昨夜はTVで「七人の会議」があったハズだが、結果はドウナッタんだか・・・パッ、キーンと「折れたネジくぎ」の強度・・・TVがイカレチャッているから・・・寂しいくもあるかな・・・
ーー
「六国史の第一・舎人親王撰・養老四年(720年)」の「日本書記」には日本地域に「移住」した、「漢人」、「新羅人」、「百済人」、「任那人」、「腋島(脇島・液島)人」、「耽羅(済州島=チェジュとう)人」の「漢字の記録」がある。そして、「高麗人」、「渤海人」・・・「陽侯氏(隋の末裔←秦の末裔)←トンボ(秋津・蜻蛉)の幼虫、ヤゴ=水蟣(虫+畿)=水蠆=萬+虫)」・・・「帰化人」、「捕虜」、「人質」、「使節」などとして・・・これらの「漢字」は文字通りの、かって、「日本領土以外」に「居住していた地域の呼称」である。多分、「日本書記時代」の「日本の政治的中枢に存在」していた「末裔」である・・・
「源日本人(縄文人?)」が存在してところへ大陸、半島から割り込んで「政治的権力を行使」し、「源日本人」を「日本列島東北」へ押し上げていた「日本列島への先発移民の人々」である・・・そして後続の大陸、半島人の「今木(今来)人」である・・・「桓武天皇の母親」は、
ーー↓
「高野 新笠
(たかの の にいがさ・コウヤシンリュウ)」
生年不詳
養老四年
(720年頃生)
~
延暦八年十二月二十八日
(790年1月21日))
光仁天皇の
側妾、後に大夫人
『続日本紀』によれば、
百済から大和朝廷へと送られた
人質であった
武寧王の十世孫
出身一族は
六代前に帰化
和姓を下賜
高野朝臣(たかののあそみ)という
氏姓は、
新笠が
光仁天皇の側妾となった際に下賜
ーー
新笠は
和乙継(やまとのおとつぐ)の女(娘)で
母は
土師宿禰(後に大枝朝臣と改姓)
真妹(まいも・シンマイ?)
天智天皇の孫にあたる
白壁王の側妾
天平五年
(733年)に
能登女王
天平九年
(737年)に
山部王(桓武天皇)
天平勝宝二年
(750年)頃に
早良(さわら→鰆・砂原)王を生む→ソウリョウ?
ーー
白壁王は
天平十六年(744年)
聖武天皇の皇女で
称徳天皇の異母妹にあたる
井上内親王を妃とする
宝亀元年(770年)
称徳天皇が崩御
白壁王は
六十二歳で
光仁天皇となった
光仁天皇の→後任・後認
皇后に
井上内親王、→いのうえ・イジョウ→異常・異状
皇太子に
他戸親王→ほかこ・タド→補化拠・多度?
ーー
宝亀三年(772年)
井上皇后は
呪詛による大逆を図ったという罪で
皇后を廃され、
他戸親王も皇太子を廃された
二年後に
井上内親王と
他戸親王は
幽閉先で死去した
この廃后・廃太子劇は、
藤原百川らによる・・・百川→百撰
陰謀であったらしい?・・・百済の撰、潜
ーー
新笠が生んだ
山部親王が立太子となり
光仁天皇の跡を継いで
桓武天皇となった
皇太子には
同母弟の
早良親王が立てられた
延暦四年(785年)に
藤原種継事件に連座
淡路へ流刑、自殺
ーー
新笠は桓武天皇即位後は皇太夫人
延喜九年(790年)に死去
皇太后を追贈
延喜二十五年(806年)
太皇太后を追贈
父の
和乙継は
百済系渡来人の子孫
姓(かばね)は
和史(やまとのふびと)と推定されている
夫の白壁王(光仁天皇)即位後に
高野朝臣と改姓
「続日本紀延暦八年十二月二十八日条」に
「皇太后姓は
和氏、
諱は
新笠、
贈正一位
乙継の女。
母は
贈正一位
大枝
朝臣
真妹なり。
后の先は
百済
武寧王の子
純陁太子より出ず。
・・・
皇太后曰く、
其れ
百済の遠祖
都慕王は
河伯の女
日精に感じて生めるところなり、
皇太后は即ち其の後なり」
和氏が武寧王から出た百済王族であることが記されている。
「日本書紀・
継体天皇七年
(513年)
百済太子
淳陀死去」とあり、
純陁と淳陀が同一人物との説がる
朝鮮側の資料には
武寧王の子として
純陁、淳陀に比定できる人物はいない
淳陀太子の没年と
高野新笠の推定生年(720年頃)に
約200年の開き
天平宝字元年に
「大倭国」が
「大和」に改められた際、
「大倭宿禰」などの字(あざな)も
すべて
「大和」に改められた
和氏は元は倭氏と名乗っていた?
高野近傍に
土師氏の根拠地である
菅原伏見、
また
秋篠がある
長岡京が大枝
母方の
土師(大枝)氏一族は貴族
高野朝臣と
改姓した
父方
和氏一族はほとんど知られていない
高野新笠の子である
平野神社と久度神社
高野新笠と縁の深い
平野神社の祭神は
今木神、
久度神、
古開神、
比神の
四座で、
平安京遷都によって京都に遷座した
今木神の
今木は
今来のことで、
渡来人を意味
平城京時代に
田村後宮にあった
今木大神は
高野新笠と
山部親王が祭祀していた
久度神は
竃神とされ、
近くには
和乙継の墓もある
平野神社の
久度神は
平城京の内膳司に祭られていた
王寺町の久度神社から平城宮に移り、さらに平野神社に移った・・・と考えられている。
八幡信仰
奈良時代、
新羅との関係が緊張し、
八幡神は
神功皇后と
応神天皇を祭ったもので、
三韓平定の説話から、
朝敵や
「異境の毒気=渡来悪疫」を
払うものと考えられた。
神功皇后は母方に「渡来系氏族」の血を引く。それゆえに朝鮮半島を平定する権利があったと信じられていた・・・桓武天皇らが、新羅調伏のために曖昧な母方の血筋を強調した・・・
帰化人の血筋の有用性が強調されたのは、「井上皇后一派」を失脚・排斥したイメージを払拭するために、桓武擁立派によるものと見るのが自然だろう・・・?・・・ならば、「井上皇后一派=天武天皇系」は「新羅系」なのか?
ーー
「済州島」
朝鮮半島の
西南、
日本海、
東シナ海、
黄海の間にある火山島
十五世紀初め頃まで
「耽羅」という「独立王国」があった
西洋では、
オランダ統治時代の
台湾から長崎に向かう
途中に難破した
オランダの商船に因んで、
「Quelpart(橘畑=ミカン畑)」と
呼ばれていた
三国志に現れる三世紀の
「州胡」を
「済州島人(耽羅人)」に
比定する説があるらしい
「耽羅国」が成立し、
四世紀頃には、
百済に朝貢
新羅の朝鮮半島統一後は、
新羅に朝貢
日本へも朝貢
日本からも使節が派遣(遣耽羅使)
耽羅国の言語は
朝鮮民族とは言語系統が異なる
とするのが通説である・・・
ーー
高麗時代
1105年
耽羅州として直轄領
1214年から
済州と呼ばれる
元に対して抵抗した
三別抄の残党は、
済州島を最後の拠点とした
反乱は元・高麗軍によって平定され、
済州島は元の直轄地に組み込まれた。
元が済州に牧場を設け
以後の済州は
馬産地になり、
元からの移住者およびその子孫は
牧子と呼ばれた
朝鮮王朝の時代
朝鮮八道の一つ、
全羅道に組み込まれた
朝鮮時代には
江華島と並ぶ
流刑地の一つ
政争で負けた
王族や
両班が流刑にされてた
十五世紀の済州には
船に居住して海産物を採る海民がいて、
本土の海岸まで出ていくものがあり、
一部は海賊化した
十九世紀後期
日本漁船の島の周辺海域への進出と
漁民間の衝突が
日朝間の政治問題となった(朝鮮出漁)
1910年
日韓国併合
1945年まで
朝鮮総督府によって統治
1948年4月3日
済州島四・三事件
3万人の島民が韓国軍に虐殺
それから逃れるために
日本に渡って来た
在日韓国・朝鮮人も多
ーー
済州島の特徴を言い表すのに、
「三麗・三多・三無」という言葉がある
「三麗」
「美しい心・素晴らしい自然・美味しい果物」を意味
「三多」
「石と風と女の三つが多い」という意味
「流出した火山岩・台風が度々通過・漁労遭難の男性の死亡」
「三無」
「泥棒が無・乞食が無・侵入を防ぐ門が無」という意味
日本国内各地に点在するコリアタウンでも済州島出身者は、古くから同島出身者を「元流刑地に住んでいた者」「元流刑地に住んでいた者の子孫」として差別してきた。その韓国本土出身者を避けて(東京都荒川区三河島・大阪市生野区桃谷)等に集中居住・・・しているらしい・・・
ーーー
「続日本紀」に
「699年八月十九日
(文武天皇三年七月辛未)に、
多褹(種子島)、
腋久(屋久島)、
菴美(奄美大島)、
度感(とから=吐噶喇列島・徳之島?)」
の人が物を貢いだことが記録・・・
「済州島(チェジュド)」が元「耽羅国」・・・「耽溺」、「耽美」、「虎視眈々」の「耽=耳+冘」の類字は「冘(イン・ユウ・ユ)」の部首合字だが・・・「冘」は、
ためらふ・うたがふ・ためらう・うたがう
行くさま・定まらない・決断しない
「説文解字・巻七(段注本)」には
「冘冘として行くさまなり」とある
「広韻」には
「冘豫、定まらざるなり」とある
「字形」は「人+冂」の会意
「説文」に
「人の
冂(ケイ・キョウ
境構=けいがまえ→経が前
牧構=まきがまえ)→巻が前
より出づるに
从(従・ジュウ・シュウ)ふ」とあり、
「境界から人が出る意」とある・・・
「耽溺」は「夢中、熱中、浸(ひた)る」って溺れる
「沈(しずむ・チン)」は「沈没、撃沈」
「鴆(チン)」は
「猛毒の鳥・鷲の緑色の羽毛、銅色の嘴(口ばし)を持ち、毒蛇を常食・体内に猛毒・耕地の上を飛べば作物は全て枯死・その威力は鴆が飛んだ跡は作物が全て枯死し、獲物を咥えれば唾液に含まれる毒で獲物が溶け、排泄物が石にかかれば石が溶け、その毒気のあまりの威力から毒の代名詞」・・・「鴆殺」と言えば「毒殺」、「鴆を市する」と言えば「毒物の闇取引」、「鴆杯」と言えば「毒を盛った杯」・・・そして、
「枕(まくら)」である・・・枕頭・枕元・腕枕・北枕・草枕・氷枕・水枕・膝枕・・・「漱石枕流」、「円木警枕」、「臥高枕・枕を高くして臥す・To be able to sleep on both ears」、「枕戈待旦之兵」、「枕木」は「鉄道(丘、岡、陸蒸気のレール)を「犬釘(Railroad Spike・レイルロードスパイク)で留めて敷く砂利の上の長方形の木」・・・最近、世界中で「列車事故」の大惨事が多発・・・北海道は毎日のように「列車事故の連続、続発」・・・「車両、鉄道、電気配線の点検整備」、コレ、「変」だな・・・ネグレクト・・・?
・・・「七人の会議」・・・ネジ釘・・・
ーーーーー
枕草子
(九八段)・・・九十八段・九拾八段・玖足捌段
9+8=17=壱拾七=足漆
9×8=72=七拾弐=漆足弐
うへの・・・得経埜・上野・上埜
御・・・音
局の・・・曲乃
御・・・音
簾の・・・すだれの→諏拿例之
前・・・真得
にて、・・・爾出
殿上人・・・添乗比渡・点状比図・典上訊・転帖訊
日・・・爾知
ひと・・・比渡・等
日、・・・比
琴、・・・言・事・糊塗
笛・・・譜得・附絵
吹き・・・附記
遊び・・・蛙蘇備
くらして、・・・句等詞出
まかで・・・真化出・摩訶出
別るる・・・解る留
ほど、・・・程・歩度
まだ・・・真拿
格子を・・・「講師・行使・公私」緒
まゐ・・・真意・間意・馬位・舞・毎
らぬ・・・等奴・等濡・羅濡
に、・・・爾
おほ・・・太・大・於補
と・・・図
なぶらを・・・名分等緒
さし・・・サシ・作詞
出で・・・意出・異出
たれ・・・他例
ば、・・・葉
戸の・・・拠之・胡廼
開き・・・比等記
たる・・・多留
が・・・臥
あらは・・・蛙等葉
なれば、・・・名例葉
琵琶の・・・備話
御・・・音
琴を・・・言・事
ただ・・・他拿
ざま・・・差間・作真
にも・・・似摸
たせ・・・足せ・他施
給・・・多摩・他真
へり。・・・経理
紅の・・・
御衣の・・・
いふも・・・
世の・・・
常・・・
なる、・・・
袿又・・・
はり・・・
たる・・・
も・・・
數多・・・
たて・・・
まつりて、・・・
いと・・・
黒く・・・
つややか・・・
なる・・・
御・・・
琵琶に、・・・
御衣の・・・
袖を・・・
うち・・・
かけて、・・・
捕へ・・・
させ・・・
給・・・
へる・・・
めで・・・
たき・・・
に、・・・
そば・・・
より・・・
御・・・
額の・・・
ほど・・・
白く・・・
けざやか・・・
にて、・・・
僅に・・・
見え・・・
させ・・・
給・・・
へる・・・
は、・・・
譬ふ・・・
べき・・・
方・・・
なく・・・
めで・・・
たし。・・・
近く・・・
居・・・
給・・・
へる・・・
人に・・・
さし・・・
寄りて、・・・
「半・・・
かくし・・・
たり・・・
けん・・・
も、・・・
え・・・
かうは・・・
あらざり・・・
けん・・・
かし。・・・
それは・・・
ただ・・・
人に・・・
こそ・・・
あり・・・
けめ」・・・
と・・・
いふを・・・
聞きて、・・・
心地・・・
も・・・
なきを、・・・
わり・・・
なく・・・
分け・・・
入りて・・・
啓すれば、・・・
笑はせ・・・
給・・・
ひて、・・・
「われは・・・
知り・・・
たり・・・
や」・・・
と・・・
なん・・・
仰せ・・・
らるると・・・
傳ふる・・・
も・・・
をかし。・・・
ーーーーー
・・・
ーー
「六国史の第一・舎人親王撰・養老四年(720年)」の「日本書記」には日本地域に「移住」した、「漢人」、「新羅人」、「百済人」、「任那人」、「腋島(脇島・液島)人」、「耽羅(済州島=チェジュとう)人」の「漢字の記録」がある。そして、「高麗人」、「渤海人」・・・「陽侯氏(隋の末裔←秦の末裔)←トンボ(秋津・蜻蛉)の幼虫、ヤゴ=水蟣(虫+畿)=水蠆=萬+虫)」・・・「帰化人」、「捕虜」、「人質」、「使節」などとして・・・これらの「漢字」は文字通りの、かって、「日本領土以外」に「居住していた地域の呼称」である。多分、「日本書記時代」の「日本の政治的中枢に存在」していた「末裔」である・・・
「源日本人(縄文人?)」が存在してところへ大陸、半島から割り込んで「政治的権力を行使」し、「源日本人」を「日本列島東北」へ押し上げていた「日本列島への先発移民の人々」である・・・そして後続の大陸、半島人の「今木(今来)人」である・・・「桓武天皇の母親」は、
ーー↓
「高野 新笠
(たかの の にいがさ・コウヤシンリュウ)」
生年不詳
養老四年
(720年頃生)
~
延暦八年十二月二十八日
(790年1月21日))
光仁天皇の
側妾、後に大夫人
『続日本紀』によれば、
百済から大和朝廷へと送られた
人質であった
武寧王の十世孫
出身一族は
六代前に帰化
和姓を下賜
高野朝臣(たかののあそみ)という
氏姓は、
新笠が
光仁天皇の側妾となった際に下賜
ーー
新笠は
和乙継(やまとのおとつぐ)の女(娘)で
母は
土師宿禰(後に大枝朝臣と改姓)
真妹(まいも・シンマイ?)
天智天皇の孫にあたる
白壁王の側妾
天平五年
(733年)に
能登女王
天平九年
(737年)に
山部王(桓武天皇)
天平勝宝二年
(750年)頃に
早良(さわら→鰆・砂原)王を生む→ソウリョウ?
ーー
白壁王は
天平十六年(744年)
聖武天皇の皇女で
称徳天皇の異母妹にあたる
井上内親王を妃とする
宝亀元年(770年)
称徳天皇が崩御
白壁王は
六十二歳で
光仁天皇となった
光仁天皇の→後任・後認
皇后に
井上内親王、→いのうえ・イジョウ→異常・異状
皇太子に
他戸親王→ほかこ・タド→補化拠・多度?
ーー
宝亀三年(772年)
井上皇后は
呪詛による大逆を図ったという罪で
皇后を廃され、
他戸親王も皇太子を廃された
二年後に
井上内親王と
他戸親王は
幽閉先で死去した
この廃后・廃太子劇は、
藤原百川らによる・・・百川→百撰
陰謀であったらしい?・・・百済の撰、潜
ーー
新笠が生んだ
山部親王が立太子となり
光仁天皇の跡を継いで
桓武天皇となった
皇太子には
同母弟の
早良親王が立てられた
延暦四年(785年)に
藤原種継事件に連座
淡路へ流刑、自殺
ーー
新笠は桓武天皇即位後は皇太夫人
延喜九年(790年)に死去
皇太后を追贈
延喜二十五年(806年)
太皇太后を追贈
父の
和乙継は
百済系渡来人の子孫
姓(かばね)は
和史(やまとのふびと)と推定されている
夫の白壁王(光仁天皇)即位後に
高野朝臣と改姓
「続日本紀延暦八年十二月二十八日条」に
「皇太后姓は
和氏、
諱は
新笠、
贈正一位
乙継の女。
母は
贈正一位
大枝
朝臣
真妹なり。
后の先は
百済
武寧王の子
純陁太子より出ず。
・・・
皇太后曰く、
其れ
百済の遠祖
都慕王は
河伯の女
日精に感じて生めるところなり、
皇太后は即ち其の後なり」
和氏が武寧王から出た百済王族であることが記されている。
「日本書紀・
継体天皇七年
(513年)
百済太子
淳陀死去」とあり、
純陁と淳陀が同一人物との説がる
朝鮮側の資料には
武寧王の子として
純陁、淳陀に比定できる人物はいない
淳陀太子の没年と
高野新笠の推定生年(720年頃)に
約200年の開き
天平宝字元年に
「大倭国」が
「大和」に改められた際、
「大倭宿禰」などの字(あざな)も
すべて
「大和」に改められた
和氏は元は倭氏と名乗っていた?
高野近傍に
土師氏の根拠地である
菅原伏見、
また
秋篠がある
長岡京が大枝
母方の
土師(大枝)氏一族は貴族
高野朝臣と
改姓した
父方
和氏一族はほとんど知られていない
高野新笠の子である
平野神社と久度神社
高野新笠と縁の深い
平野神社の祭神は
今木神、
久度神、
古開神、
比神の
四座で、
平安京遷都によって京都に遷座した
今木神の
今木は
今来のことで、
渡来人を意味
平城京時代に
田村後宮にあった
今木大神は
高野新笠と
山部親王が祭祀していた
久度神は
竃神とされ、
近くには
和乙継の墓もある
平野神社の
久度神は
平城京の内膳司に祭られていた
王寺町の久度神社から平城宮に移り、さらに平野神社に移った・・・と考えられている。
八幡信仰
奈良時代、
新羅との関係が緊張し、
八幡神は
神功皇后と
応神天皇を祭ったもので、
三韓平定の説話から、
朝敵や
「異境の毒気=渡来悪疫」を
払うものと考えられた。
神功皇后は母方に「渡来系氏族」の血を引く。それゆえに朝鮮半島を平定する権利があったと信じられていた・・・桓武天皇らが、新羅調伏のために曖昧な母方の血筋を強調した・・・
帰化人の血筋の有用性が強調されたのは、「井上皇后一派」を失脚・排斥したイメージを払拭するために、桓武擁立派によるものと見るのが自然だろう・・・?・・・ならば、「井上皇后一派=天武天皇系」は「新羅系」なのか?
ーー
「済州島」
朝鮮半島の
西南、
日本海、
東シナ海、
黄海の間にある火山島
十五世紀初め頃まで
「耽羅」という「独立王国」があった
西洋では、
オランダ統治時代の
台湾から長崎に向かう
途中に難破した
オランダの商船に因んで、
「Quelpart(橘畑=ミカン畑)」と
呼ばれていた
三国志に現れる三世紀の
「州胡」を
「済州島人(耽羅人)」に
比定する説があるらしい
「耽羅国」が成立し、
四世紀頃には、
百済に朝貢
新羅の朝鮮半島統一後は、
新羅に朝貢
日本へも朝貢
日本からも使節が派遣(遣耽羅使)
耽羅国の言語は
朝鮮民族とは言語系統が異なる
とするのが通説である・・・
ーー
高麗時代
1105年
耽羅州として直轄領
1214年から
済州と呼ばれる
元に対して抵抗した
三別抄の残党は、
済州島を最後の拠点とした
反乱は元・高麗軍によって平定され、
済州島は元の直轄地に組み込まれた。
元が済州に牧場を設け
以後の済州は
馬産地になり、
元からの移住者およびその子孫は
牧子と呼ばれた
朝鮮王朝の時代
朝鮮八道の一つ、
全羅道に組み込まれた
朝鮮時代には
江華島と並ぶ
流刑地の一つ
政争で負けた
王族や
両班が流刑にされてた
十五世紀の済州には
船に居住して海産物を採る海民がいて、
本土の海岸まで出ていくものがあり、
一部は海賊化した
十九世紀後期
日本漁船の島の周辺海域への進出と
漁民間の衝突が
日朝間の政治問題となった(朝鮮出漁)
1910年
日韓国併合
1945年まで
朝鮮総督府によって統治
1948年4月3日
済州島四・三事件
3万人の島民が韓国軍に虐殺
それから逃れるために
日本に渡って来た
在日韓国・朝鮮人も多
ーー
済州島の特徴を言い表すのに、
「三麗・三多・三無」という言葉がある
「三麗」
「美しい心・素晴らしい自然・美味しい果物」を意味
「三多」
「石と風と女の三つが多い」という意味
「流出した火山岩・台風が度々通過・漁労遭難の男性の死亡」
「三無」
「泥棒が無・乞食が無・侵入を防ぐ門が無」という意味
日本国内各地に点在するコリアタウンでも済州島出身者は、古くから同島出身者を「元流刑地に住んでいた者」「元流刑地に住んでいた者の子孫」として差別してきた。その韓国本土出身者を避けて(東京都荒川区三河島・大阪市生野区桃谷)等に集中居住・・・しているらしい・・・
ーーー
「続日本紀」に
「699年八月十九日
(文武天皇三年七月辛未)に、
多褹(種子島)、
腋久(屋久島)、
菴美(奄美大島)、
度感(とから=吐噶喇列島・徳之島?)」
の人が物を貢いだことが記録・・・
「済州島(チェジュド)」が元「耽羅国」・・・「耽溺」、「耽美」、「虎視眈々」の「耽=耳+冘」の類字は「冘(イン・ユウ・ユ)」の部首合字だが・・・「冘」は、
ためらふ・うたがふ・ためらう・うたがう
行くさま・定まらない・決断しない
「説文解字・巻七(段注本)」には
「冘冘として行くさまなり」とある
「広韻」には
「冘豫、定まらざるなり」とある
「字形」は「人+冂」の会意
「説文」に
「人の
冂(ケイ・キョウ
境構=けいがまえ→経が前
牧構=まきがまえ)→巻が前
より出づるに
从(従・ジュウ・シュウ)ふ」とあり、
「境界から人が出る意」とある・・・
「耽溺」は「夢中、熱中、浸(ひた)る」って溺れる
「沈(しずむ・チン)」は「沈没、撃沈」
「鴆(チン)」は
「猛毒の鳥・鷲の緑色の羽毛、銅色の嘴(口ばし)を持ち、毒蛇を常食・体内に猛毒・耕地の上を飛べば作物は全て枯死・その威力は鴆が飛んだ跡は作物が全て枯死し、獲物を咥えれば唾液に含まれる毒で獲物が溶け、排泄物が石にかかれば石が溶け、その毒気のあまりの威力から毒の代名詞」・・・「鴆殺」と言えば「毒殺」、「鴆を市する」と言えば「毒物の闇取引」、「鴆杯」と言えば「毒を盛った杯」・・・そして、
「枕(まくら)」である・・・枕頭・枕元・腕枕・北枕・草枕・氷枕・水枕・膝枕・・・「漱石枕流」、「円木警枕」、「臥高枕・枕を高くして臥す・To be able to sleep on both ears」、「枕戈待旦之兵」、「枕木」は「鉄道(丘、岡、陸蒸気のレール)を「犬釘(Railroad Spike・レイルロードスパイク)で留めて敷く砂利の上の長方形の木」・・・最近、世界中で「列車事故」の大惨事が多発・・・北海道は毎日のように「列車事故の連続、続発」・・・「車両、鉄道、電気配線の点検整備」、コレ、「変」だな・・・ネグレクト・・・?
・・・「七人の会議」・・・ネジ釘・・・
ーーーーー
枕草子
(九八段)・・・九十八段・九拾八段・玖足捌段
9+8=17=壱拾七=足漆
9×8=72=七拾弐=漆足弐
うへの・・・得経埜・上野・上埜
御・・・音
局の・・・曲乃
御・・・音
簾の・・・すだれの→諏拿例之
前・・・真得
にて、・・・爾出
殿上人・・・添乗比渡・点状比図・典上訊・転帖訊
日・・・爾知
ひと・・・比渡・等
日、・・・比
琴、・・・言・事・糊塗
笛・・・譜得・附絵
吹き・・・附記
遊び・・・蛙蘇備
くらして、・・・句等詞出
まかで・・・真化出・摩訶出
別るる・・・解る留
ほど、・・・程・歩度
まだ・・・真拿
格子を・・・「講師・行使・公私」緒
まゐ・・・真意・間意・馬位・舞・毎
らぬ・・・等奴・等濡・羅濡
に、・・・爾
おほ・・・太・大・於補
と・・・図
なぶらを・・・名分等緒
さし・・・サシ・作詞
出で・・・意出・異出
たれ・・・他例
ば、・・・葉
戸の・・・拠之・胡廼
開き・・・比等記
たる・・・多留
が・・・臥
あらは・・・蛙等葉
なれば、・・・名例葉
琵琶の・・・備話
御・・・音
琴を・・・言・事
ただ・・・他拿
ざま・・・差間・作真
にも・・・似摸
たせ・・・足せ・他施
給・・・多摩・他真
へり。・・・経理
紅の・・・
御衣の・・・
いふも・・・
世の・・・
常・・・
なる、・・・
袿又・・・
はり・・・
たる・・・
も・・・
數多・・・
たて・・・
まつりて、・・・
いと・・・
黒く・・・
つややか・・・
なる・・・
御・・・
琵琶に、・・・
御衣の・・・
袖を・・・
うち・・・
かけて、・・・
捕へ・・・
させ・・・
給・・・
へる・・・
めで・・・
たき・・・
に、・・・
そば・・・
より・・・
御・・・
額の・・・
ほど・・・
白く・・・
けざやか・・・
にて、・・・
僅に・・・
見え・・・
させ・・・
給・・・
へる・・・
は、・・・
譬ふ・・・
べき・・・
方・・・
なく・・・
めで・・・
たし。・・・
近く・・・
居・・・
給・・・
へる・・・
人に・・・
さし・・・
寄りて、・・・
「半・・・
かくし・・・
たり・・・
けん・・・
も、・・・
え・・・
かうは・・・
あらざり・・・
けん・・・
かし。・・・
それは・・・
ただ・・・
人に・・・
こそ・・・
あり・・・
けめ」・・・
と・・・
いふを・・・
聞きて、・・・
心地・・・
も・・・
なきを、・・・
わり・・・
なく・・・
分け・・・
入りて・・・
啓すれば、・・・
笑はせ・・・
給・・・
ひて、・・・
「われは・・・
知り・・・
たり・・・
や」・・・
と・・・
なん・・・
仰せ・・・
らるると・・・
傳ふる・・・
も・・・
をかし。・・・
ーーーーー
・・・