ビタミンP

苦心惨憺して書いている作品を少しでも褒めてもらうと、急に元気づく。それをトーマス・マンはビタミンPと呼んだ。

『だから夢なんて

2008年06月21日 21時07分50秒 | Weblog


見るんじゃなかったんだわ。
この山に登れば、すばらしい夕焼けが見られるなんて言葉に乗せられて、夢見たりするから、こんなことになるんだわ』

 確か、そんな文章だった。
 辻邦生の作品の中で読んで、忘れずにきたものだが、その出典がどうしても確認できない。残してきた作品を手当たり次第に斜め読みしたのだが、見つけることができず、今日で諦めることにした。
だから、上記の文章も、こんな感じだったというくらいで、まったく自信はない。

 夕焼けを見ようと兄に誘われた主人公は、山登りなどしたこともないのに、その素晴らしい夕焼けの話を信じて兄の後ろについて丘に登るのだった。だが、夕焼けは一瞬後には、赤黒い雲に覆われた空に一変し、瞬く間に夜が忍び寄る。二人を待っていたのは、暗さを増す夜道を転がるように下る長い長い時間だった。

 なぜ、こんなことを思い出し、その文章を探したかというと、その夕焼けの一瞬を、“マジックアワー”ということを、三谷幸喜監督作品『ザ・マジックアワー』を観て、教えられたからだ。
 日没後の一瞬、高い鱗雲が一面に浮いているようなとき、地上は夕闇に包まれつつあるのに、高度のあるその雲に沈んだ太陽の残光が差し込んで、ほんの一瞬、空一面を真っ赤に染める瞬間がある。それが、“マジックアワー“と呼ばれる一瞬であり、映画はそれを転じて”誰にでもある人生で最も光り輝く一瞬“として描いていく。

 しかし、その瞬間は本当に一瞬だ。犬を連れて散歩に出ようとして、そんな空一面の夕焼けに一度だけ出会ったことがある。犬を柱にくくりつけて部屋に飛んで入り、カメラを抱えて飛び出したときには、「まさか」と声を出してしまったほど、見上げた空は暗く、西の空の一画にわずかな赤黒い雲が浮かんでいるだけだった。そのときの落胆というか悲しみを今でも忘れることができない。

「マジックアワーを逃してしまったとき、どうするのか、君は知っているかい?」
 柳澤慎一演じる1作品の主演を最後に消えてしまった“かつての映画スター”が、主人公(佐藤浩市)に語る場面がある。
「明日を待てばいいんだよ。明日になれば、必ずマジックアワーはやってくる」

 しかし、経験で言うのだが、そんな夕焼けの瞬間を、わたしはまだ2回しか見たことがない。 

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