【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

【思い出写真館】

2008年02月27日 19時54分46秒 | ルポ)最年少町長さんの誕生(2008年2月)

 「思い出写真館」をアップします。


僅差の勝利。僕の感触としてはダブルスコアもあり得ると思ったのですが・・・

 ◇


 当確から10数分後の歓喜の輪。
 「当選確実(確定)」の一報が入った瞬間は、

 百人がジャンプしながらガッツポーズ。
 「勝ったでー!」 「やったやった、ほんまに勝ったんか!?」

 抱き合う人、ケータイ電話を取り出し大切な人に連絡する人。
 生涯忘れないであろう光景です。

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 自慢の夫人の肩を抱き報道各社のリクエストに答える玄素君

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マイクを持ち、あいさつする新・町長

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NHKのインタビュー(町役場内)。
「当確」からわずか1時間半後の光景です。



 翌日付の地元紙「日高新報」さんです。
 選挙中も良心的な報道を続けました。
 この紙面に掲載した写真の構図から分かります。

 ◇

 和歌山県は私たちの親戚にとってあまり良い思い出のない土地でした。私の母方の祖父は国鉄職員で設計・建築の技師をしていました。「3ちゃん農業」のはしりみたいなもので、昭和10年前後だと思いますが、長野の自宅を離れ、紀伊半島を転々としながら仕事をしていました。当時では珍しい単身赴任です。国鉄から与えられた任務は峻険な紀伊山地とその海岸線のわずかな平野部に鉄道(紀勢本線)を通すことです。祖父がしたのは、プラットフォームの設計と現場監督。実際の仕事にあたる人の多くは現地採用ですから、コミュニケーションのためにお酒を飲む機会が多かったようです。謹厳実直で無口な祖父はいつしかアルコールなしでは生活できないようになってしまいました。長野に帰ってからは毎日、サントリーの「オールド」を一本空けるようになってしまい、酔っぱらって大事な製図を用水路に落としたり、転んで歯を折り血だらけで帰宅したり、長野から各駅停車で一駅なのに、碓氷峠を越えてなんと上野駅まで乗り過ごしまったり、とことが度々あったというさんざんな国鉄人生となりましたが、55歳定年まで勤めました。定年後の夢は「自分が設計した紀勢本線に列車が走っている光景を一度見てみたい」。家族で紀勢本線一周旅行に出かけたのが一番楽しい思い出だったようです。その後鉄道弘済会に10年間勤めたあと、隠居。そのころ、東京で私が生まれたので上京し、毎日のように世話をしてくれたそうです。祖父は長年のアルコールがたたり、その2年後、67歳で肝臓癌でなくなりました。長野で開かれたお通夜のさいちゅうに私はよちよちと自分の脚で歩き出し、親戚をびっくりさせました。早速、祖母は霊前に報告、親戚たちは「生まれ変わりだ」「将来酒飲みになるんじゃないか心配だ」と口々に言ったそうです。幸い私はお酒はたしなむ程度です。子どもの頃、謹厳実直な黒縁メガネの祖父の遺影と酒飲み伝説のギャップが不思議でなりませんでしたが、私も齢33にもなると、謹厳実直な男が酒に走った意味は分かりすぎるほど分かるようになりました。

 5年前、まだ社員記者のころ、久しぶりに休みが取れ、南紀白浜に遊びに来ました。玄ちゃんに頼んで、クルマで白浜駅に連れて行ってもらいました。「神戸」ナンバーが目立つ白浜は関西で一番良い海岸だといわれます。この駅は紀伊山地の崖と海岸線が数キロしかない地域に立地しており、きわめて難工事だったと予想されます。そしてプラットフォームも直線→カーブ→直線→カーブ→直線と2回カーブ。始発列車を出すために「1番線」「2・3番線」とプラットフォームが2面ある同線では珍しい作りの駅です。今はモダンな駅舎になっていますが、プラットフォームのコンクリートの基礎部分は開通当時から変わらないとJR西日本の駅員が教えてくれました。玄ちゃんに車で待ってもらって、改札口から身を乗り出すと紀伊山地の向こう側からとても不思議な感じの風が吹き下ろしてきました。調べてみると、白浜駅は祖父の設計ということでほぼまちがいなさそうです。僕は運命的な出来事はたびたびあったのでそれがどうという訳ではありませんが、今回もおじいちゃんが僕を守ってくれた気がしました。


 ◇



どうぞみなさん、印南町にお出かけください(お帰りください)。

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