もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

あたかも同じ声

2023年09月30日 14時09分37秒 | タイ歌謡
 まえの同居人と暮らし始めたばかりだった頃の話。自宅に一人でいたら電話がかかってきて、おれの姓を受話器に名乗ると「もしもし」と、聞き覚えしかない綺麗な声がした。
 同居人の声だ。
 あ。ねえ、なん時に帰ってくる? というようなことでも訊いたんだろう。
「あ。いや……」同居人の声が答えた。「そうじゃなくて」
 えー。そうじゃないのか……。あー! なにが食べたいのかを訊くべきだった? みたいなことをおれは畳み掛けたような気がする。
「いえ、ちがうんです」困った風だった。「わたし、妹なんです。◎◎の」
 え?
「すみません」
 いもうと……。
「はい。いもうとです」
 あー……。
「◎◎は居ますか」
 いえ。ちょっと出かけておりまして。
「あー。……はい、そうみたいですよね。ごめんなさい。また電話します」
 あ。はい。どうも。

 電話を切って、少しの間受話器を握ったまま放心した。
 おんなじだぞ。声が。まるっきりおんなじだ。
 好きな女の声を間違うなんてことは考えたこともなかったが、じっさいに間違ってみて不思議な感じしかなかった。だって似てるとかいうんじゃなくて同じなんだぞ。IT機器のセキュリティーに声紋承認なんていう方法があったら、軽々突破できる水準で、同じだった。
 携帯電話が普及するまだまだまえのことだ。そういえばあの頃は自宅にヘンな営業の電話がかかってくることもなかったな。番号を電話帳に掲載しないようにしていたからだろうか。表計算ソフトも広く普及してなかったから何某かの手書き名簿が漏れるということも少なかっただろうし、ランダムに電話番号を生成して架電するシステムなんてのも、まだなかった。ローテクというか平和な時代だったのだな。事務所にかかってくる営業電話には「あ。先物ね、申し訳ないんだけど、それウチの子会社もやってるんで、ちょっと相手できないなー」などとテキトーなことを言って引き下がってもらっていた。
 21世紀を過ぎて日本に戻ってくると自宅にも営業電話がかかってくるようになり、自宅の場合だと子会社が、ってのもヘンなんで「あ。ごめん。今、手術中なんで」と囁くといい。家で手術なんかするわけないんだが、言われた勧誘電話の声の主は「あ。すみません!」って釣られて小声で言いながら切ってくれるので、その方式は有効だ。きっとそのあとで(え? 自宅だよな。手術? なんで? 闇医者? いや、それとも手術されてる側? 自宅で? やっぱり闇医者?)とか思うんだろうか。今思いついたが、「家宅捜索中なんで」も良いかもしれない。「ちょっと待って。今、死亡診断書を書いてんだよ」とか、「だめだよ! もうスパゲッティ茹で上がるんだよ!」も良いかもしれない。力強く「いやいや。今ねぇ、人生ゲームのルーレット回してるんだよ!」って切っちゃうのはどうか。メンタルの強い奴ならかけ直してくるかもしれないね。「幾つ進めました?」とか言われたりして。ああいう電話に「うっせー! ばかやろう」なんて言って切っちゃうとイヤがらせされそうで怖いから、高圧的には言わないようにしていた。丁寧に言ってもダメだ。「もう少しお静かに願えますか、ばかやろう様」慇懃無礼というのでもなく、でもダメなのはわかるよね。
 東日本大震災のすぐあとにタイに逃げて、数年経って何となく落ち着いた頃にまた日本に戻ってきたが、その頃から自宅の固定電話にかかってくるのは営業の電話か世論調査みたいな電話しかかかってこなくなったので、常時留守番電話にしていた。(この電話設置に意味はあるのか?)と、薄々思ってはいてもファクシミリが送られてきたら、という理由で契約を続けていた。インターネット回線の契約があれば固定電話の基本料金は、たしか500円と安かったし。でも、10年ほどの間にファクシミリを送ったことも送られたこともなかったので、二度目の退院のあとに契約を解除した。もちろん昔の電話債券の保証金など戻ってくるはずもなく、まあそれは諦めていたのでいいんだが、固定電話がなくなって困ったことは、一つもない。思えば、おれが小学生低学年の頃は学級名簿に電話番号の欄があって、個人情報がどうこう以前にクラスの半数くらいは電話番号の頭に○(マル)で囲った「呼」という字が書いてあり、それは「呼び出し電話」なのだった。つまり自宅に電話がないので、近所の人の電話番号が書いてあって、番号の後に(◎◎方)って注意書きもあった。山田方なら、山田さん家の電話で呼び出してくれ、ってことだね。いつのまにか電話を持っていない家の子供なんていなくなっちゃって「呼び出し電話」というのは日本語として死語どころか意味すら理解されない。あれから50年かそこらで固定電話を解約するなんて思いもよらなかった。また、20年ほどまえまでは国際電話が高価だったってのが隔世の感しかなく、コールバックシステムで安くなったな、と思ったのもつかの間、スカイプなんかの登場で通話が無料になったときは何かの詐欺を疑ったもんね。今じゃ通話無料は、あたりまえだ。SNSやインターネットのサービスで無料のものは多いが、企業として運営していて慈善事業というのは考えにくい。どこかで代償を払っているんだろうが、わかりにくい。いっぽうでインターネットのシステムが無料で開放されているというのは(情報収集という側面はあるにせよ)良いことだと思う。情報と電気供給は無料であるべきだと考えたニコラ・テスラは凄いけど、そんなんだから悪人エジソンの目の敵にされてしまったし、未だに毀誉褒貶が喧しい。頭が良すぎる人格者ってのも考えものという代表みたいな人だ。
 ついでにおれも教育は無料であるべきという料簡なんで、近年は良い傾向だ。教育を食い物にする奴というのがいるんだが、路頭に迷ってしまえば良いと思うよ。よその国の言葉の習得を「教育」とは思わないが、言語の習得も無料で容易くなってきたのは喜ばしい。べつに高いカネ払って英語を憶えようとする人を否定はしないが、あれは高価な費用を払ったという事実と覚悟で自分を追い込むという状況なのかと思ったらそうでもなくて、「30万円かけたけど英語憶えられませんでした」って言ったりしてる人が多くて、あれは「蕩尽」ということなんだな、と思った。ムシャクシャして路上で知らない人を刺すより、「30万円無駄遣いしちゃった♡(でもスッキリした)」のほうが平和だ。パチンコで30万円スったのと変わらないが、ダメさでは少しマシだもんね。そういう意味では語学習得を食い物にするのは平和貢献ってことでは悪いことでもないのかもしれない。そうだよね。本気で英語を憶えたいのに今どき英会話教室に行くなんてのは思慮深い人のすることではない。目的が違うのだ。だから、そういう学校に行こうとしている人に「おれなんか映画観て憶えたぞ」とか「カネかけりゃ良いってもんじゃない」とか意見するのは間違ってる。英語じゃない。カネをかけるのが主目的な人が結構いるのだ。

 あ、いやいや。そんなことより元同居人の妹だった。
 同居人が帰宅して、妹から架電があった旨を伝え、声がそっくりで間違えたという話をしたら、うふふと笑って「声が似てるってことは、よく言われるのよ。顔はぜんぜん似てないのに」と言った。兄が一人、妹がふたり居るのだということだった。電話で声を間違えた上の妹(次女)とは、のちに会う機会がなん度かあって、声は同じなのに顔がぜんぜん違ってて驚いた。姉(もと同居人)は美人でモデル体型なのに、次女は決して美人ではなかったが断じて不細工ではなく、福笑いのパーツが何の破綻もなく整然と並んだような顔とでも言えばいいのか、とにかく整った顔ではあった。体型も太っているわけではなく、ごく普通だった。長女の過剰なまでの可愛げを一般の女性に求めるのは酷というものだろうが、次女の見た目の愛嬌が一般的な水準だったせいで、父親の贔屓が得られないのだと同居人が教えてくれた。「お父さんは依怙贔屓みたいなのを嫌う人で、そう努めているのも伝わるんだけど、何かの拍子にツネコ(次女の仮名)の扱いだけぞんざいなのよ。そういうのって本人にも伝わるでしょ。何でもないフリしてるけど、なんかかわいそうで」と言った。とりあえず姉妹の仲が良いのは何よりだった。「それでね。服はサイズが違うから勝手に着て行ったりしないけど、靴や小物は勝手に身につけて外に行っちゃうの」と少し不満そうに、でも笑って言った。
 それから随分経って下の妹(三女)と会ったときは、その容姿に驚いた。長女とは違うタイプの美少女で、三女も過剰な愛嬌に溢れた娘だった。清涼飲料水のCMに出てくるような娘で、容姿もモデル体型だったのだ。名前も長女と三女はオシャレな名前(キラキラネームではない)なのに、次女だけ名前も昔風の地味な名前なのだ。なんていうか、そういうことって、あるのだ。普通の家に生まれていたら充分に美人で通ったものを。
 次女は長女と違ってエキセントリックなところもなく、控えめだが気立ての良い娘だった。同居人と次女についての話題になって、おれが「声が綺麗だよね」と感想を述べると、同居人は「あんたそれ、わたしの声が好きだからじゃない?」と呆れていた。言われてみりゃ、そうだ。
 まあ、そうなんだが、それだけじゃなく同じ声の人がいるという不思議に感動したんだよ、と答えると、納得できたようなできないような曖昧な表情になった。なんだか妙な雰囲気になってしまった。とりあえず妹の声についての歌詞を、その場で書くことにした。このブログを読めばわかることだが、書くだけなら幾らでも書ける。さらさらとメモ用紙に「ツネコのうた」(くどいようだがツネコは仮名)を書き付けた。そのときの歌詞は下記のとおりだ。文章を書き慣れている人ならわかるだろうが、このときの歌詞は30年ほど昔のことではあっても、その一言一句の再現率が高い。記憶がスラスラと蘇る。たぶんほとんど当時と同じ歌詞のはずだ。棋士が将棋の棋譜を簡単に再現できるのは有名だが、たぶんあれと同じようなものだろう。ただ、駄文を再現できても何の役にも立たない上に恥ずかしいので、誰も言わないが、珍しい特技というほどのものではない。
 以下、歌詞だ。

電話をかけてくるぞ(おー!)
そっくりな声で(はぁー そっくりそっくり)
細い電線の向こうから(はるか遠く)
聞こえてくるぞ 聞こえて(来る来る)
まるで おんなじ声(おんなじおんなじ)
花のようにうつくしく(咲き誇り)
春のせせらぎみたいに軽やかに(さらさら)
山の風のごとく涼しげに澄み(ひゅうひゅう)
マハトマ・ガンジーの母より優しい(ナマステー)
花に 流れに 風に 母に
麗し 清く 涼しく 優しい
ああ ああ いもうと ツネコー(ツネコー)
今日もツネコは電話をかけるー(リンリンリリン)
声がまったく同じだよー(おんなじおんなじ)
ツネコー(ツネコー)ツネコー(ツネコー)ツーネーコー(ツーネーコー)

                     
*(カッコ)内はバックコーラス


 一言で、「くだらない」歌詞だ。やっつけにも程がある。
 若い頃バンドマンをしていた時期もあったのに、曲はつけていない。
 それでも同居人は、これを気に入ったようで、このメモ用紙に合わせて額を買うなどと言い出したので、じゃあ色紙に筆ペンで清書しようと提案すると、目を輝かせて「それよ!」と叫んだ。数日後には、色鉛筆で描いた受話器の絵と仰々しい手書きの赤い落款も描き添えた筆文字の歌詞の色紙は額に飾られ、恭しく壁に飾られていて、同居人は何故か「ふっふーん」と得意そうに両腰に手を当てて眺めていた。そしてテキトーな旋律をつけて歌いだした。妹にも、この歌詞を教えたらしいのだが、肝心の妹は「えー……」と困惑していたそうだ。「それ、何が面白いの?」と不思議そうだったという。妹、マトモじゃん。

 もと同居人は、おれより少しだけ背が高く、日本女性としては高身長だった。オシャレをして出かける時などはヒールの高い靴を履くから、それがいっそう際だってしまうのだが、まあオシャレってのはそういうものだから、二人ともぜんぜん気にしてなかった。
 モデルではなかったが、着飾って晴れがましい気分になるのが好きで、服はいっぱい持っていた。いっぽうおれは、まえの奥さんから逃げ出して別れてからしばらくは、厳選した本とCDの段ボール3個の他には身の回り品はスーツケースひとつに詰められる物だけで、服を買いに行く気力もなかったし、それよりも電化製品や食器、寝具なんかを揃える方が先だったから、服の持ち合わせが少なかった。見かねた同居人が「私の、このシャツなら似合うかも」と言うので試着してみたらサイズがちょうど良い。「さすがに、わたしのGパンはサイズが合わないかな」と言いながら手渡すのでこれも試着してみたらぴったりで、「なんで穿けるのよ! ていうか、なんで足の長さまでちょうど良いのよ!」と、少し憤っていたが、あとで訊いたら「だって男の人って股間に余計な物があって、その分だけ足が短くなるじゃない?」と不思議な理屈を展開したので、「あー。あれは柔らかいうえに、ズボン着用時は体内に収納されるんだ」と説明したら「へぇー!」と大げさに感心していた。が、おれの股間をじっくり観察して「ウソばっかりね!」と笑い出した。
 それにしても、もと同居人は服装の趣味が良かったので、おれが着せられた同居人のシャツを見て「ちょっとあんたって、カッコいいわよ!」と言い出して、それ以来おれは服を新たに買うときでも、チョイスはもと同居人によるコーディネートになった。そんなもんで、知り合いには「なんか最近オシャレだな」と言われるようになった。自分で選ぶのは下着くらいだった。
 もと同居人は、おれのトランクスの下着を見て、「こんな下着があるのね」と感心していた。実家の父や兄はブリーフ派だったらしい。
「ねえ、ちょっと試着していい?」と言ったかと思うと返事を待たずにトランクスを穿き、「いやぁー! これ! ちょっと良いんですけどぉ! 今日はもう、これ穿いちゃう!」と喜んでいた。「開放感がすごいのよ」
 なんであんなに気に入ったのか、しばらくはおれのトランクスを穿いて仕事に行ってたりして、「いや。どうせ誰にもバレないし」などと言っていた。本当に機能が気に入っていたのか、それともボーイフレンドの下着を穿いてるという状況が気に入ってるのか判然としなかった。妹と靴やスカーフなどを共有するのと似た感じなのかと訊いたら、「それはぜんぜん違うわよ」と言った。「あんただって妹に、あんたのパンツ穿かれたらイヤでしょ?」
 なるほど。それはイヤだ。恋人だとオーケーってのは、どういうメカニズムなのか。
 やがて、ある日「ねえ。これ、生理のとき、どうしたらいいの?」と訊いてきた。
 え。男は生理のことなんか考えてパンツ穿いてないから、わかんないよ。
「あー! だめじゃん、これ。タンポンでも不安!」
 それ以来、下着としてトランクスを穿くのはやめていた。
 面白がっておれにワンピースを着せたり、服をくれたりはしたが、さすがに女物の下着を着けろとは言わなかった。ちょっとでも想像力があれば、女物の下着を穿かせようとは思わないだろう。いろいろがはみ出しそうだもんね。


↑そう思ってたら婦人用トランクスって、あるんだね

Timemachine [ไทม์แมชชีน] | ปอน นิพนธ์ x โต๋เหน่อ「Official MV」
 さて、今日の歌はปอน นิพนธ์(ポン・ニホン)の歌うタイムマシンという曲で、珍しいSF歌謡かと思ったら、ぜんぜんそんなことはなくて、歌詞は正直女々しい愚痴を延々と垂れているだけの歌曲だ。でも旋律とアレンジは悪くない。この人は作詞も作曲もするんだが、何かいつもの作風と違うなと思ったら、別の人の作品だった。เดชาธร โลหะจันที(デカトン・ロハチャンティ)という人が作者で、けっこう有名な作家なんだが、なんでこんな歌詞を? と思ってもみたが大ヒット曲だ。タイ人の琴線に触れる歌詞なのだろうか。確かに女々しい歌詞はタイ歌謡の一つのジャンルだもんね。
 歌手のポン・ニホンってのは日本とは関係ない。たんにたまたまそういう名前というだけのことで、シンブリー県出身の42歳。たたき上げの歌手だ。17歳でデビューしてるが、歌が巧すぎて大きな歌謡賞を総ナメ。下積みというものがない。デビューからしばらくはルクトゥン歌手だったんだが、自分で作詞作曲するようになってタイポップに接近した。新沼謙治が作詞作曲もするし楽器演奏も得意で、ラップ歌唱も巧いと評判になったことがあったが、この人の場合は片手間ではない。タイポップもこなす、というんじゃなくて、タイポップに移行した。ちょっと珍しいケースだ。金に困ったこともなく、地頭も良かったので芸能活動の傍ら名門ラムカムヘン大学を卒業してる。

私たちが若かった頃 よく言い争ったね そして別れてしまった
今あなたがいなくて寂しい いまさらだけどね
あの頃の日々と時間
歩いていると とても恋しくなる

彼女は家に向かって 歩き出した
若い頃のことを いつも思い出す
何が間違っているのか 全くわかっていなかった
彼女を逃がしてしまった
私たちが出会ったこと 失敗したこと

別れた それぞれべつべつに
おたがい 違う道を歩く
何年経っても思い出は消えず
かつての あなた
それはおそらく日々と時間の問題

戻って話し合えたら
望みは何もない ただ抱きしめたいだけ
そして最後に彼女に言わなければ 最後に抱きしめられるために
永遠の別れのまえに 私はあなたを愛しています、と

もしタイムマシンがあったら 時間を遡るのに
出会った時まで
そして長い間 あなたを抱きしめよう
私の手を握って 離さないで

しかし 人々は過去に戻れない
人々は過去に戻ることはできないんだ
私は普通の人間なので そんなことはできない
これから先の時間があっても 私は彼女を抱きしめられない

もう彼女を抱きしめることはないんだ

とても懐かしい まるで昨日の写真みたいに恋しい
かつて抱きしめ かつて言った
彼女は寝る前に愛していると言い 私もそう言った
就寝前の話を また聞きたい

写真は捨てたことも なくしたこともない
言わなくても 表情に出さなくても すべて覚えている
でも いまさら頼んでも もう間に合わない
なぜなら 彼女と一緒にいると 毎日心が折れてしまうから

残念ながら これまでの時間はすべて
彼女が泣いている姿しか 見たことがなかった
雨の中 私の瞳に映る彼女は普通じゃない
高すぎて 手が届かない存在
天使は 天使とペアでなければいけない

私は地上を歩く者 空を飛べない
でも 私の心はあなたをとても愛している 言いたいことが多すぎる
別れのまえに言ったように 再会の可能性は ある
必ず戻ってくると 信じたい

もしタイムマシンがあったら
でも 私はライトニング・マックィーン(ディズニー・ピクサーのアニメのキャラ)みたいにカッコよくはない
大人びた あなたの心には 嫌がられるだろう
私は刈り上げ頭を 洗いざらしただけの ただの子供

別れるまえに 戻りたい
もうあなたを手放さない 二度と
私たちが喧嘩したとき 喧嘩の原因はいつも私だった
彼女が去った後 私は悲しく座るだけだった 純粋にアルコールとともに

愛している
でも 彼女を抱きしめられない


 非の打ち所しかないダメ男だ。「切り替えていこう」というアタマの悪そうなセリフがあるが、切り替えるしかないやつだ。もちろん切り替えるのは、逃げた女のほうね。こういう男はグズグズ言うだけで切り替えなんてできない。

 さて、ここで味噌汁のことを書こうかと思ったが、急に飽きたので次回に持ち越すことにした。ここまで文章量も多いし。そこに味噌汁の話って。どうしたものか。脈略というものがない。まえにも書いたが、味噌汁ってそんなに好きではない。明日を境に世の中から消えるとしても困らない。そこで満を持しての次回予告だ。ここまで言うと、このブログをある程度読んだ人は「あ。これは次回は味噌汁の話ではないな」と思うだろう。それを踏まえた上での予告である。
 ま、じっさいに次の回が味噌汁の話になるかどうか、おれにもわかんないんだけど、いちおう自分を追い詰めておこう。次回は味噌汁の話だ。
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