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コジキジゲン

ツレズレで気ままな書き込み・・・

2025-09-09 16:38:24 | 古事記字源

 イシスの探し物はなんですか・・・ユメの中へ、ユメの中へ
 イッテみたいとおもいませんか・・・
 ↓↑
 「🚹・♂・火星」・・・は子供を産めないけれど・・・恥をさらした・・・?
 女神・イシス=イシュタル・・・「石垂」・・・蘇生させるヒト
 ↓↑
 ツレヅレ(連例外れ・通列外れ・・・合致しない)
      通列外(ず)れ=位置や方向が期待や基準から外れること
 ↓↑
 アメリカ日系人の成人してからの
 「幼児語的日本語」使用・・・
 に出会った時の違和感
 ・・・こいつ等、ちょっと「頭、おかしく無い」・・・
 との誤解・・・
 日本の東北の田舎の方言に出くわして
 チンプン、カンプンだった時のようなカンジ・・・
 そして、東京で学友になった鹿児島人が
 突然の使用しだした薩摩方言にも・・・
 ・・・ナポリからポンペイ・・・観たよ、Bacchus神と酒乱教徒のモザイク・・・
 ・・・「God」・・・Go・Good・goat・・・

 ディオニューソス(古希語 Διόνυσος)
          拉語翻字 Dionȳsos)
 「ディオ(Dio)」は
 「ゼウス(Zeus)」
 の別名「ディオス(神)」の属格形
 別名
 「バッサレウス (Bassareus)」
 「バッカス(Bacchus)=バックス (Bacchus) 」
 酩酊の神
 集団的狂乱と陶酔を伴う東方の宗教の主神
 熱狂的な女性信者を獲得していた
 男性従者をバッサラー
 女性従者(バッケー)をバッサリス
 と呼ぶ

 ディオニューソス
 色々な救世主神と同一視
 バッカス
 ザグレウス
 サバージオス
 アドーニス
 アンテウス
 ザルモクシス
 ぺンテウス
 パーン・・・凡(およそ・あまねし・すべて)・般(ハン・バン)
 ↓↑
 リーベル・パテール・・・?
 「解放者」とも呼ばれた・・・酒に酔ってパラダイスへ・・・?
 ・・・一体全体、何処に「解放」されるんだろう・・・
 脳ミソ機能は現実から埒外の世界へ・・・?
 選挙民って「選挙」で
 「解放」されるんじゃぁなくて「新たに囲われる」・・・?
 トリ合図は「非廿有旻趣問う」・・・?
 ↓↑
 解放者は
 解放された囚人たちから
 英雄として歓迎された
 The liberator was hailed
   as a hero by the freed prisoners.
 ↓↑
 明暦三年一月十八日~二十日
  (1657年3月  2日~  4日)
 「明暦の大火」時
 江戸
 小伝馬町
 伝馬町牢屋敷に
 150~300人の囚人が収監されており
 牢屋の炎上は必須
 囚人たちも焼け死ぬのが必定だった
 牢屋の鍵は町奉行が管理
 奉行所から囚人をどうするかの通達沙汰無し
 ↓↑
 牢屋奉行
 ↓↑
 代々の世襲名を継いでいた
 「石出 帯刀 吉深」・・・いしで たてわき よしふか
 号 「常軒」・・・意気軒高・・・壱岐兼行?
 「石出左兵衛・勘介」
 から町奉行に出された
 石出家の『由緒』に
 当初は
 「本多 図書 常政」・・・・本が多い図書を常にマツル?
 と名乗っていた
 ↓↑
 「石出 帯刀 吉深」
 は独断で牢屋の鍵を壊し
 囚人たちを集め
 囚人たちの解放後の
 必須帰還条件を沙汰し解放
 後日
 全員が牢に戻った
 「石出 帯刀 吉深」
 は幕閣に囚人たちの助命嘆願
 囚人たちの刑を減免
 以後
 緊急時に囚人たちを
 一時的に釈放する
 「切り放ち」
 を制度化
 江戸時代に
 計15回の「切り放ち」が行われた・・・
 文政十一年(1828年)
 シーボルト事件
 天保十年(1839年)
 「蛮社の獄」
 五月
 「高野長英」
 幕政批判で逮捕され
 十二月
 「永牢終身刑」で
 伝馬町牢屋敷に収監
 牢名主なり
 獄中『わすれがたみ』著す
 弘化元年(1844年)六月三十日
 牢屋敷火災で
 「切り放ち」
 で脱獄逃亡
 牢で働いていた
 非人「栄蔵」をそそのかして放火させ
 「切り放ち」後
 「高野長英」
 は全国各地を周回逃亡・・・
 嘉永三年(1850年)十月三十日
 江戸青山百人町(南青山5丁目)
 に潜伏していたところを密告され
 南町奉行
 「遠山景元」
 配下の同心や捕方らに捕縛され自刃・・・
 ↓↑
 都市の解放者は盛大な歓迎を受けた
 The liberator of the city
   was given a grand welcome.
 ↓↑
 「マッカーサー元帥」
 (Douglas MacArthur)
  拿 愚等諏 磨珂蛙差倦?
 1880年1月26日
 ~
 1964年4月5日
          大運1956年8月(76歳)己巳・正財
                 干合
年柱 己卯(甲  乙)正財・劫財・帝旺⇔甲辰・比肩・害
月柱 丁丑(癸辛己)傷官・正財・冠帯⇔丁卯・傷官
日柱 甲寅(戊丙甲)  ・比肩・建禄⇔甲申・比肩・冲
時柱 庚午(丙己丁)偏官・正財・  死⇔庚午・偏官・自刑
   子丑空亡
 ↓↑
 「GHQ」
 聯合國軍最高司令官總司令部
 General
 Head
 quarters,
  the Supreme Commander
   for the Allied Powers
 ↓↑
 「emancipatory」
 「liberation army」
 「release」
 「liberate」
 「let go of」
 ↓↑
 「Liberation from」
 「Free yourself from unwanted stress」
 「Let's release stress! 」
 「解放」
 「be free from 」
 「freedom from」
 ↓↑
 シオン・・ 子音・詩音・詞音・汐音・紫苑・師恩・紫音・四音
       塩無・・・シオン・・・死海・・・塩有・・・
       「以色列・猶太」の
       耕作地にローマ軍は
       「塩」を撒いた
 ↓↑

 鹿の皮を被った祭り・・・「パン=ディオニューソス」
             犯   出意吝似喩得蘇諏?
 ↓↑
 鹿鳴館・・・
 鹿苑寺・・・
 鹿児島・・・「カコシマ」
        『和名類聚抄』
        「カコシマ」に由来
        「カコ=崖=桜島」・・・?
        鹿が多く生息していた「鹿の島」
        ↓↑
       「水夫=かこ=水主」
        船乗り
        ↓↑
       「桜島の噴火」
        によって降る火山灰が
       「桜の花びら」に例えられた・・・
       「さくら=イベント主催者や販売店に雇われ
             客や行列の中に紛れ込み
             特定の場面や
             イベント全体を盛り上げたりする
            「偽客=おとり(囮=囗+化)」・・・音理?
             囮=人を誘い寄せるために使う人や物
                囗+化
                囗+亻+匕(♀・雌・牝)
        ↓↑
       『和名抄』
       「古之木之万(こしきしま)」と表記
       地名の由来
       海岸にある甑形の岩を御神体に
       「甑島」大明神として祭ったから・・・
        ↓↑
       「麑藩名勝考」
     ・・・麑=鹿+兒
          广+比+臼+儿
   ゲイ・ベイ・かのこ=鹿(しか)の子
        桜の花弁で
        「桜島」が出来た=噴火の火山灰・溶岩
        木花咲夜比売・・・「浅間山の女神」?
        此(記紀)の噺、索拠る秘め?
        ・・・ドコからかは(希臘・羅馬神話)?
        ↓↑
        林羅山が
        元和二年(1616年)
        『丙辰紀行』で
        三島神社の祭神が
        大山祇神で
        三島と富士が
        父子関係にあるとし
        「富士の大神をば木花開耶姫」
        と神話解釈を行った・・・
        堀杏庵が
        寛永四年(1627年)
        『杏陰稿』で
        「富士権現ハ木花開耶姫」と記録
        「木花咲夜比売」が
        「浅間山の女神」である説は
        「江戸時代(1616年以降)」から・・・
  ↓↑       ↓↑
  ここは
  ・・・ボケていなきゃぁ、また、後で書き込む算段のスペース・・・?
 ↓↑       ↓↑
        ・・・「火山(volcano・ボルケーノ)」は
           「女神」の棲み処で女神に護られ
           女性は入山禁止・・・女神の嫉妬を避ける?
          「火山の噴火口」そのものが
          「女性器」の形態に擬し
          「モノ(胎児・火の子)を輩出口」・・・
                 火の子=新井白石
                 鹿の子=カのコ
                     化の語
  ↓↑   ↓↑
      新井白石
      明暦三年二月十日
      (1657年3月24日)
       ~
      享保十年五月十九日
      (1725年6月29日)
      改名 伝蔵(幼名)→君美
      別名 仮名 与五郎・勘解由
      号   白石
           紫陽(シヨウ・あじさい)・・・紫陽花
           ↓↑
           フォン・シーボルトの愛人(第二夫人・愛妾)
           長崎の商家
           俵屋の娘
          「楠本 お瀧」
        ・・・楠=十八ナ冂𢆉
              南=十+冂+𢆉(ジン・ニン・刺す)
               十+冂+丷+干
               十+冂+䒑
               十+冂+丷+一
             𢆉の異体字
             「𦍍」
             声符「𢆉」=𤇇 𤍛
              辛=亠+𢆉
              𨐌=亠+羊
                立+二+丨
              辛=立+十
       丵=业+𢆉
         业+丷+干
         业+䒑+十
         业+丷+一+十
         凿 叢 䕺 灇 欉 爜 糳 鑿
              业 亚 並
           瀧(おたき・1807年~1869年)
           シーボルトが紫陽花に
           「オタクサ」と名付けた
           日本人妻「お滝」に因なんでいる
           紫陽花(あじさい)=オタクサ(吝多句作)
           私用化 蛙字差意  大田(織田・尾田)
                       草=艸・卉・種=句作 
       ↓↑
      「新井白石」
      天爵堂・忽斎・在中・済美
      渾名 火の子・鬼
 ↓↑            ↓↑
             邇邇藝の子供
             火須勢理命=隼人の祖(古事記)
             火闌降命(ほすそり
             火酢芹命(ほすせり の みこと)
             火進命
             海幸彦=隼人の祖(紀)
 ↓↑             ↓↑
              明暦の大火
              明暦3年1月18日~20日
              (1657年3月 2日~ 4日)
               江戸大火災
              干支から
              丁酉火事(ひのととりのかじ)
              振袖火事(ふりそでかじ)
              丸山火事(まるやまかじ)
              などと呼んだ
              明暦大火を描いた
              田代幸春画
              『江戸火事図巻』
              (文化十一年・1814年)
          本妙寺の失火が原因
          矢田挿雲が細かく取材して著し
↓↑       ↓↑
       ギリシャ(Greece・希臘)人
          「小泉八雲」の小説「振袖(ふりそで)」・・・?
          小泉八雲 振袖 (田部隆次譯)
          本作(原題 FURISODÉ=ふりそで)
                      振り素出の文字
                      振り仮名のルビ
          明治三十二(1899)年
          ボストンの
          「リトル・ブラウン社」
          (LITTLE, BROWN COMPANY)
           小さい 附等云写(寫)?
          から出版された作品集
          「IN GHOSTLY JAPAN」
          (霊的なる日本にて・来日後の第六作品集)
          の二番目作品
          原文
          「FURISODE」
          「小泉八雲全集」第六巻
          (昭和四(一九二九)年第一書房刊)定本
↓↑       ↓↑
          振 袖(衣+由)・・・振袖を振る=領巾(ひれ)振る
          「茜さす紫野行き
           標野行き
           野守は見ずや
           君が袖(そで) 布流 (フル)」・・・額田王
↓↑
 ・・・ツヅク・・・かも・・・
ー↓↑ー
干支歴
 命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
 ↓↑
 メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
ー↓↑ー
 ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2023/3
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両目が霞んで文字が判別出来ない・・・隼の左目の混乱・活目の転向・活玉依秘め眼

2025-09-06 04:29:24 | 古事記字源
 岩倉使節団(いわくらしせつだん)
         意話句等詞説談? 
Iwakura Mission
明治4年11月12日(1871年12月23日)

 明治6年(1873年)9月13日
 大久保利光
 ↓↑
 ・・・前回からのツヅキだけれど・・・
 「ウイッキペデア」から等の参考参照添附だけれど・・・?
 ホルスの左目・・・
 ↓↑
 『古事記』
 「大物主大神が
  陶津耳命の娘
  活玉依毘売を娶って産んだ
  櫛御方命の子
  の
  飯肩巣見命
  の子の
  建甕槌命の子」とされ

  『日本書紀』
  では
  大物主大神
  と
  活玉依媛の子
  子には
  大鴨積命
  大友主命、大多彦命
  意富禰希毛知命がいたとされ
  三輪氏(神氏、大三輪氏、大神氏)
  鴨氏(賀茂朝臣氏)
  神人部氏
  神部氏
  などの氏族を輩出したと伝わる

  種子島(多禰島)・・・・鉄砲伝来
  と
  屋久島(掖玖島・やくしま)・・・「譯・訳・翻譯・通事」
  に居住した住民で

 702年(大宝二年)
 多褹
 に対して征討軍を派遣して鎮圧
 「多褹」
 や
 「益救(掖玖)」
 の語はみえるものの
 「多褹隼人」
 との記述は史料上存在しない

 甑隼人
 甑島に居住した住人
 『続日本紀』769年(神護景雲三年)の条
 「甑隼人麻比古」
 と言う個人名の記述で
 集団の区分では
 薩摩隼人に属する

 隼人の墓制
 3種類
 薩摩半島南部
 「立石土壙墓」
 を
 阿多隼人
 薩摩半島北部の
 「板石積石棺墓(地下式板石積石室墓)」
 を
 薩摩隼人
 日向・大隅に分布する
 「地下式横穴墓」を
 日向・大隅隼人の墓制
 にそれぞれ対応させる・・・
 南山城地域
 京都府
 京田辺市
 大住の
 男山丘陵から
 横穴墓が多く発見され
 隼人と関連付ける説
 (山砂利を取る地域であり
  横穴は掘りにくい地域の為
  隼人墓制と対応するとされた)
 が、考古学上
 横穴墓
 と
 地下式横穴墓
 が別物であるうえ
 隼人がいた九州南部には
 横穴墓がほとんど分布しないため
 関連性に疑問・・・

 隼人が文献上多く登場
 7世紀後半~8世紀代
 の墓の遺構については
 現地九州南部では
 ほとんど検出されておらず
 確実に
 「隼人の墓」
 と位置づけられる墓制は、現状では不明・・・

 人骨
 南九州における
 男性人骨の形質
 内陸部
 と
 宮崎平野部
 では異なる・・・

 内陸部の人々は
 縄文人・西北九州弥生人に類似し
 平野部の人々の中には
 北部九州弥生人に類似する・・・グループも存在
 内陸隼人
 は縄文系弥生人に近い
 人骨形質の観点からも
 隼人には地域差があった・・・

 これら人骨形質からの
 隼人像の復元については
 弥生・古墳時代の考古資料を
 直接、隼人と結び付けて論じられていた時期
 (1960年代~90年代)
 の学説に基づき
 弥生・古墳時代人骨を基に分析され
 この時代の考古資料を用いての
 隼人像の復元はできないと
 断じられた2000年代以降の研究解釈・・・
ー↓↑ー
 種子島
 弥生時代終末期の遺跡から出土する人骨は
 九州島の人骨と比較して
 小柄であり
 頭蓋変形
 がほどこされていた・・・説

 宮崎県
 えびの(海老野)市
 島内の
 島内地下式横穴墓群から
 出土した
 計209体の人骨の多くは
 良好な保存状態で
 宮崎県立
 西都原
 考古博物館に保管されている
 93体について
 赤色顔料の塗布の有無と
 部位に関する観察
 結果、顔料が塗られていた
 127体の内
 顔面のみの塗布が最も多く(38例)
 次いで
 頭部・上半身・下半身
 のいずれにも顔料を塗布したもの(23例)
 それに次ぐのは
 頭部
 と
 上半身
 に塗布したもの(11体)
 顔面塗布が重視されていた
 結論として
 第32号墓出土の
 1号人骨については
 白骨化が進みながらも
 頭髪が残存している段階で塗られた
ー↓↑ー
 神話の中の隼人
 日本神話

 海幸彦(火照(ホデリ)命
      火闌降命)
 が隼人の
 「阿多君」の祖神とされ(海幸山幸)
 海幸彦
 が
 山幸彦に仕返しされて
 苦しむ姿を真似たのが
 「隼人舞」・・・

 654年(7世紀中頃)
 日向に
 覩貨邏(西域のトハラ人と解釈するが
      現在のタイ・ドヴァーラヴァティ
      との説有り)
 の民が漂着した記述・・・

 民族系統
 『古事記』
 鵜飼は隼人の文化であるという記述
 鵜飼は
 「照葉樹林文化」
 を特徴づける要素
 「照葉樹林文化」
 をもった集団が
 「隼人」
 に多分に含まれていた・・・
 「隼人」
 はオーストロネシア系民族・・・
 隼人
 文化的・人種的に独立した固有の民族集団ではなく
 7世紀末~8世紀当時
 律令政府
 が
 律令体制導入の過程で
 古墳時代後期以来
 地域的独自性が強く
 班田制などの導入が
 未施行である
 薩摩・大隅地域の人々を
 律令体制外の辺境民として「設定」し
 朝貢させる形をとらせた
 政治的に創出された
 「疑似民族集団」
 ・・・
 8世紀
 南九州の
 有位者一覧
 ↓↑
 曾君細麻呂
 (和銅三年(710年)四月二十九日
  日向隼人、賜外従五位下)

 加志君和多利
 (天平元年(729年)七月二十二日
 大隅隼人
 姶羅郡大領
 外従七位下勲七等→外従五位下勲七等)

 佐須岐君夜麻等久々売
 (天平元年(729年)七月二十二日
 大隅隼人
 姶羅郡大領
 外従七位上→外従五位下
 天平勝宝元年(749年)八月二十三日
 外従五位上→外正五位下)

 薩麻君福志麻呂
 (天平八年(736年)
  薩摩郡大領、外従五位下)

 前君乎佐
 (天平8年(736年)
  薩摩郡少領
  外正七位下勲八等
 (天平十五年(743年)七月三日
  外正六位上→外従五位下
  天平勝宝元年(749年)八月二十二日
  外従五位下→外従五位上
  天平宝字八年(764年)一月十八日
  外従五位上→外正五位下)

 薩麻君宇志々
 (天平8年(736年)
 薩摩郡主政
 外少初位上あるいは下)

 肥君広龍(天平八年(736年)
 薩摩郡主帳
 外少初位上勲十二等)

 曾県主麻多
 (天平八年(736年)
 薩摩郡主帳
 外少初位下勲十等)

 肥君(天平八年(736年)
 出水郡大領
 外正六位下勲七等)

 五百木部
 (天平八年(736年)
 出水郡少領
 外従八位下勲七等)

 大伴部足床
 (天平八年(736年)
 出水郡主政
 外従八位下勲十等)

 大伴部福足
 (天平八年(736年)
  出水郡主帳、無位)

 薩麻君鷹(天平八年(736年)
 阿多郡少領
 外従八位下勲十等)

 加士伎県主都麻理
 (天平八年(736年)
 阿多郡主政
 外少初位上勲十等)

 建部神嶋
 (天平八年(736年)
 阿多郡主帳、無位)

 薩麻君須加
 (天平八年(736年)
 阿多郡主帳、無位)

 曾乃君多理志佐
 (曾乃君多利志佐)
 (天平十三年(741年)閏三月五日
 外正六位上→外従五位下
 天平十五年(743年)七月三日
 外従六位下→外正五位上
 天平勝宝元年(749年)八月二十二日
 外正五位上→従五位下)

 曾県主岐直志日羽志
 (天平勝宝元年(749年)八月二十二日
  外従五位下→外従五位上)

 加禰保佐
 (天平勝宝元年(749年)八月二十二日
 外従五位下→外従五位上)

 薩摩公鷹白
 (天平宝字八年(764年)一月十八日
 外正六位下→外従五位下
 神護景雲三年(769年)十一月二十六日
 外従五位下→外従五位上)

 薩摩公宇志
 (天平宝字八年(764年)一月十八日
  外従五位下→外従五位上)

 志公嶋麻呂
 (神護景雲三年(769年)十一月二十六日
  外従五位下→外従五位上)

 薩摩公久奈都
 (神護景雲三年(769年)十一月二十六日
 外正六位上→外従五位下)

 曾公足麿
 (神護景雲三年(769年)十一月二十六日
  外正六位上→外従五位下)

 大住直倭
 (神護景雲三年(769年)十一月二十六日
  外正六位上→外従五位下
  宝亀七年(776年)二月一日
  外従五位下→外従五位上)

 薩摩公豊継
 (宝亀七年(776年)二月一日
  外従五位下→外従五位上)

 曾乃君牛養
 (延暦十二年(793年)二月十日
  曾於郡大領
  外従五位下→外従五位上)

ー↓↑ー
隼=隹+十・・・卂 (シン)・準次
   隹(ふるとり)+十(拾・足・Ⅹ・10)
   シュン・ジュン
   はやぶさ
   ハヤブサ科の鳥
   カラスとほぼ変わらない大きさで
   鳥の中でも最も早く急降下できる
   「旧日本陸軍の1人乗りの戦闘機
    制式名称は一式戦闘機
    昭和13年(1938)初飛行
    最高時速555キロ」
  =鶻=骨+鳥

  ・・・ナゼ、「隹+十」が「はやぶさ」なのか?
  薩摩隼人 (さつまはやと) =薩摩出身の武士の美称
  勇猛な人のたとえ

  指事文字
  「尾の短いずんぐりした小鳥」の象形
  「横線=腕」・・・鷹狩の「隼」を腕に止らす形象?

  隹+卂 (シン)→ (シユン・十は省略形・ はやい)
  速く飛ぶ鳥=「はやぶさ」

  キリスト教での
  イエスの現世の姿・・・「隼」の漢字形象?
              ・・・集=隹+木(十+八)
              ・・・樵=木+焦
              ・・・礁=石+焦
              ・・・珊瑚礁・岩礁
                三語唱  願生(願唱)
                アーメン
                アメンホテップ
                ↓↑
 アクエンアテン=アメンホテプ4世
 (英 Akhenaten=Amenhotep IV)
 紀元前1362年?~紀元前1333年?
 古代エジプト第18王朝の王(ファラオ)
 (在位 紀元前1353年?~紀元前1336年?)
 「アクエンアテン (Akhenaten)」
 「イクナートン (Ikhnaton=Echnaton)」
 「アメンホテプ (Amenhotep)」
 「アメンヘテプ (Amenhetep)」
 ともそれぞれ表記

 エジプト第18王朝初期
 ~
 アメンホテプ3世の時代に
 強大な権力を有した
 「アメン神官団」・・・アメン・・・雨霧・・・淵蓋蘇文?
 に対抗するべく   VS
 「唯一神アテン」・・・アテン・・・蛙天(鴉転)・・・充て務?
 を主神に据え
 「宗教改革」
 出生時の名前
 「アメンホテプ」
 在位4年後
 当時国家神であったアメン神から
              アテン神への信仰変更し
 「アテン神に有益な(る)者」を意味する
 「アクエンアテン」へと改名
 同時に
 「テーベ」
 より
 「テル=エル=アマルナ」
 「アテンの地平線」の意味を持つ
 「アケトアテン」・・・開戸蛙転?
          ・・・曙の王=誉津別命
 へと遷都・・・
 
ー↓↑ー
 誉津別命(ほむつわけのみこと)
 『日本書紀』  誉津別命
 『古事記』    本牟智和気命=品牟津和気命
          (ほむちわけのみこと)
 『尾張国風土記』逸文 品津別皇子
 垂仁天皇の第一皇子
 母は皇后の
 狭穂毘売命(さほびめのみこと、日子坐王の女)
 『上宮記』の逸文
 継体天皇の先祖に
 通常 応神天皇
     誉田別命
     凡牟都和希王
     (ほむつわけのみこ)
     の同名?

 伝承
 火中での出生・・・火出見命=彦火火出見尊
             火折尊=火遠理命
とも呼ばれる
            瓊瓊杵尊
            と
            木花開耶姫
            の子
            神武天皇の祖父
            「山幸彦」として知られ
            海神の娘の
            豊玉姫と結婚し
            神武天皇を産んだ
            「虫よけの神」・・・?

 誉津別命
 『古事記』
 名前由来
 稲城の焼かれる火中で生まれた
 母により
 「本牟智和気御子」
 と名づけられた
 母の「狭穂姫命」は
 兄の「狭穂彦」の興した叛乱(狭穂毘古の反乱)
 の際に自殺
 『日本書紀』
 では「本牟智和気」は
 反乱の前に生まれていたが
 火中から救い出されたのは
 『古事記』に同じ
 垂仁天皇五年十月
 討伐令
 稲城での籠城が翌月まで続き
 火攻めが行われた
 『古事記』では
 「誉津別命」の誕生は
 垂仁天皇五年十一月・・・11解通
 
 出雲大神の祟り
 誉津別皇子
 長じて髭(ひげ・髯・鬚・須・鬍)
 が胸先に達しても
 言葉を発することがなく・・・おし(唖・訓・聾啞)
 『日本書紀』
 は赤子のように泣いてばかりいたと記録
 
 『日本書紀』
 皇子はある日
 鵠(くぐい・白鳥)が渡るさまを見て
 「是何物ぞ」と初めて言葉を発し
 天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じた
 天湯河板挙(鳥取造の祖)
 が
 出雲(一書に但馬)
 で捕まえて献上し
 鵠を遊び相手にすると
 誉津別命は言葉を発するようになった
 で、
 鳥取部・鳥飼部・誉津部
 を設けた

 『古事記』
 誉津別皇子
 天皇は
 尾張の国の二股に分かれた杉で
 二股船を作り
 それを運んできて
 市師池・軽池
 に浮かべて、皇子とともに戯れた
 皇子は
 天を往く
 鵠(くぐい・白鳥)を見て
 何かを言おうとしたので
 天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じ
 鵠は
 紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬
 近江・美濃・尾張・信濃・越
 を飛んだ末に捕らえられたが
 皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった
 ある晩、天皇の夢に何者かが現れて
 「我が宮を天皇の宮のごとく
  造り直したなら
  皇子はしゃべれるようになるだろう」
 と述べたので
 天皇は
 太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると
 言語(物言わぬ)は
 出雲大神の祟りとわかった
 天皇は皇子を
 「曙立王・・・あけぼのたつ王=大俣王の子
         菟上王(うなかみのおおきみ)と兄弟
         開化天皇の皇子の
        「彦坐王の孫」
         伊勢の
         品遅部
         佐那造
         の始祖
  菟上王」
 とともに
 出雲(島根県東部)に遣わし
 大神を拝させた
ー↓↑ー
 原文
https://seisaku.bz/kojiki/kojiki_10.html

ー↓↑ー
 在位中
 アメン神
 と
 その妻
 ムト女神
 の名前を神殿から削り取る
 神像を破壊する等して迫害
 他の神にも及んだ
 アテン神
 に傾倒するあまり国民の支持を失い
 トトメス3世
 より維持してきた
 アジア植民地に注意を払わず
 治世末期に
 エジプトは大きく領土を減らし
 「アクエンアテン」
 自身も後継者と定めた
 「スメンクカーラー」
 の死去後数年で亡くなり
 次王
 「ツタンカーメン(トゥトアンクアメン)」
 の治世では
 「アテン神信仰」
 から
 「アメン神」
 への信仰復興が行われた
ー↓↑ー
 ・・・「隼(はやぶさ)」が遅れて飛んできた
  ↓↑
 「隼(はやぶさ)」は
  北欧神話の
  標章や騎士の象徴
  巡査や俊敏な刑事
ー↓↑ー
 㢑=广+隼
    广+隹+十
    サイ
    家屋が崩れる
 𣯍=毛+隼
    毛+隹+十
    ジョウ・ニュ
    鳥獣の毛が盛んに生えているさま
   =氄=矞+毛
       矛+冏+毛
       予+丿+冂+㕣+毛
       予+丿+冂+儿+口+毛
       龴+乛+亅+丿+冂+八+口+毛
       龴+乛+亅+丿+冂+儿+口+毛
       ジョウ・ニュ
       にこげ・むくげ
       鳥獣の柔らかな細い毛
       鳥獣の毛が盛んに生えているさま
       =𣯍
       矞=矛+冏
          イツ・キツ・ケツ・・・橘(たちばな・キツ)
          錐で穴をあける・うがつ
          矞雲(いつうん)=三色のめでたい雲
          驚くさま・驚き慌てるさま
          だます・たぶらかす
 榫=木+隼
    木+隹+十
    シュン
    木材をつなぎ合わせる凹所に差し込む凸起
    ほぞ(枘・臍)
   =㔼=推+十
 鎨=金+隼
    金+隹+十
    シュン
    金属が見えだす
 鶽=隼+鳥
    隹+十+鳥
    シュン
    はやぶさ。ハヤブサ科の鳥
   =隼
     鷲(わし)・タカ科の鳥
ー↓↑ー
 ホルス (Horus 、 エジプト語
       ラテン文字転写 Hr, Hru
      古代ギリシア語: Ώρος, Hōros 、ホーロス)

 ハルポクラテース
 ギリシア神話の沈黙の神
 古代エジプトのホルス神のギリシア化
 古代エジプトのホルス=生まれたての太陽・朝日・旭日・旭
 アレクサンドロス3世によって
 エジプトが征服された後の
 ヘレニズム期に、
 エジプト語の Har-pa-khered

 プルタルコス
 によれば
 ハルポクラテース
 は
 イシスの
 2番目の息子で
 生まれつき
 脚が不自由だった
 子供のホルスは
 子供やその母親の特別な守護神となった
 毒蛇にかまれた際に
 ラー(太陽神)
 に直してもらったことから
 受難の後の希望を表す神ともなった

 エジプト語
 「顔=ホル」
 「上にあるもの=ホル」
 が由来だとする・・・説
 「ホルス」
 の名は
 「リビア」
 から来て
 「上・下の両エジプト」
 の大半を征服した民族の
 地域神となっていた
 「隼神」
 の名前であり
 他の多くの
 「隼神」
 を吸収していった神であった
ー↓↑ー

 胆(きも)の中心=へそ=綣=糸+巻
 彥=文+厂+彡
    亠+乂+厂+彡
    亠+丿+厂+彡
 比古(ひこ)
 毘古(びこ)
 毘(へそ・ビ)=田+比
 𦜝=臍=へそ=綣
ー↓↑ー
 ことわざ
 ⤵⤵
 偐=イ+彥=ガン・ゲン・にせ・にせもの=贋・僞・偽者
    亻+彥
    亻+文+厂+彡
    亻+亠+乂+厂+彡
    イ+彦
    亻+亠+丷+厂+彡
    亻+立+丿+彡
 嵃=ゲン
    山のけわしいさま
    殿台の高いさま
    やまびこ=山+彦・反響
 喭=ガン・ゲン・とむらう・悔やみをいう
    粗い・猛々しい
 遃=辶+彥
    ガン・ゲン
    行く・歩く・歩き回る
    遊ぶ・楽しむ
 楌=木+彥
    ガン・ゲン
    木の名
 諺=ゲン・ことわざ
    から言い伝えられた教訓
    とむらう=弔う・喭
 顏=ガン・かお
    かんばせ
    つら(面)・ひたい(額)・おでこ(御凸)
    かおつき・かおいろ
    いろどり・色合い・彩色
 㘖=「㘖㘖(ガンガン)=争うさま」
 齴=齒+彥
    齒+彦
    止+凵+从+一+文+厂+彡
    止+凵+从+一+产+彡
    止+凵+人+一+亠+乂+厂+彡
    止+凵+人+一+亠+丷+厂+彡
    止+凵+人+一+亠+丿+厂+彡
    齞
    ゲン
    口を開いて歯をみせる
    歯がむき出しになっているさま
 𨩱=金+彦=鏟
   =サン・セン
    削る・削って平らにする
    木や石を平らに削る道具
    かんな(鉋)・土を削り取る道具
   =シャベル・スコップ
    喋る    素乞附(譜・暜)
    名字
    𨩱津=ならつ

 牡牛
 bull・ox
 nowt
 ラテン語
 taurus(タウルス)

 久=ノ+人・・・大久保・久保・・・揣摩叢久光?
   𠂉+人

ー↓↑ーーgoo
干支歴
 命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
 ↓↑
 メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
ー↓↑ー
 ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2023/3
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「太田 牛一」・・・ドウして「大田」の「牛のイチ」なのか?

2025-09-05 23:51:14 | 古事記字源
 大田田根子の墓・・・
 9月3日からのツヅき・・・

 『日本書紀』
 「大田 田根子(おほたたねこ)」
 茅渟県(ちぬのあがた)の
 「陶邑(すえのむら)」出身
   ・・・陶器の邑・・・瀬戸物の邑
     「唐猫(からねこ)」=外国産の猫類
         唐獅子・高麗犬・狛・Lion(獅子)
     トウビョウ=闘病・投錨(⚓)
 ↓↑
 邑=▭+巴
    オウ・ユウ
    うれ(憂)える
    みやこ・くに・むら・さと・まち
    天子・諸侯・大夫の領地
    悁邑・悁悒(エンユウ)
    都邑(トユウ)
    憂悒・憂邑(ユウユウ)
    食邑(ショクユウ)
    中国の王公に封ぜられた者が
    領内の封戸から収取する所得
    山村僻邑(サンソンヘキユウ)
    邑犬群吠(ユウケングンバイ) 
 ↓↑

 『古事記』では
 「意富 多 多泥古(意富 多々 泥古) 命」
 河内国の
 「美努村(みのむら)」出身・・・美濃村?
                三濃尾?
       三重尾張
 「大神神社」では
 「大直禰子(おほ た た ねこ) 命」
 「おからねこ=於加良根子」神社
 明治四十二年
 「猫神」を否定し
 「大直禰子」
 を祀るとした・・・?
 ↓↑

「昔から
 おからねこ(於加良根子)
 と称した
『若原経敬』の云うに
於加良祢古命
の名を誤り
奈良の春日、三輪、大直祢
この三社と一社なり
と正す
明治初年以来
於加良根子神社
であったのを
明治四十二年四月
今の社名に改めた
大正二年一月
春日神社の末社となるも
戦後分離した」
 ↓↑
 名古屋市
 中区
 大須
 4丁目11-20
 に存在する
「大  直 禰子 神社」・・・直=ただす
 おほ ただ ねこ じんじゃ
 別名
 「若宮社」
名古屋(尾張)
 にあるこの神社は
 大和一之宮・大神神社の初代神主の
 「大 直禰子(大  田田根子・おほ たたねこ)」が祭神
 「大 直禰子(おほ ただねこ)」
 は
 「大物主神の子孫」
 大神(おおみわ・大三輪)神社で
 大物主神を祀る祭事を務めていた人物
 明治まで
 大神神社の神宮寺
 「大御輪寺」
 として
 「若宮神(大 直禰子命)」
 と
 「十一面観音像」
 を
 合わせて祀っていたが
 明治三十九年
 「神仏分離令」の
 「廃仏毀釈」で
 全国の無格社の神社が
 合祀され大量に廃社となった
 「於加良根子(おかれねこ)神社」
 が
 「猫の神社」
 では取りつぶされるので
 親交のあった
 「聖林寺」・・・所為臨時(輪字)?
 へ
 「十一面観音像」・・・拾う一の孟(たける=建)
              観る音の人の象(捷・はやい)
                      捷=㨗=掶
              資弁捷疾・快捷(勝)
 を移し
 境内に
 「若宮神=大   直   禰子」
              ↓↑
     「おほ、ただ の 猫=ねこ=音子」?
       持統天皇=大倭 根子(ねこ)
        天之廣野日女尊
       高天原廣野姫天皇
       鸕野(うの) 讚良(さらら)
  ↓↑
 のみを祀るようになった・・・?
 本殿は
 「奈良」時代の
 創建当時の部材が残され
 「寺のお堂」
 のような造りとなっている・・・
 ↓↑

 尾張国
 春日井郡
 山田荘
 安食村(愛知県名古屋市北区)
 産まれの
 「太田 牛一」・・・ドウして「大田」の「牛のイチ」なのか?
  ↓↑

戦国時代 - 江戸時代初期
大永7年(1527年)
慶長18年(1613年)3月
信定、牛一
又助、又介、和泉
仏日寺(大阪府池田市)
    官位 和泉守
    幕府 織豊政権
    主君
    斯波義統、柴田勝家、
    織田信長、
    丹羽長秀、丹羽長重
    豊臣秀吉、秀頼
    子
大田 小又助
    大田 又七郎牛次(子孫の
             加賀大田家では
            「大田」を名乗る)
  ↓↑
 「太田 牛一」・・・牛=うし=丑・🐂・🐄・🐮
            宇志・大人・愛し・憂し
            齲歯(うし・虫歯)
            後(うし・after・牛後)
            
 (おおた ギュウイチ・・・鶏頭となるも
     うしかず    牛後=牛尾となる毋(なかれ)?
     うしかつ)
 官位
 和泉守
 通称
 又助(又介)・和泉
 諱
 天正九年(1581年)まで
 「信定」と署名
 その後の書状で
 天正十七年(1589年)から
 「牛一」
 と署名し晩年まで使用
 信長の死んだ
 天正十年(1582年)前後に
 諱を変えた・・・
 平家語り一方流
 琵琶法師が
 名乗りの一文字の末尾に
 「一」を付けるので、それに倣った・・・説
 「市」は「座頭の市さん」だけれど・・・?
 ↓↑
 大永七年(1527年)
 尾張国
 春日井郡
 山田荘
 安食村(愛知県名古屋市北区)
 の
 土豪の家に誕生
 ↓↑
 成願寺で
 僧侶
 還俗し
 「斯波 義統」・・・波斯=ペルシャ=Persia・・・イラン
 の家臣
 天文二十三年(1554年)七月十二日
 「義統」殺害後
 那古野城の
 「織田 信長」
 の保護を求めた遺児の
 「斯波 義銀」
 に從って織田家の家臣・・・
 天文二十三年(1554年)
 信長の家臣の
 「柴田 勝家」
 に仕え
 足軽衆・・・足が軽い・・・足が早い
         軽(かる)皇子=皇極-斉明天皇の同母弟(孝徳天皇)
         漢風諡号 孝徳天皇
         和風諡号 天万豊日天皇
         諱 軽
         父 茅渟王(敏達天皇皇孫)
         母 吉備姫王(欽明天皇皇孫)
         皇極-斉明天皇の同母弟

         皇極天皇二年四月二十八日
         (643年5月21日・50歳)
         飛鳥板蓋宮に遷幸
         皇極天皇十一月一日(12月16日)
         蘇我入鹿
         が
         山背大兄王
         (聖徳太子=厩戸皇子の長男)
         を攻め
         皇極天皇二年十一月十一日
         山背大兄王は自害

         田村皇子
         漢風諡号 舒明天皇
         和風諡号 息長足日広額天皇
         諱    田村
         別称   高市天皇・・・高市sne?
              ↓↑
              高市皇子
              天武天皇の第一皇子
              ↓↑
              武市 瑞山 (たけち ずいざん)
              文政 12年 9月27日(1829年 10月24日)
              ~
              慶応 元年閏 5月11日(1865年 7月3日))
         ↓↑
         珂瑠(かる)皇子=持統天皇の孫(文武天皇)
                  草壁皇子の長男
                  
 ↓↑
 「太田 牛一」は
 七月十八日
 「安食の戦い」・・・「斯波 義統」の「弔い合戦」・・・
 に参加
 弓の腕を認められ
 「織田 信長」
 の直臣
 弓3人
 鑓3人
 の
 「六人衆」の一員となり
 「近侍衆」となる
 永禄七年(1564年)
 美濃
 斎藤氏の
 「堂洞城」攻略で
 「二の丸の門」
 近くの建物の高い屋根から
 弓を射て活躍
 信長に知行を増やされる
 ↓↑
 その後
 信長の
 「近習の書記」
 後
 「安土城」下で屋敷を持ち
 信長近侍の「官僚(吏僚)」
 永禄十二年(1569年)
 ~
 天正十年(1582年)
 「丹羽 長秀」・・・似話 長州?
 の与力
 京の寺社との間の行政担当
 天正五年(1576年)五月
 「石山合戦」で
 「天王寺砦」で
 「原田 直政」討ち死にの際
 「動員され出陣(『教如上人御伝略抄』)」
 『賀茂別雷神社文書』に
 同社から
 「大田 牛一」
 に筆がしばしば贈られた記録
 他に
 「長束 正家」
 やその弟
 「長束 直吉」
 などの吏僚仲間にも贈られ
 「大田 牛一」
 も賀茂社から筆を贈られた・・・
 これを用い
 『信長公記』
 の元になる記録を付けていた・・・
 「本能寺の変」後
 「丹羽 長秀」
 に2,000石で仕え
 「柴田 勝家」
 との戦いのため
 「坂本城」に
 「丹羽 長秀」
 に従い参陣
 天正十三年(1585年)
 「長秀」没後
 「丹羽 長重」
 に
 加賀国
 松任
 で仕え
 公務は息子に譲り
 同地で一時隠居

 「豊臣 秀吉」
 に召し出され
 天正十七年(1587年)から
 洛南の行政官僚とし
 「寺社行政と検地」
 なども担当
 「山城国
  加茂
  六郷」
 を検地
 天正十八年(1588年)
 淀城を拠点にし
 南山城
 近江国
 浅井郡
 の代官も兼任
 天正二十年(1590年)
 肥前国
 名護屋
 へ
 秀吉に従軍し
 道中の人足や馬を配分する奉行に就任
 名護屋では
 名護屋城の建築工事の差配
 文禄元年(1592年)
 「文禄の役」
 城の留守番衆
 文禄三年(1594年)
 大阪に戻る
 文禄五年(1596年)五月九日
 「豊臣 秀頼」
 の初上洛に供奉
 「後陽成天皇」
 に
 『太閤御代度々御進発之記』
 を献上
 慶長三年(1598年)三月十五日
 「醍醐の花見」
 では秀吉の側室
 「三の丸殿」の警護
 三月十七日
 醍醐寺三宝院で
 門跡・義演から
 信長~秀頼
 までの
 記録を書いたと紹介され
 一部暗誦
 九月十八日
 「秀吉」没後
 「豊臣 秀頼」
 に仕えた
 慶長六年(1601年)まで
 『関ヶ原合戦双紙』
 を
 「徳川家康」
 に献上
 十一月七日
 「中井 宗茂¥
 にも進上
 慶長十一年(1606年)
 「南禅寺
  金地院」
 の
 「河内真観寺」
 領の代官
 慶長十二年(1607年)頃
 『関ヶ原合戦双紙』奥書で
 自分の著作をまとめ
 「五代之軍記」
 と名付ける
 慶長十六年(1611年)三月二十八日
 秀頼の
 家康との
 京都二条城での会見への上洛供奉

 慶長十五年(1610年)
 84歳時の書も残っている
 感冒で重体
 大阪城東南の重臣の屋敷地区
 大坂玉造で
 慶長十八年(1613年)三月
 病死
 大阪府
 池田市
 佛日寺
 太田家嫡男一門の墓
 に子孫が
 平成期に立てた墓票に名前

 『信長公記』
 が有名
 人の行為
 戦争や生死に対し
 天道が定めているという
 「運命論者」
 信長の虐殺も淡々と事実を描くが批判はしない
 安土城についても
 細部まで正確に記録し
 加賀藩伝来の
 天守指図の発見で裏付けられた

 子孫
 嫡男
 「又七郎牛次」
 は
 秀頼家臣の
 「青木 一重」
 に仕え
 「大坂夏の陣」
 の豊臣氏滅亡後は
 津藩の
 「藤堂 高虎」
 に仕える
 摂津麻田藩の
 「青木」家に戻り
 以来
 「麻田藩士」
 として続いた
 『信長公記』
 の写本を現在子孫の
 「太田 直憲」
 が所有

 他の子
 「小又助」
 は
 丹羽家
 「織田 信雄」
 「豊臣 秀吉」
 に仕え、その孫の
 「宗古」
 が浪人後
 寛永十八年(1641年)より
 「前田 利常」
 に仕え
 加賀藩士
 富山県に子孫
 大田家が残る
 富山県公文書館に
 現所蔵者から
 加賀
 大田家伝来文書が寄託
 『信長公記』写本(「首巻」も含む)
 「系図帳」
 文政七年(1824年)十月
 「先祖由緒一類付帳」
 慶応二年(1866年)九月

 著作
 『信長公記』(「信長記」、「安土記」、「安土日記」)
 『大かうさまくんきのうち』(「太田牛一雑記」)
 『関ヶ原合戦双紙』(「太田和泉守記」、「内府公軍記」)
 『高麗陣日記』
 『関東軍記』
 『別本御代々軍記』(「太田牛一旧記」)
 『太閤御代度々御進発之記』
 『豊国大明神臨時御祭礼記録』
 『今度之公家草紙』(「猪熊物語」)慶長15年
 『新門跡大坂退散之次第』
ー↓↑ー

ー↓↑ー
干支歴
 命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
 ↓↑
 メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
ー↓↑ー
 ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2023/3

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ホルス・・・ハヤブサ(隼)・・・ホルスの左眼=月

2025-09-03 14:10:25 | 古事記字源
 前回
 「・・・次回に書き込む予定・・・」
 って、書き込んだ「ケ所」・・・何を書き込むつもりだったんだか
 ボケて「???」・・・忘却・・・

 前後の文が「隼=はやぶさ=鶻」だったから・・・
 古代エジプトの「ホルス=隼(はやぶさ)」
 と
 日本史に登場する
 「薩摩隼人=異邦人(Alien)?」に関する・・・
 ナンだったんだか・・・ボケ・・・
 書き込みたかったのは・・・貼り付けた「絵」は・・・
 「隼(古代エジプトのホルス・ホルスの眼)」の「カンジる」
 「ヌウ(アフリカ・サバンナの野牛)」の「カンジる」
 「蛇(エジプトのコブラ)」の「カンジる」
 「珍敷塚古墳の岩石彩色の古代エジプトの舟」の「カンジる」

 ・・・
 うきは市
 北緯33度20分51秒
 東経130度45分18秒
 浮羽(旧御幸村)⇄浮羽町

 的邑(いくはのむら)→ 生葉郡 → 浮羽郡 → うきは市
 と変遷・・・的=白+勺(シャク・ジャク・柄杓=ひしゃく)
       勺=勹(つつむ)+丶(てん・ぽち・ちょん・チュウ)
       的=まと・テキ・・・「いくは」って?
       邑(むら・ユウ)=阝(おおざと・こざと=阜=丘)
                丘=おか=𦊆・・・罡・魁罡(河馬神)
 友好都市
 枝幸町(北海道)
 1995年に旧・浮羽町が
 「さるかに合戦」・・・猿蟹合戦?
 にちなんで・・・・・因む、って?
 「カニ(蟹)」で有名な町の紹介を
 北海道に依頼した縁で交流開始
 2009年10月31日
 友好都市協定調印・・・
 北海道
 枝幸郡
 枝幸町
 字本町916番地
 北緯44度56分
  東経142度34分
 ↓↑
 枝幸(えさし)
 アイヌ語「頭が・浜に・ついている・所」
      「岬」を意味する
      「エサウシイ(エサウシ)」に由来
   同名発音の「江差(えさし)」も同義
     ・・・エサシ=昆布(サシ)・・・説
 ↓↑

 うきは市
 筑後川を挟んで
 朝倉市と接し
 西は
 久留米市
 田主丸町
 南は
 八女市
 星野村と隣接
 大分県の日田市とも隣接
 ↓↑
 屋形古墳群
 うきは市
 吉井町
 富永
 字原
 並びに
 字古畑に所在
 4基の装飾古墳の総称
 全て円墳
 墳丘が残っているのは
 原古墳
 古畑古墳
 の2基
 珍敷塚古墳(福岡県うきは市)

 「珍敷塚古墳の隼人」・・・隼人=ホルス=埃及(エジプト)人?
 ↓↑
 「隼人(はやと)
   =隼(鶻=骨+鳥)の人」
         骨=冎+月
          冎+月
          冎=ゆがむ・口がゆがむ
          意 「口」+ 音 「冎・冎」
          異体字「呙・冎・冎・冎 」
            咼=冎+口 「咼・咼」
          亦作剮・・・削・・・削岩機
          剐(剮)
 ↓↑
 「隼人の祖」
 ↓↑
 火照命(ほでりのみこと)
 『古事記』
 「瓊瓊杵尊」
 と
 「木花開耶姫」
 の第一子
 ↓↑
 「(犬のように)吠える人」
 「ハヤブサのような人」
 方位の象徴
 南を示す
 「鳥隼」の「隼の字」
 によって名付けられた・・・
 ↓↑
 飛鳥・奈良時代
 南九州の
 薩摩・大隅地域の人々は
 律令政府により
 「擬製的な化外の民(夷狄=イテキ)」
 として扱われた・・・古代中国で
           東方の未開国を夷
           北方の未開人を狄
           といった・・・
           的(テキ)の邑(むら)?
 漢字の文字が「隼人」なら「渡来エジプト人」だろう・・・?
 ↓↑
 文献上の確実な史実での
 「隼人」の登場は
 『日本書紀』
 682年・・・663年は「白村江の戦い」の20年後
       旧暦
       天智天皇二年八月二十七日~二十八日
       ユリウス暦
       663年10月4日~10月5日
       朝鮮半島、白村江(錦江近郊)
 (7世紀後半
  天武天皇十一年)七月・・・イチ拾う一(はじめ)年
               始=乨=兘=はじめ 念
               漆(志知・死地)解通?
 「朝貢」記事
 ↓↑
 『日本書紀』巻第二十九
 天武朝十一年(682年)七月
 「隼人、多に来て、方物(くにつもの)を貢れり。
  是の日に
  大隅の隼人と
  阿多の隼人と
  朝庭に相撲(すまいと)る
  大隅の
  隼人・・・はやと・・・ハヤブサの人
  勝ちぬ」
 と記録
 正式に
 大和政権への服属の意志を示した
 6年に1度朝貢し
 犬の鳴き声のような
 吠声(ハイセイ)で・・・「裴世清」?
 皇宮衛門の守護や行幸の
 護衛(隼人之調)を行った
 蛮族の声には
 悪霊退散の呪力があると信じられていた
 竹笠・竹扇
 の造作などのほか
 服属の意を示す
 歌舞の教習を行いつつ
 「隼人舞」
 を節会で奏上した・・・
 ↓↑
 隼人
 ヤマト王権へ服属後も
 しばしば朝廷に対し反乱を起こし
 大隅隼人は
 713年(和銅六年)・・・712年は「古事記」
           和銅五年(712年)
           太安万侶
           編纂
           元明天皇に献上
 大隅国設置後にも反乱
 720年(養老四年)・・・「日本書紀」完成
 大隅で勃発した
 「隼人の反乱」
 大規模な反乱が
 征隼人将軍
 「大伴旅人」・・・於保訳摸(模)の旅の人?
 によって
 721年
 に征討された後
 完全に服従
 ↓↑
 800年(延暦十九年)
 「班田収授法」
 実施
 奥羽両国
 薩摩・大隅
 などの「辺要国」における
 「班田収授」
 が遅れた理由は
 墾田の収公なども伴うために
 帰属した
 「蝦夷・隼人」
 を含めた
 「辺要国」の・・・辺境の軍用地
 「百姓」の動揺を防ぐとともに
 彼らの墾田を保護した優遇策で
 墾田収授法の対象になるということは
 隼人にも
 一般の
 公民と同じ租庸調が課される条件が整えられ
 法的意味での
 「隼人の消滅(=公民化・百姓化)」
 の完成を意味した・・・
 ↓↑
 801年(延暦二十年)
 6年に1度行われていた
 朝貢
 「隼人之調」
 を廃止 (『類聚国史』隼人条)
 805年
 節会での風俗歌舞の奏上も廃止
 一般の公民と
 同じ調庸に置き換えられ
 隼人
 とそれ以外の百姓との間の負担の
 公平化を図った・・・?
 ↓↑
 9世紀初頭以降
 南九州の住民を
 「隼人」
 と呼称する例は
 史料上ひとつも確認されなくなった
 南九州の人々が
 「隼人」
 と呼ばれたのは
 わずか
 「120年間」
 ほどのこと・・・異邦人
 ↓↑
 古事記
 「曽婆訶理(ソバカリ)=曽婆加里」
 日本書紀
 「刺領巾(サシヒレ)」
 という
 隼人の近習が
 「瑞歯別( 反正天皇)」皇子
 に唆されて
 自らの主君である
 「住吉仲(墨江仲)」皇子
 を「厠(かわや)」で暗殺し
       ・・・大和建(小碓)は
         双子の兄(大碓)を「厠」で殺した
         女装した「小碓命」が
         熊襲猛(たける)の尻を刺した殺害時に
         「たける」の名前の名乗りを貰った
 ↓↑
 大臣の官位を得たが
 その後
 暗殺を唆した
 「瑞歯別( 反正天皇)」皇子
 はその不忠を嫌って
 「刺領巾(サシヒレ)」
 を殺害した
 「体制外の武力」として
 隼人が利用された・・・騙された「隼人」
 『新唐書』の記録に
 「邪古・波邪・多尼の三小王」
 がいた・・・日本の九州に居住していた?
 「波邪」・・・波動で蛇行する它(へび)
       ・・・刺領巾(さしひれ)
       惜別で領巾( ひれ)を振る
       『万葉集』
       松浦佐用姫は
       任那救援の途中の
       大伴狭手比古と契り
       その別れに際し
       山に登り船上の彼に
       領巾 (ひれ) を激しく振って
       別れを惜しんだ
       その山を
       領巾振山という
       「山上 憶良」の歌
       ↓↑
       古代埃及のヘビ神

       ウアジェト (Uawjet)・・・ホルスの左眼
       大きな翼を持つコブラの姿
       下エジプトの守護女神
       ファラオの守護神
       ウアジェト (Uawjet) - ホルスの眼
       ホルスは太陽と天空の神
       ウアジェトは月
       古代エジプトの守護女神=コブラ
       ウアジェトの眼
       失ったものを回復
       完全なるもの
       修復されたもの・蘇生されたもの(キリストの蘇り)
       守護や魔除けの護符

       アペプ (Apepi): ・・・阿部歩(蛇行・匍匐)
                 阿毎(海女・尼⇄它?)王朝
       アピペ(Apipe)・・・・阿鼻部・蛙尾辺?
       アーペプ(アアペプ、Aapep)
       アポペ(Apope)
       古代エジプト語のヒエログリフは
       母音が曖昧
       古典ギリシア語転記は
       アポピス(’Αποφις, Apophis)・・・阿保毘諏?
       大蛇神
       太陽神ラーに毒牙で噛みつき、闇と破壊の化身
       イオは・・・・壹與(伊地与=伊予?)
       ナイル川・・・萎える・綯える・名絵留?
       の川辺でゼウスの子を産み
       エジプトの王と結婚
       イオに因んでギリシャ西海は
       「イオニア海」

       メヘン (Mehen)
        蛇神で墓の守護神
 ↓↑     洪水の水神
 「波邪」・・・邪の道は蛇・・・横波の波動、蛇行
 は
 「隼人」
 ではないか・・・の説・・・?
 ↓↑
 熊襲との関係・・・熊を襲う
       ・・・高麗(狛・犬・狗・駒)を襲(かさねる)
 南九州に居住していた
 隼人と呼ばれた人々と
 同じ・・・とする説
 熊襲の後裔を
 隼人とする・・・説
 文化を継承した部族
 5世紀ごろまで
 大和朝廷へ臣従し
 隼人として仕えた・・・説(津田左右吉)
 「熊」
 や
 「襲」
 は
 「隼人」の「阿多」や「大隅」のように
 九州南部の地名で
 ヤマト王権に従わない
 部族の総称・・・
 ↓↑
 熊襲
 記紀神話に登場
 現在の九州南部にあった
 襲国
 に本拠地を構え
 ヤマト王権に抵抗した人々・・・
 地域名自体を表す総称
 古事記
 「熊曾」・・・曾=八+▭+小+日
         丷+▭+小+日
         ゾ・ソウ・ソ・ゾウ
         かさなる・かつて・すなわち・ます
         これまで・以前に
         幾重にもかさなる
         ます・ふえる・ふやす=増
       「すなわち・ところが・なんと」
       「いったいぜんたい」
 と表記
 日本書紀
 「熊襲」
 筑前国風土記
 「球磨囎唹」・・・熊襲・熊蘇・熊鼠・・・?
 と表記
 ↓↑
 肥後国
 球磨郡(くまぐん)
 熊本県
 人吉市
 周辺
 球磨川上流域
 から
 大隅国
 曽於郡(そおぐん)
 ↓↑
 鹿児島県
 霧島市周辺
 曽於市
 曽於郡
 とは
 領域を異にする・・・
 ↓↑
 に居住したとされる
 ↓↑
 「熊襲」
 記紀の
 日本武尊物語
 伝説的記録に現れるのに対し
 「隼人」
 は平安時代初頭までの歴史記録に多数現れ
 熊襲が反抗的に描かれるのに対し
 隼人は仁徳紀には
 天皇や王子の近習であった・・・と記録
 ↓↑
 言語・文化
 他の地方と大きく異なっていた
 ↓↑
 『大宝律令』では
 「異人」と記録・・・
 ↓↑
 『続日本紀』養老六年(721年)四月十六日条
 「陸奥の蝦夷
  薩摩の隼人
 らを征討した将軍
 通訳者
 に地位・功績に応じて勲位を授ける」
 とあり
 通訳者
 を必要とした・・・
 ↓↑
 文化・律令制下
 『延喜式』巻二十八(隼人司)
 元日・即位・蕃客入朝などの大儀に
 「大衣2人
  番上隼人20人
  今来隼人20人
  白丁隼人132人
  が参加した」
 と記録
 遠従の
 「駕行」
 には
 「大衣2人
  番上隼人4人
  今来隼人10人
  が供奉した」
 とあり
 隼人の呪力が
 ヤマト王権の支配者層に信じられ
 利用されていた・・・
 「井上辰雄」らは
 「狗吠(犬の鳴き真似)行為や
  身につけている
  緋帛の肩巾(ひれ・領巾)や
  横刀が
  悪霊を鎮める呪声であり
  呪具であった事」
 を明らかにしている・・・
 『延喜式』巻二十八大儀の条
 「隼人の服装」
 『日本霊異記』(上巻一)
 「小子部」氏が
 「雄略天皇」の勅命により
 雷を捕えようとした時の姿
 「緋(あけ)の蘰(かずら)を
  額(ぬか)に著け
  赤き幡鉾(はたほこ)をあげ」
 と酷似し、この事から井上辰雄は
 隼人は
 雷神の・・・雷神=稲光・電光・雷電=大蛇
 鎮魂と言う職掌を介して
 小子部連
 と結びついていた・・・と推測?
 ↓↑
 隼人は
 宮中の守護
 芸能、相撲、竹細工
 などを行った
 ↓↑
 畿内では
 隼人の歌舞による
 「隼人舞」
 『古事記』
 『日本書紀』
 『続日本紀』
 記述され
 朝廷に御調を貢進すると共に行われ
 海外異国の客人の前でも舞われていた
 その後途絶えた・・・
 ↓↑
 平城宮跡で
 「隼人の楯」が発掘
 独特の
 逆S字形文様が描かれている
 (『延喜式』の記述と合致)
 ↓↑
 隼群馬県
 高崎市
 長瀞西
 古墳(5世紀前半)出土の
 鉄鏃の中に
 南九州と近畿を中心に出土するタイプ
 「二段逆刺鉄鏃」
 が見られ
 1995年時点
 群馬県でも2例が確認
 ↓↑
 蛇行剣
 「地下式横穴墓」
 「板石積石棺墓(地下式板石積石室墓)」
 から蛇行剣の出土が比較的多い
 ↓↑
 日向駒
  『日本書紀』
 推古天皇が
 「駒ならば日向の駒」
 と歌を詠んだ
 日向は
 大隅・薩摩を含んだ地域で
 「隼人の馬」・・・
 南九州はまだ征圧が確定的ではない為
 内国の馬とは区別視されたもの・・・
 『新撰姓氏録』
 額田部・・・・額(ぬか・ひたい・ガク)=客+頁
 の先祖伝承
 允恭天皇の治世
 薩摩と戦をしている時
 額に「田」という字の
 つむじのある馬を手に入れ
 天皇に献上し
 額田(ぬかだ)という名を与えられたと記述
 「隼人の馬」
 である事から、南方に繋がる・・・
 隼人の馬が
 文化的にも
 内国とは別の扱いを受けていた
 地理的・風土的特色から御崎馬が存在
 時代の
 日向馬が
 大和に送られたことは遺骸からも判明
 大阪府
  四條畷市の
  蔀屋北遺跡から
  全身骨格(体高125センチ、5世紀頃)が出土
  御崎馬の類・・・
  この馬の全身骨格については
  歯の形状が
  木曽馬に近かった・・・
 ↓↑
 人口・居住地
 熊本県域
 や
 宮崎県域
 南西諸島の人々が
 隼人とされた例は
 ひとつも確認されず
 鹿児島県
 本土域の人々のみが
 隼人であった・・・
 鹿児島県本土域
 住民が
 隼人とはされていなかった地域も想定・・・
 ↓↑
 朝廷により
 他地域から
 隼人の居住地への
 集団移住
 8世紀初め
 鹿児島県一帯への移住民は
 当地の総人口の
 7分の1に相当する
 9千人前後と推定・・・
 総人口6万3千~9千人程度のうち
 約5万4千人が
 在地人=隼人
 と推定される(本州へ移住した隼人は含まない)
 ↓↑
 畿内に移住させられた隼人
 律令制下で
 隼人司(衛門府、後に兵部省)
 がこれらを司った
 特に
 山城国(京都府)南部に多く定住し
 大隅隼人
 の住んだ現在の
 京都府
 京田辺市には
 「大住(おおすみ)」
 の地名
 中世には
 「隼人荘」
 と呼ばれ
 奈良盆地南部と
 近畿における
 隼人の二大居住地で
 武埴安彦命
 の伝承に基本的に反映・・・
 ↓↑
 山川門
 境界祭祀を司るとみられる
 境部(境合部)氏
 の系統は7氏
 この内
 大和国
 宇智郡(五條市原町おおすみ)
 境合部
 は
 隼人系と見られ
 2氏が
 隼人系とされる・・・
 『肥前国風土記』
 「五島列島の海士は
  容姿が隼人に似ており
  騎射を好み
  言葉も俗人と異なっている」
 という記述・・・
 ↓↑
 各地の隼人
 阿多隼人(薩摩隼人)
 薩摩半島一帯に居住
 薩摩国設置以前は
 この一帯は
 アタ(阿多、又は吾田と表記)
 と呼ばれていた
 『日本書紀』682年(天武天皇十一年)
 薩摩国設置後
 『続日本紀』709年(和銅二年)
 薩摩隼人
 の呼称が使用
 ↓↑
 大隅隼人
 大隅郡(大隅半島北部
      特に
      「大隅郷(志布志市~曽於市大隅町)」
      周辺か)
 と呼ばれる地域に居住した隼人
 主領域を
 肝属平野とする集団・・・説
 『日本書紀』682年(天武天皇十一年)条
 ↓↑
 その他の呼称
 上記2区分の隼人以外にも
 「日向隼人」
 や
 「多褹隼人」
 「甑隼人」
 という隼人集団が存在
 これらは史料にみえる隼人の個人名を
 集団名と誤認
 地域名称の変更に伴う
 集団呼称の変更を考慮せずに引用
 史料を読み違えたことで生じた誤り
 集団名としての隼人区分は
 阿多(薩摩)隼人
 大隅隼人
 のみとされる・・・
 ↓↑
 日向隼人
 大隅国が
 日向国から分立する以前の
 『続日本紀』710年(和銅三年)条
 1度だけ記述される用例で
 その内容も
 「曾君細麻呂」ら
 大隅地域を基盤とする隼人についてであるため
 大隅隼人と同義である
 ↓↑
 多褹(たね)隼人
  ・・・大田 田根子(おおた たねこ)
     『古事記』
      「意富多多泥古命」
      大神神社
      「大直禰子命」
       奈良県桜井市
       三輪山の神
       大物主神=事代主神
       の子孫または子
       神君(三輪氏、大三輪氏、大神氏)
       鴨君(賀茂朝臣氏)
       石辺公の祖先・・・・
       「ネコ」は尊称を意味
       難波根子建振熊命
       古代天皇の和風諱号に散見
       「タタ」は「田」の意味?
      『日本書紀』
       大物主神の子
      『古事記』
       同神の5世孫
      『先代旧事本紀』
       「地祇本紀」
      事代主神の7世孫
      崇神天皇と同世代の人物
      『日本書紀』
      茅渟県(ちぬのあがた)の
      陶邑(すえのむら)
      和泉国
      大鳥郡
      陶器荘(堺市東南部の陶器山~西方)
      『古事記』
      河内国美
      努村(みのむら)
      若江郡
      御野(八尾市上之島町南)]の出身
      陶荒田神社(堺市中区)
      現在、大神神社の
      摂社・大直禰子神社等に祀られている
      立地や築造年代
      石囲木槨、三角縁神獣鏡
      が出土していない
      ホケノ山古墳
      を
      大田田根子の墓・・・説
ーーー
9月3日i以後にツヅける・・・
 「太田 牛一」
ー↓↑ー
 干支歴
 命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
 ↓↑
 メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
ー↓↑ー
 ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2023/3
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七夕=八月弐拾九日・(旧暦7月7日・房宿)

2025-09-01 08:27:00 | 古事記字源
 ・・・ハヤブサ・・・ホルスの眼・・・
 ↓↑
 レレレレッツ・・・零時を既に回って「2日」に突入・・・
 記事を「1の数字」に合わせようと記念日にと思っていたが・・・
 残念・・・
 ↓↑
 七夕=八月弐拾九日・(旧暦7月7日・房宿)

 8月29日
 旧7月7日(房宿)
 甘露
 庚午日
 先勝
年柱 乙┏巳(戊・庚・丙)正財・偏官長生
支合
月柱 甲┗申(戊・壬・庚)偏財・比肩建禄
日柱 庚 午(丙・己・丁)  ・正官沐浴
時柱 丁 丑(癸・辛・己)正官・印綬 墓
    戌亥空亡

 織姫星(おりひめぼし、こと座の1等星ベガ)
     栞=しおり=詩織・詞織・・・事=こと=言 
 と
 彦星(ひこぼし・わし(鷲)座の1等星アルタイル)
 比古(肥後)  倭史・話詞     倦留他意留  

 本日
 2025年9月1日8時月曜日
 旧7月10日(箕宿)
 癸酉日
 仏滅
 節入日(9月)2025年9月7日18時13分
 まだ「節入日」まで季節は「8月」・・・

2025年 干支42 乙巳(戊・庚・丙)年
       支合
9   月 干支21 甲申(己・壬・庚)月
1   日 干支10 癸酉(庚・ ・辛)日
         戌亥空亡
1   時 干支50 癸丑(癸・辛・己)時

 ホルス (Horus 、 エジプト語 ラテン文字転写: Hr, Hru
     古代ギリシア語: Ώρος, Hōros 、ホーロス)
     隼(はやぶさ・鶻)・・・「隼人=はやと」・・・ダレ?
     隼人 (はやと)
     古代 日本
     阿多・ 大隅 (鹿児島県 本土部分?)
     に居住したとされる人々
     日本神話
     海幸彦
     が
     隼人
     の
     「阿多」君
     の始祖であり
     火照命
     の末裔・・・?
     「はや び と・はいと」
     とも呼ばれる・・・
    「火照命(ほでりのみこと)」
    『古事記』で
    「瓊瓊杵尊」
     と
    「木花開耶姫」
     の第一子・・・
    大和の王権に反抗
    ヤマト王権の支配下に組み込まれ
    兵部省の被官
   「隼人司」
    に属し百官名のひとつ
 ↓↑
  ・・・次回に書き込む予定・・・
 ↓↑

 ハルポクラテース
 ギリシア神話の沈黙の神
 古代エジプトのホルス神のギリシア化
 古代エジプトのホルス=生まれたての太陽・朝日・旭日・旭
 アレクサンドロス3世によって
 エジプトが征服された後の
 ヘレニズム期に、
 エジプト語の Har-pa-khered
 ↓↑
 プルタルコスによれば
 ハルポクラテースは
 イシスの2番目の息子
 生まれつき
 脚が不自由だった
 子供の
 ホルスは子供やその母親の特別な守護神となった
 毒蛇
 にかまれた際に
 ラーに直してもらったことから
 受難の後の希望を表す神

 エジプト語の
 「顔」を意味する語
 「ホル」や
 「上にあるもの」
 を意味する語
 「ホル」
 が由来だとする説
 「ホルス」
 の名は
 リビア
 から来て
 上・下
 両エジプトの
 大半を征服した民族の
 地域神となっていた
 隼神
 の名前で
 他の多くの
 隼神を吸収するほど有力な神
 ↓↑
 彥=文+厂+彡
   亠+乂+厂+彡
   亠+丿+厂+彡
   比古(ひこ)・毘古(びこ)
          毘(へそ・ビ)=田+比
     ・・・𦜝=臍=へそ=綣
 ↓↑
 ことわざ
 偐=イ+彥=ガン・ゲン・にせ・にせもの=贋・僞・偽者
   亻+彥
   亻+文+厂+彡
   亻+亠+乂+厂+彡
   イ+彦
   亻+亠+丷+厂+彡
   亻+立+丿+彡
 嵃=ゲン
   山のけわしいさま
   殿台の高いさま
   やまびこ=山+彦・反響
 喭=ガン・ゲン・とむらう・悔やみをいう
   粗い・猛々しい
 遃=辶+彥
   ガン・ゲン
   行く・歩く・歩き回る
   遊ぶ・楽しむ
 楌=木+彥
   ガン・ゲン
   木の名
 諺=ゲン・ことわざ
   から言い伝えられた教訓
   とむらう=弔う・喭
 顏=ガン・かお
   かんばせ
   つら・ひたい・おでこ
   かおつき・かおいろ
   いろどり・色合い・彩色
 㘖=「㘖㘖(ガンガン)=争うさま」
 齴=齒+彥
   齒+彦
   止+凵+从+一+文+厂+彡
   止+凵+从+一+产+彡
   止+凵+人+一+亠+乂+厂+彡
   止+凵+人+一+亠+丷+厂+彡
   止+凵+人+一+亠+丿+厂+彡
   齞
   ゲン
   口を開いて歯をみせる
   歯がむき出しになっているさま
 𨩱=金+彦=鏟
  =サン・セン
   削る・削って平らにする
   木や石を平らに削る道具
   かんな(鉋)・土を削り取る道具
   =シャベル・スコップ
    喋る    素乞附(譜・暜)
    名字
    𨩱津=ならつ
 ↓↑
 牡牛
 bull・ox
 nowt
 ラテン語
 t aurus(タウルス)
 ↓↑
 久=ノ+人
   𠂉+人
ー↓↑ー
干支歴
 命式作成
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 ↓↑
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 モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
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 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
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