ことりのあしあと

ほんのわずかなじかん、立ち止まって耳をすませて自分を見つめたい。そんなあしあとをペタペタとのこしています。

抽選会と、むむちゃんの祈りと、ぷうちゃんの眠りと、空に月。

2010年08月21日 23時41分24秒 | 日記


途中で抽選カードが配られると人が殺到。Fちゃんたちに引っ張られるように、カードをもらう列に並ぶ。
緑の97

100番までしかないカード、強者は、違う色の列に並び直すらしい。
そのあと、付け足しのような盆踊りがあり、抽選会、開始。
くじ引き系が苦手なむむちゃんは、たまたま今回、むむちゃんしかわが家でカードをもらえなかったので、みんなのカードと思ったら、気が楽に。
でもひたすら、真剣に祈り続ける。商店街が活きていて、景品もたくさんたくさん。惜しい数字は出るけど、当たりは出ない。
真剣に祈り続けるむむちゃんをよそにぷうちゃんは、お休みの時間。だって10時近い。
祈りは外れ、むむちゃんはがっかり。でも最後に残った特賞の自転車は当たりたくなかったそうで、胸を撫でおろす。
Fちゃんにハズレでも、全員花火をもらえるよ、と、教えてもらったけど、むむちゃんは要らない、と。
カードをFちゃん一家に渡して帰り、さっさとシャワーを浴びて眠りにつきました。
寝る直前、むむちゃんは
「ママ、もう日記書いた?」
まだだよ、と、こたえると、
「むむが、ハズレて落ち込んでたこと書いていいよ」と。

はい、了解。

というわけで、遅くまで楽しんだ、地元にも祭りはいろいろあるけれど、初体験の商店街ががんばってる盆踊りでした。

むむちゃん、ここで使わなかった運は、きっとほかの何かのためだよ。
だから、もっといいことのために、とっておいてね。

今晩は、山王祭、第一段の盆踊り

2010年08月21日 23時40分34秒 | 日記


今晩は、昨日の夜の打ち合わせのあった山王祭の第一段、2日目の盆踊りに出かけました。
今日は、バスに乗って。

一昨日、むむちゃんにPASMOを持たせてあげたので、それを使う練習。
(夏休み中はバス、子ども50円だし♪)
そして、私に二人を自転車に乗せる体力が今日はなかったので。
まずは行列に並ぶ何かと思えば、贔屓にしているキャラクターパン屋さんが、子ども限定でキャラクターパンを無料配布。やっぱりステキなパン屋さん。
それから、チケットを買って、焼きそばとウインナーを2つずつ買って、分け分けして食べる。

昨日遅くまで一緒に飲んでたFちゃんも子連れで来ていて、「だよね~」の挨拶。
腹ごしらえをしたら、むむちゃんは例によって例のごとく、盆踊りの輪に飛び込んでいく。
ぷうちゃんは、ヨーヨー釣り。

ソフトドリンクは無料で提供。残ったチケットはお金に戻してくれる。

ぷうちゃんは、途中まで張り切っていたけど、だんだん眠く。
でも、今宵は、まだまだ続くのです。

かつての私へ ~ヒントはいつもそこにある~

2010年08月21日 13時45分20秒 | 日記
虐待も暴力も他人事じゃない。
かつてのほんの数年前の私は、虐待グレーゾーンの極めて黒に近いところに居たと思う。
いつ、ヒドイことをしてしまってもおかしくないくらい、時間にも体力にも心にも余裕はなく、ひっくるめて自分が生きてそこにあることでやっとだった。

ふ~っと息を抜ける場と時間がなかった。
それがないことの恐ろしさと危うさは、つくづくと身に沁みて知っている。

児相の福祉司さんでも、おまわりさんでも、隣の家の人でもいいから、無理矢理こじ開けて入って来て欲しかった。

いよいよ、ヤバいかも、というところまで追い詰められて、こじ開けられるのを待っていては取り返しのつかないことになる、自らここから脱していかなくてはならないと悟った。
あちこちの相談電話に電話をかけ、言われたことを片っ端から試して動きまわり、息も絶え絶えに自分の安心できる環境を手に入れた。
子どもたちに危害を加えずにそこに至れたのは、奇跡的だと思う。私の体力は限界の限界だったから。
受けたサジェッションをこなしていけたのは、それこそ最後の頼みの綱を離したら、悲しい先行きしか待たないと知っていたから。
でも、いつ折れて沈んだっておかしくはなかったんだ。

安住の環境に、這うようにたどり着いて、子どもたちと笑って過ごせるようになった。
笑えずに、どれだけ長い時間を過ごしてしまったか振り返って、ゾッとした。

安住の場を得て、あちこちにSOSを発することを覚えた。保育士さんにも、ママ友にも、たくさんの案じてくれていた方々にも。

いま、自信を持って言える。私は虐待のグレーゾーンの極めて白い側に居る、と。

助けてと、言うのに、
辛いと、言うのに、
命懸けの、ありったけの力を注がなくてはならない社会なんて、まっぴらだ。

だから、私は、転がり続ける石、なんだ。

ありがとう、かつての私。

がんばって生き延びて、子どもたちを守ってくれてありがとう。

弱き者への暴力がとまらない。何がそれを止めるのか。

2010年08月21日 10時51分06秒 | 日記
次々と虐待の情報が流れてくる。
下記はその数例で、孫を殺す祖母も、子どもを冷凍庫に入れる父もいる。
子どもという、逃げることがいちばん難しい存在に、
暴力が向かうのは子どもの側にではなく、暴力をふるう大人の側に責任はある。

長女の手にたばこの火、母親逮捕 傷害容疑で和歌山県警(共同通信) - goo ニュース
http://news.goo.ne.jp/article/kyodo/nation/CO2010081901000851.html

1カ月半の次男、床に落とす=23歳母、傷害容疑で逮捕―京都府警(時事通信) 08月15日 01:03
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/nation/jiji-100815X236.html

11カ月の長女を絞殺容疑 長野、37歳の女逮捕(共同通信) 08月08日 19:05
http://news.goo.ne.jp/article/kyodo/nation/CO2010080801000377.html

2歳女児に針刺した疑い 石巻市、同居していた男逮捕(共同通信) 07月27日 21:05
http://news.goo.ne.jp/article/kyodo/nation/CO2010072701000943.html


けれど、そこまでで、思考をストップさせてしまったら、個人の責任を問うにとどまり、この社会現象的な、子どもへの暴力をなくすことはできない。

どうすれば、とめられる?
子どもと一緒にいることの辛いおとなが、SOSを発していい、
だってつらいんだもん。
そう、社会が言い切れるようにならなければ、密室で発せないSOSの
代わりに暴力は振るわれてしまう。

ふりあげたこぶしをそっとにぎり、一人で大変でしたね、って、
そう言ってあげられる仕組みはどう作ったらいい?

疲れた顔のおとなに、大変ね、よくやってるね、の一言が、
無気力無関心になっているおとなに、少し休んだら、みててあげるわ、の一言が、
かけられる社会は、どうしたら作れるの?
虐待に限ったことではなく、子どものいる親に限ったことではなく、
いま、そのひとことをかけあえることが、必要な社会なのではないですか?

書きながら、自らに問う。
それはとってもとっても難しい。勇気と気力がいる。

どうしてなのだろう、当たり前の声かけなのに。
疲れてる人に、疲れてて大変そうね、って、当たり前のことが当たり前にできない社会の歪みの中で、子どもたちは死んで(殺され、痛めつけられて)いき、自殺する若者は減らない。

勇気の足りない自分が、ただただふがいない。