ビタミンP

苦心惨憺して書いている作品を少しでも褒めてもらうと、急に元気づく。それをトーマス・マンはビタミンPと呼んだ。

『ペリーを証人第一号として

2008年10月21日 13時11分55秒 | Weblog
極東軍事裁判の法廷に喚問せよ!』

 なかなか、「うん、そうだ」と自らの膝を打つような言葉には出会えないものだが、この石原莞爾(戦前、満州事変の首謀者として2万人近くの関東軍を動かし、満州全土を軍事制圧し、2.26事件では反乱軍制圧の先頭に立った。東条英機を手厳しく糾弾した反骨の軍人として知られ、戦後は極東軍事裁判で戦犯指定から外されたが、「国際法は非戦闘員を爆撃してはならないとしているのに、トルーマンは一般住居を爆撃し、長崎、広島に原爆を落とした。トルーマンこそ第一級の戦争犯罪人である」と批判した)の言葉には、納得するものがあった。

 なぜ、こんな言葉を持ち出したかというと、渡辺京二の『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)を読み終えて、そのあとがきに書かれていた著者の思いに納得したからである。
 著者は「昭和の意味を問うなら、開国の意味を問わねばならず、開国以前のこの国の文明のありかを尋ねなければならない」として、明治の初め、そして江戸末期へと遡り、そこに生きていた日本人の姿を再現していく。それも、日本人の目を通してではなく、幕末から明治に日本にやってきた外国人の滞在記や著作というおびただしい数の未訳作品を渉猟することによって。
 その膨大な労力に感動するのだが、そこに生きている幕末から明治期に生きた市井の日本人の姿にも感動する。

 ペリーの下に開国し、明治維新後、西洋文明を追いかけて富国強兵の名のもとに突っ走った日本は太平洋戦争の敗北で倒れたが、戦後は、今度はアメリカ文化を追いかけて奇跡の復興を成し遂げた。
 だがそれは、大きな代償の上に成り立っているのである。
 それはいみじくも、あの開国の時代の日本にやってきた異人たちが予感したかのようだ・・・。
「この帝国におけるこれまでで最初の領事旗を掲げた。・・・疑いもなく新しい時代が始まる。あえて問う。日本の真の幸福となるだろうか」(1856年9月4日/アメリカ初代駐日公使タウンゼント・ハリスが日本上陸2週間後に著した日記)

「いまや私がいとしさを覚えはじめた国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質朴な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない」(1857年12月7日/ハリスの通訳ヒュースケンの日記)

 薩長連合によって成り立った明治政府は、打ち倒した江戸の文化、思想を全否定し、西欧化こそが善として近代日本を築いたのだが、そこまであった江戸文明や、その中で生きていた日本人の資質は果たして全否定されるべきものだったのか? もし、そうだったとしたら、なぜ、このようにかくも多くの外国人たちをして、「明日の日本が、外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本よりはるかに富んだ、おそらくある点ではよりよい国になるのは確かだろう。しかし、昨日の日本がそうであったように、昔のように素朴で絵のように美しい国になることはけっしてあるまい」(『知られざる日本を旅して』近代登山の開拓者ウェストン)と嘆かせたのか?

 明治政府によって打ち壊され、明治以降の日本人が失ってきてしまったものが確かにあるのだ。そして、もしそれらの一部でも日本人の心性の中に未だ眠っているのなら、それらを思い出し掘り起こし、未来へのエネルギーにしたい、と思うのは私だけではないだろう。

「日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちがよいし、『やかましい』人、すなわち騒々しく無作法だったり、しきりに何か要求するような人物は、男でも女でもきらわれる。すぐかっとなる人、いつもせかせかしている人、ドアをばんと叩きつけたり、罵言を吐いたり、ふんぞり返って歩く人は、最も下層の車夫でさえ、母親の背中でからだをぐらぐらさせていた赤ん坊の頃から古風な礼儀を教わり身につけているこの国では、居場所を見つけることができないのである。
・・・
 この国以外世界のどこに、気持よく過ごすためのこんな共同謀議、人生のつらいことどもを環境の許すかぎり、受け入れやすく品のよいものたらしめようとするこんな広汎な合意、洗練された振る舞いを万人に定着させ受け入れさせるこんなにも見事な訓令、言葉と行いの粗野な衝動のかくのごとき普遍的な抑制、毎日の生活のこんな絵のような美しさ、生活を飾るものとしての自然へのかくも生き生きとした愛、美しい工芸品へのこのような心からのよろこび、楽しいことを楽しむ上でのかくのごとき率直さ、子どもへのこんなやさしさ、両親と老人に対するこのような尊重、洗練された趣味と習慣のかくのごとき普及、異邦人に対するかくも丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとする上でのこのような熱心――この国以外のどこにこのようなものが存在するというのか。
・・・
 生きていることをあらゆる者にとってできるかぎり快いものたらしめようとする社会的合意、社会全体にゆきわたる暗黙の合意は、心に悲嘆を抱いているのをけっして見せまいとする習慣、とりわけ自分の悲しみによって人を悲しませることをすまいとする習慣をも含意している」(1889年=明治22年に来日し2年間東京麻布で過ごしたエドウィン・アーノルド)
 


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