ビタミンP

苦心惨憺して書いている作品を少しでも褒めてもらうと、急に元気づく。それをトーマス・マンはビタミンPと呼んだ。

第1回朗読会 テーマ:スティーブ・ジョブズ

2016年05月16日 04時53分59秒 | Weblog
友人の小さなギャラリーで、朗読会をすることになりました。

2016年4月16日(土)於:ギャラリー60
テーマ:スティーブ・ジョブズ「ハングリーなままであれ、愚かなままであれ」

 今日は有名なアメリカのIT企業の創立者であるスティーブ・ジョブズという人の行ったスタンフォード大学の卒業式でのスピーチを朗読したいと思っています。
 その前に2分半ばかりですが、ビデオを見ていただきたいと思います。(★ビデオ)

 驚きましたでしょう?
 1か月ほど前のニュースで、米グーグル傘下の企業が開発した囲碁の人工知能「アルファ碁」というのが、世界最強の棋士と言われる韓国のイ・セドル9段を4勝1敗で下して、世界中で大きな話題を呼日ましたけれども、コンピュータ技術の進歩で、ロボットも、ここまで来ているんですね。

 このロボットを開発したのはボストン・ダイナミックスというベンチャー企業ですが、こちらもすでに現在世界No.1の時価総額を誇るIT企業のグーグルによって買収されました。
 そのグーグルという会社に今年1月に一時的に抜かれるまで、時価総額で世界の第1位に立っていたのが、アップルという会社でした。
 今日、朗読しますスティーブ・ジョブズという人は、このアップルの創業者です。それから、様々な苦難を乗り越えて、現在みなさんも使われていると思いますが、こうしたスマホというものをIPhoneという形で、世に生み出した人でもあります。
 このiPhoneで、アップルは世界1の企業になったわけですが、ジョブズという人が歴史に刻まれるのは、このiPhoneの成功というよりも、もっと違う形だと思います。
 この写真のように初期のコンピュータというのは、大企業の研究室とか大学とかにしか置けない大掛かりな装置でした。それを、今あるようなデスクの上でも使えるもの、それも、難解なコンピュータ言語をマスターしなければ使いこなせなかったものを、小学生でも簡単に使えるもの、つまりパソコンというものに変える端緒を開いた人物としてだろうと思います。
 そのスティーブ・ジョブズがアメリカでも4本の指に入るスタンフォード大学の卒業式に呼ばれた時のスピーチが、今から朗読するものです。
 時は2005年の6月12日でした。
            ★
「私は今日ここに、世界で最も優秀な大学の一つ、スタンフォード大学の卒業式に、こうしてあなた方と共にあることを、とても光栄に思います。 

 私は大学を卒業しませんでした。 ですから、今日が私にとって、最も大学の卒業に近い経験になります。

 今日、私がお話ししたいのは、私が人生から学んだ三つの話です。
 それだけです。
 大したものではありません。 
 たった3つです。



 最初は、「点と点を繋いでいく」という話です。

 私はリード大学という大学を半年で退学しました。しかし実際に辞めるまで一年半ほど、遊びの学生としてブラブラしながら居残っていました。 

 なぜ辞めることになったのでしょうか?

 話は、私が生まれる前に遡ります。

 私の実の母は未婚の大学院生でした。そして私を産んだら養子に出そうと決めていました。 彼女は、自分の子供は大学卒の人のところに養子に行くべきだと強く思っていましたから、弁護士とその妻によって育てられる手はずが整っていたのです。

 ところが、私が産まれる最後の段になって、彼らは女の子を望んでいたと言い出しました。
 そうした経緯があって、養子縁組待ちのリストにあった私の両親の所に、夜遅い時間に電話が入ったのです。そして、こう言われたそうです。
「予定外の男の赤ちゃんが生まれました。養子縁組を希望しますか?」
 「もちろんです」と、両親は答えました。

 しかし、私の産みの母親はそのあとになって、私の母が大学を出ていないことを知りました。父は高校すら卒業していませんでした。 生みの母親は養子縁組の最終書類にサインするのを拒んだのです。

 彼女が折れたのは、数か月が経ってからでした。
両親が、私を大学に行かせると約束したからです。

 これが、私の人生の始まりです。



 17年が経ち、私は大学に入りました。
 さしたる考えもなしに、私は、スタンフォードと同じくらい学費がかかる大学を選んでしまいました。 労働者階級だった両親の貯えの全ては、私の大学の学費に消えていってしまいます。
 半年が経った頃、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていたのです。自分が人生で何がやりたいか全く分からず、大学がその手助けをしてくれるかも全く分からない。それなのに自分はここにいて、両親が生涯をかけて貯めた金を残らず使い果たそうとしている。

 だから、退学すると決めたのです。
 それで全てうまく行くと信じていました。

 もちろん内心ではとても怖かったのですが、今こうして振り返ってみると、あれは人生で最良の決断だったと思います。
 退学した瞬間から興味のない必修科目を取ることから解放されたので、興味のあるクラスだけを聴講できたからです。
 もちろん、全てがいい話というわけではありません。寄宿舎に私の部屋はもうありませんでしたから、友人の部屋の床(ゆか)で寝泊まりさせてもらいました。コーラの瓶を回収して持って行くと5セントもらえたので、それで稼いで食費の足しにしました。日曜日の夜になると11kmほど離れたヒンズー教の寺院、ハーレクリシュナ寺院まで歩いて行って、そこで振舞われる食事にありついたのです。あれは大好きでした。

 そんな風に、自分の興味と直感に従って動き回っているうちに出会ったものの多くが、あとになってわかったのですが、計り知れないほど価値あるものだったのです。

 例をひとつ挙げてみましょう。

 私が一時期通っていたリード大学は、当時おそらく国内最高水準のカリグラフィ(飾り文字を使った文字を美しく見せるための書法)教育を提供する大学だったのです。キャンパスの至るところにあるポスターから戸棚のラベルの一つ一つに至るまで、美しい手書き文字で書かれていました。 
 私は退学していましたし、もう普通のクラスを取らなくても良かったので、とりあえず、このカリグラフィのクラスに出て、そのやり方を学んでみようと思ったのです。
 セリフ(ローマン体、ヒゲ飾りの付いた英文書体)やサンセリフ(ゴシック体と呼ばれるセリフの無い書体)の書体を学びました。活字の組み合わせに応じ文字と文字の間を調整する手法を学び、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かも学びました。
 それはとても美しく、歴史があり、科学では捉え切れない繊細で芸術性を持つ世界です。私はすっかり虜になってしまいました。

 もちろんその時、これらが人生の上で実際に役に立つ可能性があるなどとは思ってもみませんでした。しかし、その後10年が経ち、最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計することになった時、その時の経験のすべてが私の中に蘇ってきたのです。

 私たちは、その全てをMacに組み込みました。それでMac は美しいフォントを備えた世界初のコンピュータとなったのです。

 もし、私が普通に大学の授業を受けていて、このカリグラフィの授業に潜り込んでいなかったら、Macには複数の文字のタイプも字間を調整したバランスのとれたフォントも入っていなかったでしょう。 
 ウィンドウズは単にMacをコピーした物なので、そういうものを備えているパソコンは世界に一台として存在していなかったことになります。
 もし、私が退学していなかったら、私はこのカリグラフィの授業を覗かなかったでしょうし、そうしていたら、パソコンは今のような美しい文字で飾られることも無かったことになります。 
 もちろん、当時大学生だった私には、この点と点が繋がって、現在のパソコンの姿になるなどとは思い描くことはできませんでした。でも、10年経って振り返ってみたとき、はっきりと見えてきたのです。
 繰り返しますが、先を読んで点と点を繋ぐことはできません。後から振り返って初めてできるわけです。

 ですから、今はバラバラな点だとしても、将来、それが何らかの形できっと繋がっていくと信じることが大切なのです。
 未来に先回りして、点と点をつなげてみることはできません。出来るのは過去を振り返ってみたとき、点と点が繋がっていたと分かるだけです。
 でも、そうだとしても、あなたたちは、現在の点が、とにかくあなたたちの未来に繋がるということを信じるのです。

 何かを信じるのです。
 ・・・・それは、自分のガッツでもいいし、運命でもいい、人生でも、カルマ(業)でも、何でもいいでしょう。 その点が繋がり、いつか道となると信じることが、あなたの心に自信を与えます。 たとえそれが皆の通る道からは外れるとしても、それですべてのことが間違いなく変わるはずです。


二つめは「愛」と「敗北」についての話です。

 私は幸運でした。
 自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができたからです。

 実家のガレージを改装してウオズ(スティーブ・ウオズニアック、ジョブズの5歳歳上)と二人でアップルを創業したのは、私が20歳のときでした。

 無我夢中で働きました。
 そして10年が経ったとき、アップルは二人の会社から4000人以上の従業員を抱える20億ドル企業になっていました。

 しかし私たちの最高傑作であるマッキントッシュを発表して1年後、30回目の誕生日を迎えた矢先に、私は会社をクビになってしまいました。

 自分が始めた会社をどうして首にならなくてはならないのか? 


 要するに、こういう話です。

 会社が成長するにつれて、私たちは、私とともに会社を経営してくれる非常に有能だと思える人物を雇いました。最初の一年ほどはうまくいったのです。しかし、私たちの将来のビジョンにズレが生じてしまいました。決裂する段階になり、取締役会が支持したのは彼のほうだったのです。
 こうして、私は30歳にして会社を追い出されてしまいました。

 私が追放されたことは、当時大分世間を騒がせましたので、世の中に広く知れ渡っていました。

 自分が大人になって以来全てをかけて打ち込んできたものが消えたのですから、私はもうボロボロでした。

 2、3か月、何も手につきませんでした。私は、前の世代の起業家達の実績に傷をつけてしまったように感じていました。がっかりさせたと感じました。
 手渡されたバトンを落としてしまったのだと、感じました。 
 デイビッド・パッカード(IBMと並ぶアメリカを代表するコンピュータ会社の創業者、ジョブズは13歳の時、彼の会社でアルバイトしていた)とボブ・ノイス(インテルの共同創業者、集積回路を発明した)に会って、全てを台無しにしてしまったことを詫びもしました。 

 私は敗者として知れわたっており、シリコンバレーから逃げ出すことすら考えました。

 しかし、やがて、何かがゆっくりと見えてきたのです。 

 私は私がやってきた仕事が好きだったのです。
 アップルで経験した様々な嫌な出来事も、その私の気持をほんの少しも変えていないことに気づきました。

 私は振られてしまったわけですが、それでもまだ好きだったのです。
 だから、もう一度、一からやり直してみようと決めたのです。

 当時は気づきませんでしたが、やがて、アップルをクビになったこの経験が、自分の人生の最良な出来事だった、ということがわかってきました。
 成功者である事の重み、それが、もう一度初心者であることの身軽さに変わったのです。 
 あらゆる物事に対して以前ほど自信も持てなくなっていましたが、同時に、自由の身となり、解放され、その後の私の人生を、再び最もクリエイティブな時期の一つにしたのです。


 それに続く5年間のうちに、私はNeXTという名前の会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性ロレーヌと恋に落ち、後に彼女は私の妻になりました。
 ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創りました。そしてそれは今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオとなっています。
 そして思いもしなかったことに、私の作った会社NeXTはアップルに買収され、私はアップルに復帰することになったのです。
 NeXTで開発した技術は現在のアップルの中核的なものとなって使われています。
 ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。

 私は断言できます。

 私がアップルをクビになっていなかったら、こうした事は何ひとつ起こらなかった。

 それはひどく苦い薬でしたが、患者には必要な薬でした。

 時として人生には、レンガで頭を殴られるようなひどいことも起きます。しかし、どんな時も信念を失ってはいけません。私がここまでやってこられたのは、自分のやっている仕事を愛しているというその気持があったからです。

 これはみなさんの仕事や恋愛においても同じです。

 皆さんも、これから卒業すると、仕事が人生の大きな部分を占めるでしょう。そこで、自分が本当に心の底から満足を得たいと思うなら、自分が素晴しいと信じる仕事に取り組む、それしかありません。
 好きなことを仕事にすることです。まだ見つかってないなら探し続けてください。

 ひとつの場所に固まっていてはいけません。
 心というのはよくしたもので、それは見つければ、すぐにピンときます。そして、素晴らしい恋愛と同様に、歳を重ねるごとに良くなっていきます。
 ですから、見つけるまで探し続けてください。ひとつの場所に固まってしまってはいけません。


 3つめは、「死」に関する話です。

 私は17歳の時、こんな言葉をどこかで読みました。
「毎日、これが人生最後の日と思って生きなさい。いつか、必ず、そういう日が来ますから」
 それは強烈な印象を与える言葉でした。
 そしてそれから現在に至る33年間、私は毎朝鏡を見て、こう自分に問い掛けてきました。

「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることは、私が本当にやりたいことだろうか?」

 それに対する答えが“NO”の日が何日も続くと、これは何かを変える必要があるな、と気が付くわけです。

 自分が死に直面するという状況を想像することは、これまでに人生を左右する大きな選択を迫られた時、いつもその決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。

 ほとんど全ての物事…つまり、他人からの評価とか、自分のプライドとか、恥を掻くかもしれないということや、失敗するかもしれないという恐怖…
 こういったものは、私たちが死に直面すれば、全て吹き飛んでしまいます。
 そして、本当に重要なことだけが残ります。

 自分も死に向かっているという自覚は、私の知る限り、何かを失ってしまうかもしれないという、思考の落とし穴を避けるための最善の方法です。
 あなたはすでに丸裸で、失うものなんて何もありません。自分の心の赴くまま生きてはならない理由など、ひとつもありません。


 今から1年ほど前です。
 朝の7時半にCTスキャンを受けると、私のすい臓にははっきりと腫瘍が映っていました。
 私はその時まで、すい臓が何かも知りませんでした。
 医師達は私に言いました。
「これはほぼ確実に治療不可能な種類のガンです。余命は、3ヶ月から6ヶ月だと思ってください」
 主治医は私に、家に戻り、仕事を片付けるようアドバイスしてくれました。
 そして、付け加えました。

「子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあれば、この数ヶ月の間に伝えておきなさい」

 それはつまり、自分の家族がなるべく心安らかな気持で私の死に対処できるようしておきなさい、ということです。
 医師の世界では「死に支度をしろ」という意味の言葉だそうです。

 私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。

 そしてその日の夕方遅くになり、もう一度、生体検査を受けることにしました。
 確実を期するために、喉から内視鏡を入れ、中を診てもらったのです。

 内視鏡は胃を通って腸の中に入り、そこから医師達はすい臓に針で穴を開け、腫瘍の細胞を採取しました。

 私は鎮静剤を投与されていましたのでよくわからなかったのですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、医師は顕微鏡で私の細胞を見た途端、叫び出したのだそうです。
 何故なら、私のそれは手術で治すことができる、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍だったからです。

 私は手術を受け、ありがたいことに今もこうしています。

 これは私がこれまでで最も死に近づいた経験ということになりました。私の人生はこの先何十年かわかりませんが、これ以上近づく経験は、願いさげ下げにしたいものです。
 
 こうした経験を生き抜いてきて、私は死を考えることが有益だということを、頭で考えて言っていた頃より、少しだけですが、自信を持って言うことができるようになりました。

 誰も死にたいと思っている人なんていません。
 天国に行きたいと願う人でも、まさかそこに行くために死にたい、とは思わないでしょう。
 それでも、死は誰もが向かう終着駅です。死を免れた人は誰一人としていません。

 それは、そうあるべきなのです。
 何故なら、死は、生が生んだ唯一無比の、最高の発明だからです。

 死が生き物を循環させます。
 死によって「古いもの」が「新しいもの」に道を譲るのです。

 今、「新しいもの」とはあなたたちです。でも、いつか遠からず、あなたたちも古くなり、「新しいもの」にとって代わられます。取り除かれる日が来ます。少し過激な言い方で申し訳ありませんが、それが真実です。

 あなたたちの持つ時間は限られています。他人の人生を生きて、時間を無駄にしないでください。自分以外の誰かの人生に、自分の時間を費やす時間などありません。
 常識や固定概念にとらわれ、自分の内なる声や心、直感が掻き消されてしまわないようにしてください。
 あなたの心や直感に従う勇気を持つことが、一番重要なことです。
 自分の内なる声、心、直感というのは、あなたたちが本当に望んでいる姿は何か、既に知っています。
 それ以外のこと全ては、二の次です。


 私が若い頃、”The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)”という驚くべき本があって、私の世代の間ではバイブルのようなものになっていました。
 それはスチュアート・ブランドという人が、ここからそれほど遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的な表現が、それに生命を吹き込んでいました。
 1960年代後半のもので、パソコンやデスクトップ印刷がまだない頃ですから、タイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで全てが作られていました。
 それはまるでグーグルのペーパーバック版のようなものと言ったらいいでしょうか。グーグルが35年前に登場したかのようなものでした。
 それは理想主義的で、いかしたツールや凄いアイデアがいっぱい詰まっていました。
 スチュアートと彼のチームはこの”The Whole Earth Catalogue”(全地球カタログ)を何度か発行しましたが、一通りやり尽くしたとして、最終号を出しました。

 それは1970年代半ばで、私がちょうど今のあなたたちと同じ年の頃です。

 その最終号の背表紙に、早朝の田舎道の写真が載っていました。あなたが冒険好きなら、ヒッチハイクの途上で一度は出会えそうな、そんな早朝の光景です。
 写真の下には、こんな言葉が書かれていました。
「Stay hungry. Stay foolish.」
「ハングリーなままであれ、愚かなままであれ」

 それが、彼らの別れのメセージでした。

「Stay hungry. Stay foolish.」
「ハングリーなままであれ、愚かなままであれ」

 私は常に、自分自身そうありたいと、願い続けきました。

 そして今、卒業して、新たな人生に踏み出すあなたたちにも、そうあってほしいと願っています。
 Stay hungry. Stay foolish.
 「ハングリーなままであれ、愚かなままであれ」

ご清聴ありがとうございました」

            ★
以上です。お疲れ様でした。
付け加えますと・・・、

 このスピーチが行われた数年後に、確かイギリスのテレビ番組制作会社によって作られた「スティーブ・ジョブズの子供たち」というテレビ番組がNHKのBSで放映されたことがあります。
 この時の卒業式に出ていた何人かのその後を追ったドキュメンタリーです。その中で、一人は、当時初任給2000万円といわれた有名証券会社の内定を蹴って、政治家を目指している青年でした。州議会議員選挙に立候補したものの、落選して、ボランティア活動をしながら次の選挙では市会議員を目指していました。
 もう一人は、やはり証券会社を辞めて母国のインドに帰り、子供達にコンピュータ技術を教える塾のようなものを立ち上げていました。
 もう一人は女性でしたが、就職した放送局のリストラに遭い、田舎町の小さな新聞社で再起を目指している姿でした。

 スティーブ・ジョブズ本人は、その後6年生きて、2011年の10月に、がんのため死去しています。56歳でした。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 4月24日(日)のつぶやき | トップ | 第2回朗読会 テーマ:芥川... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事