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コジキジゲン

ケヤキの本

2014-05-31 20:19:15 | 古事記字源

 ・・・「本屋の本質」は「ENTERTAINMENT=エンターテイメント・娯楽」、「entertainment(エンターテインメント」は「entertai-n-ment」の「9文字目のn」は聞き取れない・・・「エンターテイメント」・・・書き言葉で「エンターテインメント」、話し言葉で「エンターテイメント・エンターテーメント」の使われ方が混在・・・「演者(エンターテイナー=entertainer)」=「entertain(もてなす)+ er(する人)」→芸人・大衆を楽しませることを信条とする芸能人の技能を鑑賞することを主体とした見せ物、出し物、余興などを指す語で、スポーツ・舞台演劇・演奏会・公演などを指す・・・「大衆」ってダレなんだろ・・・「enter=〈場所に〉入る」・・・「tain=保つ・含む」・・・「er=する人」・・・
ーー↓
  enter
 〈とげ・弾丸などが体内などに)入り込む
 〈考えなどが頭に)浮かぶ
 〈新時代・新生活などに)入る
 〈学校に)入学する
 〈団体・クラブ・会などに)加入する、入会する
 〈軍隊・教会に)入る
 〈病院に)入る
 〈競技などに)参加する
 〈人を…に)入学、加入、入会させる (in,at)
 〈人・動物を競技、コンテストに)出す (in,for)
  enter oneself=参加を申し込む、応募する (for)
 (名前・日付などを…に)記入する、載せる、載録する
 〈データをコンピューターに)入れる、入力する
 〈訴訟を)提起する
 (…から)入る (at,by,through)
 「Enter」=演劇で「登場する」
 脚本の「ト書き」で3人称命令法で用いる=exit
 用例
  Enter Hamlet.→ハムレット登場
 to be to be ten made to be
 飛べ 飛べ 天 まで 飛べ
     ↓↑
 第九代・開化天皇の
 第三皇子の
 第十代・崇神天皇
     ↓↑
  御肇國天皇
 (はつくにしらすすめらみこと)
  御真木 入   日子
 (みまき いり びこ)
 はや、己が命を盗み死せむと〈記・中・歌謡〉
   御間城 入   彦  五十瓊殖天皇(日本書記)
 (みまき いり びこいにえのすめらのみこと)
    御真木 入  日子印恵命(古事記)
 (みまき いり ひこいにえ)
      ↓
      イリ-クリニス
 真摯(シンシ)=イリ-クリニス
 ギリシャ語
 (ειλικρινής・イリ-クリニス)
 英語
 (sincere・スィンスィア)
 シンシ=紳士=ジェントルマン
     a gentleman=紳士
     gentlemanly=紳士的
     gentlemanlike=紳士振る
     pose as a gentleman
     play the gentleman
ーーー↓
  太陽=helios・ヘリオス・ヘリオ
        「イリオス」=ギリシャ古代の都市
               その王名イリオス
        「イーリアス」=(Iλιάς・Ilias)
          ホメーロスの「長編叙事詩」
       イリ(이리)=オオカミ(狼)
              大神・大上
       第十代
       崇神天皇
       御眞木 入  日子印惠命
      (みまき-イリ-ひこいにゑのみこと)
       御間城 入  彦五十瓊殖
      (みまき-イリ-ひこいにえ)
       第十一代
       垂仁天皇
       活目  入  彦五十狭茅
      (いくめ-イリ-ひこいさち)
       伊久米 伊理 毘古伊佐知
      (いくめ-イリ-びこいさち)
ーーーーーーー↓
 西欧では「本(book)」とは、
 「聖書(the Bible・ザ バイブル)」であった・・・
 「書物の巻、編」
 「Book I=第1巻(編)」
 「the Book of Genesis=旧約聖書の創世記」
 「聖書=the good Book」とも・・・
  ↓
 ブック(book)とは、
 「書物・書籍・図書・本・帳簿・著作・論集
  脚本・台本・紙を数枚綴じこんだ物」
 の意味する英単語・・・
 元々は植物の一種「ブナの木」を
 意味する単語
 「bōc」が由来となっている・・・
  ↓↑
 「ブナ=beech」の名は
 「本」と「ブナの木」の両方の意味する
 アングロサクソンの
 「boc,bece」あるいは
 「beoce」 の語に由来・・・
 英語は「beechwood・beech」
 「ぶな=山毛欅、橅、椈、桕」
        「毛欅=けや木」である
        「橅」は近年作られた日本文字
        「椈」の中国漢字にブナの意味は無い
        「柏」は「かしわ」
 「ブナ」は
  建材として腐りやすく、加工後に曲がって狂いやすい
 「ブナ」は日本では漆器の椀・皿の普及品の材料
 「ブナ」は生長するにしたがって、根から毒素を出していき
 そのため、
 一定の範囲に一番元気なブナだけが残り、
 残りのブナは衰弱して枯れてしまう・・・らしい
  ↓
 「the Old Testament (旧約)」
 「the New Testament (新約)」
 「ユダヤ教では(旧約)」
 「イスラム教では(旧約)」
 「聖書」を表す「バイブル」は、
 ギリシア語の「ビブリオン」に由来し、書物
 パピルスはエジプトのナイル川流域に自生した
 「パピルス草の茎の随」を薄く裂いて作られた
 この「パピルスの随」の部分を
 「ビブリオン」といった
 「聖書正典」は
 「創世記」~「ヨハネの黙示録」まで
 「66冊」の書物から成る
  ↓
 「本(book)」とはホトンドが
 「entertainment(エンターテイメント・娯楽)」である・・・
 日本では「大衆娯楽」となったのは江戸時代である・・・
 そして、文明開化の「明治時代」・・・
 ボクの言いたいことを「理解」してくれるかな?・・・コジキ・・・
ーー↓↑ーー
 以上も以下も参考、参照の原文は「ウイッキペデア」から・・・
  ↓
 書類・書籍
 古くは本文や図画の写本
 書籍とは、原本を借りて
 自分の手で写すことだった
 書籍の印刷
 八世紀の百万塔陀羅尼
 春日版や
 五山版と呼ばれる
 室町時代末までの
 旧刊本と呼ばれる
 木版本
 キリシタン版の
 古活字本など
 江戸時代の
 金属活字は
 慶長時代に朝鮮から持ち込まれ
 朝廷や徳川家康が
 『論語』や
 『群書治要』
 『日本書紀』
 『吾妻鏡』
 など
 「活字」で印字した書籍が作られた
 部数は100部程度の規模の印刷物

 商品としての書籍
 木版印刷の製本
 本屋の店頭での売買
 活字本
 寛永のころまで作られ
 版木1枚に文字をまとめて刻む
 木版本が行われた
 木版本=製版本
 当初は仏典や四書、和漢の古典を出版
 仮名草子や草双紙
 浮世絵
 などが出版
 木版技術と出版流通システムの確立
 多くの出版書籍が売買された
 作家→出版元→版木職人→刷り職人→本屋の店頭
ーー
 江戸時代の本屋
 書林、書肆、書物屋などと呼ばれ、
 書店名は「何々堂」や「店主名」のものがあった
 本文用紙に
 薄い
 「美濃紙」を使った袋綴じ
   ↓
 寺尾(岐阜県関市寺尾)で生産される和紙
 二折、三折の「美濃和紙」があり、
 障子の格子幅に合わせて使用され
 美濃「紋書院紙」は、
 鹿子・紗綾形・菊唐草・七宝 ・亀甲などの
 紋様を漉き込み、
 障子以外にも灯籠用に使用された
 702年(大宝二年)
 正倉院文書に美濃の紙が記録
 平安時代
 朝廷から製紙用の役人が派遣され
 宣命紙等の色紙や公用紙を生産
 鎌倉時代・室町時代
 鎌倉時代初期
 美濃和紙は余り使用されていなかった
 南北朝の動乱や
 応仁の乱によって
 安価な美濃和紙が使用された
 美濃国守護の
 土岐氏が
 産業開発し、製紙業を後押しした
 京都宝滋院を拠点とする
 近江枝村の紙商人によって流通
 江戸時代
 専売制度の下に特産地として育成
 大量生産
 障子紙として使用され、
 美濃判として障子の規格となり、
 「みの(美濃)」と言えば
 「しょうじ(障子)」
 「すだれ(簾)」は伊予、
 「たたみ(疊)」は近江が
 代名詞となった
  ↓
 養女奴隷
 製紙のために少女を幼少時に養子にして、
 製紙作業をさせる制度
 奴隷と言っても、
 実の娘と区別はない
  ↓
 紙問屋
 美濃では和紙の原料を
 余所から輸入して生産
 製紙業の家庭も
 紙問屋の奴隷
  ↓
 徳川幕府御用の製紙職人
 市右衛門、五右衛門、平八、重兵衛
 など
ーーー
 出版の商業活動
 慶長八年(1603年)
 京の冨春堂が
 古活字版の
 『太平記』が初版行・・・
 その後
 七十二軒、
 十哲とも称された本屋の店が現れ、
 京都の本屋は当初は
 「物の本屋」とも呼ばれ、
 仏典や漢籍などの教養書を販売
 大坂の本屋は
 京都で製作された本を仕入れて売買
 寛文のころより
 大坂でも製本
 本屋は心斎橋などで繁盛した
  ↓
 江戸では寛永のころ
 江戸でよそから本を仕入れずに
 自前で製本販売し始めた時期は不明
 書籍の例では
 正保四年(1647年)刊行のものが最も古い
 江戸の本屋も出版物の内容は京大坂同様多岐
 錦絵
 江戸の出版物の中でも、絵入りの読み物の
 「草双紙」の類などは「地本(じほん)」と呼ばれた
  ↓
 江戸の地本問屋
 草双紙・絵入り本=「行成表紙」・「からかみ表紙」
 赤本=丹色、赤い表紙で、桃太郎、猿蟹合戦などの
    「お伽噺」で、享保のころ盛ん
 黒本=歴史物語、軍記、浄瑠璃などを抄録
 青本=萌黄色で、江戸中期から出た
    内容は黒本に同
 黄表紙=18世紀末~19世紀初めの大人向け
     表紙の色が青色だったのが退色して黄色になった
 合巻=草双紙数冊を合わせて一巻とし、
    さらに編を重ねて構成した長編
    のちには表紙が錦絵になっているものが出て、
    これを「摺付表紙」という
 仮名草子=元禄以降初期の小説。仮名文、啓蒙、娯楽物
 人情本=男女の情愛を描く
 読本=中期、後期の小説。口絵挿絵がある
 談義本=滑稽読物。講談口調で、
     おかしみと教訓で社会を揶揄したもの
 狂歌本=狂歌集
 戯作本=中期以降の江戸の
     小説、読物、黄表紙、合巻、洒落本、
     談義本、滑稽本、人情本の総称
 滑稽本=江戸後期の小説
     庶民の日常を笑いを交えて記したもの
     十返舎一九の『東海道中膝栗毛』
     式亭三馬の『浮世風呂』など。
 咄(はなし)本=小咄を記したもの。
 芝居番付=歌舞伎興行における番付
      興行の内容や出演する役者について記す
      ポスターのように貼って人に見せる辻番付
      芝居の筋を絵で説明する絵本番付
      出演する役者とその役割を記した役割番付
      絵本番付と役割番付は表紙も本文も
      同じ紙の冊子形態で、
      二つ折りにして紙縒りで綴じる装丁
 長唄正本=歌舞伎の舞台で上演された
      長唄所作事の歌詞を版行したもの
 豊後節系浄瑠璃の正本=上演された豊後節系浄瑠璃の
            歌詞を版行
            常磐津節、富本節、清元節
 浮世絵、芝居絵、義太夫節の抜本(ぬきほん)も売った
ーーーー
 17世紀前期(慶長〜寛永頃)
 京都で
 慶長十四年(1609年)
 本屋新七が商業出版を創始
 『信長公記』、『本朝画史』、『醒睡笑』出版
 大坂で
 『和漢三才図絵』が出版
 キリスト教関連書籍の流入を防ぐために
 長崎に書物改役が設置
 17世紀中期(寛文頃)
 菱川師宣が
 江戸で
 木版墨摺り絵本を数多く手がけた
 『伊勢物語』、『源氏物語』などの古典の木版本
 17世紀後期(元禄頃)
 木版製版発展。町人文化
 上方文化成熟期。大坂で浮世草子出版
 井原西鶴の『好色一代男』、『日本永代蔵』、
 近松門左衛門の浄瑠璃本が出版
 『明智軍記』出版
 荻生徂徠が漢籍解説本を出版
 怪談『古今百物語評判』出版
 18世紀前期(享保頃)
 幕府は風紀取締りに、
 同業組合である本屋仲間を公認
 『女大学』出版
 貝原益軒の『養生訓』
 新井白石の『折たく柴の記』、
 松尾芭蕉の『奥の細道』、『野ざらし紀行』出版
 18世紀中期(明和頃)
 鈴木春信が錦絵を完成
 大坂で
 『絵本太閤記』出版
 18世紀後期(天明寛政頃)
 錦絵の交流と江戸文化全盛期
 天明期
 江戸に浮世絵師、彫師、摺師、
    紙屋、儒学、国学、
    蘭学などの学者が集まる
 江戸で、浮世絵や書籍が売れる
 江戸地本の書籍の流通。大手地本問屋が隆盛
 蔦屋重三郎のもと
 喜多川歌麿が美人画で人気を博し、
 重三郎は本居宣長を訪ね、地方視察
 寛政の改革
 山東京伝の黄表紙が摘発
 蔦屋重三郎は財産の半分を没収
 天明期
 あらゆる分野の学問、実用書、文芸書が出版
 塙保己一の『群書類従』、
 本居宣長が『古事記伝』を出版
 上田秋成の『雨月物語』、『春雨物語』出版
 山東京伝の黄表紙『時代世話二挺鼓』、
         『江戸生艶気樺焼』出版
 川柳句集『柳多留』
 19世紀前期(文化文政頃)
 全国に書籍流通市場形成
 江戸、大坂、京都を中心に本が出され、
 名古屋も続く
 頼山陽の『日本外史』、
 和歌集の三代集出版
 曲亭馬琴が絵入りの読み物
 江戸貸本屋
 800軒を超え、戯作作家、
 曲亭馬琴、山東京伝、式亭三馬、柳亭種彦等、文壇の主流
 長編小説
 式亭三馬の『浮世風呂』、
 曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』108冊
      『椿説弓張月』、『傾城水滸伝』
 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』43冊
 合巻が開発
 葛飾北斎の画
 柳亭種彦の『北越奇談』、
 歌川国貞挿絵の『偐紫田舎源氏』38編
 柳亭種彦と笠亭仙果の『邯鄲諸国物語』
 絵入り春画本
 北斎漫画、
 小林一茶の『浅黄空』、
    私小説『父の終焉日記』。『以貴小伝』
 為永春水の『春色梅児誉美』
 草双紙『釈迦八相倭文庫』出版
 19世紀中期(安政頃)
 柳下亭種員作(歌川豊国挿絵)の合巻『白縫譚』出版
 『児雷也豪傑譚』、奇談集『絵本百物語』、
 『狂歌百物語』出版
 安政三年(1856年)
 歌川広重の名所江戸百景、
 北斎挿絵の『通俗三国志』出版
 19世紀後期(幕末明治初年頃)
 『名将言行録』出版
 幕末の混乱期
 見聞、教育のために、
 歴史小説の古典の
 新版、史書、技術書、博物誌、辞典、海外紹介ものが出版
 『慶安太平記』、『絵本楠公記』、『大岡政談』出版
 明治三年(1870年)
 日本で初めての新聞
 『横浜毎日新聞』が鋳造活字で印刷
 明治六年(1873年)
 本屋仲間は解散令
 明治二十年ごろ
 木版から
 活版印刷技術の革新、思想の変革、新しい雑誌の登場で
 書物問屋は消滅し、近代出版へ移行
  ↓↑
 書物問屋
 学問書など書籍を扱った
 仏教、歴史、伝記、暦、医学書、漢籍、教養書など
 上方では本屋とも呼び、上方発祥で、江戸に支店も出した
 地本問屋
 草双紙、人情本、細見(地図案内書)、
 狂歌絵本、洒落本、長唄
 など
 音曲類の正本、
 歌舞伎の絵本、
 浮世絵など学術書以外のモノを扱った
 板木屋
 本を印刷するための板木を彫ってつくる板木屋も、
 書店を通さずに本を売買
 屋号は「板木屋」とするものがあり、
 板木屋が直接本を頒布する形態
 表紙屋
 印刷して塵断ち下綴じまでした本に表紙をつける
 寛永のころから表紙屋でも本を売買
 経師屋
 本の装丁や掛け軸を誂えたりする
 経師屋も本を売買
 京の経師屋で大経師と呼ばれる家は
 毎年の
 暦を製作配布
 暦は当時三都のいずれも、
 決められた店や家以外では製作販売は禁止された
 貸本屋、古本屋でも書籍を取扱ったが、
 古本屋も新刊本を製作し売買
 露天商、行商、荒物屋(家庭用雑貨)などからも
 全国に書籍が流通
 江戸地本の老舗
 鶴屋喜右衛門の
 仙鶴堂と
 蔦屋重三郎の
 耕書堂は寛政の改革以降、
 山東京伝や曲亭馬琴を作者として独占
 江戸では
 日本橋、神田、馬喰町、浅草、
 深川、下谷、両国、芝神明前などに本屋が出店
 地本問屋、書物問屋半々で「天保の改革」までに
 50軒以上あった
 江戸、大坂、京都が三大書籍流通
 が、
 「田舎版」と呼ばれる
 三都および名古屋以外で
 製版刊行された書籍も存在
 本屋仲間(組合)
 享保七年(1722年)
 江戸で幕府より公認
 大坂では翌年享保八年
 本屋仲間は
 天保十二年(1841年)
 株仲間(同業者組合)の
 買い占めなどで物価が高騰し風紀上問題ありとして、
 ほかの問屋仲間とともに
 「解散令」で一旦は廃止されたが、
 嘉永四年(1851年)
 再結成され、新規参入で
 本屋仲間の数が
 125軒まで増えた・・・
ーーーーー
 ・・・だから、ドウだって・・・

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無セキニンのコンゲン

2014-05-30 19:12:43 | 古事記字源

 ・・・「遺訓」ですか・・・ダレが書いたんだか・・・「隠れキリシタン」の「水彩画」ですか・・・ダレが描いたんだか・・・「自分の意見言わない理由」・・・云っていないんだか、どうなんだか・・・言ったら喰っていけなくなる・・・お父さんのニュースで育った子供たち・・・センタクはキミたちの領域だから・・・やっぱ、逃げているんだろう、「ジコセキニン」から・・・
ーーーーー
  TOKYOU WEB より
   ↓
 「対日関係改善、07年に指示 金正日氏“遺訓”と北朝鮮高官2014年5月30日 16時31分」・・・
 北朝鮮の金正日総書記(2011年12月死去)が、07年7月に「日本との関係改善を図れ」との指示を出したと、北朝鮮政府の対日外交を担当する高官が12年に当時の民主党政権の有力者に伝えていたことが30日分かった。外交消息筋が明らかにした。
 同高官は、08年8月に北朝鮮が福田康夫政権(当時)と日本人拉致問題の再調査実施で合意したのも金総書記の指示に基づく措置だったと説明。民主党政権に対しても関係改善への意思を表明していたという。
 北朝鮮高官は、この指示が“遺訓”として金正恩第1書記の体制に引き継がれていると説明したという。(共同)
ーー
 「隠れキリシタン」が描いたんだか、どうなんだか、「水彩画」ですか・・・
ーーーーー
 YOMIURI ONLINE より 
  ↓
 隠れキリシタンが神父に託した絵、仏から返還
 禁教政策が続いていた1860年代後半、浦上地区(現・長崎市)の隠れキリシタンがフランス人神父に託し、約150年間にわたってパリで保管されていた水彩画の返還式が29日、長崎市中町のカトリック中町教会で行われた。
 返還式には信者や返還に協力したパリ外国宣教会の神父ら約200人が出席。宣教会総長のジョルジュ・コロンブ神父がカトリック長崎大司教区の高見三明大司教に絵を手渡すのを見守った。
 絵は、大浦天主堂のプチジャン神父によってヨーロッパに運ばれ、その後はパリのカプチン・フランシスコ修道会フランス管区本部が保管していた。所在を知った高見大司教が昨年11月、パリ外国宣教会を通じて返還を依頼し、無償で応じてもらえることになった。
 コロンブ神父は、「絵を返還できたことは私たちの喜びです」と話していた。大司教区では、絵の鑑定後、一般展示する予定。
 2014年05月30日 12時30分
 Copyright © The Yomiuri Shimbun
ーーーーー
 ダレが写したんだか・・・モモちゃん・・・

ーーーー
 ・・・

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ガンサク

2014-05-29 22:23:51 | 古事記字源

 ・・・昨日は従姉と彼女の息子がきてくれた・・・「2017年まで既済」・・・十八時半に区長会議・・・ネコ屋敷の住人・・・「猫一匹すら描けねえ」って「葛飾北斎」・・・「女性」って、すごい・・・花の生涯のご先祖、「イイ直虎」が女性、富嶽三十六景の三女、「カツシカ応為」も女性・・・
ーーーーー
 ウイッキペデアより
 ↓
 井伊 直虎(いい なおとら)=女性
 戦国時代の女性領主
 遠江井伊谷
 (静岡県浜松市・旧、引佐郡・引佐町)の
 国人
 井伊氏の当主を務め、
 「女地頭」と呼ばれた
 井伊直親と婚約したが、生涯未婚
 井伊直政の「はとこ」であり養母
 ↓
 井伊 直虎
 戦国時代~安土桃山時代
 生誕 不明
 死没
 天正十年八月二十六日(1582年9月12日)
 改名 祐圓尼、直虎
 別名 次郎法師、女地頭(渾名)
 戒名 妙雲院殿月泉祐圓大姉
 主君 今川氏真→徳川家康
 氏族 井伊氏
 父は井伊直盛
 母は友椿尼
 子は養子の
 井伊直政
 ↓
 男子がいなかったため、
 次郎法師(次郎と法師は井伊氏の2つの惣領名を繋ぎ合わせたもの)
 と名付けられ、
 直盛の従兄弟にあたる
 井伊直親を
 婿養子に迎える予定であった。
 天文十三年(1544年)
 今川氏与力の小野道高(政直)の讒言により、
 直親の
 父・直満がその弟の直義と共に
 今川義元への謀反の疑いをかけられて自害させられ、
 直親は信濃に逃亡
 直親は
 弘治元年(1555年)に今川氏に復帰
 信濃にいる間に奥山親朝の娘を正室に迎えていたため、
 直虎は婚期を逸する
 ことになったとされる。
 ↓
 永禄三年(1560年)
 桶狭間の戦いにおいて父・直盛が戦死
 その跡を継いだ直親は
 永禄五年(1562年)に
 小野道好(道高の子)の讒言によって
 今川氏真に殺害
 直虎ら一族に累が及び
 母・友椿尼の兄で叔父にあたる
 新野親矩の擁護により救われた
 永禄六年(1563年)
 曽祖父の
 井伊直平が天野氏の犬居城攻めの最中に急死(井伊直平公一代記)
 引間(曳馬)城(後の浜松城)主
 飯尾連竜の妻・田鶴の方(椿姫)に毒茶を呑まされ死亡
 永禄七年(1564年)
 井伊氏は今川氏に従い、
 引間城を攻めて新野親矩や重臣の中野直由らが討死
 龍潭寺の住職であった叔父の
 南渓瑞聞により、幼年であった
 直親の子
 虎松(後の井伊直政)は鳳来寺に移された。
 ↓
 永禄八年(1565年)
 次郎法師は
 直虎と名を変えて井伊氏の当主となった
 ↓
 小野道好の専横は続き、
 永禄十一年(1568年)には居城・井伊谷城を奪われてしまうが、小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に三河国の徳川家康が加担し、家康の力により実権を回復した。以降は徳川氏に従い、井伊氏に仇をなしてきた飯尾氏の籠る引間城は落城(田鶴の方は自害)、
 元亀元年(1570年)には家康に嘆願し、直親を事実無根の罪で讒訴したことを咎め道好を処刑する。
 元亀三年(1572年)秋、
 信濃から武田氏が侵攻し、居城・井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡し、井平城の井伊直成も仏坂の戦いで敗死すると、徳川氏の浜松城に逃れた。その後、武田氏と対した徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦いや野田城の戦いまで敗戦を重ねたが、武田勢は当主・武田信玄が病に倒れたため、
 元亀四年(1573年)四月、撤退。
 ↓
 直虎は直親の遺児
 虎松(直政)を養子として育て、
 天正三年(1575年)
 300石で徳川氏に出仕させる。
 天正十年(1582年)
 死去
 家督は直政が継ぐ。
ーーーーー
 葛飾 北斎(かつしか ほくさい)
 宝暦十年九月二十三日(1760年10月31日)?
   ~
 嘉永二年四月十八日(1849年5月10日)
 浮世絵師
 化政文化を代表する一人
 代表作
 『富嶽三十六景』
 『北斎漫画』
  ↓
 文化二年(1805年)
 「葛飾北斎」の号を用いる
 文化七年(1810年)
 「戴斗(たいと)」の号を用いる
 文化九年(1812年)秋頃
 名古屋の牧墨僊邸に逗留
 その後、
 関西(大坂、和州吉野、紀州、伊勢など)方面へ旅行
 文化十一年(1814年)
  『北斎漫画』の初編を発刊
 文化十四年(1817年)春頃
 名古屋に滞在
 十月五日
 名古屋西掛所(西本願寺別院)境内にて
 120畳大の
 達磨半身像を描く
 年末頃、
 大坂、伊勢、紀州、吉野などへ旅行
 春好斎北洲が大坂にて門人になった
 文政三年(1820年)
 「為一(いいつ)」の号を用いる
 『富嶽三十六景』の初版は
  文政六年(1823年)に制作が始まり、
  天保二年(1831年)に開版
 同四年(1833年)に完結
 天保五年(1834年)
 「画狂老人(がきょうろうじん)」
 「卍(まんじ)」の号を用いる
 『富嶽百景』を手がける
 天保十三年(1842年)秋
 初めて、
 信濃国
 高井郡
 小布施の
 高井鴻山邸を訪ねた
 鴻山は、自宅に
 碧漪軒(へきいけん)を建てて、
 北斎を厚遇
 天保十五年(1844年)
 信濃国は高井郡小布施に旅し、
 嘉永元年(1848年)まで滞在
 『怒涛図』などを描く
 嘉永二年四月十日(1849年5月10日)
 江戸・浅草聖天町にある
 遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没
 享年九十
 辞世の句
 「人魂で 行く気散じや 夏野原」であった(#)。墓所は台
  ↓
 改号、30回
 使用した号
 「春朗」「群馬亭」「北斎」「宗理」「可侯」「辰斎」
 「辰政(ときまさ)」「百琳」「雷斗」「戴斗」「不染居」
 「錦袋舎」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」
 「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」
 「卍」「是和斎」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」
 「土持仁三郎」「魚仏」「穿山甲」
 などと、それらの組み合わせ
  ↓
 長崎商館長(カピタン)が江戸参府の際(1826年)、
 北斎に日本人男女の一生を描いた絵、
 二巻を150金で依頼した。そして随行の
 医師シーボルトも
 同じ二巻を150金で依頼した。
 商館長は契約通り150金を支払い受け取ったが、
 シーボルトの方は
 「商館長と違って薄給であり、
  同じようには謝礼できない。
  半値75金でどうか」
 と渋った。
 北斎は「なぜ最初に言わないのか。同じ絵でも彩色を変えて75金でも仕上げられた」と憤った。
 シーボルトは「それならば一巻を買う」というと、
 激貧にもかかわらず北斎は憤慨して二巻とも持ち帰った。当時一緒に暮らしていた妻も、「丹精込めてお描きでしょうが、このモチーフの絵ではよそでは売れない。損とわかっても売らなければ、また貧苦を重ねるのは当たり前ではないか。」と諌めた。北斎はじっとしばらく黙っていたが
 「自分も困窮するのはわかっている。
  そうすれば自分の損失は軽くなるだろう。
  しかし外国人に
  日本人は人をみて
  値段を変えると思われることになる。」
 と答えた。
 通訳官がこれを聞き、商館長に伝えたところ、恥じ入ってただちに追加の150金を支払い、二巻を受け取った。この後長崎から年に数100枚の依頼があり、本国に輸出された。
 シーボルトは帰国する直前に国内情報を漏洩させたことが露見し、
 北斎にも追及が及びそうになった。(シーボルト事件)
ーー↓ーー
 葛飾 応為(かつしか おうい)
 贋作

 葛飾北斎の
 三女
 名は
 栄(えい)、お栄(おえい)、
 阿栄(おえい)、應栄(おえい)、
 栄女(えいじょ)
 とも記す
 応為は号(画号)
 応為の号は、北斎が娘を「オーイ、オーイ」と呼んだので、
 画号としたとも、
 逆に
 お栄が北斎を「オーイ、オーイ親父ドノ」と
 大津絵節から取って呼んだからという説や、
 或いは
 北斎の号の一つ「為一」にあやかり、
 「為一に応ずる」の意を込めて
 「応為」とした、とも・・・・
  ↓
 阿栄は、
 父北斎に似、多少慎みに欠いた
 男のような気質で任侠風を好み、
 衣食の貧しさを苦にすることはなかった
 絵の他にも、
 占いに凝ってみたり、
 茯苓を飲んで女仙人になることに憧れてみたり、
 小さな豆人形を作り売りだして
 小金を儲けるなどしたという・・・
 ・・・タバコと酒を嗜んだ
 ある日北斎の描いていた絵の上に煙草の吸殻を落としたことがあり、大変後悔してタバコはやめたというが、しばらくしたらまた元に戻ってしまった。
 阿栄にも弟子がおり、たいてい商家、武士の娘であり、絵の家庭教師として訪問して教えた・・・
 露木が
 「先生に入門して長く画を書いているが、まだうまく描けない・・・」と嘆いていると、娘阿栄が笑って
 「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、
  この前なんか腕組みしたかと思うと、
  猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。
  何事も自分が及ばないといやになる時が上達する時なんだ」
 と言うと、そばで聞いていた
 北斎は「まったくその通り、まったくその通り」と賛同したという
ーーーーー
 ・・・

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「歴史記録」は「虚偽」なのか、「暗号」なのか、「改竄」なのか・・・

2014-05-27 15:03:48 | 古事記字源

 ・・・「歴史のウソ」って、「事件、事象」の記録されたモノのウソ」・・・「文-化=コトバでの文章化」であって、「文-明=文章の明文化」ではない・・・もちろん、「記録媒体機器」を操作、利用したスベテのモノの・・・「准看護師の遺体遺棄事件」・・・パスポート、クレジットカード偽造も・・・「ウソ」にも色々あるけれど、「一般公開を前提」にしている「妄想日記=アソビ」も例外ではない・・・「モノガタリの記録」と「事実・事件の記録」は異なる・・・享受者の「判断常識」もアヤシイモノだし・・・
ーーーーー
 産経ニュースより抜粋
ーーーー
 半藤一利さん
 「日本のいちばん長い日」
  歴史の「ウソ」常識で判断
 2014.5.26 09:00 (1/4ページ)
 (歴史・考古学)
 戦争は始めるのは簡単だけど、
 終わりにするのは大変。
 この一言に尽きます。
  ↓
 あの大戦争を止めるのは、一筋縄ではいかなかった。太平洋戦争で日本が降伏を最終決定した昭和20年8月14日から、国民に正式発表される翌15日正午までの政府中枢の緊迫した1日を描く作家、半藤一利さん(84)のノンフィクション『日本のいちばん長い日』(昭和40年)は映画化もされ、刊行後ほぼ半世紀を経たいまなお読み継がれるロングセラーだ。
 (聞き手 磨井慎吾)
  ↓
 半藤一利(はんどう・かずとし)氏
 昭和5年、東京生まれ。東大文学部卒業後、文芸春秋に入社。「週刊文春」「文芸春秋」編集長、専務取締役を経て作家に。自他ともに認める「歴史探偵」として、近現代史に関する著書を数多く発表。平成5年に『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞、平成10年『ノモンハンの夏』で山本七平賞、18年『昭和史』で毎日出版文化賞特別賞を受賞。妻は夏目漱石の孫でエッセイストの末利子さん。
ーー↓
 清朝最後の王女、愛新覚羅顕キさん死去
 「東洋のマタハリ」
 川島芳子の妹
 2014.5.26 20:28
 (歴史・考古学)
 愛新覚羅顕(王へんに奇)さん
 2013年4月撮影
 「東洋のマタハリ」と呼ばれた
 川島芳子の妹で、
 清朝の粛親王の末娘だった
 愛新覚羅顕キ(=王へんに奇)
 (あいしんかくら・けんき)さんが26日未明、
 心不全のため北京市内の病院で死去した。
 95歳だった。4月に体調を崩し入院していた。
 葬儀は28日、北京郊外の
 八宝山公墓の梅庁で行われる。
 幼少期に満州国の皇族として日本に留学。学習院、日本女子大に学び、
 大手繊維メーカー
 「鐘紡」の北京支社で勤務中に終戦を迎えた。
 日本軍のために情報活動を行ったとして
 処刑された
 「芳子(さん)」の妹であることなどを理由に、
 中国当局に
 「日本のスパイ」などのぬれぎぬを着せられ、
 農村での強制労働を含めて
 計23年間も監禁された。
 獄中から中国の最高実力者、トウ小平に無実を訴える手紙を書いたことなどをきっかけに名誉回復された。翻訳の仕事をしながら、北京で日本語学校を設立。頻繁に訪日し、講演活動を通じて日本語教育に力を注いだ。
 日本で出版した自伝
 『清朝の王女に生れて-日中のはざまで』(中央公論)が大きな話題となった。
 晩年、日中関係が悪化しても親日派を自認してはばからなかった。
 亡くなる直前に電話で日本の友人に
 「中日友好。日本の皆さんによろしくお伝えください」
 と話していたという。
 (北京 矢板明夫)
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 ・・・

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撫子・地蔵・空海・空如

2014-05-26 15:49:43 | 古事記字源

・・・すごいね、「なでしこ」も、「鈴木空如(すずき くうにょ)」も・・・「日本の仏画師、日本画家。世界文化遺産である法隆寺の金堂壁画を模写した人物」・・・
     
 明治六年(1873年)~昭和21年(1946年)
 鈴木虎之助
 フミ
 の三男
 秋田県
 仙北郡
 小神成村
 13番地(大仙市太田町小神成)
 で誕生
 明治二十五年(1893年)
 上京
 画工・長山蘭林に師事
 日清戦争に従軍後の
 明治三十一年(1898年)
 東京美術学校(東京芸術大学美術学部)入学
 山名貫義に師事
 卒業後、画壇には属さず、
 法隆寺
 金堂壁画
 の模写と仏教美術の研究
 大正七年(1918年)
 ナヲと結婚
 二年後
 長女
 豊子
 誕生
 大正十四年(1925年)
 豊子、喘息で死去
 明治四十年(1907年)~昭和七年(1932年)
 法隆寺に出向き、
 金堂外陣(げじん)の
 土壁に描かれた
 十二面の壁画を模写
 昭和二十一年(1946年)死去
ーーーーー
 ・・・「町の観光名所?」・・・

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