大峰奥駈七十五靡の名称と道程 宮城信雅
大峰の道路に就いて
これで七十五靡(なびき)の名所(めいしよ)を説明したが、最後に峯中(みねちう)の道路の事について一言(げん)してこの稿(かう)をとづる事とする。
奥駈峯中(おくかけぶちう)を通つた人々は、峯中の道路の困難にして、帰つてからもいかなる道路であるかを説明するに苦しむだらう。先(ま)づ峯中で最も険阻(けんそ)なる処(ところ)をあげるならば、七曜嶽(しちようだけ)を中心として前後約一里の間、釈迦嶽(しやかだけ)の手前約一里の間であらうが、この附近の道はなんと形容してよいかわからぬ。高きは数丈(すうじやう)より低きは二三尺に至る大岩石(だいがんせき)を無秩序(むちつじよ)につみあげたとして、其岩石(そのがんせき)の間に幾百年来(いくひやくねんらい)の草木が生(は)えてゐる様なものだ草木に覆(おほ)はれてゐる処もあれば、岩石が突兀(とつこつ)としてゐる処もある。そして然(しか)も左右は千尋(せんじん)の断崖(だんがい)である、この処を渡るに決して一直線には進み得ない、或(あるひ)は草木の間をくゞり、或は岩石によぢのぼり、或は木の根をつたつて下る。そしてこの困難な道が四十度以上の角度に傾斜(けいしや)してゐるのである。実際道路と云ふよりは足跡(あしあと)を伝つて行くのである。そしてこの足跡は千二百数十年前高祖大士(せんにひやくすうじうねんぜんこうそだいし)の踏まれたまゝの足跡なるを思へば、千古変(せんこかは)らぬ大峯の霊山(れいざん) 、誠に崇高(すうこう)のきわみである。
尚かゝる険阻(けんそ)ならぬ処に於(お)いて困難なるは篠(ささ)や荊(いばら)の間を分け行くに、大木の倒るゝにあひ、或はこれをまたげ、或(あるひ)は其下(そのした)をくゞり、等(など)して行かねばならぬ、或は石につまづき、或は木の枝に頭をうたれる、七里余(しちりあまり)の一日の行程に十二時近くも費(つひ)すのは無理(むり)もない。この千古不伐(せんこふばつ)の山に、兎(と)に角(かく)足跡(あしあと)の存(そん)する事は、信仰(しんこう)の賜(たまもの)であるを思はねばならない。この千古変(せんこかは)らぬ山岳を保存するにつき、鍬(くわ)を用(もち)ふる事が禁じられてあつて、聖護院(しやうごいん)の宮が御通(おとほ)りになる時でさえ熊笹(きまざさ)を切り開いて、其切株(そのきりかぶ)を槌(つち)で打ちひしげたと云ふに止(とどま)る。
これは鍬を用ふれば自然山崩(しぜんやまくず)れを起こす原因となるからである。又峯通(またみねとほ)り両側八町(りやうがわはちちやう)は伐木(ばつぼく)を禁じてあつた、然(しか)るに近時往々銘木(きんじおうおうめいぼく)の斬伐(ざんばつ)されたるものあるを見るは遺憾(いかん)に堪(た)えない。どうかこの千古不易(せんこふえき)の名山の保護に対(たい)して、各関係方面(かくかんけいほうめん)の御尽力(ごじんりよく)を希望してやまない。