十二月五日聖護院門跡に於いて
僧兵的修験の勢力
岩井
大体修験道が民間に勢力を得たのは修験者即ち山伏が僧兵的の力をもつてゐたからでせう、宗教的には朝廷の信仰を得たとも観られるだらうが社会的には修験者が僧兵のやうに朝廷が武家に利用されてゐたのではないか、彼の熊野詣での如きは修験者の懐柔策であつたとも考へられる。
中村
三山検校とか別当とかの力を頼られるのだね。
魚澄
熊野三山は非常な勢力をもつてゐたもので南北朝時代にも南朝の御味方であつたやうです。
藤井
聖護院宮は三山検校職にあられた方が多いが、検校と別当とはどういふ関係にあつたのでせう。
中村
別当の上に検校があつたものですが、実権は別当が握つてゐたやうですね。
草分
検校といふのは今日の名誉総裁のやうなものだつたのではないですか。
中村
まあそんなものだつたのだらうね。
宮城
承久の乱及び元寇の時には聖護院宮がお二人も流罪に処せられてゐられます。これは後鳥羽院、後醍醐帝の御味方をせられたからでせう。
魚澄
修験者は南朝の味方だつたね。
岩井
それ等は明かに修験者が僧兵の如く利用せられたことを物語るもので一方から見れば御奉公申上げたともいへるわけですが実際は南朝が修験の勢力を利用せられたのだ叡山が勢力を張つたのは僧兵をもつてゐたからで聖護院の勢力は修験を抱へてゐたからだ、信仰の勢力といふよりも武力としての勢力であつたのだ。
中村
平安朝時代には修験が教団的に勢力を張りてゐた筈はないが、一体修験は何時ごろから集団的に纏まつたのだらう。
岡田
皇室が修験に重きを置かれたやうになつたのは後鳥羽法皇の前後からでありまして、この時代の修験者には相当名声のある高僧がゐた。三井の頼豪阿闍梨などもその一人です。とにかく顕徳の達人が皇室の信頼を受けそれが修験を統括したから次第に盛んになつたのでせう。