・・・前回からのツヅキ・・・
唯々、「コピペッの連続」・・・「成り済まし猶太」の是非・・・
大猷院・・・・ 猷=酋+犬(犭)
・・・猶=犭(犬)+酋
大猷 院=イン=音・因=囙・尹・隠(隠蔽)
囙・陰・寅・允
吉田松陰(寅次郎)・木戸孝允(桂小五郎)?
↓↑

ディアスポラ
元の国家や民族の居住地を
離れて暮らす国民や民族の
集団ないし
コミュニティ
離散すること自体を指す
以降も、相対的に
隔離されていることを示唆
大文字の
Diaspora・・・イスラエル・パレスチナ
の外での離散ユダヤ人集団
小文字
diaspora・・・他の国民や民族を含めた
一般の離散定住集団

↓↑
2001年
Nebelらの
Y染色体ハプログループの研究
R1a
ハプログループの
染色体
(論文内で Eu 19 と呼称)は
東欧の住民の間では
非常に高率(54%~60%)で出現するものだが
アシュケナジー・ユダヤ人
の間では
高い頻度(12.7%)を示す
↓↑

2003年
BeharらによるY染色体の研究
アシュケナジーの
レビ氏族
(彼等はアシュケナジー全体のおよそ4%を構成)
のあいだでは
ハプログループR1a1
の所有率は 50% 以上
このハプログループは
他のユダヤ人のグループでは珍しく
東欧住民の間では高い頻度を示す
↓↑
「R1a1 NRYの高頻度での所有を
アシュケナジーのレビ氏族にもたらした出来事は
非常に少数の
単一の始祖に関わるものである可能性が高い」
この遺伝子群の源泉であると思われる・・・
↓↑
「非ユダヤ系のヨーロッパ住民である
一人または複数の始祖がいて
その子孫が
レビ氏族の成員となった」
のだと仮定
「魅力的な源泉は
8世紀~9世紀に
その支配階層が
ユダヤ教に
改宗したと考えられている
ハザール王国だろう」・・・?
↓↑
文学
『ハザール事典』(ミロラド・パヴィチ著)
架空の「ハザールに関する事典」
の形をとった小説
日本語訳も存在
東京創元社よりハードカバー版
(男性版:ISBN 4488013597
女性版:ISBN 4488013600)
が1993年に
文庫版
(男性版:ISBN 4488070752
女性版:ISBN 4488070760)
が2015年に出版
↓↑
「ユダヤ人=ハザール人」説
ヨーロッパのユダヤ人は
古代ユダヤ人
としての
セム系の民族起源を持たず
ハザール人の末裔・・・
↓↑
ヨーロッパで迫害を受け
アシュケナジム
などの
ユダヤ人たち
パレスチナにいた古代ユダヤ人との
連続性やつながりは無く
古代ユダヤ人
とは別の民族
ハザール王国の
ハザール人の末裔・・・
↓↑
ハザール王国
7世紀~10世紀
黒海北部~コーカサス地域
に栄えた遊牧民族の
テュルク系国家・・・
ユダヤ教を事実上の国教とし
ハザール王国の
改宗ユダヤ人が
ヨーロッパの
ユダヤ人となったとする・・・説
↓↑
「ハザール人(トルコ系ユダヤ人)=偽ユダヤ人」
が
シオニズム運動を推進する正統性はなく
イスラエル国家建設への歴史的権利もない・・・
↓↑
以色列(イスラエル・Israel)
・・・「虹=7色のrain」の国家・国籍?
以色列(イスラエル・Israel)・・・国家・国籍
rainbow
虹・レインボー・虹 色・レインボウ・にじ
niji(にじ)=虹
虹は7色すべて
The rainbow had all seven colors.
形容詞
iridescent(イラァデェスントゥ・イリデセント)
iridescent(アイリデッセント)
虹 色・虹・玉虫色
iridescent(アイリデッセント)
iris(アイリス)
iris=虹彩・あやめ(菖蒲=ショウブ・彩芽)・・・殺め
猶 太(ユダヤ ・Judea)・・・民族・人種・宗教
↓↑
大猷院・・・・猶太・・・
大猷 院=イン=音・因=囙・尹・隠(隠蔽)
囙・陰・寅・允
吉田松陰(寅次郎)・木戸孝允(桂小五郎)
↓↑
歴代徳川将軍
↓↑
初 代将軍 徳川 家康 慶長八年~慶長十年
捌 拾・足
1600年
関ヶ原の戦い
(慶長五年九月十五日
1600年10月21日)
美濃国
不破郡
関ヶ原(岐阜県 不破郡 関ケ原町)
↓↑
リーフデ号・・・・・娌(理)意附出合?
娌(リ)
錆びる
漏れる
囁く
妯娌(チクリ)
兄弟の妻同士を呼ぶ語
(オランダ=阿蘭陀・船・愛号)
豊後(ぶんご)国(くに・コク)
・・・「文語・文悟」語句?
臼杵(うすき・キュウショ)
・・・うすきね
うづきね=卯月音=弥生音?
渦 起音?莵月音=三月音?
の
黒島(くろしま・コクトウ)に
漂着
(慶長五年三月十六日
1600年4月29日)
↓↑
乗組員
イギリス人(イングランド人)・・・猶太人?
ウィリアム・アダムズ(William Adams)
1564年9月24日
~
1620年5月26日
元和六年四月二十四日
↓↑
徳川家康の外交顧問、通訳
航海士、水先案内人、貿易家
日本名
「三浦 按針(みうら あんじん)」
英国国教会(聖公会)の信徒・・・
日本に初めて来たイギリス人
「侍=サムライ」の称号を得た最初の欧州人?
・・・織田信長の家臣
「弥助(黒人)」=侍(さむらい)・・・
日本で英学を教え
西洋式帆船(ガレオン船)建造
日本とオランダ、イギリス両国との
国交樹立の人物
サツマイモを日本に伝えた人物・・・
・・・青木昆陽・・・飢饉時の「薩摩芋」栽培・・・
薩摩の妹=天璋院篤姫
(テンショウインあつひめ)
島津斉彬の養女
近衛忠煕の養女敬子
(天璋院)
徳川家定=別名 イモ公方=料理好き?
福井藩16代藩主
松平越前守慶永
松平春嶽から「イモ公方」などと呼ばれた
家定の死の直前
漢方医の
「青木春岱」が診察・・・
↓↑
森 鷗外(もり おうがい)
文久2年1月19日
1862年2月17日
~
大正11年〈1922年〉7月9日
陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)
医学博士、文学博士
↓↑
本名
「森 林太郎(りんたろう)」・・・?
蘇我入鹿=鞍作・林臣・林太郎・蘇我大郎
の別名
唐から帰国した
新漢人 旻(いまきのあやひと みん)
の学堂に学んだ・・・「旻=日+文」?
↓↑
アダムス・・・・仇 生諏?
ジリンガム・・・字臨(琳)臥ム?
の英国国教会
セントメアリー・・・選訳(譯)女阿理意?
教会
(St. Mary Magdalーene Church)
で洗礼・・・
「Protestant 新教徒・・・清教訳(譯)=「康煕字典」?
新教 (Protestantism)」
回教=イスラム(Islam)信仰・教義
ムスリム (Muslim)教徒
=モハメッド(謨祖)
イギリス国教会(The Church of England)
イングランド発祥の
プロテスタント系キリスト教会
16世紀
ヘンリー8世が
ローマ教皇との関係を断絶し成立
イギリス国王を首長とする教会制度
↓↑
イングランド南東部
ケント州・・・謙訳(譯)諏?
ジリンガム
で誕生
1564年9月24日(実際の誕生日は不明)
メドウェイ・アーカイブ・センターに保管
ジリンガムの街は
1998年にロチェスター市と合併し
メドウェイ市となった
古代ローマ人の占有時代から
漁港や貿易港として栄え
16世紀からは造船業でも繁栄
父親は船員
12歳
ロンドン(倫敦)
River Thames
テムズ(テームズ=テムズ(川)
廷武須=達迷塞=達迷斯
泰晤士河
北岸の
ライムハウス
に移り
船大工の棟梁
ニコラス・ディギンズ
・・・邇凝(懲)・出意如叢(圖)
に弟子入り
航海術や天文学にも興味を持ち
1588年
海軍に入隊
スペインの無敵艦隊を
フランシス・ドレーク
の指揮下の
イギリス艦隊の食糧や弾薬の輸送艦
リチャード・ダフィールド号
の艦長に抜擢され
アルマダの海戦に参加
1589年
ロンドンの
メアリー・ハイン
と結婚
娘デリヴァレンス
息子ジョン
を儲けた
海軍を離れ
バーバリー会社
ロンドン会社の
航海士・船長として
シベリアから東洋へ至る
北東航路の探検隊参加
アフリカへの航海
1500年代末
ヨーロッパ各国が
新世界やアジアへの交易を活発化
大航海時代が到来
↓↑
リーフデ(愛)号の航海
↓↑
オランダ人船員たちと
ロッテルダム(Rotterdam
鹿特担、鹿特提、緑鐸耳水無)
で極東を目指すベテランの航海士を募集
の噂を聞
弟の
トマス
らと共に
1598年
ロッテルダムに渡り
オランダ(阿蘭陀)の
東洋遠征隊に志願
航海は5隻からなる船団
ホープ号(希望・旗艦)
リーフデ号(愛)
ヘローフ号(信仰)
トラウ号(忠誠)・・・「とら=寅・虎・彪・禽」+卯+合
ブライデ・ボートスハップ号(良い予兆・陽気な使者)
司令官
ジャック・マフ
アダムス
はホープ号の航海士(主任航海長)として採用
イギリスはスペインやポルトガルとは敵対
オランダとは友好的
1598年6月24日
船団はロッテルダム港を出航
トマスが最初乗船していた
トラウ号はポルトガル
に
ブライデ・ボートスハップ号はスペイン
に拿捕
ヘローフ号はロッテルダムに引き返した
残った2隻で太平洋を横断途中
ホープ号沈没
リーフデ号ただ1隻が東洋に向かった
食糧補給のために寄港した先々で
赤痢や壊血病が蔓延
インディオの襲撃に晒され
船員を失い
トマスもインディオに殺害された
出航時に
「110人」
だった乗組員は
日本漂着には
「24人」
リーフデ号
豊後国臼杵の黒島に漂着
乗組員は
臼杵城主
「太田一吉」
の出した小舟で日本に上陸
「太田一吉」は
長崎奉行の
「寺沢広高」
に通報し
「寺沢広高」
はアダムスらを拘束
船内の大砲や火縄銃、弾薬
などの武器を没収し
大坂城の
「豊臣秀頼」
に指示を仰いだ
イエズス会の宣教師たちが訪れ
オランダ人やイギリス人の処刑を要求
五大老首座の
「徳川家康」
に引見
指示され
重体の船長
ヤコブ・クワッケルナック
に代わり
アダムス
と
ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン
メルキオール・ファン・サントフォールト
らを大坂に護送、船も回航させた
イエズス会の宣教師たちは
アダムス
らリーフデ号の乗組員
イギリス人
オランダ人
の処刑を家康に申し出
イエズス会は一人の神父を派遣し
アダムスに日本を去るよう説得交渉
さらに
プロテスタントからカトリックへの改宗を迫った
1600年5月12日(慶長五年三月三十日)
家康は彼らを引見
イエズス会士の注進で
リーフデ号を海賊船だと
思い込んでいた家康は
路程や航海の目的
オランダやイングランドなどプロテスタント国
と
ポルトガル・スペインらのカトリック国
との紛争を
アダムス
と
ヤン=ヨーステン
の説明を訊き誤解を解き
カトリック宣教師とポルトガル人らは
家康に疑惑を招き
アダムスらを
処刑要求するカトリック宣教師らを黙殺
引見を繰り返した後に釈放し
江戸に招いた
西洋式帆船の建造
と日本名に改名し武士に
アダムスは帰国を願い出たが
叶うことはなく
家康は米や俸給を与えて慰留し
外国使節との対面や
外交交渉に際して通訳
顧問、助言者とし
外交だけでなく
幾何学や数学
航海術
などの英学を
家康との側近に授けた
江戸湾係留の
リーフデ号
が沈没すると
船大工として
西洋式の帆船を建造することを要請され
アダムスは、当初は固辞したが
受け入れざるを得なくなり
伊東に日本で
初めての
造船ドックを設け
80tの帆船を建造
1604年(慶長九年)に完成
家康は更に大型船の建造を指示
1607年(慶長十二年)
120tの船舶(ガレオン船)
サン・ブエナ・ベントゥーラ
を完成させた
家康は慰留の意もあって
アダムス
250石取りの旗本に取り立て
相模国
逸見
に采地を与え
三浦按針(按針=水先案内人の意
三浦=領地の三浦郡)
の名乗りを与えられ
日本武士として生きる境遇を得た
所領は息子の
ジョゼフ
が相続し
「三浦按針」
の名乗りもジョゼフが継承した
徳川家康により
オランダに発行された朱印状
1609年8月24日
慶長十四年七月二十五日付
(ハーグ国立文書館所蔵)
1609年(慶長十四年)
家康は
オランダとの交易を希望し
オランダ国王使節が来日
駿府城で外交顧問
アダムスの協力で
日本とオランダとの国交が結ばれ
オランダの通商が許され
アダムスは
オランダ東インド会社日本支店となる
肥前国
松浦郡
平戸島のオランダ商館設置に携わった
家康は
アダムズを顧問にし
国際世界の国々へと視野を拡大
スペイン無敵艦隊が
イギリス海軍に敗れた
世界の覇権地図が塗り替えられ
イギリスやオランダが新たに
東洋を
プロテスタント諸国としての進出するなど
当時の世界情勢をかなり正確に理解した
1611年(慶長十六年)
スペイン使節が来日し
諸港を測量
スペイン使節が港を計測する目的を
家康から訪ねられたアダムスは
「侵略のために各港に
どの船が入港できるか知るためで
すべてのカトリックの宣教師を
国外に追放すべき」
答えた
1611年(慶長十六年)
イギリス東インド会社は
アダムスがイギリス本国に送った書簡によって
日本の事情を知り
イングランド国王
ジェームズ1世
の許可を得て
アダムスを仲介人として
日本との通商関係を結ぶ計画を立て
イギリス艦隊司令官
ジョン・セーリス(英国国教会信徒)
を日本に派遣決定
4月18日
セーリスは
ジェームス1世の国書を持って
イギリス東インド会社の
クローブ号を指揮しロンドンを出航
マダガスカル
や
バンテン(Bantam=バンタム=ジャワ)
に寄港して貿易を行ったのち
1613年6月11日(慶長十八年)
平戸に
クローブ号は日本に初来航
アダムスは
セーリスらイギリス使節一行に付き添い
駿府城で家康らとの謁見
使節は家康から貿易を許可する朱印状を
取りつけることに成功し
イギリスは日本との通商許可
セ―リスは上記オランダ商館の近くで
アンドレア李旦の屋敷を借り
イギリス商館(イギリス東インド会社日本支店)を設置
商館長に
リチャード・コックス(英国国教会信徒)を任命
6人の部下を付け
アダムスも商館員として採用され、顧問を務めた
その後
商館はイギリスに正式に買い取られ
イギリス人商館員や日本人使用人も増員
1614年(慶長十九年)
クローブ号帰還の際
一緒に帰国できる許可が
日英両方から出たが
同船司令官
ジョン・セーリス
対立し帰国を見送った
セーリスは何事も
日本式を強要するアダムスが気に入らず
アダムスはセーリスを
生意気で無礼な青二才として嫌った
オランダ商館より安い賃金の
母国イギリス商館の仕事を手伝った
第2代将軍 徳川 秀忠 慶長10年~元和9年
武家諸法度
・・・次回にツヅク・・・
ー↓↑ー
命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
↓↑
メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8
↓↑
モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
ー↓↑ー
↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
(表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2023/3
唯々、「コピペッの連続」・・・「成り済まし猶太」の是非・・・
大猷院・・・・ 猷=酋+犬(犭)
・・・猶=犭(犬)+酋
大猷 院=イン=音・因=囙・尹・隠(隠蔽)
囙・陰・寅・允
吉田松陰(寅次郎)・木戸孝允(桂小五郎)?
↓↑

ディアスポラ
元の国家や民族の居住地を
離れて暮らす国民や民族の
集団ないし
コミュニティ
離散すること自体を指す
以降も、相対的に
隔離されていることを示唆
大文字の
Diaspora・・・イスラエル・パレスチナ
の外での離散ユダヤ人集団
小文字
diaspora・・・他の国民や民族を含めた
一般の離散定住集団

↓↑
2001年
Nebelらの
Y染色体ハプログループの研究
R1a
ハプログループの
染色体
(論文内で Eu 19 と呼称)は
東欧の住民の間では
非常に高率(54%~60%)で出現するものだが
アシュケナジー・ユダヤ人
の間では
高い頻度(12.7%)を示す
↓↑

2003年
BeharらによるY染色体の研究
アシュケナジーの
レビ氏族
(彼等はアシュケナジー全体のおよそ4%を構成)
のあいだでは
ハプログループR1a1
の所有率は 50% 以上
このハプログループは
他のユダヤ人のグループでは珍しく
東欧住民の間では高い頻度を示す
↓↑
「R1a1 NRYの高頻度での所有を
アシュケナジーのレビ氏族にもたらした出来事は
非常に少数の
単一の始祖に関わるものである可能性が高い」
この遺伝子群の源泉であると思われる・・・
↓↑
「非ユダヤ系のヨーロッパ住民である
一人または複数の始祖がいて
その子孫が
レビ氏族の成員となった」
のだと仮定
「魅力的な源泉は
8世紀~9世紀に
その支配階層が
ユダヤ教に
改宗したと考えられている
ハザール王国だろう」・・・?
↓↑
文学
『ハザール事典』(ミロラド・パヴィチ著)
架空の「ハザールに関する事典」
の形をとった小説
日本語訳も存在
東京創元社よりハードカバー版
(男性版:ISBN 4488013597
女性版:ISBN 4488013600)
が1993年に
文庫版
(男性版:ISBN 4488070752
女性版:ISBN 4488070760)
が2015年に出版
↓↑
「ユダヤ人=ハザール人」説
ヨーロッパのユダヤ人は
古代ユダヤ人
としての
セム系の民族起源を持たず
ハザール人の末裔・・・
↓↑
ヨーロッパで迫害を受け
アシュケナジム
などの
ユダヤ人たち
パレスチナにいた古代ユダヤ人との
連続性やつながりは無く
古代ユダヤ人
とは別の民族
ハザール王国の
ハザール人の末裔・・・
↓↑
ハザール王国
7世紀~10世紀
黒海北部~コーカサス地域
に栄えた遊牧民族の
テュルク系国家・・・
ユダヤ教を事実上の国教とし
ハザール王国の
改宗ユダヤ人が
ヨーロッパの
ユダヤ人となったとする・・・説
↓↑
「ハザール人(トルコ系ユダヤ人)=偽ユダヤ人」
が
シオニズム運動を推進する正統性はなく
イスラエル国家建設への歴史的権利もない・・・
↓↑
以色列(イスラエル・Israel)
・・・「虹=7色のrain」の国家・国籍?
以色列(イスラエル・Israel)・・・国家・国籍
rainbow
虹・レインボー・虹 色・レインボウ・にじ
niji(にじ)=虹
虹は7色すべて
The rainbow had all seven colors.
形容詞
iridescent(イラァデェスントゥ・イリデセント)
iridescent(アイリデッセント)
虹 色・虹・玉虫色
iridescent(アイリデッセント)
iris(アイリス)
iris=虹彩・あやめ(菖蒲=ショウブ・彩芽)・・・殺め
猶 太(ユダヤ ・Judea)・・・民族・人種・宗教
↓↑
大猷院・・・・猶太・・・
大猷 院=イン=音・因=囙・尹・隠(隠蔽)
囙・陰・寅・允
吉田松陰(寅次郎)・木戸孝允(桂小五郎)
↓↑
歴代徳川将軍
↓↑
初 代将軍 徳川 家康 慶長八年~慶長十年
捌 拾・足
1600年
関ヶ原の戦い
(慶長五年九月十五日
1600年10月21日)
美濃国
不破郡
関ヶ原(岐阜県 不破郡 関ケ原町)
↓↑
リーフデ号・・・・・娌(理)意附出合?
娌(リ)
錆びる
漏れる
囁く
妯娌(チクリ)
兄弟の妻同士を呼ぶ語
(オランダ=阿蘭陀・船・愛号)
豊後(ぶんご)国(くに・コク)
・・・「文語・文悟」語句?
臼杵(うすき・キュウショ)
・・・うすきね
うづきね=卯月音=弥生音?
渦 起音?莵月音=三月音?
の
黒島(くろしま・コクトウ)に
漂着
(慶長五年三月十六日
1600年4月29日)
↓↑
乗組員
イギリス人(イングランド人)・・・猶太人?
ウィリアム・アダムズ(William Adams)
1564年9月24日
~
1620年5月26日
元和六年四月二十四日
↓↑
徳川家康の外交顧問、通訳
航海士、水先案内人、貿易家
日本名
「三浦 按針(みうら あんじん)」
英国国教会(聖公会)の信徒・・・
日本に初めて来たイギリス人
「侍=サムライ」の称号を得た最初の欧州人?
・・・織田信長の家臣
「弥助(黒人)」=侍(さむらい)・・・
日本で英学を教え
西洋式帆船(ガレオン船)建造
日本とオランダ、イギリス両国との
国交樹立の人物
サツマイモを日本に伝えた人物・・・
・・・青木昆陽・・・飢饉時の「薩摩芋」栽培・・・
薩摩の妹=天璋院篤姫
(テンショウインあつひめ)
島津斉彬の養女
近衛忠煕の養女敬子
(天璋院)
徳川家定=別名 イモ公方=料理好き?
福井藩16代藩主
松平越前守慶永
松平春嶽から「イモ公方」などと呼ばれた
家定の死の直前
漢方医の
「青木春岱」が診察・・・
↓↑
森 鷗外(もり おうがい)
文久2年1月19日
1862年2月17日
~
大正11年〈1922年〉7月9日
陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)
医学博士、文学博士
↓↑
本名
「森 林太郎(りんたろう)」・・・?
蘇我入鹿=鞍作・林臣・林太郎・蘇我大郎
の別名
唐から帰国した
新漢人 旻(いまきのあやひと みん)
の学堂に学んだ・・・「旻=日+文」?
↓↑
アダムス・・・・仇 生諏?
ジリンガム・・・字臨(琳)臥ム?
の英国国教会
セントメアリー・・・選訳(譯)女阿理意?
教会
(St. Mary Magdalーene Church)
で洗礼・・・
「Protestant 新教徒・・・清教訳(譯)=「康煕字典」?
新教 (Protestantism)」
回教=イスラム(Islam)信仰・教義
ムスリム (Muslim)教徒
=モハメッド(謨祖)
イギリス国教会(The Church of England)
イングランド発祥の
プロテスタント系キリスト教会
16世紀
ヘンリー8世が
ローマ教皇との関係を断絶し成立
イギリス国王を首長とする教会制度
↓↑
イングランド南東部
ケント州・・・謙訳(譯)諏?
ジリンガム
で誕生
1564年9月24日(実際の誕生日は不明)
メドウェイ・アーカイブ・センターに保管
ジリンガムの街は
1998年にロチェスター市と合併し
メドウェイ市となった
古代ローマ人の占有時代から
漁港や貿易港として栄え
16世紀からは造船業でも繁栄
父親は船員
12歳
ロンドン(倫敦)
River Thames
テムズ(テームズ=テムズ(川)
廷武須=達迷塞=達迷斯
泰晤士河
北岸の
ライムハウス
に移り
船大工の棟梁
ニコラス・ディギンズ
・・・邇凝(懲)・出意如叢(圖)
に弟子入り
航海術や天文学にも興味を持ち
1588年
海軍に入隊
スペインの無敵艦隊を
フランシス・ドレーク
の指揮下の
イギリス艦隊の食糧や弾薬の輸送艦
リチャード・ダフィールド号
の艦長に抜擢され
アルマダの海戦に参加
1589年
ロンドンの
メアリー・ハイン
と結婚
娘デリヴァレンス
息子ジョン
を儲けた
海軍を離れ
バーバリー会社
ロンドン会社の
航海士・船長として
シベリアから東洋へ至る
北東航路の探検隊参加
アフリカへの航海
1500年代末
ヨーロッパ各国が
新世界やアジアへの交易を活発化
大航海時代が到来
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リーフデ(愛)号の航海
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オランダ人船員たちと
ロッテルダム(Rotterdam
鹿特担、鹿特提、緑鐸耳水無)
で極東を目指すベテランの航海士を募集
の噂を聞
弟の
トマス
らと共に
1598年
ロッテルダムに渡り
オランダ(阿蘭陀)の
東洋遠征隊に志願
航海は5隻からなる船団
ホープ号(希望・旗艦)
リーフデ号(愛)
ヘローフ号(信仰)
トラウ号(忠誠)・・・「とら=寅・虎・彪・禽」+卯+合
ブライデ・ボートスハップ号(良い予兆・陽気な使者)
司令官
ジャック・マフ
アダムス
はホープ号の航海士(主任航海長)として採用
イギリスはスペインやポルトガルとは敵対
オランダとは友好的
1598年6月24日
船団はロッテルダム港を出航
トマスが最初乗船していた
トラウ号はポルトガル
に
ブライデ・ボートスハップ号はスペイン
に拿捕
ヘローフ号はロッテルダムに引き返した
残った2隻で太平洋を横断途中
ホープ号沈没
リーフデ号ただ1隻が東洋に向かった
食糧補給のために寄港した先々で
赤痢や壊血病が蔓延
インディオの襲撃に晒され
船員を失い
トマスもインディオに殺害された
出航時に
「110人」
だった乗組員は
日本漂着には
「24人」
リーフデ号
豊後国臼杵の黒島に漂着
乗組員は
臼杵城主
「太田一吉」
の出した小舟で日本に上陸
「太田一吉」は
長崎奉行の
「寺沢広高」
に通報し
「寺沢広高」
はアダムスらを拘束
船内の大砲や火縄銃、弾薬
などの武器を没収し
大坂城の
「豊臣秀頼」
に指示を仰いだ
イエズス会の宣教師たちが訪れ
オランダ人やイギリス人の処刑を要求
五大老首座の
「徳川家康」
に引見
指示され
重体の船長
ヤコブ・クワッケルナック
に代わり
アダムス
と
ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン
メルキオール・ファン・サントフォールト
らを大坂に護送、船も回航させた
イエズス会の宣教師たちは
アダムス
らリーフデ号の乗組員
イギリス人
オランダ人
の処刑を家康に申し出
イエズス会は一人の神父を派遣し
アダムスに日本を去るよう説得交渉
さらに
プロテスタントからカトリックへの改宗を迫った
1600年5月12日(慶長五年三月三十日)
家康は彼らを引見
イエズス会士の注進で
リーフデ号を海賊船だと
思い込んでいた家康は
路程や航海の目的
オランダやイングランドなどプロテスタント国
と
ポルトガル・スペインらのカトリック国
との紛争を
アダムス
と
ヤン=ヨーステン
の説明を訊き誤解を解き
カトリック宣教師とポルトガル人らは
家康に疑惑を招き
アダムスらを
処刑要求するカトリック宣教師らを黙殺
引見を繰り返した後に釈放し
江戸に招いた
西洋式帆船の建造
と日本名に改名し武士に
アダムスは帰国を願い出たが
叶うことはなく
家康は米や俸給を与えて慰留し
外国使節との対面や
外交交渉に際して通訳
顧問、助言者とし
外交だけでなく
幾何学や数学
航海術
などの英学を
家康との側近に授けた
江戸湾係留の
リーフデ号
が沈没すると
船大工として
西洋式の帆船を建造することを要請され
アダムスは、当初は固辞したが
受け入れざるを得なくなり
伊東に日本で
初めての
造船ドックを設け
80tの帆船を建造
1604年(慶長九年)に完成
家康は更に大型船の建造を指示
1607年(慶長十二年)
120tの船舶(ガレオン船)
サン・ブエナ・ベントゥーラ
を完成させた
家康は慰留の意もあって
アダムス
250石取りの旗本に取り立て
相模国
逸見
に采地を与え
三浦按針(按針=水先案内人の意
三浦=領地の三浦郡)
の名乗りを与えられ
日本武士として生きる境遇を得た
所領は息子の
ジョゼフ
が相続し
「三浦按針」
の名乗りもジョゼフが継承した
徳川家康により
オランダに発行された朱印状
1609年8月24日
慶長十四年七月二十五日付
(ハーグ国立文書館所蔵)
1609年(慶長十四年)
家康は
オランダとの交易を希望し
オランダ国王使節が来日
駿府城で外交顧問
アダムスの協力で
日本とオランダとの国交が結ばれ
オランダの通商が許され
アダムスは
オランダ東インド会社日本支店となる
肥前国
松浦郡
平戸島のオランダ商館設置に携わった
家康は
アダムズを顧問にし
国際世界の国々へと視野を拡大
スペイン無敵艦隊が
イギリス海軍に敗れた
世界の覇権地図が塗り替えられ
イギリスやオランダが新たに
東洋を
プロテスタント諸国としての進出するなど
当時の世界情勢をかなり正確に理解した
1611年(慶長十六年)
スペイン使節が来日し
諸港を測量
スペイン使節が港を計測する目的を
家康から訪ねられたアダムスは
「侵略のために各港に
どの船が入港できるか知るためで
すべてのカトリックの宣教師を
国外に追放すべき」
答えた
1611年(慶長十六年)
イギリス東インド会社は
アダムスがイギリス本国に送った書簡によって
日本の事情を知り
イングランド国王
ジェームズ1世
の許可を得て
アダムスを仲介人として
日本との通商関係を結ぶ計画を立て
イギリス艦隊司令官
ジョン・セーリス(英国国教会信徒)
を日本に派遣決定
4月18日
セーリスは
ジェームス1世の国書を持って
イギリス東インド会社の
クローブ号を指揮しロンドンを出航
マダガスカル
や
バンテン(Bantam=バンタム=ジャワ)
に寄港して貿易を行ったのち
1613年6月11日(慶長十八年)
平戸に
クローブ号は日本に初来航
アダムスは
セーリスらイギリス使節一行に付き添い
駿府城で家康らとの謁見
使節は家康から貿易を許可する朱印状を
取りつけることに成功し
イギリスは日本との通商許可
セ―リスは上記オランダ商館の近くで
アンドレア李旦の屋敷を借り
イギリス商館(イギリス東インド会社日本支店)を設置
商館長に
リチャード・コックス(英国国教会信徒)を任命
6人の部下を付け
アダムスも商館員として採用され、顧問を務めた
その後
商館はイギリスに正式に買い取られ
イギリス人商館員や日本人使用人も増員
1614年(慶長十九年)
クローブ号帰還の際
一緒に帰国できる許可が
日英両方から出たが
同船司令官
ジョン・セーリス
対立し帰国を見送った
セーリスは何事も
日本式を強要するアダムスが気に入らず
アダムスはセーリスを
生意気で無礼な青二才として嫌った
オランダ商館より安い賃金の
母国イギリス商館の仕事を手伝った
第2代将軍 徳川 秀忠 慶長10年~元和9年
武家諸法度
・・・次回にツヅク・・・
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命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
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メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8
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モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
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