僕は、年寄りってうらやましいな。
年寄りになれない人だって、いっぱいいるんだからさ』
(さだまさし)
やっと梅雨らしい季節になった。
濡れた道を、病院に通う母や親戚のおじさんを送るたびに、「年は取りたくない」という話が出る。だから、そのたびに、僕はさだまさしが言っていた上の言葉を言うはめになる。
「そういえば、そうだねえ」
と納得してもらえるのだ。
僕がこの言葉を聞いたのは、今年の元旦だった。何の気なしにチャンネルを合わせた零時15分からのNHKテレビ。タイトルは『年の初めはさだまさし』だった。
以来、ときどき放映するさだまさしの深夜の番組を楽しみにするようになった。
雨の中で、
雑草は見る間に育つけれど、木々もまた瞬く間に成長する。剪定しないと家が埋まってしまいそうだ。
それにしても雑草というやつはなぜ、こんなに取っても取っても伸びてくるのだろう。「雑草のようなたくましさ」という言葉の意味を思い知らされる毎日だ。野生というものが持つたくましさには本当に感心させられる。
“野生”ということで、この頃、もうひとつびっくりさせられていることがある。
それは、もう1年以上通っている知人の農場でのことだ。
今年は畑一面にトマトを栽培しているのだが、なんと雨ざらしなのに、トマトはぴんぴんして元気に真っ赤な実を実らせている。
なぜ、びっくりしたかというと、トマトというのは雨がきらいで、どこの家でも雨よけにビニールをかぶせたレインカット栽培をするというのが常識だからだ。
我が家でも毎年ビニールをかけているが、それでも横殴りの雨に長くさらされたりすると葉が溶けてきて黒ずみ、そこから枯れ始める。
で、よくよく考えてみると、このトマトたちは芽を出したのは確かに温室なのだが、そのあとは子苗のころからずっと、外に出されて、雨ざらしの中で育ってきたのだ。
トマトは甘さを獲得させるために、ハウスの中で極力水遣りを控えて、枯れる寸前まで待て、と言われている。そうしないと赤くはなっても水っぽいトマトになってしまうのだ。
ところが、農場の主人から紹介された『野菜探検隊 世界を歩く』(池部誠/文芸春秋)を読んでいると、メキシコのカリブ海沿岸には、トマトの原種が水辺に生えていると書かれていた。トマトが栽培化されたのはメキシコだという説を唱えたジェンキンスという人の論文にも、「トマトは十分水分があるところでないと生えていない」と書いていたらしい。
このメキシコの土地は、年間降雨量が1,100ミリもあるのに、それでもトマトは水辺を求めて、そこに根付くらしい。
これなら、日本でもトマトを雨ざらしの畑で栽培してもよいということになる。来年は我が家でも、雨ざらしの中でのトマト栽培に挑戦してみたい、と思うこの頃である。