ビタミンP

苦心惨憺して書いている作品を少しでも褒めてもらうと、急に元気づく。それをトーマス・マンはビタミンPと呼んだ。

「自分が本当にやりたいと思うこと

2010年07月30日 00時52分48秒 | Weblog
を見つけたら、
もう心配はいりません」(小柴昌俊/2002年ノーベル物理学賞)

 本当に、そうなのだろうか? 
 宮本常一と渋沢敬三について書かれた『旅する巨人』(佐野真一/文藝春秋)を読みながら、何度も考えたのは、そのことだった。
 『旅する巨人』は、柳田国男以後、最大の功績をあげた民俗学者と言われる宮本常一の生涯を、その宮本を物心両面で支えた渋沢栄一の孫・渋沢敬三の生涯と重ねながら追ったノンフィクション作品だ。
 一方は、善根宿と呼ばれた旅する者なら誰でも無料で泊めた宿に生まれた一百姓として、生涯を旅に生き、73年の生涯に合計16万キロ、地球を4周する行程をズック靴を履き、よごれたリュックサックの負い革にコウモリ傘をつり下げ、1000軒を超す民家に泊めてもらいながら、ただひたすら自分の足だけで日本全国を歩き続けた男。
 一方は、柳田国男や折口信夫と並び称される民俗学者でありながら、”近代日本資素本主義の父”渋沢栄一の孫として、幼い頃から家長の立場に立たされつづけ、渋沢家という巨大な重圧にうちひしがれそうになりながらも、戦中は日銀総裁、戦後は大蔵大臣として、経済人でもあり政治家でもあるとい人生を生ききった男。
 その二人が、常一28歳、敬三39歳のときに運命的な出会いをし、没するまでの人生がここには語られている。

 年齢も境遇もまったく異なる二人を結びつけたのが、民俗学だった。
 だが、””自分が本当にやりたい”ものとして人生のスタート時に見つけた民俗学は、二人にとっては、まったく異なる対象物でもあった。常一は家族をも顧みないで旅から旅を続けて民俗学に人生のすべてを注ぎ込み、没頭したのに対し、敬三にはそれは許されることではなかった。決して逸脱することのできない渋沢家の頭目としての重責、企業経営者としての責務があり、夢に没頭してばかりはいられなかった。だがそれゆえにこそ、常一を物心両面で支援したのだし、常一の夢に自らの夢を重ねたのだ。共に充実した人生を生き切ったのだと思いたいが、幸せだったのは常一のほうだったに違いない。
 大切にしなくてはならないのは、見つけることではなくて、見つけたあと、それにどう向き合うことができたかなのだ。

 58歳になって武蔵野美術大学の正式の教授になるまで、定職というものを持たず、ひたすら日本全国の僻地に足を運び、”日本列島改造”の中で失われゆく日本人の姿を記録にとどめようとした常一の次の言葉が小気味よく響く。
『金持ちが貧乏人の面倒をみるのはあたりまえじゃ』



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする