昨日は朝まで仕事して、家に帰ってからベランダの惨状を目にして「今年二度目の洗濯物がカッチカチ。 」と言うどーでも良い事をTwitterでつぶやいて、寝て起きてFacebookやmixi見たら、皆がチョコ画像載っけてるのを見て、今日がバレンタ インだと知りました。雪画像見て、雪が降ったんだと気づくレベルのバレンタインデイに洗濯物が凍っているという言う呟きをしている私ですが、これでもバレ ンタインの思い出は少なからずありまして、それはここでは書けない話でして、書けないなら言うなと言う話でして。やはり高校くらいまでのバレンタインは学 校全体が水面下でザワザワとモヤモヤと盛り上がっているので皆、朝から落ち着きがない。トキメキと言いますか、アレは今思い出すと発情していたんですね。 あのざわめきって良かったですね。今は、と言うか、高校半ばくらいで恋愛感情が枯れてしまったので、おじいちゃんが田舎の夏の思い出を懐かしむくらいに目 を細めてしまいます。バレンタインの放課後、男子がなかなか帰らない。女子も浮き足立って、密かにもんどりうっている。男子、理由つけては帰らない。お前 はねーだろって奴も帰らない。しかし、なかなか女子から呼び出しが来ない。あ、そっか、群れていたらチョコ渡しにくいからか。じゃ、バラけないと。と、気 づき(妄想)、今度はなんとなくバラけ出すが、学校から出ない。なぜならば、女子のソナーがターゲットである自分の位置を見失う可能性があるからだ。で、 バラけるもののなかなか学校から出れないので、学校内で皆、ふわっと広がる。で、日が暮れる。そんな淡い思い出に浸りながら、今からゲームをやります。 待ってろよ、ピクミン。
最近、毎日起こっている荒んだ教育問題をニュースなどで観ると「お前ら全員、添加物やジャンク食いすぎ」とか思ってしまう、身も心も寒波の今日この頃。
そんな私も芸大生の時に教職免許を取るために授業を取っていました。先生になりたかったわけでは無いので、不埒だと思いますが、授業のひとつだからチョイスしたわけです。
で、授業もそこそこ良い感じで、いざ教育実習と言うことで、母校に電話したわけです。なぜ、母校かと言うと、基本的にはまず、母校に申し込むのが定例だそうで。そりゃ卒業生なら先行されるだろうと思い、ナメて電話をした結果、あっさり断られました。
学校側「ああ、君かー。ちょっと待ってね。。。。。。。ああ、ダメだねー。君はダメだ。だって、君だもの」
大学側に全滅敗退を報告すると、母校に断られる事なんざ、皆無らしい。。。ああ!!私は小学、中学、高校で何をしたのだろうか!? しかもサブ的な美術なのに!! ってか、電話に出た先生達の声はあのクソ野郎だったような!!
当然、そこで戦意喪失し、他の学校に申し込む事もなく、教育実習は受けていません。現実社会ってのは、各ブロックでオリジナルな法が存在するって事を学びました。
まあ、日本のキッズの為には私が教育に関わってなくて良かったと思いますが、今の教育制度改善は渇望してしているわけであります。
その日は、友人が開いてくれた私の誕生日パーティだった。誕生日はその日ではないのだが、私は当時から何かしら幹事や主催をしていたので、労いとして友人達が企画してくれたのである。いつものようにバカで盛大な一次会が終わり、普段ならそれで解散している所、菩須彦の実家の離れで二次会をしようと言うことになり、わざわざ大阪の梅田から兵庫の尼崎まで移動した。二次会とは名だけで、離れの私の部屋でうだうだとスノボのビデオを観たり、もうすぐライブがあるドリームシアターの話などしていた。何人か帰った後の残党がうたた寝しだした明け方、当時、神戸に住んでいた友人たっふるが思い立ったように帰ると言って出て行った。テレビの前にカノリンヌとタイキチが酒を呑みながら寝転んで雪山の映像を観ていた。私もベッドの上で寝転んで、彼らの背後からテレビを観ていた。
そして、5時46分。
・・……ドーーーーーーーーーーーーーーーン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
今まで聞いた事が無いくらいの音が地の底から聞こえた。ベッドの上で自分が縦方向に大きく跳ねたのには気づいたが、その時点ではこれが何を意味しているのかは理解出来なかった。衝撃的事件はスローモーションに見え、感じる。一発だけの大きな縦揺れの後、ズガガガガガと激しい横揺れが続いた。私が跳んでいる最中に見えたもの。まずは「パンッ!!」と言う乾いた音と共に部屋中の土壁があちこちで割れていき、部屋中に砂煙をまき散らし、本棚からは本や置物が一斉に飛び出し、当時ではブラウン管テレビでは大きいサイズのバズーカというテレビがカノリンヌらの方向へ倒れて来た。そして、全ての灯りが消え、漆黒の闇につつまれた。その時はまだ驚きの方が強く、恐怖心は無かった。しかし、次の瞬間、聞いた事がない音に血の気が引いた。
・・……ザアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァ!!!!!!!!……・・・・
「ガラガラ!!」「ガッシャ-ン!!」なども含まれている恐怖の音。擬音が当てはまらないほどの音は、屋根と言う屋根から全ての瓦が雪崩の如く滑り落ちて割れる音だった。全く光りが無い中、街全体の瓦やブロック塀が落ち、しばらく恐怖のこだまとなって人間や動物を恐れさせた。
携帯電話が現在よりも普及していなかった阪神大震災では、携帯電話は固定電話より若干繋がりやすかったが、それも期待出来ないくらいの状況だった、揺れが落ち着き、静まり返った空気の中、私は離れの入り口近くにあった犬小屋を庭の真ん中に移し、懐中電灯を持って、母屋に向かった。当時の私の実家は、元々農家だったので古くて大きな建物だった。大黒柱が太くて頑丈であった。しかし、その黒くて大きな影はゆがんでいた。全壊レベルだった。犬も吠えれずにいる暗闇の空、周囲から泣き声や叫び声がかすかに聞こえてきた。家がゆがんだ為、母屋のドアはなかなか開かなかったが、なんとかこじ開けて両親の寝室に土足でかけこむと、母が大きなタンスの下敷きになっていた。母は腰を骨折していて失神していた。父と共に彼女を助けて、比較的安全な離れの私の部屋に担ぎ込んだ。こんな日に私を祝ったが為に被災者となったカノリンヌらも早速、片付けをしてくれていた。片付けをしながら、私は庭の真ん中で恐怖で震えている愛犬と冬の朝を迎えた。
これが、私のリアルな震災体験です。これでもだいぶ端折っています。ドリームシアターの大阪公演は当然中止。彼らも大阪のホテルで震災にあっています。怖いのは、明け方に神戸に帰ったたっふるの車が高速道路から降りた後、その高速道路が横倒れした大惨事となりました。虫の知らせだったようですが、危ない知らせです。私の誕生日パーティもなぜ、その日になったのか、そして、普段ならやらない二次会をする為に大阪から尼崎に移動した事。偶然とはいえ、不思議でなりません。しかし、あの時になぜか皆、もやもやした興奮状態であったのを憶えています。地震前に出す電磁波が身体の中の水分を刺激したのかもしれません。
次の日から1週間くらい全ての交通が麻痺、尼崎周辺でも死傷者が続出。私の実家の近所の二階立てアパートは地割れの中に落ちて、丸ごと無くなっていました。仕事仲間や友人の友人や家族が犠牲になっていました。当時の私はテレビの報道機関のCGの仕事もやっていたので、勤務地の大阪の梅田までチャリで往復していました。被災者だからこそ、秒単位の情報が必要なのが分かるので、気持ちとして休む事など出来ませんでした。雨が降る前に実家や離れの修復。近所の手伝い、日勤、泊まり勤務。御陰でPTSDになる暇もありませんでした。ある程度、家の事や弟や妹の事が落ち着いた震災一ヶ月後、私は当時住んでいた部屋で、突如、金縛りと過呼吸に襲われました。気づかないふりをしていた溜まりに溜まった疲労が気を緩めた瞬間に決壊したのでしょう。その夜、初めて救急車に乗りました。
今後の地震は阪神淡路大震災と同等か上のもの。私が生きている間に一つや二つ、ドでかいのが起こるかもしれません。皆で助け合って生き残るのみです。今週辺り、尼崎に帰って黙祷して来ます。
上記の日記は、2011年1月17日にmixiで書いたものです。そして、その数ヶ月後の2011年3月11日 (金)14時46分18.1秒、東北地方太平洋沖地震が起こりました。
明日と言う字の如く、未来を明るい日にする為に、世界中で起こる試練を乗り越えて、生かされている者は常に前向きに楽しく生きていかなければなりませんね。
LPレコードの話です。ジャケ買いって言葉が頻繁に使われていた時代でした。今みたいにネットが普及していなかったので、情報は深夜ラジオや友人だけで、お宝を探っていた宝探しの時代。情報がほぼ無い中、輸入レコードで見つけるバンドや音楽は博打としか言いようが無い。クズだった場合でも、のちのちお宝になる場合もある。音楽性や技術力、録音レベルが外れてしまってもなんとなく損をした気がしないのは、ジャケ買いだからです。ジャケットがそれなりだから、まあ良いか…と言う感じでため息はあまり出ません。LPレコードのアルバムジャケットは身近なアートでした。壁に飾るのに最適なサイズ。細かな描写や荒い箇所などを何度も何度もまじまじと観察しながら、ライナーノーツで頷いたり、傾げたり、驚いたり。そして、音楽を聴きながら、歌詞と訳を見比べ、曲の深さに微笑む。正に音楽鑑賞の醍醐味でした。それがCDというコンパクトディスクに移行し、ジャケットもコンパクトになってしまったが為、醍醐味も半減。いや、どんなジャケットになってもあまり気にならないようになりました。だって、ほとんどがCG処理された写真ですもの。更にデータと化した音楽には目を潤わすジャケットも無い。仕方が無い事なのですが、LPレコード時代を体感出来た私は幸せだと思います。
時代と言えば、ブルーレイや3D映画や3Dテレビなど近未来だったモノが現実になってきてますね。ブルーレイの前のDVD、DVDの前のレーザーディスク、レーザーディスクの前のVHSとβ。VHSビデオは今や中古で10円から100円の時代。VHSのあのパッケージにも趣がありました。背表紙のタイトルに興奮し、パッケージ裏の解説や監督の名前でニヤける。ビデオの重さは感動と値段の重さ。当時はまだ廉価版など無く、1本の映画のVHSが1万円を超えているのが大半でした。そんな中で私が最初に買ったビデオは正に『ビデオドローム』(Videodrome)。確か、19800円だった記憶があります。1982年のカナダ映画であり、デイヴィッド・クローネンバーグ監督の代表作品。特殊メイクはリック・ベイカーが手がけたその作品はあまりに難解なため製作費の半分も回収できなかった。その後、ビデオ化されてカルト映画として人気に火がついた作品です。難解な内容に高額商品な為、それはそれは何回も観直しました。『ビデオドローム』自体がビデオテープのお話なので、なおさら想い出深いです。
ウォークマンも携帯電話も最初はクソ重かったわけです。そういや、バートン以外は重くて履けないって感じで、スノーボードもそうでした。重さは時代を語りますなー。
ボスヒコ邸に今現在、飾られているアートなLPジャケットは「Brian May & Freinds - Starfleet」「Heavy Metal アニメサントラ」「童夢 / 伊豆一彦」です。
★「菩須彦ライブペインティング日記」
http://bosshiko.blog83.fc2.com/
★ライブペインター菩須彦のコミュ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1969184
ヨロシクね。 ボスヒコ


歩き煙草の人の中で、後方や周囲の事も考えずに、目の前でポイ捨てしたり、火を飛ばしたりする人なんてもんはたまりません。大阪北区は歩きタバコを禁止しているはずだが、罰則はありません。意味不明です。公共の道で子供の存在を忘れて歩きながらも煙草を吸いたいくらいの中毒者には、デパートの屋上で開催しているキティちゃんショーとかの着ぐるみのデカイ頭くらいのフルフェイスの何かを着用して、その中で吸って欲しいものです。
車の中で吸って、自分の車の灰皿に煙草を入れるが嫌なバカが道路に火のついた煙草を落としたり、飛ばしたり、赤信号ん時に溜まりに溜まった灰皿の吸い殻をザッサーと窓から捨てたりする奴を先日見ました。青信号に変わる直前の赤信号でザッサー。発進後の風とザッサー着地でバウンドする煙や塵や灰が風に舞い上がり、通路の八百屋やたこ焼き屋に向かう。店の人は忙しくてそれに気づいていない。これを目撃した人は食えたもんではない。近未来のテクノロジーで1ザッサーごとに10エンストでもしてくれればすれば、すぐにシバきに行けるのに。いや、近未来のテクノロジーと言う想像の枠でマジで言えば、吐き出した煙草の煙は無味無臭無害のものになれば良いんですけどね。それまでは我慢してやりたいところだが、私が生きている間にはそんな事にはならないだろうから、上記の最悪の人には、太古から使われている呪いをかけるしかありません。
マナーある愛煙家やちゃんと分煙されている店を嫌う非喫煙家はいません。過剰な嫌煙家にはいるだろうけど。髪の毛や服に染み付き、癌を生む煙草の煙を嫌うわけで、それを更に軽く扱う人は嫌われるのは当然。煙草を吸うのが当たり前で、吸わない人の肩身が狭かった喫煙家万歳の時代の時みたいな世界に戻る事はもう無いでしょう。肩身が狭い対象が交代したのも分からずに、まだ上記のようなバカ野郎が存在する限り、どんどん規制が厳しくなって行くんでしょうね。喫煙者にはマナーで済んだ話だったのに勿体ない。え~~っと、そんなこんなで、私は歩くのが早いわけであります。
★「菩須彦ライブペインティング日記」


占いにハマってから少しネジがゆるんできました。なぜ、ハマったかと
言うと、自分の恋愛に関して悩んだのがきっかけのようです。自分の占い
には満足がいかず、彼女は私に占いを申し込んで来ました。当たる確率が
高かったのか、だんだんと私の助言が無いとダメになってきたのです。
毎週月曜になれば、占いの催促の電話がかかるようになって来ました。
断るとその日から毎日のように催促の電話がかかります。こうなると、
ストーカー法でなんとか出来る範囲になって来ます。彼女を目撃した友人
曰く、何かに取り憑かれたような感じを受けたらしいです。勿論、オカル
ティックな内容では無く、神経の病いだと思い、私は彼女にカウンセリング
や神経内科通院を薦め、傾向と対策を出しましたが、聞く耳を持ちません。
人によりますが、生活が出来ている範囲では、発症した当人は病気を認め
ない事が多いのです。次の月曜日、彼女の電話がかかって来なかったので、
病気を自覚したのだと思いました。しかし、現実はそうはいかない。彼女
からの電話のベルが鳴らない代わりに、私の部屋のインターホンが鳴り
ました。直感で彼女だと分かりました。インターホンに出るかどうか迷い
ましたが、3秒後には受話器を持っていました。「なあ、占ってよお~」
彼女の歪んだ笑い声がしました。私は黙って電話を切りました。彼女を
恐れたのでは無く、話しても無駄だと判断したからです。最悪、警察や
福祉、保健所、弁護士に相談です。彼女は自分の愚かさを自覚したのか、
逆切れしたのかは分かりませんが、再度、インターホンを鳴らす事はしな
かったのです。今、彼女がどうしているのかは知りませんし、当然、知り
たくもありませんな。いつも思う事なんですが、なぜ、発症者の友人や家族
などがその人の変貌を分からないのでしょうか。家族の協力が必要であり、
本人の自覚が一番大事な心の病い。他人に一切迷惑をかけないと言う
事は、病気を治して行くと言うのと同じ事。知らない、分からないでは
済まない。他人に迷惑をかけないようにもっと勉強して欲しいもんですな。
そんなわけで、当時、猛威をふるっていた菩須彦のタロット占いを封印した
わけであります。悩める者は占いや誰かの霊感的なモノに頼らずに、家族や
親しい友人に話すべきだと思います。酷い場合はそれなりの所へ行かないと。
治すを頑張りましょう。 ボスヒコ


そんな手相。私の手相を調べるとかなり良く、満足出来る内容でした。
一番納得出来るのが「神秘十字線」。手のひらのド真ん中にクロスが
あるアレ。正確に言うと、知能線(頭脳線)と感情線の間に出ている
十字架のようなの事です。十字線の種類は、神秘十字線、太陽十字線、
奉仕十字線と三つあります。それが私の手には全部あるんです。
神秘十字線なんか、両手にあり、ハッキリと四つくらいあります。
多いからなんだって話ですが、あまりにもハッキリあるので、見た人
みんな、笑います。でも、いちいち血が出るスティグマータ(聖痕)
じゃなくて良かったです。ABRH-型だから大変です。神秘十字線は、
直感力が鋭く、霊感が働き、先祖の御加護があるらしいです。信仰心が
強く、命拾いするなども含まれるらしいです。ん~~~~~~~~
こん中で自覚出来るのは直感力くらいですな。あと、占い師、宗教家に
なれば良いらしいです。そう言われるとやっと納得出来ます。昔、
タロットカードにはまった時、ある超人気の占いの館の占い師を
毎週の如く、占っていましたから。その占い師から言うと「自分よりも
当たる」って理由でした。そんな占い歴からの面白いエピソードは
来月には結婚するはずの友人の女性を占った時、別れのカードが出ました。
タロットカードをやった事がある人なら分かると思いますが、カードが
何であっても、自分の直感を入れても良いらしいのです。だから、私も
しばしオリジナルな答えを出してました。その時は「今日から三日後に
とんでもない理由で相手に婚約破棄される」と、スルッと言ってしまい
ました。彼女は笑って、「いくらなんでもそれはないない!」と言い、
帰りました。その三日後、彼女から電話がかかってきました。「スゴい
理由で別れたよ!!!“友達としか思えない”だって!!」だって。
それくらい、私のタロットは驚異的に当たっていました。ストーカーの
フルネームも当てた事もあります。理由は分かりません。これを霊感
とか透視とか言うのかも知れませんが、コーラとか飲んでゲップとか
しながらの占いですから、たまたまだと思います。で、明日は、占いの
館の占い師の女性の話をいたしましょう。ちょっぴり怖い話ですよ。
わーーー!!!!。 ボスヒコ


濱田マリさんが自分の娘に「わたしは外国のお姫様。今は修行のために、日本で芸能活動をしている」と大ウソをついていたらしいですが、内容や嘘レベルはどうあれ、皆さんも幼き頃に信じていたウソはたくさんあったことでしょう。
私は中学生くらいの時、マウンテンバイクを父にねだった事がありました。ママチャリじゃなく、あのカッコ良いチャリが欲しい。しかし、私はあまり親父と仲良く無かった。なぜ、仲良く無かったと言うと、理不尽にも思いっきり怒るんですな、彼は。虐待まで行かないものの、今、思い出してもイチャモンや八つ当たりに近い怒りが多かった。私の弟いわく、「アンタが小さい時から物心付くまで、親父に毎日2時間は正座させられて怒られていた」と言うのです。2時間!?知らなかった…。子供らしく、怒られている時は空想の世界に逃げ込んでましたからね。その時に思っていた事は「人間って、ヒトそれぞれだなー」って感じでした。可愛く無い大人の思考を持ったガキ。大人からすればそりゃ嫌だわな。まあ、人格分裂したり、不良にならなかったのは、私が冷静冷血な判断が出来たからだといえるでしょう。そんな冷血な私の心に火をつけたのはカッコ良い自転車でした。まうんてんばいく? マウンテンって山? で、バイクって、チャリじゃないのか? でも、どう見てもペダルがある……。ははん、あのギアみたいなのを代えたら、ぶい~~んとバイクに……これは良いモノだ!!!と、マ・クベなみに絶叫し、ありったけの想像と妄想を膨らまし過ぎて、普段、親父と話さなかったのに、その時こそはとなんとか頑張ったのです。我が家の財源の元ですから仕方が無い。そして、頑張った結果、「アホかっ!!アレは免許いるんじゃ!!!!中学上がったくらいで乗れるかっ!!!!」と一喝&一蹴されました。瞬殺です。あの頃は携帯電話もネットも無い時代なので、情報源が限られています。1年くらいは「マウンテンバイクは免許がいる」と思ってました。親父としては、たかがチャリごときに金をかけたく無かったのか、彼も「バイク」と言う文字で自動二輪車を想像したのかもしれませんね。
親父のウソ(知ったかぶりが90%)は数々ありますが、やはりベスト1は「ステレオのスピーカーは縦に積むと良い」です。
ある日、学校から帰ってきたら、私の部屋にあるステレオのスピーカーが縦に積まれてました。忘れもしません、右側のスピーカーが上に積まれてました。おお、トーテムポールだねぇ、では済みません。スピーカーの理論はガキの私でも知っていたからです。当然、親父と大喧嘩に発展。なんとか勝訴しましたが、そこで思ったのが「譲られたモノであろうが、プレゼントされたモノであろうが、小遣いの中から買ったモノであろうが、この家にいる限り、全部、私のモノでは無い」と言う事でした。私が独り立ちしようと思ったのはこの時でした。
まあ、今では面白いエピソードとなりましたが、やはり“ウソ”はいけません。親であろうが、誰であろうが、良いウソだけが、周囲を穏便にさせ、心豊かな人格を作り出します。これから、ウソをつく方は気をつけてつきましょう。人の為と書いて、「偽り」です。
ウソついているのが分かっていても私は黙ってます。 ボスヒコ


そして、新読者の皆様、こんばんわ、ボスヒコでございます。
私はkiske3(キスケスリぃ)というデザイン、イラスト、動画制作中心の
会社を経営しております。この業界も不況の波がどっぱーん!と来てます。
なんとかそのクソ荒波を乗りこなしたい。だから、お仕事たくさん下さいね。
そんな中、アート感覚に未熟な日本で絶対に根付く事は無いライブペイン
ティングと言う代物を何かの拍子で手を出してしまったあげく、海外に招待
されるまでやり続けた、経営者失格のアホウで御座います。儲かる仕事しろ
ってハナシですね。我が社、kiske3(キスケスリィ)って会社名もふざけて
おりまして、主にイラスト、絵コンテ担当のボスヒコ、WEB、フラッシュアニメ、
漫画担当のカノリンヌ、グラフィックデザイン担当のミワンコフの三人で構成
されているから「3」じゃ無いんです。んでもって、この3人の中に「きすけ」
って名前の人もいません。よく、ボスヒコさんの本名ですか?って聞かれ
ますけどね。kiskeの部分は、独立する時にですね、カノリンヌが愛して
やまないヘヴィメタルヴォーカリストのマイケル・キスクって言うすんごい
人がしましてですね、えーっと、……説明が面倒臭いのでウィキペディア。
ハロウィン (バンド) フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハロウィン(Helloween、正しい発音はヘロウィン)は、1984年にドイツの
ハンブルクで結成されたヘヴィメタルバンド。現在のメロディック・パワー・
メタル(メロスピ)のサウンドとイメージを作り上げ、このジャンルの先駆者
として知られる。バンド名は、当時メンバーだったインゴ・シュヴィヒテン
バーグが映画『ハロウィン』からとったもの。スペルをHalloweenではなく
Helloweenにしたのは、メタルっぽくHell(地獄)を入れようとベーシストの
マーカス・グロスコフが提案したからという。当初ボーカルはギタリストの
カイ・ハンセンであったが、その後マイケル・キスクの加入により高い評価を
得るようになる。その後、ハンセン、キスクと相次いで脱退、さらにメンバー
チェンジを繰り返し現在に至る。
って事なんですけど、マイケル・キスクさん、何を思ったのかメタルを辞め
まして、ゆるいのをやりだして大失敗を重ねております。メタルの人の間
では「復活して欲しい人」のベストに入っているマイケル・キスクさん。彼の
ように実力があり、いつまでも慕われ、憧れる存在として……と言う思いを
込めて、マイケル・キスク、ドイツ人の彼のドイツ読み、ミヒャエル・キスケ
のキスケをお借りしたわけです。で、kiske。まあ、ホントのところは、ただ
好きだから付けたって感じのファン心理が80%を占めていますがね。で、
なんで「3」かと言うと、これまた、私が好きなバンドでベンフォールズ5
って言う素晴らしいバンドがありまして、えっとそのー…。ウィキペディア。
ベン・フォールズ・ファイヴ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベン・フォールズ・ファイヴ(Ben Folds Five)はノースカロライナ州
チャペルヒルで結成された、ピアノを主体としたスリーピースのロック
バンドである。 1994年に結成され2000年11月に解散した。2008年に地元
チャペルヒルにて、ベン・フォールズ・ファイヴ名義でライブを行った。
ロックには珍しい、ピアノを中心としたギターレスバンドであった。 解散
までに4枚のアルバム、6枚のシングル、解散後に1枚のDVDをリリースして
いる。1996年2月の初来日公演の大成功や、テレビドラマ『ロングバケー
ション』の効果もあって、ファースト・アルバム『ベン・フォールズ・
ファイヴ』が本国よりも先に日本でヒットした。そのため、日本盤の
セカンド・アルバムには「ソング・フォー・ザ・ダンプド」(Song For
The Dumped)の日本語バージョン「金返せ」が収録された。
彼らは3人なのに、なぜ「5」なのかと言うと、ベンさんがですね、ベン
フォールズ○○って感じで名前の後に数字を入れたかったようでして、一番
カッコいいナンバーを決める為にoneから順に名前に付けて言って行ったら、
fiveの響きが一番カッコよかったらしいんです。なんて素敵なエエ加減さ。
エエ加減さなら負けない私も、キスケわん、キスケつう、キスケすりぃ、
キスケふぉー…と試した結果、「キスケスリィ」が一番ソレっぽかったんで、
こうなりました。ソレっぽいって何でしょうか。しかしです、しかしですね、
私たちはバンドではなく、会社だったってところアレですな。アレって何で
しょうかね。これにて、自己紹介を終わります。ヨロシクお願いしますー。
自己紹介じゃないな。 ボスヒコ


で、外注って言うか、キスケに入るはずだったが、諸事情で入れない、入らない
ブー太郎ってスタッフがいるんですが、彼女、あ、えっとブー太郎が女性
です。最初はマキコロと言う可愛らしいハンドルネームだったんですが、何か
ミラクルを起こすたびに罰として、マキコロ、マキエロ、ブー太郎と変化
していったのです。彼女の大活躍は日記カテゴリーの“ボスヒコの「ブー
太郎のクルクルミラクル」”をご覧下さい。素晴らしいミラクルが待って
おります。まあ、こんなもんですかね、キスケの内容ってもんは。
都市伝説と言えば、私が高校生の頃、私の出身地の兵庫は尼崎では「六甲山に勇者ライディーンが存在する」と言う伝説がありました。確認とかせずに笑いながらもふっつ~~~~に信じていましたけどね。だって、フィレオフィッシュかフライングフィッシュか何かわからんもんがブンブン飛んでいるし、UFO目撃の多い土地と言うのも有名ですから、ライディーンくらいは在るでしょう。
あと、同級生にミナミくんと言う秀才が居たんですけど、卒業してから「ミナミくんはUFOにさらわれた」と言う都市伝説を耳にしました。あくまで都市伝説です。デマじゃありません。まあ、彼は秀才だったから、資料として充分の価値があるんだろうな~~~~~~って、それも何となく信じていました。
少し前に、高校の旧友の元モンドグロッソ(MONDO GROSSO)のフルート&サックスの大塚英仁と呑んでいた時に、ミナミくんの話をしました。もちろん、大塚もあの伝説を知っていましたが、大塚から新しい情報を手に入れました。なんと「ミナミくんは尼崎に存在する」伝説です。あくまで「存在する」です。元々、UFOにさらわれて無かったとかじゃありませからね。ミナミくんの記憶が、どう操作されているかが心配です。
おかえり、ミナミくん。 ボスヒコ

