ことりのあしあと

ほんのわずかなじかん、立ち止まって耳をすませて自分を見つめたい。そんなあしあとをペタペタとのこしています。

自然との共鳴について考える

2011年07月29日 15時00分27秒 | 日記
というほどに、
大それたことを考えているわけではなくて。

パンチの利いたあっつ~い夏は、
夏休みに入ってから身を潜めています。

夏休みに入って、ホッとした私と、
夏休みに入って、ひとだんらくしている夏の暑さと。

司書室はおおむね33度前後で、
夏休み前の35度との戦いは、しばらく遠のいています。
あの暑さに打ち勝ったはずの私は、今ふぬけのようです。

暑さとの戦いに身構える必要なく、ぼんやりとした日々です。
もちろん、夏休みに入り、レファレンスが一段落したこととも無関係ではありませんが。

それら、私の自然を感じるセンサーのはたらき。


そして、ふっと、数日前の夜、寝入りばなに想起した2冊。
日渡早紀の『ぼくの地球を守って』
新井素子の『グリーンレクイエム』
あぁ、いい漫画だったなぁ。
あぁ、いい小説だったなぁ。
こころとか頭とかを越えて、体に響くお話たちだったなぁ。
・・・きっと、私の前世は植物だったに違いない。

ぼんやりした頭で、ぼんやりと想う。
ぼんやりしているときの、想い致しは、当たっていることが多いのです。

気候の変動に影響されやすい体は、
くもりの今日、いつもにまして、ぼ~っとしています。

ぼ~っとしていると、セミの鳴き声がよく聞こえます。

読書日記7/27・28 「かなしみ」と、「さみしさ」と。

2011年07月29日 12時09分37秒 | 日記
本を選ぶ。

高木慶子『悲しみの乗り越え方』角川oneテーマ21新書 2011.6.10
小池龍之介・宮崎哲弥『さみしさサヨナラ会議』角川書店 2011.6.30

悲しみに、さみしさに、どうやら最近、興味があるようです。

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高木慶子さんははじめて読む。
私がこれまで学んできた死に向かう人の支え方とは
また異なった、支え方をする人なんだ、と知る。
ちょっぴり危うい感じを個人的には感じる。あくまで個人的。

印象に残るフレーズがいくつか。

・・・人間がふだんの人間関係でわかり合えることなど、もともと本当に限られている。人間というのは、本当に本当に孤独なものだと思うのです。・・・本当に悲しんでる方に寄り添うときは、言葉でもなく、ただ、時間と場所をともにする。人間というのは、お互いが、そういう限界のある存在だからです。

・・・この多難な時代、孤独死も自死も、なくなることはありません。でも、減らすことはできる。そういうときに私たちに必要なのは、他人に対してもきちんと関心をもつことなのではないでしょうか。


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小池龍之介さんの本は、二冊目。
いちいちなるほど、と思うほどに強い言葉ではないのだけれど、
「説き明かす」という表現がぴったりくる。さすが僧侶。

・・・"人と一緒にいることで孤立感を紛らわせたい”という衝動を時に諦めざるを得ないなかで、最初はつらい気分でもその中にしばらく身を置いていると、徐々にこころが孤立感に適応していゆくプロセスが作動する、・・・実は、幸福感はこの"自立”のなかにある。それを心理的レベルで申せば、"孤立を受け入れる”ということ。

・・・"私たちは誰といても実は孤立している”という紛れもない事実を「これはこれで、ま、いっか」と受容してゆくのです。そして、そうしてニュートラルに受容された"孤立”こそが私たちに打たれ強さと凜とした力を与えてくれます。

さみしさを解読していく手がかりは恋愛にあるということで、
はじめから終わりまで、それに貫かれています。

本書は恋愛指南書として読まれると良いなぁ、
と、つくづくと思ったりします。
全然、指南してくれませんが。

救いがたく、恋愛も結婚も幻しであるということを
しつこくしつこく説かれているわけなのです。
甘いごまかしもまやかしもいっさいなく、だからこそ寂しくも真理。

真正面から、それを知ることのチクチクした痛みと、
それを知っていればドンと深く陥らないであろう混乱や葛藤と。

これを読んで「さみしさ」にサヨナラできるかというと、
むしろ、深まるわけですが、受け入れざるを得ないものとして納得もできたりします。

「さみしさ」、ひとりで引き受けるものなんだなぁ、とぼんやり思いながら、
それを緩和する方法として唯一、ポツンと心に残るのは
「相手に居場所をプレゼントする」という言葉。

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無縁社会と命名される社会の、
無縁の中には、
虐待にいたる親の孤立と孤独も含まれているし、
自殺を念慮する若者も含まれている。

物理的無縁、物質的無縁、それには社会保障とか、社会システムとか、
制度とか、うつべき手を具体的に掲げていくことができる(はず)。

しかしながら、そこはかとなく社会に蔓延する孤独感、孤立感は、
どうできるのか、いかんともしがたいものなのだろうか。
答えを得たく、本の中にさまよう夏です。

読書日記7/25 V・E・フランクル『夜と霧』(新版)みすず書房2003.11.5

2011年07月26日 12時09分42秒 | 日記
アウシュビッツで生き残ったお話というだけで、
敬遠してきました。

きちんと強制収容所の報告を書いているわけではない、
と前置きされているのに。

そして、読んでよかった。
もっとはやく、読むべきでした。

生きるということは、
人というものは、
いとおしく、愚かで、高潔です。

いのちを有して、そこに在る、ということの尊さを、
いまいちど、抱きしめたくなる。

反貧困ネットワークによる「貧困率についての声明」

2011年07月24日 20時43分14秒 | 日記
先日のブログで、子どもの貧困について国民生活基礎調査からの結果を紹介しました。

この調査結果を受けて、反貧困ネットワークが「貧困率についての声明」を発表しま
した。
http://d.hatena.ne.jp/hinky/20110720

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貧困率についての声明
2011年7月20日
反貧困ネットワーク
(代表 宇都宮健児)

7月12日、厚労省が相対的貧困率を発表した。全体で16.0%、17歳以下の子どもの場
合で15.7%だった。
2009年10月、政権交代直後の厚労省が初めて発表した相対的貧困率は、それぞれ
15.7%、14.2%だった。それぞれ0.3%、1.5%の上昇であり、特に子どもの貧困率の
上昇幅が著しく、相対的貧困状態にある子どもの数は3年間で約23万人も増加したこ
とになる。
この結果は、厚労省が3年に一度行う国民生活基礎調査(大規模調査)のデータに基
づいており、今回発表されたデータは2009年1~12月の所得に基づいている。前回調
査の根拠データは2006年1~12月だった。
2007年2008年2009年に何が起こったかを振り返ってみれば、07年はいわゆる「ネット
カフェ難民」問題で始まり、7月には「おにぎり食べたい」という日記を書き残して
亡くなった北九州市の52歳男性の餓死事件が発覚し、年間を通じて日雇派遣会社グッ
ドウィルの「データ装備費」問題が世間を賑わした。08年にはリーマンショックに端
を発した大量の派遣切りがあり、年末には「年越し派遣村」が誕生した。国民年金1
号保険料や国民健康保険料の未納・滞納問題が広く知られるようになったのも、この
数年間である。そして09年にはそれらすべてを受けての政権交代があった(子ども手
当や公立高校の授業料無償化が始まったのは2010年に入ってからであり、今回のデー
タには反映されていない)。
この3年間を振り返ると、相対的貧困率の上昇は当然のことのように見えてくる。そ
れだけ、日本社会の痛みや綻びがさまざまな形で噴出した3年間だった。

それでも、子どもの貧困率の上昇幅には驚きを禁じ得ない。これは、とりもなおさ
ず、17歳以下の子どものいる世帯のそれ以外の世帯に対する相対的な低所得化の進
行、すなわち高校生以下の子どもを持つ「働き盛り」の親たちの雇用の不安定化・低
所得化を示している(その下げ幅が著しいために、ひとり親世帯の相対的貧困率が
「改善」してしまうという「逆転現象」すら起こってしまった)。「雇用融解」から
「雇用壊滅」(風間直樹)に至る事態が如実に数字として表れた結果だろう。
周知のように、日本は世界一の超少子高齢化社会であり、現役世代およびその子ども
たちが十分に力を発揮できる環境整備は、当人たちにとってはもとより、社会全体の
持続可能性において喫緊の課題であることは論を俟たない。私たち反貧困ネットワー
クは、相対的貧困率の削減目標を掲げ、政策提言を行ってきた。もっとも責任の重い
政府・自治体をはじめ、NPO・教育関係者・企業・労働組合も、それぞれの立場か
ら、高すぎる子どもの貧困率の改善に取り組んでいかなければならない。

所得の多寡のみによって人々の幸福が測られるわけではない。しかし、相対的貧困状
態の放置は、多くの人々の生き死にを左右し、悲惨な状況を生み、ひいては日本社会
全体の衰退に直結する。「事態を小さく見せて、とにかく今をやり過ごす」のはもう
止めにすべきだと、私たちは今年改めて学んだはずだ。
次の国民生活基礎調査(大規模調査)は、2012年(来年)1~12月の所得を元に行わ
れ、その結果は2014年半ばに発表される。さらに暗澹たる事態が進まず、好転の兆し
が現れる結果にするために、すべての関係者の尽力を求める。

以上

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このように、即時に見解と声明、提言を発信していける力を
市民団体は、多かれ少なかれ持っていてしかるべきだろう、と思うのです。
もっと多くの声が聞きたい。