きょうの日本経済新聞に載っていた興膳宏先生の「漢字コトバ散策」です。紅梅白梅のごとき文章に魅かれ、是非残しておきたいと思い書き写しました。
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【梅花 優雅さ・香り、後世に発見】
厳しかった冬の寒さの影響か、梅の開花が遅れ気味だ。先週見に行った京都北野天神の梅は、まだちらほらと咲きそめたばかりだった。
梅は奈良時代以前に中国から伝わった。「ウメ」という字訓も、漢語の子音「メ」を写したとされる。古代では花といえば、梅花を思い浮かべた。
『万葉集』には百首を優に超える梅花の歌が見えるが、すべて白梅で、紅梅はない。大伴旅人(おおとものたびと)が自分の邸で開いた梅花の宴には、三十二人が集って、それぞれ一首の梅花の歌を作った。主人旅人の歌は、雲のように散る梅花のさまを詠ずる。
わが園に 梅の花散る ひさかたの
天(あめ)より雪の 流れ来るかも
梅花といえば、花の美しさとともに、香りのよさが歌人たちに人気を得てきた。『古今集』の収める凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌は、その代表的なもの。
月夜には それとも見えず 梅の花
香(か)をたずねてぞ 知るべかりける
ところが、『万葉集』に数多い梅花の歌では、ただ一首を除いて、香りのことは詠まれていない。本居宣長は、「いにしえはすべて香をめずることはなかりしなり」(『玉勝間』)といっているが、不思議なことだ。
本家の中国ではどうか。『詩経』に「摽有梅(ひょうゆうばい)」という詩があるが、これは花ではなく、実を詠ったもの。五世紀以前の文献で、梅が出てくれば、ほとんど食用の実のことで、花が注目されるのはもっと後になる。『文選(もんぜん)』にも梅花の詩はない。
唐詩に梅花の詩はあるが、まだちらほら程度。梅花の愛好が広がるのは、次の宋代以降である。その画期を作ったのが、日本でも有名な林逋(りんぽ)の詩「山園の小梅(しょうばい)」である。次の一聯(いちれん)はことによく知られる。
疎影横斜(そえいおうしゃ)して 水は清浅
暗香浮動して 月は黄昏(こうこん)
まばらな花影を斜めに水面に落とし、そこはかとない香りが、月の淡いたそがれどきに漂ってくる。梅は遠い昔からあったが、花や香りの魅力が広がるには、人による発見を必要とした。
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私なんかには絶対書けない名文です。
林逋(967~1028)のことをネットで調べると、
『北宋初めの人で杭州は西湖の孤山に隠棲して、梅花をこよなく愛し、梅を妻とし鶴を子として生涯独身で過ごした。死後、和靖先生とおくりなされた。これ以後、「横斜」といえば梅の枝ぶり、「暗香」は梅の香を意味するようになります。』とありました。
「山園の小梅」の全部を紹介すると次の通りです。こちらのサイトに掲載されていたものを無断でお借りしました。
http://www.marute.co.jp/~hiroaki/kansi_syuu/kansi_syuu-09/sanen_syoubai.htm
衆芳(しゅうほう)搖落(ようらく)して独(ひと)り暄妍(けんけん)
風情(ふうじょう)を占(し)め尽(つ)して小園(しょうえん)に向こう
疎影(そえい)横斜(おうしゃ)水(みず)清浅(せいせん)
暗香(あんこう)浮動(ふどう)月(つき)黄昏(こうこん)
霜禽(そうきん)下(お)りんと欲(ほつ)して先ず眼(まなこ)を偸(ぬす)み
粉蝶(ふんちょう)如(も)し知らば合(まさ)に魂(たましい)を断つべし
幸(さいわい)に微吟(びぎん)の相狎(あいな)る可(べ)き有(あ)り
須(もち)いず壇板(だんばん)と金尊(きんそん)と
すべての花が散り落ちた冬景色の中で、ひとり梅だけが美しく咲きほころびて、ここ山中の小園の風情を独り占めにしている。
その枝は或は横に或は斜めに清らかな水に影をうつし、また、ほのかな香りを漂わす月の光の淡いたそがれ時である。
霜のおりる頃、鳥は地上におりようとして先ずあたりをうかがうかのように見まわす。
花のまわりに舞っている白い蝶は、もしこのことを知ったならば、気の遠くなる程驚くことであろう。
この清楚で気品の漂う梅を眺めながら、詩を作り微吟していると、楽器や酒樽を前にするような必要もなく、誠によい気分である。
梅の花を詠った詩を詠んでいると、どういうわけか尾形光琳の「紅白梅図屏風」を思い出します。
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【梅花 優雅さ・香り、後世に発見】
厳しかった冬の寒さの影響か、梅の開花が遅れ気味だ。先週見に行った京都北野天神の梅は、まだちらほらと咲きそめたばかりだった。
梅は奈良時代以前に中国から伝わった。「ウメ」という字訓も、漢語の子音「メ」を写したとされる。古代では花といえば、梅花を思い浮かべた。
『万葉集』には百首を優に超える梅花の歌が見えるが、すべて白梅で、紅梅はない。大伴旅人(おおとものたびと)が自分の邸で開いた梅花の宴には、三十二人が集って、それぞれ一首の梅花の歌を作った。主人旅人の歌は、雲のように散る梅花のさまを詠ずる。
わが園に 梅の花散る ひさかたの
天(あめ)より雪の 流れ来るかも
梅花といえば、花の美しさとともに、香りのよさが歌人たちに人気を得てきた。『古今集』の収める凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌は、その代表的なもの。
月夜には それとも見えず 梅の花
香(か)をたずねてぞ 知るべかりける
ところが、『万葉集』に数多い梅花の歌では、ただ一首を除いて、香りのことは詠まれていない。本居宣長は、「いにしえはすべて香をめずることはなかりしなり」(『玉勝間』)といっているが、不思議なことだ。
本家の中国ではどうか。『詩経』に「摽有梅(ひょうゆうばい)」という詩があるが、これは花ではなく、実を詠ったもの。五世紀以前の文献で、梅が出てくれば、ほとんど食用の実のことで、花が注目されるのはもっと後になる。『文選(もんぜん)』にも梅花の詩はない。
唐詩に梅花の詩はあるが、まだちらほら程度。梅花の愛好が広がるのは、次の宋代以降である。その画期を作ったのが、日本でも有名な林逋(りんぽ)の詩「山園の小梅(しょうばい)」である。次の一聯(いちれん)はことによく知られる。
疎影横斜(そえいおうしゃ)して 水は清浅
暗香浮動して 月は黄昏(こうこん)
まばらな花影を斜めに水面に落とし、そこはかとない香りが、月の淡いたそがれどきに漂ってくる。梅は遠い昔からあったが、花や香りの魅力が広がるには、人による発見を必要とした。
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私なんかには絶対書けない名文です。
林逋(967~1028)のことをネットで調べると、
『北宋初めの人で杭州は西湖の孤山に隠棲して、梅花をこよなく愛し、梅を妻とし鶴を子として生涯独身で過ごした。死後、和靖先生とおくりなされた。これ以後、「横斜」といえば梅の枝ぶり、「暗香」は梅の香を意味するようになります。』とありました。
「山園の小梅」の全部を紹介すると次の通りです。こちらのサイトに掲載されていたものを無断でお借りしました。
http://www.marute.co.jp/~hiroaki/kansi_syuu/kansi_syuu-09/sanen_syoubai.htm
衆芳(しゅうほう)搖落(ようらく)して独(ひと)り暄妍(けんけん)
風情(ふうじょう)を占(し)め尽(つ)して小園(しょうえん)に向こう
疎影(そえい)横斜(おうしゃ)水(みず)清浅(せいせん)
暗香(あんこう)浮動(ふどう)月(つき)黄昏(こうこん)
霜禽(そうきん)下(お)りんと欲(ほつ)して先ず眼(まなこ)を偸(ぬす)み
粉蝶(ふんちょう)如(も)し知らば合(まさ)に魂(たましい)を断つべし
幸(さいわい)に微吟(びぎん)の相狎(あいな)る可(べ)き有(あ)り
須(もち)いず壇板(だんばん)と金尊(きんそん)と
すべての花が散り落ちた冬景色の中で、ひとり梅だけが美しく咲きほころびて、ここ山中の小園の風情を独り占めにしている。
その枝は或は横に或は斜めに清らかな水に影をうつし、また、ほのかな香りを漂わす月の光の淡いたそがれ時である。
霜のおりる頃、鳥は地上におりようとして先ずあたりをうかがうかのように見まわす。
花のまわりに舞っている白い蝶は、もしこのことを知ったならば、気の遠くなる程驚くことであろう。
この清楚で気品の漂う梅を眺めながら、詩を作り微吟していると、楽器や酒樽を前にするような必要もなく、誠によい気分である。
梅の花を詠った詩を詠んでいると、どういうわけか尾形光琳の「紅白梅図屏風」を思い出します。