え!?と思い、庭先に目を戻すとそこにはもう、おばあちゃんはいなかった。
「そこにはもう、」では無く、元々その場所には誰もいなかったのだ。
彼女は彼に訊く事があった。「おばあちゃん死んでたの?そんな事聞いて
ないよ!」彼はシッと指を口に当てて嫌そうに答える。「身内の不幸、それも
農薬で自殺なんて、誰にも言えるもんじゃないんだよ…」彼女は信用されて
いなかった事よりも、彼に何かの後ろめたさを感じた。とにかく、今夜の
宿主の井上さんの機嫌を損ねてはいけないと思い、彼女は反論を喉元で飲み
込んだ。ドアを開けると、薄暗い玄関に、彼のおかあさんが陰気な顔で立って
いた。さきほどの話の直後なので、彼と彼女は少し驚いた。おかあさんは、
無表情で黙ってこちらを交互に見ている。井上さんは「ただいま…実は」と、
説明しかけたが、おかあさんは踵をくるっと返して台所の方へ行った。彼は
今のうちに上へ上がろうと、彼女を引っ張って玄関に上げた。2階へ行く
廊下を通る時、彼女は庭からの視線を感じながらも庭先を見ないように階段を
登って行った。彼の部屋に着いても、疲れのあまり喋る事も出来なかった。
アナログの壁掛け時計の秒針の音だけが響く静まり返っている部屋。やっと
気持ちが落ち着いてきたと思ったその時に、廊下を上がってくる音が聞こえた。
…、…、…シ、ギシ、ギシ、ギシ、ギシ、ギシ、
……まさか……………いや、そんな事はありえない。おかあさんだろう。
彼女はまたどやされると思い、姿勢を正した。部屋のドアが微かにノック
され、湯気と共におかあさんが入って来た。それは、インスタントラーメンと
お茶の湯気だった。玄関先で見た陰気な顔はそのままだったが、彼の分と
彼女の分が乗っているお盆ごと、各自に手渡すと何も言わずに下りて行った。
おかあさんが溺愛している一人息子の彼女に嫉妬するのも無理は無いし、
素直になれない性格なんだと思った彼女は、少し楽になった。彼女は、
お腹を空いていたので、一気にラーメンを食べてしまった。しかし、緊張
から急な弛緩に胃も神経も驚いたのか、その夜は腹痛が酷くて朝まで
トイレを行き来するはめになった。トイレは1階にあるので、おかあさん
にも、あの“おばあちゃん”にも用心して行くのもかなり困難を極めた。
それからと言うものの、彼女は母親と大げんかすれば彼の部屋の転がり
込んだ。おばあちゃんもまだ庭先にいたのだが、それはそれで無視は出来る。
おかあさんも相変わらず、口を聞いてくれないが飲物や食物を持ってきて
くれる。彼の性格もだんだんと解って来た。最初の内は彼の事を優しい人
だと思っていたのだが、ただの優柔不断な人だと解った。あと、少しだけ
頭の回転が遅いのか、ぼぉ~っとしている時が多い。それでも彼が好きで
付き合っていたのだが、13回め(要するに13回、母親と大げんかしている)
に彼の部屋に行った夕方遅く、恐ろしい事に気づいた。その夜は母親と喧嘩
をした後、しばらくマクドナルドでヤケ食いしていた為、おかあさんが
運んで来るラーメンを食べれなかった。偶然にも彼はお腹が減っていたので、
私の分まで平らげた。そこで起こった事。彼はみるみる内に真っ青になり、
嘔吐したのだった。食べ過ぎではない。彼女の食べ物だけに“なにか”が
盛られているとしか思えなかった。それにその日に限って、彼女の体調は
どうもない。今まで彼の家に来る度に下痢や嘔吐、気分が悪くなる原因は
母親との喧嘩のストレスだと思っていた。恐ろしくなった彼女は、井上さん
に「大丈夫?なんだか気分悪そうだし、安静にした方が良いね。やっぱり
ワタシ帰るね。」と、疑われない程の言い訳をしてから、制止する彼の言葉
を聞かずに部屋を出た。階段を静かに下りる時に、彼の言葉を思い出した。
「うちのお祖母ちゃんはな、5年前に農薬飲んで自殺したんだ。」
彼女は動転してしまい、いつも見ないようにしている庭をつい見てしまった。
おばあさんが何かを訴えるような悲しそうな顔で静かに立っていた。今まで
気づかなかったおばあさんの足下には農薬の袋があった。(殺されたの!?)
思った事がおばあさんに伝わったのか、失望した目でコクリと頭を下げた。
彼女はおかあさんがいるであろうリビングを全神経を集中して通り抜けた。
そして、玄関を静かに閉めて、終電に間に合うために全速力で田舎の道を
走った。走りながらも、おかあさんにが追いかけてこないかと不安になって、
振り返った。おかあさんはいなかったが、2階の井上さんの部屋の窓に、
きつく逆光になって出来た漆黒の男性の影が彼女の方を見ているのが見えた。
彼女はカクテルの水滴を見ながら、これらの話を私にしてくれた。本当に
農薬を盛られていたか、おばあさんが自殺(他殺)したのかどうかは誰にも
解らない。彼女は井上さんとはそれきり会っていないそうだ。彼女は最後に
私に言った。「あの影は井上さんの体格ではなかった」…そういえば、井上
さんのおとうさんは交通事故で亡くなっている。…本当に交通事故なのか?
おわり。 ボスヒコ
押して~~~~~~~~~