設問は『説文解字(セツモンカイジ)』の「イト」
参照、参考の原文は「ウィッキペデア」
↓↑
『説文解字(セツモンカイジ)』
最古の漢字字典
略して
「説文(セツモン)」
・・・構成漢字の「点と線」の分解
後漢の
「許慎(キョシン)」
・・・ナゼ「許・慎」なのか?
言+午(𠂉+十)
忄(立身の弁)+眞(匕+目+ハ)
の作
約九千の文字・・・旧線の文字
その一つ一つに
文字の成り立ちを説き
文字の本来の意味を究明
「部首法」
で文字をグループごとに分類
↓↑
漢字を
客観的な
考察の対象とし・・・視覚の対象
全面的な
考察を加えた・・・・交束・考差通(訳・譯)
初の漢字研究書
現在
甲骨文や金文の
古代文字資料の発掘がされ
『説文解字』の
解説が
的外れもあるが・・・対象認識文字の「概念」だから
当時において
「小篆」
を基礎に
字の成り立ちの解説を試みた画期的な辞典
↓↑
篆=竹+彖
・・・彖=彑+彖(タン・猪・猯)
彑(彐)
=タン・いのしし
豚=豕が走る
猪=猯が走る
易の各卦の意味の総論
猪 八戒(チョ ハッカイ)
豬 八戒
八戒(西遊記)?
篆=竹+彑+彖(タン・猪・猯)
テン
漢字の書体名
大篆と
それを簡略化した
小篆がある
印章・篆書が多く用いられる
秦の時代に
大篆・・・周の太史籀が作った
籀書・籀文
を簡略化して作られた
篆刻(テンコク)
篆書(テンショ)
篆字(テンジ)
史籀大篆(シチュウダイテン)
「史籀(シチュウ)」
が今までの書体を改変して
作った新しい書体
「史籀」=周の宣王の時代の
歴史を記録し
歴史書を編修する史官
彫虫篆刻(チョウチュウテンコク)
調 註 転 語句?
詩文を作るとき
細かい部分の技巧を
必要以上にこだわること
技巧にこだわって
飾っただけの内容のない詩文
「彫・刻」=刻み込むという意味
「彫虫」=虫に文字を刻み込むこと?
非常に複雑な書体の虫書
・・・虫食いの跡だろう・・・
「篆」=非常に複雑な書体
「篆刻」=木などに
篆書の文字を刻み込むこと
「雕虫篆刻」=非常に複雑な書体の文章
雕=わし・きざむ
↓↑
『説文解字』
成立背景
『説文解字』以前に
「李斯(リシ)」
・・・木ノ子、其れ斤(キン・コン・おの)
の
『倉頡(ソウケツ)篇』・・・鳥の足跡⇔文字
や
「史游(シユウ)」
・・・史(ふみ)を遊=あそぶ=游
阿蘇部?
斿=はたあし=旗足
風の方向を示す
𠂉(かみさし)の
子(了+一=終始・始終)の旗
辶=路上の旗足
氵=水上の帆足
=方向舵(蛇)・・・うねり・靡き
の
『急就(キュウシュ)篇』・・・漢字学習書
などの識字教科書が作られていた
国家官僚を採用する際に
「文字の書き取りの試験」
があり
役所での記録書類作成が要求され
『説文解字』は
漢字世界の
文字そのものをとらえようとする
研究書であった
篆=竹+彖
・・・彖=彑+豕(タン・猪・猯)
彑(彐)+豕
タン・いのしし
豚=豕が走る
=猪=猯が走る
易の各卦の意味の総論
猪八戒(西遊記)
チョウハッカイ
聴 八 回
調 白海
長 北海
竹+彑+豕
テン
漢字の書体名
大篆と
それを簡略化した
小篆がある
印章・篆書が多く用いられる
秦の時代に
大篆・・・周の太史籀が作った
籀書・籀文
を簡略化して作られた
篆刻(テンコク)
篆書(テンショ)
篆字(テンジ)
史籀大篆(シチュウダイテン)
「史籀(シチュウ)」
が今までの書体を改変して
作った新しい書体
「史籀」=周の宣王の時代の
歴史を記録し
歴史書を編修する史官
彫虫篆刻(ちょうちゅうてんこく)
詩文を作るとき
細かい部分の技巧を
必要以上にこだわること
技巧にこだわって
飾っただけの内容のない詩文
「彫・刻」=刻み込むという意味
「彫虫」=虫に文字を刻み込むこと?
非常に複雑な書体の虫書
虫食いの跡だろう・・・
「篆」=非常に複雑な書体
「篆刻」=木などに
篆書の文字を刻み込むこと
「雕虫篆刻」=非常に複雑な書体の文章
↓↑
『急就(キュウシュ)篇』
前漢
元帝の宦官・・・諺綴の汗顔?
「史游」の作
「急就奇觚与衆異」で始まり
『急就篇』と呼ばれる
漢字を韻をふむように並べて
学習しやすいようにしたもの
漢~唐に広く使われた
後に
学習書の
「千字文・百家姓・三字経」
などが使われる
『急就篇』
章草の手本として使われ
唐の
「張懐瓘(チョウカイカン)」の
・・・張=弓+長
懐=忄+十+罒+衣=懷
忄+十+罒+亠
カイ・なつかしい・ふところ
いだく・回顧・懐炉
瓘=王+雚(カン・こうのとり)
灌漑の王=治水の王
『書断』では「史游」を
「章草の祖」としている
↓↑
『急就篇』
完全な形で残っている最古の漢字学習書
注釈は
「顔師古」
によるものが現存するほかは滅んだ
南宋の王
「応麟」
は
「顔師古」
のものにさらに補注を加えた
現行の
「急就篇」は34章
32章までの各章は
63字
33章と34章は
64字
全部で2144字
『四庫全書総目提要』には
文字が重複していないとあるが
「相」の字は10回出て
一句は
七字、四字、三字
のいずれかよりなる
開題のあと
7章までは
人名を羅列し(三字一句、偶数句末押韻)
それ以降は関係した字をまとめている
「王応麟」
によると最後の2章128字は
後に追加されたものであり
「皇象の碑」
には第7章(63字)がなかった
↓↑
秦代の焚書
などで
「経書」
の伝来が途切れそうになったが
前漢の初めには
「隷書」である
「今文」で書かれた経書が
ふたたび博士官に伝えられるようになった
前漢中期~後期
古い文字である
「古文」で書かれた経書が発見され
「劉歆」
らによって顕彰された
「今文・古文」の相違は
「字体の相違」だけではなく
その解釈や研究法にも相違を生み出し
官学として博士官の間で継承された「今文学」と
在野の学として発展した「古文学」は
儒学を二分し
経書の正しい解釈を巡って論争が起こった
↓↑
「許慎(字は叔重)」
温厚で誠実な人として知られ
「経書」に通じていたことから
「五経無双許叔重」
と称され
当時の大学者の
「馬融」も
「許慎」を尊敬していた
「許慎」は
郡の「功曹(勤務評定の担当)」となり
「孝廉」として推挙されて
中央の官界に進出した後
洨(安徽省霊璧県)の長官となった
↓↑
「許慎」は
五経の解釈の混乱を正すために
『五経異義』を制作
古文学を基調としながらも
今文の解釈を交えながら解釈し
両者を統合する方向性を示している
『説文解字』も
経書の正しい解釈を示すために記されたもので
経書は文字によって書かれているのだから
その文字を正しい解釈によって読むことで
経書全体の正しい理解を得られるという
意図から制作
許慎は
『説文解字』叙で以下のように述べている
↓↑
「文字」とは
経芸(経書に関する学問)の根本であって
王者による統治の基礎である
前代の人々が後世に範を垂れる道具であって
後世の人々が前代を学ぶ道具である
「根本が定まって
はじめて道が生まれる(『論語』)」
といい
「天下のまことに奥深いものを理解して
しかも混乱することはない(『易』)」
という
↓↑
和帝
永元十二年(100年)
「叙」が書かれ
建光元年(121年)
許慎の子の
「許沖」
が安帝に奉った
『説文』の完成年
「叙」が書かれた100年に完成・・・説
そこから20年ほど修改し
121年に完成したとする説
↓↑
各字の解説方法
『説文解字』
のもっとも基本的な書式
「小篆の字形」
を掲げ、次にその文字の意味と
その字形の成り立ちを説く
解説では
声訓や五行説が用いられることもある
[これに古文・籀文、また
「古文奇字」
などの別の字形が挙げて補足
その後に
「字音」
を示したり
経書の用例、方言による差異、別説などを
書き加えた
↓↑
『説文解字』叙
個々の文字の解釈方法として
「六書」の原則を挙げている
↓↑
象形
単体文字のうち
あるものの形の特徴をとらえ
そのまま写し取ったもの
「日・月・貝・海・女・戸・門」
↓↑
指事
単体文字のうち
抽象的な概念を指すもので
頭を働かせれば
字形の造意が理解できるもの
「上・下・本・末」
↓↑
会意
複体文字のうち
意味範囲を示す要素を
並べて意味を組み合わせ
それによって内容を示すもの
「武」(戈+止)
「信」(人+言)
「戻」(戸+犬)
など
↓↑
形声
複体文字のうち
意味を表す部分(意符)と
音を表す部分(音符)からなるもの
「江」(意符がサンズイ、音符が工・長江)
「河」(意符がサンズイ、音符が可・黄河)
↓↑
転注
歴代議論され、定説はない
戴震
段玉裁は
「互訓」のこと
つまり
「考」字の解説には
「老なり」とあり
「老」字の解釈には
「考なり」とあるような
二つの字が
互いに注釈しあう関係にある文字を指す
文字構成の共通項は
「耂」・・・「孝=耂+子」=孝行
↓↑
仮借
もともとは
表現すべき文字のない事物を
同じ発音の字を利用して
代わりに表す方法
↓↑
「徐鍇」
六書は三セット(六書三耦説)
単体文字(文)の造字原則「象形・指示」
複体文字(字)の造字原則「会意・形声」
用字原則として
徐鍇・転注・仮借
の三組でとらえている
↓↑
後漢初代
光武帝
「劉秀」
から完成当時の皇帝
安帝
「劉祜」までの各皇帝の
諱(秀、荘、炟、肇、祜)は
夭逝した
殤帝
「劉隆」の「隆」を除いて
避諱により
「上諱」
とのみ記せられ
本義の解説はない
↓↑
全体の構成
『説文解字』叙
見出しに掲げられる
小篆が9353字
古文・籀文などで掲げられる
重文が1163字
解説の字を含めると
全書で13万3441字
その後の筆写の過程で
文字の増減を経て
「段玉裁」
のときには
小篆は9431字
重文は1279字
全文は12万2699字
↓↑
文字の分類法
「部首法」
文字を部首別に収める方法
合計で540の部首
部首の数が540に揃えられた理由
陰陽の象徴の数である
六・九を掛け合わせた
「54」を基盤とする
『説文』では
部首内の漢字が
画数順に並べられることはない
↓↑
部首と親字は
篆書で示され
↓↑
「刑(㓝)」が井部
「法(灋)」が廌部
「善(譱)」が誩部
↓↑
など
楷書ではそれらが何故
「該当部首」に属するのか、不明である
部首を立てるのは
「検索」を便利にするためではなく
ある字を
「意符」にした字がある場合は
原則として
意符を部首に立てる
「箕」が部首になっているのは
この字を意符とする
「簸」という字があるためである
一方
「一」から「十」までの数字
「甲」から「癸」までの十干
「子」から「亥」までの十二支
がすべて部首になっているが
この中には
「三・四・甲・丙・寅・卯」
など部首字1字しか属していない・・・
↓↑
部首法
その後の字書でも継承されたが
所属文字の少ない部首が
統廃合され
部首の数は削減され
『康煕字典』
では200余りの部首立てになっている
↓↑
部首配列
「許慎」は
「形によってつなげる」
と述べ
字形の近似によって
部首を並べる意図があった
540部の全てを
形の近似で並べるのは不可能で
字形の繋がりが見い出せない
字形の近似以外の
配列意図
「徐鍇」
は
『説文解字』の冒頭の
「一・上・示・三・王」
の配列を
天地の初めの「一」
天は上にあるので「上」
上にある天は
「三光(日・月・星)」
を示すので「示」
「三」は
「三才(天・地・人)」
を通じて王となるので「王」
などと意味的な連関から
部首の配列を論じた
「段玉裁」
も「歯」部の次に
「牙」部が来る例などは
意味の連関によると指摘
↓↑
説文解字
部首一覧
巻1(序)
巻2 丄示三王玉玨气士丨屮艸蓐茻
巻3 半牛犛告口凵吅哭走止癶
正是辵彳廴㢟行齒牙足疋品龠冊
巻4 㗊舌干𧮫只㕯句丩古十卅言誩音
丵菐𠬞𠬜共異舁𦥑䢅爨革鬲䰜爪
鬥又𠂇史支𦘒聿畫隶臤臣殳殺𠘧
寸皮㼱攴教卜用爻㸚
巻5 𡕥目䀠眉盾自𪞶鼻皕習羽隹奞雈
𦫳𥄕羊羴瞿雔雥鳥烏𠦒冓幺𢆶叀
玄予放𠬪𣦼歺死冎骨肉筋刀刃㓞
丯耒角
巻6 竹箕丌左工㠭巫甘曰乃丂可兮号
亏旨喜壴鼓豈豆豊豐䖒虍虎虤皿
𠙴去血丶丹青井皀鬯食亼會倉入
缶矢高冂𩫖京亯㫗畗㐭嗇來麥夊
舛舜韋弟夂久桀
巻7 木東林才叒之帀出𣎵生乇𠂹𠌶華
𥝌稽巢桼束㯻囗員貝邑𨛜
巻8 日旦倝㫃冥晶月有朙囧夕多毌𢎘𣐺
𠧪齊朿片鼎克彔禾秝黍香米毇臼凶
朩𣏟麻尗耑韭瓜瓠宀宮呂穴㝱疒冖
𠔼冃㒳网襾巾巿帛白㡀黹
巻9 人𠤎匕从比北丘㐺𡈼重臥身㐆衣裘
老毛毳尸尺尾履舟方儿兄兂皃𠑹先
禿見覞欠㱃㳄旡頁
巻10 𦣻面丏首𥄉須彡彣文髟后司卮卩印
色𠨍辟勹包茍鬼甶厶嵬山屾屵广厂
丸危石長勿冄而豕㣇彑豚豸𤉡易象
巻11 馬𢊁鹿麤㲋兔萈犬㹜鼠能熊火炎黑
囪焱炙赤大亦夨夭交尣壺壹幸奢亢
夲夰亣夫立竝囟思心惢
巻12 水沝瀕𡿨巜川泉灥永𠂢谷仌雨雲魚
𩺰燕龍飛非卂
巻13 𠃉不至西鹵鹽戶門耳𦣞手𠦬女毋民
丿𠂆乁氏氐戈戉我亅珡乚亡匸匚曲
甾瓦弓弜弦系
巻14 糸素絲率虫䖵蟲風它龜黽卵二土垚
堇里田畕黃男力劦
巻15 金幵勺几且斤斗矛車𠂤𨸏𨺅厽四宁
叕亞五六七九禸嘼甲乙丙丁戊己巴
庚辛辡壬癸子了孨𠫓丑寅卯辰巳午
未申酉酋戌亥
↓↑
說文解字
「許慎」
が著した元の書形は存在しない
唐代
書写されたと推定される残巻があるが
700年近くが経過
この残巻は
親字に「懸針体」という
「細長い書体」が使われ
これが
「篆書体」の初期の形・・・の可能性がある
伝わっている「篆書体」は
丸みを帯びた形をしている
8世紀後半に篆書家の
「李陽冰」
によって改められた・・・可能性
↓↑
説文解字の主なテキストには
10世紀半ば頃
南唐の
「徐鍇」
による
『説文解字繋伝』(小徐本)
と
宋の
「徐鉉」
による
『説文解字』(大徐本)
がある
南宋の
「李燾」
が
「大徐本」の部首の順序
および部首内排列を
「韻書」の順序で並べなおした
『説文解字五音韻譜』
を作り
「大徐本」よりも広く普及
「小徐本・大徐本」
が再び世に出るのは
清代に
「訓詁学」が盛んになってから・・・
↓↑
「小徐本」
弟の
「徐鍇」による
『説文解字繋伝』
の方が先に成立
「説文解字通釈」30巻
「部叙」2巻
「通論」3巻
「祛妄・類聚・錯綜・疑義・系述」各1巻
の全40巻から構成
巻25は早く失われ
現行本の巻25は
「大徐本」によって補ったもの
「通釈」では各漢字のもとの
説文の解説の後ろに
「臣鍇按」
「臣鍇曰」
として
「徐鍇」
による伝が加えられている
現在伝わる
「小徐本」は全て北宋の
「張次立」
の校訂を経ており
「臣次立曰」
として彼の注記が加えられている字
さらには彼もしくは後世の人々が
「大徐本」から補った字や注釈もある
「小徐本」の伝本には
「紀昀」の家蔵本をもとにした
『四庫全書本』
それをもとに刊行された
『汪啓淑本』(1782年)
「馬俊良」
の
『龍威秘書本』
1894年に刊行された
『祁寯藻本』
四部叢刊に収められた
『述古堂本』
などがある・・・
↓↑
説文解字
大徐本
「徐鍇」の没後
宋に仕えた兄の
「徐鉉」によって
雍熙3年(986年)に作られた
大徐本は小徐本を元にしているが
『繋伝』と異なり説文本文の校訂に専念し
各部首の末尾に従来の説文にはなかった漢字を
「新附字」として加えている
「説文」というときはこの
「大徐本」を指す
版本には清代始めのころに刊行された
『汲古閣版』(毛扆による第五修訂版が1713年)
それに基づいた
『朱筠本』(1773年)
『藤花榭本』(額勒布・1807年)
『平津館本』(孫星衍・1809年)
等がある・・・
↓↑
説文解字注(段注本)
『説文解字』
は、各文字の
本義と成り立ちだけが記され
その文字の
他の使い方には言及されていない
1815年
清の
「段玉裁」
の
『説文解字注(中国語版、英語版)』
によって
『説文解字』を基礎に
各文字の歴史的展開を
総合的に究明することがなされた
『説文解字注』
では、本義だけではなく
引伸義(本義から派生して生まれた意味)
仮借義(発音を借りて当て字とした意味)
古代の字音の考証を含めて
経書を中心とする
古典籍から用例を例示しながら説明したが
多数の文献の出典を明記せずに引用し
また誤りもあり
誤りを校正した
「馮桂芬」
の
『説文解字段注攷正』など
読解にあたっては
副読本を手元に置く方が良い
『大漢和辞典』の引く説文は
「段玉裁」
による変更が加わっている・・・
↓↑
「桂馥」
の
『説文解字義証』
「朱駿声」
の
『説文解字通訓定声』
などの注釈がある
注釈を網羅しているものに
「丁福保」
の
『説文詁林』
白川静の
『説文新義』「著作集別巻 1~8」(平凡社)
↓↑
「説文解字木部残巻」
本紙 縦25.4cm、全長243cm
唐代9世紀
武田科学振興財団
杏雨書屋蔵
唐
元和十五年(820年)に書写・・・
北宋の
「徐鉉・徐鍇」
兄弟が校定する前のテキストを伝える
木部の
一部6葉188字を収め
篆書部文には
懸針体という書体が使用
跋や蔵書印から分かることは
南宋の宮廷に所蔵されていたが
清末
「莫友之」
に所蔵され
やがて日本の
「内藤湖南」
の手に渡った
彼の死後
「杏雨書屋」が所蔵
1951年6月9日
指定国宝
参照、参考の原文は「ウィッキペデア」
↓↑
『説文解字(セツモンカイジ)』
最古の漢字字典
略して
「説文(セツモン)」
・・・構成漢字の「点と線」の分解
後漢の
「許慎(キョシン)」
・・・ナゼ「許・慎」なのか?
言+午(𠂉+十)
忄(立身の弁)+眞(匕+目+ハ)
の作
約九千の文字・・・旧線の文字
その一つ一つに
文字の成り立ちを説き
文字の本来の意味を究明
「部首法」
で文字をグループごとに分類
↓↑
漢字を
客観的な
考察の対象とし・・・視覚の対象
全面的な
考察を加えた・・・・交束・考差通(訳・譯)
初の漢字研究書
現在
甲骨文や金文の
古代文字資料の発掘がされ
『説文解字』の
解説が
的外れもあるが・・・対象認識文字の「概念」だから
当時において
「小篆」
を基礎に
字の成り立ちの解説を試みた画期的な辞典
↓↑
篆=竹+彖
・・・彖=彑+彖(タン・猪・猯)
彑(彐)
=タン・いのしし
豚=豕が走る
猪=猯が走る
易の各卦の意味の総論
猪 八戒(チョ ハッカイ)
豬 八戒
八戒(西遊記)?
篆=竹+彑+彖(タン・猪・猯)
テン
漢字の書体名
大篆と
それを簡略化した
小篆がある
印章・篆書が多く用いられる
秦の時代に
大篆・・・周の太史籀が作った
籀書・籀文
を簡略化して作られた
篆刻(テンコク)
篆書(テンショ)
篆字(テンジ)
史籀大篆(シチュウダイテン)
「史籀(シチュウ)」
が今までの書体を改変して
作った新しい書体
「史籀」=周の宣王の時代の
歴史を記録し
歴史書を編修する史官
彫虫篆刻(チョウチュウテンコク)
調 註 転 語句?
詩文を作るとき
細かい部分の技巧を
必要以上にこだわること
技巧にこだわって
飾っただけの内容のない詩文
「彫・刻」=刻み込むという意味
「彫虫」=虫に文字を刻み込むこと?
非常に複雑な書体の虫書
・・・虫食いの跡だろう・・・
「篆」=非常に複雑な書体
「篆刻」=木などに
篆書の文字を刻み込むこと
「雕虫篆刻」=非常に複雑な書体の文章
雕=わし・きざむ
↓↑
『説文解字』
成立背景
『説文解字』以前に
「李斯(リシ)」
・・・木ノ子、其れ斤(キン・コン・おの)
の
『倉頡(ソウケツ)篇』・・・鳥の足跡⇔文字
や
「史游(シユウ)」
・・・史(ふみ)を遊=あそぶ=游
阿蘇部?
斿=はたあし=旗足
風の方向を示す
𠂉(かみさし)の
子(了+一=終始・始終)の旗
辶=路上の旗足
氵=水上の帆足
=方向舵(蛇)・・・うねり・靡き
の
『急就(キュウシュ)篇』・・・漢字学習書
などの識字教科書が作られていた
国家官僚を採用する際に
「文字の書き取りの試験」
があり
役所での記録書類作成が要求され
『説文解字』は
漢字世界の
文字そのものをとらえようとする
研究書であった
篆=竹+彖
・・・彖=彑+豕(タン・猪・猯)
彑(彐)+豕
タン・いのしし
豚=豕が走る
=猪=猯が走る
易の各卦の意味の総論
猪八戒(西遊記)
チョウハッカイ
聴 八 回
調 白海
長 北海
竹+彑+豕
テン
漢字の書体名
大篆と
それを簡略化した
小篆がある
印章・篆書が多く用いられる
秦の時代に
大篆・・・周の太史籀が作った
籀書・籀文
を簡略化して作られた
篆刻(テンコク)
篆書(テンショ)
篆字(テンジ)
史籀大篆(シチュウダイテン)
「史籀(シチュウ)」
が今までの書体を改変して
作った新しい書体
「史籀」=周の宣王の時代の
歴史を記録し
歴史書を編修する史官
彫虫篆刻(ちょうちゅうてんこく)
詩文を作るとき
細かい部分の技巧を
必要以上にこだわること
技巧にこだわって
飾っただけの内容のない詩文
「彫・刻」=刻み込むという意味
「彫虫」=虫に文字を刻み込むこと?
非常に複雑な書体の虫書
虫食いの跡だろう・・・
「篆」=非常に複雑な書体
「篆刻」=木などに
篆書の文字を刻み込むこと
「雕虫篆刻」=非常に複雑な書体の文章
↓↑
『急就(キュウシュ)篇』
前漢
元帝の宦官・・・諺綴の汗顔?
「史游」の作
「急就奇觚与衆異」で始まり
『急就篇』と呼ばれる
漢字を韻をふむように並べて
学習しやすいようにしたもの
漢~唐に広く使われた
後に
学習書の
「千字文・百家姓・三字経」
などが使われる
『急就篇』
章草の手本として使われ
唐の
「張懐瓘(チョウカイカン)」の
・・・張=弓+長
懐=忄+十+罒+衣=懷
忄+十+罒+亠
カイ・なつかしい・ふところ
いだく・回顧・懐炉
瓘=王+雚(カン・こうのとり)
灌漑の王=治水の王
『書断』では「史游」を
「章草の祖」としている
↓↑
『急就篇』
完全な形で残っている最古の漢字学習書
注釈は
「顔師古」
によるものが現存するほかは滅んだ
南宋の王
「応麟」
は
「顔師古」
のものにさらに補注を加えた
現行の
「急就篇」は34章
32章までの各章は
63字
33章と34章は
64字
全部で2144字
『四庫全書総目提要』には
文字が重複していないとあるが
「相」の字は10回出て
一句は
七字、四字、三字
のいずれかよりなる
開題のあと
7章までは
人名を羅列し(三字一句、偶数句末押韻)
それ以降は関係した字をまとめている
「王応麟」
によると最後の2章128字は
後に追加されたものであり
「皇象の碑」
には第7章(63字)がなかった
↓↑
秦代の焚書
などで
「経書」
の伝来が途切れそうになったが
前漢の初めには
「隷書」である
「今文」で書かれた経書が
ふたたび博士官に伝えられるようになった
前漢中期~後期
古い文字である
「古文」で書かれた経書が発見され
「劉歆」
らによって顕彰された
「今文・古文」の相違は
「字体の相違」だけではなく
その解釈や研究法にも相違を生み出し
官学として博士官の間で継承された「今文学」と
在野の学として発展した「古文学」は
儒学を二分し
経書の正しい解釈を巡って論争が起こった
↓↑
「許慎(字は叔重)」
温厚で誠実な人として知られ
「経書」に通じていたことから
「五経無双許叔重」
と称され
当時の大学者の
「馬融」も
「許慎」を尊敬していた
「許慎」は
郡の「功曹(勤務評定の担当)」となり
「孝廉」として推挙されて
中央の官界に進出した後
洨(安徽省霊璧県)の長官となった
↓↑
「許慎」は
五経の解釈の混乱を正すために
『五経異義』を制作
古文学を基調としながらも
今文の解釈を交えながら解釈し
両者を統合する方向性を示している
『説文解字』も
経書の正しい解釈を示すために記されたもので
経書は文字によって書かれているのだから
その文字を正しい解釈によって読むことで
経書全体の正しい理解を得られるという
意図から制作
許慎は
『説文解字』叙で以下のように述べている
↓↑
「文字」とは
経芸(経書に関する学問)の根本であって
王者による統治の基礎である
前代の人々が後世に範を垂れる道具であって
後世の人々が前代を学ぶ道具である
「根本が定まって
はじめて道が生まれる(『論語』)」
といい
「天下のまことに奥深いものを理解して
しかも混乱することはない(『易』)」
という
↓↑
和帝
永元十二年(100年)
「叙」が書かれ
建光元年(121年)
許慎の子の
「許沖」
が安帝に奉った
『説文』の完成年
「叙」が書かれた100年に完成・・・説
そこから20年ほど修改し
121年に完成したとする説
↓↑
各字の解説方法
『説文解字』
のもっとも基本的な書式
「小篆の字形」
を掲げ、次にその文字の意味と
その字形の成り立ちを説く
解説では
声訓や五行説が用いられることもある
[これに古文・籀文、また
「古文奇字」
などの別の字形が挙げて補足
その後に
「字音」
を示したり
経書の用例、方言による差異、別説などを
書き加えた
↓↑
『説文解字』叙
個々の文字の解釈方法として
「六書」の原則を挙げている
↓↑
象形
単体文字のうち
あるものの形の特徴をとらえ
そのまま写し取ったもの
「日・月・貝・海・女・戸・門」
↓↑
指事
単体文字のうち
抽象的な概念を指すもので
頭を働かせれば
字形の造意が理解できるもの
「上・下・本・末」
↓↑
会意
複体文字のうち
意味範囲を示す要素を
並べて意味を組み合わせ
それによって内容を示すもの
「武」(戈+止)
「信」(人+言)
「戻」(戸+犬)
など
↓↑
形声
複体文字のうち
意味を表す部分(意符)と
音を表す部分(音符)からなるもの
「江」(意符がサンズイ、音符が工・長江)
「河」(意符がサンズイ、音符が可・黄河)
↓↑
転注
歴代議論され、定説はない
戴震
段玉裁は
「互訓」のこと
つまり
「考」字の解説には
「老なり」とあり
「老」字の解釈には
「考なり」とあるような
二つの字が
互いに注釈しあう関係にある文字を指す
文字構成の共通項は
「耂」・・・「孝=耂+子」=孝行
↓↑
仮借
もともとは
表現すべき文字のない事物を
同じ発音の字を利用して
代わりに表す方法
↓↑
「徐鍇」
六書は三セット(六書三耦説)
単体文字(文)の造字原則「象形・指示」
複体文字(字)の造字原則「会意・形声」
用字原則として
徐鍇・転注・仮借
の三組でとらえている
↓↑
後漢初代
光武帝
「劉秀」
から完成当時の皇帝
安帝
「劉祜」までの各皇帝の
諱(秀、荘、炟、肇、祜)は
夭逝した
殤帝
「劉隆」の「隆」を除いて
避諱により
「上諱」
とのみ記せられ
本義の解説はない
↓↑
全体の構成
『説文解字』叙
見出しに掲げられる
小篆が9353字
古文・籀文などで掲げられる
重文が1163字
解説の字を含めると
全書で13万3441字
その後の筆写の過程で
文字の増減を経て
「段玉裁」
のときには
小篆は9431字
重文は1279字
全文は12万2699字
↓↑
文字の分類法
「部首法」
文字を部首別に収める方法
合計で540の部首
部首の数が540に揃えられた理由
陰陽の象徴の数である
六・九を掛け合わせた
「54」を基盤とする
『説文』では
部首内の漢字が
画数順に並べられることはない
↓↑
部首と親字は
篆書で示され
↓↑
「刑(㓝)」が井部
「法(灋)」が廌部
「善(譱)」が誩部
↓↑
など
楷書ではそれらが何故
「該当部首」に属するのか、不明である
部首を立てるのは
「検索」を便利にするためではなく
ある字を
「意符」にした字がある場合は
原則として
意符を部首に立てる
「箕」が部首になっているのは
この字を意符とする
「簸」という字があるためである
一方
「一」から「十」までの数字
「甲」から「癸」までの十干
「子」から「亥」までの十二支
がすべて部首になっているが
この中には
「三・四・甲・丙・寅・卯」
など部首字1字しか属していない・・・
↓↑
部首法
その後の字書でも継承されたが
所属文字の少ない部首が
統廃合され
部首の数は削減され
『康煕字典』
では200余りの部首立てになっている
↓↑
部首配列
「許慎」は
「形によってつなげる」
と述べ
字形の近似によって
部首を並べる意図があった
540部の全てを
形の近似で並べるのは不可能で
字形の繋がりが見い出せない
字形の近似以外の
配列意図
「徐鍇」
は
『説文解字』の冒頭の
「一・上・示・三・王」
の配列を
天地の初めの「一」
天は上にあるので「上」
上にある天は
「三光(日・月・星)」
を示すので「示」
「三」は
「三才(天・地・人)」
を通じて王となるので「王」
などと意味的な連関から
部首の配列を論じた
「段玉裁」
も「歯」部の次に
「牙」部が来る例などは
意味の連関によると指摘
↓↑
説文解字
部首一覧
巻1(序)
巻2 丄示三王玉玨气士丨屮艸蓐茻
巻3 半牛犛告口凵吅哭走止癶
正是辵彳廴㢟行齒牙足疋品龠冊
巻4 㗊舌干𧮫只㕯句丩古十卅言誩音
丵菐𠬞𠬜共異舁𦥑䢅爨革鬲䰜爪
鬥又𠂇史支𦘒聿畫隶臤臣殳殺𠘧
寸皮㼱攴教卜用爻㸚
巻5 𡕥目䀠眉盾自𪞶鼻皕習羽隹奞雈
𦫳𥄕羊羴瞿雔雥鳥烏𠦒冓幺𢆶叀
玄予放𠬪𣦼歺死冎骨肉筋刀刃㓞
丯耒角
巻6 竹箕丌左工㠭巫甘曰乃丂可兮号
亏旨喜壴鼓豈豆豊豐䖒虍虎虤皿
𠙴去血丶丹青井皀鬯食亼會倉入
缶矢高冂𩫖京亯㫗畗㐭嗇來麥夊
舛舜韋弟夂久桀
巻7 木東林才叒之帀出𣎵生乇𠂹𠌶華
𥝌稽巢桼束㯻囗員貝邑𨛜
巻8 日旦倝㫃冥晶月有朙囧夕多毌𢎘𣐺
𠧪齊朿片鼎克彔禾秝黍香米毇臼凶
朩𣏟麻尗耑韭瓜瓠宀宮呂穴㝱疒冖
𠔼冃㒳网襾巾巿帛白㡀黹
巻9 人𠤎匕从比北丘㐺𡈼重臥身㐆衣裘
老毛毳尸尺尾履舟方儿兄兂皃𠑹先
禿見覞欠㱃㳄旡頁
巻10 𦣻面丏首𥄉須彡彣文髟后司卮卩印
色𠨍辟勹包茍鬼甶厶嵬山屾屵广厂
丸危石長勿冄而豕㣇彑豚豸𤉡易象
巻11 馬𢊁鹿麤㲋兔萈犬㹜鼠能熊火炎黑
囪焱炙赤大亦夨夭交尣壺壹幸奢亢
夲夰亣夫立竝囟思心惢
巻12 水沝瀕𡿨巜川泉灥永𠂢谷仌雨雲魚
𩺰燕龍飛非卂
巻13 𠃉不至西鹵鹽戶門耳𦣞手𠦬女毋民
丿𠂆乁氏氐戈戉我亅珡乚亡匸匚曲
甾瓦弓弜弦系
巻14 糸素絲率虫䖵蟲風它龜黽卵二土垚
堇里田畕黃男力劦
巻15 金幵勺几且斤斗矛車𠂤𨸏𨺅厽四宁
叕亞五六七九禸嘼甲乙丙丁戊己巴
庚辛辡壬癸子了孨𠫓丑寅卯辰巳午
未申酉酋戌亥
↓↑
說文解字
「許慎」
が著した元の書形は存在しない
唐代
書写されたと推定される残巻があるが
700年近くが経過
この残巻は
親字に「懸針体」という
「細長い書体」が使われ
これが
「篆書体」の初期の形・・・の可能性がある
伝わっている「篆書体」は
丸みを帯びた形をしている
8世紀後半に篆書家の
「李陽冰」
によって改められた・・・可能性
↓↑
説文解字の主なテキストには
10世紀半ば頃
南唐の
「徐鍇」
による
『説文解字繋伝』(小徐本)
と
宋の
「徐鉉」
による
『説文解字』(大徐本)
がある
南宋の
「李燾」
が
「大徐本」の部首の順序
および部首内排列を
「韻書」の順序で並べなおした
『説文解字五音韻譜』
を作り
「大徐本」よりも広く普及
「小徐本・大徐本」
が再び世に出るのは
清代に
「訓詁学」が盛んになってから・・・
↓↑
「小徐本」
弟の
「徐鍇」による
『説文解字繋伝』
の方が先に成立
「説文解字通釈」30巻
「部叙」2巻
「通論」3巻
「祛妄・類聚・錯綜・疑義・系述」各1巻
の全40巻から構成
巻25は早く失われ
現行本の巻25は
「大徐本」によって補ったもの
「通釈」では各漢字のもとの
説文の解説の後ろに
「臣鍇按」
「臣鍇曰」
として
「徐鍇」
による伝が加えられている
現在伝わる
「小徐本」は全て北宋の
「張次立」
の校訂を経ており
「臣次立曰」
として彼の注記が加えられている字
さらには彼もしくは後世の人々が
「大徐本」から補った字や注釈もある
「小徐本」の伝本には
「紀昀」の家蔵本をもとにした
『四庫全書本』
それをもとに刊行された
『汪啓淑本』(1782年)
「馬俊良」
の
『龍威秘書本』
1894年に刊行された
『祁寯藻本』
四部叢刊に収められた
『述古堂本』
などがある・・・
↓↑
説文解字
大徐本
「徐鍇」の没後
宋に仕えた兄の
「徐鉉」によって
雍熙3年(986年)に作られた
大徐本は小徐本を元にしているが
『繋伝』と異なり説文本文の校訂に専念し
各部首の末尾に従来の説文にはなかった漢字を
「新附字」として加えている
「説文」というときはこの
「大徐本」を指す
版本には清代始めのころに刊行された
『汲古閣版』(毛扆による第五修訂版が1713年)
それに基づいた
『朱筠本』(1773年)
『藤花榭本』(額勒布・1807年)
『平津館本』(孫星衍・1809年)
等がある・・・
↓↑
説文解字注(段注本)
『説文解字』
は、各文字の
本義と成り立ちだけが記され
その文字の
他の使い方には言及されていない
1815年
清の
「段玉裁」
の
『説文解字注(中国語版、英語版)』
によって
『説文解字』を基礎に
各文字の歴史的展開を
総合的に究明することがなされた
『説文解字注』
では、本義だけではなく
引伸義(本義から派生して生まれた意味)
仮借義(発音を借りて当て字とした意味)
古代の字音の考証を含めて
経書を中心とする
古典籍から用例を例示しながら説明したが
多数の文献の出典を明記せずに引用し
また誤りもあり
誤りを校正した
「馮桂芬」
の
『説文解字段注攷正』など
読解にあたっては
副読本を手元に置く方が良い
『大漢和辞典』の引く説文は
「段玉裁」
による変更が加わっている・・・
↓↑
「桂馥」
の
『説文解字義証』
「朱駿声」
の
『説文解字通訓定声』
などの注釈がある
注釈を網羅しているものに
「丁福保」
の
『説文詁林』
白川静の
『説文新義』「著作集別巻 1~8」(平凡社)
↓↑
「説文解字木部残巻」
本紙 縦25.4cm、全長243cm
唐代9世紀
武田科学振興財団
杏雨書屋蔵
唐
元和十五年(820年)に書写・・・
北宋の
「徐鉉・徐鍇」
兄弟が校定する前のテキストを伝える
木部の
一部6葉188字を収め
篆書部文には
懸針体という書体が使用
跋や蔵書印から分かることは
南宋の宮廷に所蔵されていたが
清末
「莫友之」
に所蔵され
やがて日本の
「内藤湖南」
の手に渡った
彼の死後
「杏雨書屋」が所蔵
1951年6月9日
指定国宝