もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

なんにもしないから いやほんとに

2023年09月08日 19時53分34秒 | タイ歌謡
 ただ近くに居たいだけなんだ。ずっと一緒に居たいだけなんだ。そう言って同じ部屋に泊まって、べつべつのベッドに寝ていると、好きな娘が恥じらいながら「ほら」って言いながら掛け布団を持ち上げながら手招きしてて、イヤそんなつもりじゃ、と小声で自分に言い訳しながら、すんげぇ速さで布団に飛び込むというね。この歳になると、そういうことは、もうないな。ない。裸で勝手に布団に潜り込んでくるのは猫ぐらいか。
 おれ、猫は好きだけど、あんまりべたべたくっついてくる猫って、好きじゃない。なのに、おれがこういう奴だからか猫には好かれるタチで、もう猫は隙あらば身体を擦りつけてくるし、おれの手や顔を舐めにくる。んー。やめて。ざらざらしてるでしょ、舌が。それに何と言っても、あいつら自分の肛門舐めてるからね。そんな舌で、おれを舐めるな。おれの肛門の臭いを嗅ぎにくるのもやめろ。きみが猫なのは知ってるし、それでいいけれど、おれは猫ではない、ということが猫には理解できていない。砂漠から来たいきものだからな。砂と太陽と夜。そして少しの水と獲物。これでは頭脳が明晰になる要素がない。素早さと狡猾があれば充分だったのに、なぜ可愛さまで獲得したのか。そんなものは砂漠の中で何の役にも立たない。かみさまに愛されますように、という料簡など微塵もない。猫に信心などない。じぶん以外に価値なんかないと決めている奴らだ。
 と書いてから思い当たった。母猫だ。仔猫のうちは母親に面倒を見てもらわなくてはならぬ期間があるんだった。だよな。あの過酷な環境において生半可な可愛さでは母猫はおのれの生存を優先してしまう。だから、異次元でも通用するような過剰なほどの可愛げを精一杯振りまかなくてはサバイバル的に文字通り生き残れない。そのようにして不細工な仔猫は淘汰されたのではないか。成長したあともムダに可愛いのは、残像とかクセみたいなものなんだろう。
 なん度も書いたことだが、積極的に猫を育てようと思ったことはない。知らない子供たちが「おじさん、生まれたばかりの猫たちがカラスに食べられちゃってる。たすけて。おねがい」と路上で泣くので、「あ。……うん」と生き残った仔猫たちを動物病院に連れて行って、なし崩しに育てることになったり、雨の中で弱っている仔猫に見上げられて視線を外せなくなったり、窓の隙間から入って来て、そのまま居付いたとか、そんな感じだ。自らの意思で家に来た「ふみ子」という猫以外は、成り行きの救助とは言え無理に連れてきたわけで、当初は餌と水と糞為箱(ふんしばこ)だけ用意して、目も合わさずに無視してやっていると、少しずつ向こうから距離を詰めてくる。こっちから近づくのは違う、と思う。じっさい、うちの奥さんは犬としか暮らしたことがなかったから、自ら近づいて猫に疎ましがられていた。「女と猫は呼ばないときにやってくる」というのは正しい。これをずっとリルケの言葉だと思っていたが、これを書くにあたりググったら、ボードレールだった。ボードレールはもうちょっと捻くれた言い方をしそうなもので、原文ではどうかと当たったんだが、見つけられなかった。「悪の華」中の「猫」という詩にも、そんな記述はないし、検索範囲を他の著作に広げても、仏語だけでなく英語でも見つけられない。日本でだけの名言、ってことはないよな。ていうか、箴言などという(ちょっとトンチの効いたことを言ってみっか)という料簡の人ではないと思ったのに、けっこうたくさんの箴言を残した人のようでもある。あるいは著作の中から、のちの者が都合良く切り取ったのかもしれない。日本では芥川が自ら箴言集を出していて、まあ芥川なんてそういう奴だよなと納得するが、いったいに、そういう書籍は好きではない。が、フローベールのLe Dictionnaire des idées reçues(邦題:紋切型辞典)だけは面白かった。と言ってもフローベールのは、俗物が言いそうな事、陳腐な言い回しを辞典形式で辛辣にからかったもので、それを念頭に置かずに読むとアタマの悪い人が書いた著作風にしか読めない。ポスト構造主義的には、それもアリで、まあ読み手の水準が試される本だから、これを「面白くない」とか「アンブローズ・ビアスみたい」なんて生半可な事を言うと(かわいそうに。ばかなのだな)と思われがちな本になってしまった。とはいえ、ばかじゃなくて作者の意図もわかったうえで「でも、そんなに面白くないよね」ってのもアリで、これが遺稿になっちゃったってのも皮肉な話だが、おれには面白かった記述が幾つもあった。ただ、もう古すぎてわからない記述や、日本人には理解不能だろって表現も多かった記憶がある。10代の終わり頃に読んだ記憶だから、今読むとまた違った感想になるかもしれないが、無理して読むほどの本ではない。ただ間違いなく言えるのはエスプリ風の悪意が「悪魔の辞典」なんかの比ではなかったということだ。ビアスのは古くさいし、そんなに面白いものではない。あ。また話がずれた。猫のくせにべたべたしてくれるな、と言いたかっただけだった。
 身体に触られるのは、それが育ててくれた両親であってもイヤで、おれって冷血なんだな、と思い込んでいたが、好きな女の人からだけは触られても大丈夫だった。いきものとして、ギリギリそれで良いんだろうが、最初は不思議だった。とくに今の奥さん(という言い方がダメなのは承知しているが、他に何て言うんだよ)は、これまで暮らしてきた女性の中でもいち番接触してくることが多くて、でもこのひとがおれの肩に手を置いたりすると、今でも嬉しい。まったく不快じゃない。あとは息子だな。息子も半分タイ人らしく抱きついてくることもあり、接触は多いんだが、ぜんぜんイヤじゃない。普段のおれの言動からすると、「たかが血を分けた息子だっていうだけのことで、ベタベタしてくるんじゃねぇ」とか言いそうでしょ。自分でもそう思うもん。でも事実は逆で、息子に触られても、ちょっと嬉しい。それをうちの奥さんに言うと、地球外生物でも見るような目で「เป็นแน่นอนนะ(そんなの、あたりまえじゃない)」と言ったあと、少し考えて「อา แต่คนญี่ปุ่นก็รู้สึกแบบนั้น(あー。でも日本人って、そんな感じ)」と頷いて「ก็ขาดความรัก.(愛が乏しいのよね)」と付け加えた。どうもうちの奥さんは日本人は冷血だけれど、うちのダンナ(おれのこと)だけはニホンジンなのにマトモだと思い込んでるフシがある。そのほうが都合が良いから、おれも黙ってるんだけどね。なんか申し訳ないが、ひょっとしたら本当におれがマトモだっていう可能性も皆無ではないかもしれないので否定はしない。

 まあ接触ってことで言えばホモのジジイにまとわりつかれるジャニーズの坊やたちには同情もするが、それが複数回ともなると、「なぜ逃げなかった」と思う。いや、少年だし怖かったんでしょとか、操られていたのでは、というのもわからないではないが、だからオーケーってことにはならず、あの組織はすぐに解散、廃業した方がいい。不動産などの資産をかなり持ってるようだから、それを売却して被害者に分配すればいい。そんなことを思ったのも、昨日の記者会見を少し見たからで、あんなの、へべれけに酔っ払った小学生でさえ「あ。このひとたちウソついてる」と見破ってしまう。まだあんな組織にしがみつく気でいるとは。もう好感度が地面よりも深くまで落ちたのでイメージキャラクターとして使えないから、スポンサー企業は軒並み降りるだろうし、裁判で負けまくってむしられるよりは潔く解散した方がいい。手元にカネが残るなどと思わない方がいい。これからはジャニーズファンだってことはキチガイだってことになってしまうんだし、支持者もいなくなる。
 ていうか、ジジイが死んですぐの頃は「偉大な方でした」みたいなことばっかりだったのに、風向きが変わって「ぜーんぶジジイのせいです。まあ死人に口なしで真相は謎なんだけど。ぼくは悪くないっす。悪いのはジジイ。ソンケーしてっけど。いやしかし驚いたな本当にホモだったとは」って話に(へえ、そうだったのか)と納得する奴などいるものか。
 そもそも当初が、あのジョニー爺さんが若かりし頃、CIAの工作員だったとか、少年愛を武器にNカ曽根もと総理など少年好きの実力者を味方に付けていたとか、いつの間にか怪物みたいな組織に育っていたが、こうしてBBCなんかにすっぱ抜かれている段階で、もう役割は終えたと考えて良いんだろう。ジョニーの姪である藤島ジュリー景子社長は懲役が相応しい。だって、犯罪なんだぞ。いち番の実行犯は他界したが、藤島ジュリー景子は知らなかったけど認めますなんて言ってるが、共謀者だ。どっぷり加担してる。東山紀之も逮捕が相応しい。こいつらは犯罪者だ。
 まだ騒動が明るみになるまえで、うっすら疑惑だった昭和の頃、ジャニーズのボーイズには、あんまり興味はなかったが、郷ひろみだけは別で、何を歌わせても内容が空疎になるという希有な才能には瞠目せざるを得なかった。
 高田みづえが現役時代、何を歌わせても歌謡曲になる、という特異な才能を見せつけたが、郷ひろみは、それどころではない。何を歌わせても中身がスッカラカンになって、ムダにゴージャスというか虚構の申し子みたいな歌手で、何て言ったらいいのか、「等身大の虚無が出現するような歌唱」とでも言うのか。とにかく、あんな歌手は後にも先にも郷ひろみだけだ。たしかNシ村とおる情報では、若い頃のジョニーの男色攻撃に耐えかね、逃げたのはいいが、それを男色家の筋者に捕まり千葉だかどこかで一週間に亘り手込めにされたのち、ジャニーズ事務所に送り返されたということがあったという証言を読んだことがあったが、信憑性はわからない。でも、本当くさいリアリティーがあって、あのブラックホールみたいな虚無を抱えているのは、そのせいかと納得はできる。本当ではないにしても似たような事でもあったのだろうか。そういえば昔から特殊工作員がスパイを作る手口の一つとして、肛門に異物をグリグリ差し込んで命令すると生涯に亘って逆らえなくなるというメソッドがあるのは有名で、似たようなことなのだろうか。ジジイは腐ってもCIAていうか腐ったCIAだし。戦国武将の男色の嗜みってのも、これかな。ヤクザ者の社会でも男色で服従させるってのはあったことだというし。そこまで行かなくても「男心に男が惚れて」などという世界は生殖を伴わない純愛だと言える。ただジャニーズ組織は人権蹂躙どころの話ではなく、破壊したのち洗脳・服従させているのでカルトと同じだ。性別に関係なくレイプは重罪だと思う。死刑が無理なら性器切除くらいが適当かと思うが、狂言のトラップがあるといけないので施行は難しいんだろうね。
 ↑こんなことは言ってない
 まあ、あんなウソにウソを重ねて畳んで伸ばして、また畳んでを繰り返したウソのミルフィーユを高濃度のウソで煮染めたような世界だから、「来世で一緒になろうね♡ と約束しましたぁ」と言われても片腹痛いんだが、愚直にもマジメな人柄だったりすると関わると無残なことになる。だって相手がジャニーズだぞ。Dィズニーランドよりもウソでウソでウソでガチガチに固めた迷宮の住人で、おまけに上に逆らえないんだから、タチの悪いゾンビみたいなもので、関わらないのが良かろうに、ガッチリ関わってしまった歌姫がいた。相手がもう見るからにばかなK藤真彦で、でも好きになっちゃったんなら、もうしょうがない。
 N森明菜ちゃんも、見るからに剣呑で、できれば知り合いになりたくないタイプだが、デビュー当時から歌はまあ上手かった。それが時と共にどんどん歌が巧くなっていき、やがてK藤の部屋で自殺未遂など、もう「あー。そっちの方に出来上がっちゃったのかー」と残念だったが、金を生むガチョウを独占するためにK藤に指示をして金屏風の前で歌姫を完膚なきまでにぶっ壊した(主にメンタルを)のが先述の藤島ジュリー景子だというが、もう無残すぎると思ったし、もとより興味も薄かったから、明菜ちゃんはあえて遠ざける歌手になっていた。
 だから、しばらくは存在を忘れていたんだが、10年くらいまえだったか、ぐうぜん歌を聴くことがあって、驚いた。
 なんだこれは。
 すんげぇことになってんじゃん。
 明菜ちゃんの歌が、すごい。
 たとえば、これだ。
天城越え 中森明菜
 え。あの石川さゆりの持ち歌を? と思いながら聴いてみると、ただ事じゃない。
 とくに「だれかに盗られるくらいなら あなたを殺していいですか」のくだりで、本家の石川さゆりの歌唱は、通り魔も辞さないくらい嫉妬に狂う予感の女が、出刃包丁か斧の刃を砥石でゴリゴリと研いでいるような殺意があって怖いんだが、明菜ちゃんの歌い方だと、薄暗い部屋でいち枚の写真を見つめ、男の目の瞳孔をめがけて、静かに針を刺しているような静かで揺るぎない殺意がある。これも怖い。
 もうね、歌われている女はどっちも関わっちゃイケない女だ。全体に明菜ちゃんの方の歌い方が抑えが効いててリアルに怖い。石川さゆりは大舞台で遠くから見る芝居がかった殺意だが、明菜ちゃんのはすぐ目のまえで演ってる四畳半的な殺意だ。どっちも凄いが、個人的には明菜ちゃんの方が「来る」。若者風に言うなら「やべー奴」だ。
 明菜ちゃん自身は、そんなに客観的に俯瞰できるとは思えないので、これらの歌唱を指導している人がいると思う。野放しにしたらリミッタ-が外れて刃物を振り回す狂犬みたいなことにもなりかねない。いちおうプロデュースに中森明菜とクレジットされてるから、本人の嗜好も反映されるかもしれないんだが。演出役が別にいると考えるのが自然だろう。いや、それとも否応なしに成長させられたから、セルフプロデュースだったりして。
 他にも「石狩挽歌」なんかはオリジナルの北原ミレイを越えている。言っとくが北原ミレイは歌がばかに巧い。歌唱の技術では負けるかもしれんが、歌の出来はだんぜん明菜ちゃんだ。感情の抑え方と配分が絶妙なんだよね。仕上がりが歌い手の知性とは無関係に、おっそろしく知的になってる。歌い手が知っているのかいないのか、歌詞中の番屋で働く飯炊き女ってのは、北海道の年寄りなら知ってることだが、飯を炊くだけじゃなくてヤン衆の男たちの身体の相手もするのが普通だ。そりゃたまにはそうでないのもいたかもしれないし、拒否権だって発動できただろう。それが、明菜ちゃんの歌だと不自然ではない飯炊き女が、目の前に居る。「ヤン衆」や「古代文字」や「笠戸丸」のワードは、なかにし礼の世界が炸裂していて、(いやいや。確かに笠戸丸は移民希望者を乗せて南米やハワイに行ったし、道民が移民を志すことも多かったけれど、歌詞みたいに北海道の沖を通るということは考えられない)などと細かいことを言ってはいけない。事実ではないとしてもリアリティーがぐいぐい迫ってくる歌詞だ。沖を通った事実はなくても、それが見えるのだ。
また、「黄昏のビギン」は本家の水原弘は巧いけど、歌詞中の「ぼく」が似合わないし、ちょっと違う。だからこの歌は、ちあきなおみ姐さんの歌唱がベストだというのが定説だろうが、濃すぎて数年にいち度聴くぐらいで、1コーラスも聴けば腹一杯。最後まで聴き通すには余程聴き手の調子が良くないと耐えられない。でも明菜ちゃんの「黄昏のビギン」は、ちあきなおみ姐さんほど濃厚ではなく、小野リサの歌唱よりも迫力があって、おれはこの歌唱がいち番好みだ。ちょっと暗いけど、それでもちあきなおみ姉さんよりもいい意味で軽い。
 あと、ブルーノートを歌わせても♭3度や♭5度の音程の外し方が大仰じゃなくて、上品にブルーズフィーリングを醸し出す。いつのまにこんなに巧くて、いい歌手になったんだろう。演歌でもブルーノートでも、それが「中森明菜の歌」にしかならないのは、ヴィブラートを抑えて、しかも、ここぞという所以外は音を伸ばさないからで、「ハードボイルドな歌い方」ってのがあるとすれば、これだ。もともとドスの利いた声はお手の物なのに、それを隠すようにチラつかせる。ため息交じりの声もごく薄く放ってくる。感情の乗せ方の配分も巧い。かつてのアイドル時代のように歌詞の世界に憑依するように入れ込むことはせずに、あくまで想いの容れ物として歌っているんだが、その想いを引き寄せるギリギリの技術が凄い。こんな歌い方の歌手を、他に知っているだろうか。いつの間にか、こんな所に到達していたんであった。もう明菜ちゃんなんて、ちゃん付けが相応しい歳でも歌い方でもない。凄いのだ。痛々しいけど。
 あとカバーの曲全般に共通することだが、編曲の趣味がいい。優秀な人たちに囲まれてるんだろう。

 メンタルを壊されたあとでは数少ないインタビューでも、むっちゃ暗く喋るか、知恵遅れみたいに無邪気に喋るかの両極端で、ああかわいそうにとテレビやラジオを切ったものだが、歌は凄い。とっくにアイドルの歌ではない。どんなにツラい思いをすれば、こんな歌が歌えるようになるというのか。凄いけど、すっごく凄いけど、こんな歌を聴きたい訳じゃないのだ。良い歌なんだけど、感動するんだけど、なるべく二度と聴きたくないとまで思わせる切実さが、しばらくまとわりつく。
 こんな凄い歌を歌わせる要因を作った藤島ジュリー景子は、許しておくべきではない。ちょっと思慮が足りないアイドルに、なんということをしてくれたのか。いつの間にか芸能界から消えて忘れ去られて一般人として生きていくこともできたかもしれないのに。今の、この歌唱力と引き替えに失ったものが凄惨すぎると言っているのだ。藤島ジュリー景子の他の者にも寄って集って騙されているので満身創痍だ。どうも自分から騙されにいくきらいがあるようだが、そういう感じがするもんね。クズ男を渡り歩く女を、だメンズウォーカーなどと呼ぶ向きもあるが、最初の男や父親がクズだと、それ以降もクズを選んで(あ。やっぱり男ってクズなのね)と安心したいというメカニズムが発動したり、いや、もうシアワセになってもいいのでは、とマトモな男を捕まえても、その男のクズ要素を引き出してしまうようになったりして、イヤなスパイラルから抜け出すには強い知性と意思を必要とするから、難しいことではある。
 一連のジャニーズ報道で、所属のタレントは自業自得でもあるし、それほど同情もしないが、明菜ちゃんのような貰い事故的な不幸もたくさんあったことだろう。何しろ腐りきった組織だからな。

 ところで男色の人たちってのは、貞操観念が弱いというか皆無な者が多くいる印象で、知っている人たちもだいたいそうだったりするが、タイの同性愛者は節操なく誰とでも付き合うということをせず、一途な者が多いのが謎だ。義弟も信じているように、「プラトニックラヴを追及すると、ホモセクシュアルに行き着く」というのを信じて実践しているような感じだ。生殖なんて下劣よ、ってことなんだろう。だから、ホモセクシュアルで肉体関係のないプラトニックラヴが最高という風潮だ。これを真剣に実践しようとするのはタイの同性愛者に多いのだ。もちろん全員ではなく、タイの同性愛者にも貞操観念がなく肉体の快楽を重視する者もいる。
 タイ人の貞操観念は、ちょっと理解できない所もあって、知人の妻が浮気というのか、同性愛に走ったことがあった。彼女の理屈ではレズビアンは浮気にはカウントされない、ってことで、周りのタイ人も異論を唱える者はいなかった。愛の形が違うと言うより「別腹」みたいな印象を受けたんだが、ちょっと待て。てことはおれがホモセクシュアルに走っても、それは浮気ではないってことか。まあその趣味は天地がひっくり返ってもないから心配は要らないが、それをヨメに訊くと、「そうねぇ……。浮気ってのとも違うかもしれないけれど、でも男はイヤ」と言ってて、似た者夫婦なんだな、と安心した。うちの奥さんは小声で「レズビアンは、ちょっと……」とも言っていて、そういう料簡の人なんで、おれにはちょうどいい。猫に焼き餅を焼く女だからね。猫がおれに懐いているとที่รักของฉันนะ!(あたしの恋人なんだからね!)って猫をどかした事がなん度かあった。猫にムキになってどうする。
 あ。恋人ってのは、これまでにも書いたが、タイ語の言い回しで配偶者を「แฟน(恋人)」と呼ぶのは普通のことだ。なにせ愛が冷めたら同居を解消するのが当然という人々だから、自然な感じではある。好きでもない相手と暮らしているとバレたら、それこそ世間体が悪いというね。誠実と言うことに誠実なんだと思う。こういう所はカッコいい。
 同性愛方面や変態界隈の人は「節操がないんじゃなくて、おれって愛が多いんすよ」みたいなことを言う人が多いという話だった。タイ人の、そっち方面の人々は、そんなこと言わない方が圧倒的に多い印象だ。マジメとかそういうことでもないんだろうが、愛とか信用できるってことに関してはタイ人は間違いが少ない。ヘラヘラしててウソばーっかりついてるけど、誠意ということに信頼を置ける人が多いと思う。もちろん、全然ダメな人もいるが、そういう人は少ない。ただ、性別と職業がリンクしている場合(要するに風俗関係みたいな)は平気で人を騙す。それは仕事なので誠意の介在のしょうがないことで、それを見極められないのはボンクラだとタイ人は思っているようだ。ていうか、マトモなタイ人なら、そういう人とは真剣に付き合うということをしないのが普通だ。階級がはっきりしてるからね。そういう所もオトナなんだよね。
 ていうか、普通の御婦人と、娼婦の見分けがつかないという男が日本人には多いのが謎ではある。これはもう誰が見ても娼婦だよな、という女性を侍らせて、ちゃんとしたレストランに入店するということを平気でして、それを何とも思ってなかったりするオヤジがたくさんいる。バブルの頃なんかは膝の上に娼婦を座らせてメシ食ってるオッサンがいっぱいいて目眩がしたもんだ。そんなボンクラは日本人だけだ。そんな奴、騙したり手玉に取るのなんて簡単に違いないのだ。タイなんて、どこへ行くんだってTシャツと短パンにビーチサンダルで良いと思ってる日本人ってのは多かった。まあ、そういう人はそんな格好でも良いような所にしか行かないことが多いだろうから、たいした問題にはならないが、それでも場違いな日本人は時々見る。日本にいるときには、そんなことはないだろうにね。まあ、どうせタイだし、って舐めてんだろう。

กะเทยลั้นลา - หญิงจี้ กะเทยลั้นลา ท็อปไลน์ [OFFICIAL MV]
 今日の歌だが、ゲイ関係のヒット曲というのは多くて、どれにしようか迷ったんだが、新曲はヒットしててもトランスジェンダーの悲哀みたいな感じを押し出してくるのが多く、スコーンと明るく抜けた曲というと、8年まえのこれになる。
 曲のタイトルがกะเทยลั้นลา(ガトゥーイ・ランラー)といって、กะเทย(ガトゥーイ)はゲイ。おかまみたいな意味。レズビアンには使わない。辞書を引くと「雌雄同体」って出てくる。昔ながらのタイ語だ。で、ลั้นลา(ランラー)ってのは「アゲアゲ」みたいな感じか。辞書っぽく言うと「陽気に行く」が近いが、ドレスアップして街に繰り出すぜ、いえー。みたいな感じ。無理に和訳するんなら「ジェンダー・ヤッホー」みたいな感じか。
 そういえば、このブログの初期にチェンマイのローカルスターが歌うป้อจายลั้นลา(ポーチャイ・ランラー)って曲を紹介したんだが、そのときにタイトルがうまく訳せなかったのを思い出した。ลั้นลา(ランラー)は、この曲と同じ言葉で気分が高揚してるんだが、まえにป้อจาย(ポーチャイ)がわからなかった。満足するという意味のポーチャイ(พอใจ)とはスペルがちがうんだよなーなどと書いた憶えがあったが、タイ方言を調べるのが上手くなった今なら、わかる。このป้อจาย(ポーチャイ)は北部訛りで「男性」。男の事だった。標準語ならป้อจาย(プーチャイ)だ。で、これは北部訛りの「男」と標準語の「満足」がかかってると思ってもいいんじゃないか。ป้อจายลั้นลา(ポーチャイ・ランラー)を和訳するんなら「イケメンやっほう」って感じだと思う。今風のギャル言葉なら「めっかわ、よきー♡」とか。もう言わねぇか。この言い回しは数年まえだな。
 まあ、チェンマイの歌姫のことは置いておくが、歌姫ならぬ歌ジェンダーは、ムダに歌が上手い。当時、数曲リリースしてヒットさせたが、それも昔の話で、ぱっと目立って、ぱっと消えた。タイの芸能人って、この手のタイプは多くて、デビューして有名になったものの、それで満足して、「もういいや」と辞めてしまうことは、よくある。これはタイ人の淡泊な性格もあるが、芸能界なんて「ああしろ」「こうしろ」という指図が多くて、こういう状況だと「うん。そうね」とニコニコしながら逃げるのがタイ人だ。逃げているうち楽しくなって加速しながら、きゃははは、と笑ってる感じ。この人の場合もそうなのかは知らないが、もうすっかり過去の人だ。
 ということで歌詞だ。正直たいして深みも何もないが、正直に心情を訴えている。

ガトゥーイ(同性愛者) ガトゥーイ ガトゥーイ
レディーボーイ レディーボーイ レディーボーイ
ガトゥーイ ガトゥーイ ガトゥーイ
レディーボーイ レディーボーイ レディーボーイ

同性愛者も生きていて ゲイにだって 心はあるの
レディーボーイは野牛(タイの俗語で、愚か者のこと)ではないのよ
簡単に 騙されちゃだめ
今日は本当に楽しかったわ 女装倒錯者だって 外出したいもの
さあ 準備はできた 女装家をお笑いなさい

ガトゥーイ ガトゥーイ ガトゥーイ
レディーボーイ レディーボーイ レディーボーイ
ガトゥーイ ガトゥーイ ガトゥーイ
レディーボーイ レディーボーイ レディーボーイ

レディーボーイは 浮気などしない レディーボーイは 一途な愛なのよ
体は男性でも 心は女性 でも私を嫌いにならないでね
姓の逆転 世界が楽しくなりますように
ガトゥーイ ガトゥーイ ぜひガトゥーイを愛してね

ガトゥーイは決して正気を失わない レディーボーイは決して嘘をつかない
女装は真実の愛 愛すべき人を愛するの 覚悟はできてる
私は彼に騙されたことを知っているけど 騙され続けたい
ニューハーフは与えるだけ でも結局は涙を食べなければいけない
ニューハーフは与えるだけ でも結局は涙を食べなければいけない

レディーボーイって言い方は 正しくない 心は女性だけど体は男性だってこと
レディーボーイは 決して気が多い訳じゃない それは良くないこと 
それは良いことでしょ それは良いこと
聞きたい 聞きたい ずっしり重いかもだけど
それとも 女装した方が 美しいのかしら 
それとも ガトゥーイイの方が 優れているのかしら
だからみんな女装に嫉妬するのね 
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
レディーボーイが 息をするのは間違っている?

男性である時間を無駄だってことは 気にしないで
あなたは私を愛してないのね それは問題じゃない 
でも レディーボーイを侮辱しないで
レディーボーイは決して躊躇しない 誰かを愛しているなら 愛するだけ
ねえ母さん こんなレディボーイでも愛してね そこにあなたを連れて行ったげる
ねえ母さん こんなレディボーイでも愛してね そこにあなたを連れて行ったげる

レディーボーイは 立場の弱い性別 性転換者をいじめないで
レディーボーイが温もりを与える レディーボーイのメリットについて考えてみて
トランスジェンダーは感謝してるの 悪口を言わないで レディーボーイと共に戦って
5人のガトゥーイさん ガトゥーイを救うのにご協力して
国民の財産なのよ それは土地と同等の財産よ
タイという国が終わるまで ねえ 兄弟姉妹たち

 静かに生きてない。ひっそりと生きるということをしない。あの人たちの武器は「笑い」だ。ジョニー爺さんみたいに若い少年を手込めにしたり洗脳しようとしない。
 迷惑を掛けずに、自分が楽しい道を選んでいる。
 そういえば、タイの年老いたオカマって、後悔してる様子がまるでない。ていうか、オカマとか関係なく後悔してないよね、老人が。
 それで、いいってことなんだろうね。
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