進」のメモリアルマーチ。軍人と民間人合わせて6千人近くが参加した=3月22日、ニューメキシコ州のホワイトサンズ・ミサイル実験場、大島隆撮影

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■国家と歴史〈下〉

 乾き切った砂漠地帯に、数キロ先まで続く一本の長い列があった。

 噴き出る汗をぬぐいながら、42キロを黙々と歩くのは、迷彩服姿の軍人ら6千人近くの人々だ。

 3月22日、米ニューメキシコ州にある米軍のホワイトサンズ・ミサイル実験場。彼らが再現し、思いをはせていたのは、「バターン死の行進」。70年以上前の歴史の一コマだ。

 1942年、日本軍の捕虜となった米・フィリピン軍の兵士らが、移動のため数十キロを歩かされた。すでに戦闘で疲弊し、収容所にたどり着くまでに多くの兵士が死亡。少なくとも米国人数百人、フィリピン人数千人が死亡したとされる。

 当時の記憶を引き継ぐため開かれてきた「行進」は戦後70年を迎えた今年、特別な意味を持った。

 安倍晋三が4月末、日本の首相として初めて議会の上下院合同会議で演説をするためだ。

 「行進」の前日、生存者や遺族でつくる団体の役員ジム・エリクソン(55)が、集まった人たちに語りかけた。

 「歴史を否定すれば、同じ過ちを繰り返します」

 エリクソンらは演説が正式決定する前、首相が戦争責任を認めることを、演説の条件にすべきだと米議会に要請した。「侵略の定義は定まっていない」という首相の発言などが報じられ、会員の間で懸念の声が上がっていた。

 判断をゆだねられた下院議長ジョン・ベイナーは3月末、招待を決めた。

 「安倍首相の演説は、もっとも緊密な同盟国の一つから、経済や安全保障での協力拡大を米国民が聞く機会になるだろう」。首相の演説を発表する声明で日本への期待をにじませた。

 議会に根回しをした日本政府関係者は、「安倍首相への警戒はゼロではないが、期待と評価が上回った」と話した。

 20世紀以降、米国には二つの日本観が混在してきた。

 「軍国主義国家」と見なして激しく戦った敵、日本。もう一つは民主主義国家として生まれ変わり、友好国となった日本だ。70年を経て、多くの人々にとっては、後者が日本の姿になった。しかし、過去の記憶は時に呼び覚まされる。

 「死の行進」生存者の一人、レスター・テニー(94)は「昔のような日本に戻るとは思わない」と語る。

 それでも、今も時々、悪夢にうなされる。安倍が靖国神社に参拝したことを知ったときは、自分たちを虐待した一人の日本軍兵士の顔が浮かんだ。「日米は政治的に互いを必要としている。しかし、その代償が過去を書き換えることであるなら、私には受け入れることはできない」

 相手の中に二つの姿を見るのは、日本も同じだ。(ホワイトサンズ・ミサイル実験場〈ニューメキシコ州〉=大島隆

■米国へ 憧れと反発

 米国東海岸のバージニア州にある「マッカーサー記念館」の書庫に、渋色に変色した数千通の手紙の束が残されている。

 「元帥閣下 我々はアメリカ国民に対し永遠の友を誓ふものであります」

 「初めてのコツペイパン。雪の様に白いパン。有難(ありがと)うございました」

 日本占領を指揮したGHQ(連合国軍総司令部)の最高司令官、マッカーサーに宛てた一般の日本人からの便りだ。1945年8月から2千日に及ぶ在任中に数十万通が届いたという。

 かつての「敵」に忠誠を誓う男性、食糧支援を感謝する女性、米国市民権を懇願する青年の手紙も。「鬼畜米英」とまで呼んだ対米意識は敗戦で一変した。

 「サインを下さい」と送った往時の男子中学生を捜すと健在だった。埼玉県皆野町でうなぎ屋を営む塩谷容(よう)(80)。当時、マッカーサーの署名入りカードが戻ってきたという。「日本の誰よりも偉い人が、子どもに返事をくれるとは、すごい国だって思いました」

 米国への憧れと畏(おそ)れと。日本はないまぜの感情を抱いて戦後を歩み始めた。

 3月、その記念館の一角にソメイヨシノが植わる庭園ができた。苗木を贈ったのは「大日本武徳会」(本部・京都市)と呼ばれる伝統武道を継承する団体だ。

 植樹式に臨んだ代表理事の浜田鉄心(てっしん)(68)は「戦後70年の節目に日本再建に貢献したマッカーサー夫妻に謝意を示す」とたたえた。

 実は武徳会は占領中にGHQに解散を命じられた組織だ。戦時中は政府の外郭団体として学校や軍に柔道など武道を広めた。首相の東条英機が会長を務め、会員は100万人を超えた。

 再結成は占領終了後の53年。国内より海外で受け入れられ、現在の会員は国内約1千人に対し、欧米など海外は約5千人にふくらむ。宣教師の紹介で19歳で渡米し、バージニア州の大学院を出た浜田は、海外普及を担ってきた。

 記念館との縁は偶然だ。施設のあるノーフォーク市はペリーの黒船が出港した軍港都市。退役軍人が日本から持ち帰った日本兵の軍刀や日の丸が、「返却したい」と記念館に持ち込まれるようになり、現地にいた若き浜田が仲介役を頼まれたのだという。

 館内には、日本が45年9月に調印した英文の降伏文書のレプリカが掲げられ、東条英機が自殺を図った拳銃も展示している。浜田は運命のような「どこか皮肉な歴史の巡り合わせ」を感じたという。

 米国には「二つの表情がある」と浜田は語る。敗戦国の若者だった自分を受け入れてくれた豊かでエネルギーの塊のような国と、黒船と占領で2度の「開国」を迫った国と。どう付き合うかは容易ではない。

 浜田はこれまで機会を見つけては記念館へ日本の知人を案内してきた。

 アジア太平洋戦争の日本の犠牲者は300万人、米国も40万人を超す。浜田には、多大な犠牲を経て国際社会と和解した日本と、解散を経て再出発した会の歩みが重なって映る。(西本秀

■基地 問われる「対米従属」

 内閣府世論調査では1978年以来、米国に「親しみを感じる」と答えた人はほぼ毎年7割を超える。昨年10月の調査では82・6%だった。

 日本人の多くは戦後、米国に親近感を持ちながら、「反米」のねじれも抱えてきた。いま、左右の政治的立場を超えて「対米従属」が論じられる。

 3月下旬、東京・五反田の「ゲンロン カフェ」。漫画家の小林よしのり(61)は、満員の聴衆の熱気に包まれた会場を見渡すと、語気を強めた。

 「沖縄はずっと『占領下』」「なぜこの国に米軍基地を置いたままなのか。それで誇りを持てるのか」

 「大東亜戦争」を肯定したベストセラー「戦争論」(98年)で知られる保守の論客。小林は安倍政権が進める米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の同県名護市辺野古への移設計画を批判してきた。

 小林は「戦後ずっと続けてきた対米従属をさらに強めている。『戦後レジームの最終仕上げ』だ」。

 2010年6月。普天間飛行場をめぐり、「最低でも県外」を掲げて移設交渉に臨んだ首相(当時)の鳩山由紀夫が、交渉の行き詰まりの末に辞任した。

 その光景に、出版社「書籍情報社」代表の矢部宏治(55)は、これまで考えもしなかった疑問を抱いた。「国民が選んだ政権が、国内の米軍基地について何も決められない。日本は本当に独立国だろうか」

 元々、大手広告会社で家電のマーケティングを手がけ「完全なノンポリ」を自認していた。その目で見ても、鳩山政権は中国が台頭する現実をふまえ「対米従属から少しバランスをとろうとしただけだったのに……」ともやもやが募った。

 同年秋、沖縄へ飛んだ。

 足かけ8カ月かけて、米軍基地28カ所を取材。さらに米公文書などを調べ、昨年10月、「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」を出版した。現在、約9万部のベストセラーだ。

 なぜ今「対米従属」が語られるのか。

 日米関係史に詳しい東京大教授の吉見俊哉(57)は「国内の米軍基地は、特に沖縄で、その存在を正当化していた冷戦が終わっても残ったまま。鳩山政権の挫折は、今まで多くの日本人が見ようとしてこなかった『基地の永続化』という現実を、はっきりと見えるようにした」と指摘する。

 吉見は言う。「多くの基地を抱える沖縄を起点にして語られる『対米従属』論は、戦後の日米関係を問い直す試みとも言える」

 単なる「反米」でなく、むしろ日本のあり方を問う「対米従属」論。単色では描けない米国像はどう変わっていくのか。

=敬称略(上原佳久)

■取材後記

 「行進」の会場で取材した米軍の男性が、「戦士」という漢字のタトゥーを見せてくれた。東日本大震災後の「トモダチ作戦」に参加したのだという。戦争を戦った二つの国が現在の友好関係を築くまでの、70年という時の長さを思った。

 日本との戦争は、米国では過去のものとなりつつあるが、忘れられたわけではない。米国にとっては、戦後の友好関係は「日本は生まれ変わった」という認識が大前提だ。戦後70年という節目の年に、日本は過去と未来をどう語るのか。それは、これからの日米関係にもかかわってくる。(大島隆

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 おおしま・たかし 72年生まれ。政治部などを経てアメリカ総局員▼にしもと・ひでし 70年生まれ。長野総局などを経て東京社会部記者▼うえはら・よしひさ 80年生まれ。福島総局などを経て文化くらし報道部記者

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 ◆「戦後70年」第3部はこれで終わります。今後は沖縄問題や広島・長崎と核、戦争責任と追悼、東アジアと戦後などのテーマを予定しています。企画へのご意見、ご感想をsengo@asahi.comメールするにお寄せください。