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コジキジゲン

三笠・みかさ・ミカサ

2013-06-30 22:42:17 | 古事記字源
 昨日は従姉の主人が入院している岩見沢の病院にお見舞いに行ってきた。従姉の嫁入り先、ご主人の実家は「三笠市」であるが、三笠市には「自由党士・原利八(明治23年3月24日、40才で病死、加波山事件の関係者)」の獄死を後世に伝える昭和6年同志の、「河野広体」等に建てられた碑がある、と聞かされ、従姉の息子の車で見学に行ってきた。
 ・・・従姉のご主人の御祖父さんが18歳の時に鳥取から南米移民を試み、途中、暴風雨で北海道に立ち寄って、そのまま居座ってしまったのが「三笠」であった。
 ボクは以前から「三笠」と言う「市の名前」がナンなんだろうと興味があったのだが、
 「1906年空知郡
  幌内村、
  幾春別村(いくしゅんべつ)、
  市来知村(いちきしり)の一部が合併、
  二級町村制、
  空知郡
  三笠山村となる(三村合併)」
 である・・・これら、「三村」の名前はアイヌ語をモジッタとしても、「明治日本の記念詞」を示すモノである・・・役所の所在地が「北海道三笠市幸町二番地」・・・
 「自由民権運動」、明治時代の「政治運動、社会運動」、明治時代の「自由党」・・・今現在の「自由民主党」と「民主党」が歴史的に国家権力から「弾圧」を受けた等とは聞かない・・・何処に追求すべき「自由と民主」があるんだか?・・・明治の「自由党」とは雲泥の差が歴然である・・・
 「板垣 退助
  (天保八年四月十七日(1837年5月21日)
     ~
   大正八年(1919年)七月十六日)」は、
 土佐藩士で幼名が「猪之助」。通称、「退助」。諱は初め「正躬(まさみ)」、後に「正形(まさかた)」。号は「無形(むけい)」・・・如何せん、奈何せん、「国家主義=民族主義」者だった・・・「百円札」は・・・あか(垢・閼伽・赤・亜掛・阿科)札・・・である・・・
ーー↓板垣退助・・・自由は死すとも、イタガキ生きる?

 「土(十一)佐=とさ=十三」、

 「幼名=ようめい=養命・陽明・用名・要名・葉名」が、

 「猪之助=いのすけ=猪子諏懸・亥支=北西・23時~零時帯」、

 「通称=つうしょう=通商・通証・通唱」

 「退助=たいすけ=退叙・碓諏懸・替素懸・他意素懸」

 「諱=いみな=忌み名・意味名・威視名」

 「初め=はじめ=葉字目・一・肇・啓・始・基・元・源・大・本・哉」

 「正躬(まさみ)=正己・真作視」

 「後=のち=野馳」、

   「あと=跡・址・痕」

 「正形(まさかた)=真作掛他」、

   「せいけい=成型・成形・西経・聖経・整形」

 「号=ごう=合・傲(倣)・劫・轟・拷・強・郷・業」

 「無形(むけい)=無稽・無恵・務恵・ム計」

ーーー
 それに、「法治国家」の論理を詰めれば「韓国の強盗、仏像判決」・・・「国家」の「返す、返さない」は「釈迦」も困惑のホトケ・・・かな・・・「法治国家」なのか、「放置国家」なのか・・・「国際法」では、どうなる「竹島」、「尖閣」、「北方領土」・・・「養殖あわび」を高速船で盗みにくる「お隣さん」を以前TVニュース番組でみたけれど・・・兎に角、「日本国」は「仏教徒国」ではないし、「神道、シンコク」でもない・・・モチロン、「隣国」も・・・「拝金国」であるらしい・・・
ーーーーー
 「明治憲法」は「欽定憲法」であり、「日本国民」が「自ら選択したモノ」ではない。では、「日本国憲法」が「マッカーサー」に与えられた「準欽定憲法」なのか?・・・
 「憲法制定の主体」を基準にすれば、「亜米利加合衆国占領軍」下、影響下にあろうとも、トリアエズ、「国民」が「選んだ憲法」なのである・・・
 仮に「民主主義」を押し付けられたとしても、ソレを嫌うのはダレか?・・・その「民主法治」を「放置」している、「放置」しようとしている、「放置」させようとしているのは、ダレか?・・・「民が主」と思っているらしいヒトビトの「理解度の基準」であるらしい・・・

 では、「日本国憲法発布、施行」の手続きは「民主的」であったのか?そして、その「内容」は「民主的」であったのか?・・・あった、のだ。

 1946年(昭和二十一)二月、国務大臣松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会起草の憲法改正要綱がGHQに提出されたが、民主化には不十分であるとして拒否され、いわゆるマッカーサー草案が提示された。政府はこれに従って作業を進め、3月6日憲法改正草案要綱を発表した。

 1946年4月、戦後初の総選挙。1946年12月17日の選挙法改正で20歳以上の男女が投票権を得て国会議員を選出した。第一次吉田茂内閣が成立。憲法改正草案は、帝国憲法改正案として6月20日第90回帝国議会に提出された。

 1947年11月3日
 「日本国憲法」は、「帝国憲法」の改憲手続の規定に従い、衆議院・貴族院及び枢密院の審議を経て、修正の上、成立し公布。

 1947年(昭和二十二)5月3日に施行。

 「日本国民は、正当に選挙された(間接にしろ、直接にしろ)国会における代表者」を通じて行動し、「日本国憲法1946年(昭和二十一年十一月三日発布)」を選択承認したのである。

 「欽定憲法」とは「君主の意思で制定され、国民に与えられた憲法。君主の権力が強い場合、国民の憲法制定要求に先手を打って制定される(1814年のフランス憲法、大日本帝国憲法)」・・・「国民が選んだモノ」ではない。

 「制定の主体を憲法」の分類すると・・・

 欽定憲法
 君主によって制定された憲法(大日本帝国憲法など)。

 民定憲法
 (直接または間接に)人民によって制定された憲法。

 協約憲法
 君主と人民により制定された憲法。

 条約憲法
 連邦国家の憲法がその構成主体間の条約によって
 成立した場合のもの
 (ビスマルク憲法、アメリカ合衆国憲法など)

ーーーー↓自由民権運動

 1874年(明治七年)の「民撰議院設立建白書の提出」を契機に始まったらしい・・・それ以降、薩長藩閥政府政治に対して、「憲法制定、議会開設、地租軽減、不平等条約改正阻止、言論、集会の自由の保障」などの要求を掲げ、1890年(明治二十三年)の帝国議会開設頃まで続いた。
 ボクが「三笠市」で見たものは
 「加波山事件」の「自由党士、原利八の獄死を後世に伝えるために昭和6年同志河野広体等により建碑」されたモノで、明治二十三年三月二十四日、この地で投獄、四十歳で病死人物である。

 明治十五年九月~二十五年十二月まで
 死亡した
 囚人(国事犯?)
 965体を集骨

 明治二十九年十月合葬され、明治三十四年の廃監まで
 1,158体が合葬されている、と碑石にあった

ーー ↓福島事件
 「喜多方事件」
 裏面の文字は風化していて判別が難しくなっている石碑が「喜多方」にあるらしい・・・事件百周年記念顕彰碑・・・の本文の最後には、
 「・・・ここに事件百周年を迎えるにあたり、この建碑に参加する者は、わが国民主主義の源流をたどり、先人の苦難をしのび、その復権を確認するとともに、自由民権運動の退潮と同時に帝国主義への道を踏みだし、悲惨な戦争へとつき進んだわが国の歴史をかみしめ、今日再び重大な試練に直面している民主主義を守るために、決意を新たにするものである」

 喜多方厚生会館駐車場の
 喜多方事件百周年顕彰碑と説明板
 自由民権
 喜多方事件百周年記念

 顕彰碑
 自由民権運動弾圧
 一八八二年二月

 福島県令
 三島通庸は、
 強制夫役による会津三方道路の強行開削
 会津農民は自由党の指導のもとに、
 権利恢復訴訟同盟を結ぶ
 盟約参加者は八千余名

 官憲は、財産の差押え、競売等による
 代夫賃の強制取立てと、指導者の逮捕

 十一月二十八日
 人々は弾正ケ原で集会、代表者を選んで
 喜多方警察署の指導者拘留の理由、その釈放を求めた
 警察は参集した千数百名に対し
 凶徒集合を口実に、抜刀、襲撃
 五百名余りを逮捕

 県会議案毎号否決事件・無名館血判盟約事件

 警察署
 明治九年(1876)十二月十三日
 県第65号布達
 福島県警察
 若松出張所所属

 「耶麻郡ノ内一小区ヨリ∧小区迄」を管轄する

 喜多方屯所の設置
 この管轄区域は、
 二日後の区統合により、
 第13区の
 耶麻郡のうち
 一町六十七ケ村

 明治十三年七月県会
 警察署昇格の決定

 明治十四年六月二十五日
 喜多方警察署が誕生
 その所轄区域は

 耶麻郡一円であり、

 管下に
 猪苗代分署が置かれた

 この警察署が
 喜多方事件の舞台となった

 久山寺会合で決めた13ヵ条にわたる
 「権利恢復の規約書」

 久山寺

 福島県令
 三島通庸の一方的な
 会津
 三方道路工事施工に反対した、
 自由党派六郡連合会議員による
 臨時会開催要求も拒否し、
 道路工事の強行
 自由党員と農民が同盟し
 「権利恢復同盟」を組織
 官憲との対峠のなかで、

 11月19日

 権利恢復同盟の指導者の検挙開始

 示現寺
 加波山事件

 明治十七年(1884)九月
 三島通庸栃木県令と政府顕官の暗殺計画
 茨城県の
 加波山上で決起して、
 地元の警察分署や豪商を襲うなど、
 革命挙兵の撒文で
 決起者16人のうち、12人が福島県人
 会津からは
 三浦文次・原利八・横山信六が参加

 裁判で、強盗・故殺の常事犯として、

 三浦・横山は死刑、

 原は無期徒刑

 事件後26年の
 第26回帝国議会(明治四十三年)で、
 名誉回復決議
 をうけた。

 事件後5年
 三浦・横山の顕彰墓石が示現寺に建立

 原に対しては、
 北海道空知集治監跡に、
 昭和六年に
 河野広体らによって建碑された
 「自由党志士・原利八君碑」
 現在三笠市指定重要文化財

 中善寺
 1882年(明治十五)二月
 福島県令
 三島通庸は
 会津三方道路の開削計画
 工事の着工は国庫下附金の許可後を無視
 七月に着工し、
 代夫賃(だいぶちん)は
 四月にさかのぼって徴収
 反対する農民たちは、
 地元豪農層の自由民権家たちと

 「権利恢復訴訟同盟」を結成

 「正夫服役(せいふふきえき)」と
 「代夫賃上納」の拒否で抵抗
 自由党員、反対運動の指導者が逮捕

 11月二十六日
 村人たちがこの中善寺に集会
 同盟の結束と訴訟の継続を会議
 逮捕者の見舞のため
 28日の
 喜多方集合決定
 寺の会合は、
 喜多方事件の発端の地となった

 弾正ケ原
 明治十五年(1882)11月28日
 農民三千名が喜多方に集合
 若松警察署へ指導者が護送されたと聞き、
 若松へ向かい、途中、弾正ケ原で集会
 再度、喜多方警察署へもどり、

 宇田らの拘留理由をただすと決めて解散

 その後、見張所に行き逮捕理由をただすが
 その最中に投石があり、
 抜刀警官達により、
 二人が重傷、四人が逮捕

 翌二十九日早朝、警官隊の急襲
 同盟幹部・県内外の応援隊
 44人が逮捕
 「権利恢復同盟」は崩壊
 県下自由党員の一斉大検挙に発展

 原 利八
 喜多方市関柴町下柴字小松の人
 宇田成一の影響をうけ自由党に入党

 六郡連合会議員の説諭委員となり
 大沼郡を担当

 喜多方事件では逃れて逮捕をまぬがれ、
 逃亡中の宇田を助けた
 三島県令に対する念から

 加波山事件に参加、

 事前に発覚して
 逃亡中

 明治十八年二月六日
 福井で逮捕
 無期徒刑の宣告

 鍛冶橋監獄から
 北海道の空知監獄に服役
 明治二十三年三月二十四日
 39歳で獄死

 喜多方事件
 中心的指導者

 宇田成一

 嘉永三年(1850)
 下柴村肝煎伝蔵の長男に生まれ、
 戊辰戦争時には会津藩校日新館に学ぶ
 明治十一年の
 民会規則による
 県会議員に
 耶麻郡から当選し、県会活動開始

 愛身社設立(明治十一年十一月十日)
 安瀬敬蔵と共に
 設立趣意書、規約の編成

 周辺の旧肝煎層、富農層を集めて
 設立発起人となって
 自由民権運動を推進

 後、自由党会津部を設立、国会早期開設を建言

 明治十五年の県会では、
 議案毎号否決動議を提出

 河野広中らと自由党の先鋒に立ち
 三島県令と対立

 三月
 会津三方道路開削問題で、
 六郡連合会議員に選出
 選ばれ、県令に抵抗

 八月の道路起工式の夜に、
 宿泊先の
 清水屋で
 会津帝政党員に襲われ負傷

 九月には
 米岡村久山寺で
 権利恢復同盟の訴訟委員
 官憲は、首謀者とみなし
 十一月二十四日
 訴訟費用一戸十銭ずつ集めた
 詐欺取材容疑で逮捕
 喜多方事件発生の直接の導火線となった

 国事犯及兇徒緊衆教唆者首魁として
 東京に護送
 高等法院の予審で
 十六年四月
 三方道路反対闘争は、
 全員無罪になり赦免
 二年余り逃亡生活
 この間に同志による

 第二次訴訟の失敗、
 加波山事件の激発

 十九年八月
 官吏侮辱の実刑を終えて出獄
 後、大同団結運動の先頭に立ち
 二十五年、二十九年と県会議員に当選

 反動派優勢のなかの会津政界で、
 耶麻郡の一角から自由党の孤塁を死守
 晩年は、郡会議長、関柴村長を務める
 大正十五年
 76歳で死亡
 高田事件―福島・喜多方事件と秩父事件
ーーー↓三笠市
 三笠市は、北海道の空知地方南部にある市

 北海道の石炭と鉄道、『北海盆唄』発祥の地

 三笠メロン・三笠スイカ・三笠たまねぎ

 三笠あすか・梅の杜(旧三笠梅林邦梅園)の梅

 炭鉱史跡群
 アンモナイト化石等で有名

 地名の由来
 明治時代に存在した
 空知集治監の建物の
 裏山が
 奈良の

 三笠山に見えることから・・・?戦艦三笠

 自由民権運動の
 「原利八君」の「碑」が存在する

ーー↓

 枕草子

 六六段・・・六拾六段・六十六段・陸足陸段

       6+6=12=十二=壱拾弐=壱弐

       6×6=36=三十六=参拾六=参六=参足陸

 里は・・・・・「理」はスベテの「葉」とする

 逢坂の里。

 ながめの里。

 いさめの里。

 ひとづまの里。

 たのめの里。

 朝風の里。

 夕日の里。

 十市の里。

 伏見の里。

 長井の里。

 つまとりの里、

 人に

 とられ

 たる

 にや

 あらん、

 わが

 取り

 たる

 にや

 あらん、

 いづれも

 をかし。

ーー↓「三笠山」村

 桂沢ダム

 1909年(明治四十三年)から幾春別川におけるダム計画として水力発電用として現在の桂沢地点が着目され、1934年(昭和九年)には多目的ダム計画に格上げされ、1952年(昭和二十七年)に「石狩川水系総合開発計画」として北海道で初めての多目的ダム(貯水池)

ーーー↓「三笠山」村

 日露戦争

 1904年(明治三十七年)二月八日

    ~

 1905年(明治三十八年)九月五日)

  五月二十七日

 日本海海戦(The Battle of the Sea of Japan)

 主力十二隻

 連合艦隊

 連合艦隊司令長官

 第一艦隊司令長官

 東郷平八郎が兼任

 旗艦

 三笠

ーー↓

 「三笠山」村→1906年(明治三十九年)

ーー↓

 1906年(明治三十九年)

 1月7日 西園寺公望内閣成立

 1月14日 乃木希典第三軍司令官、東京に凱旋

 1月29日 札幌・日本・大坂の

     ビール三社が合併を発表

 2月17日 坪内逍遥らの文藝協会発足

 2月18日 福島県平町の大火(570戸)

 2月19日 英国皇太子コンノート殿下来朝

 2月20日 コンノート殿下参内、

     最高貴のガーター勲章を捧呈

 2月22日 日本・ハワイ間修交通商条約公布

 2月24日 日本社会党第一回大会

    (日本社会党結党)

 3月1日 振替貯金制度実施

 3月2日 非常特別税法改正

 3月15日 日堺利彦「社会主義研究」創刊

 3月15日 日東京市電値上反対運動激化、

     電車を焼打ち、軍隊出動

 3月17日 日台湾大地震、死者1110人余

 3月31日 鉄道国有法公布

 4月4日 徳富蘆花、ロシア文豪トルストイ訪問

     横浜出帆(7月、両氏会見)

 4月7日 廃兵院法公布

 4月11日 華族女学校を学習院に併合

 4月30日 日露戦役凱旋大観兵式、

     青山練兵場(明治神宮外苑)で挙行

 5月1日 横浜三渓園、市民に開放

 5月5日 第一回全国小学教員大会

 5月11日 満州軍参謀

     福島安正少将、

     ロシアの満州参謀次長

     オラノフスキーと会見

     (満州鉄道授受開始)

 5月20日 鉄道総哩数5000哩(マイル)

     開通記念祝賀会を

     名古屋市で挙行

 5月22日 元老会議で満州問題協議

 5月28日 幸徳秋水、

    「世界革命運動の潮流」を演説

 6月1日 ロシアより北緯50度以南の

     樺太受領

 6月1日 日米間海底電信布設竣工

 6月7日 南満州鉄道会社設立動令公布

 6月9日 林権助を清国公使に任命

 6月11日 京都帝国大学に文科大学開設

 6月12日 エスペラント協会創立

 6月26日 日米直通海底有線電話開通

 7月11日 新潟県直江津の大火

 7月13日 南満州鉄道株式会社に

     参謀総長児玉源太郎を

     委員長とする設立委員会を設置

 7月23日 児玉源太郎没(享年55歳)

 7月24日 逓信省において

     女子判任官任用の新例開かれる

 8月1日 日米間の海底電線による通信開始

 8月1日 愛知県豊橋に市制実施される

 

 8月8日 佐世保港内沈没の

     戦艦「三笠」浮揚す

 8月18日 呉海軍工廠の職工、

     戦時手当の廃止に反対し騒擾

 9月1日 煙草「ゴールデンバット」発売

 9月1日 東京に廃兵院開設

    (初代院長に川崎虎三中佐任命)

 9月1日 三重県宇治山田に市制実施

 9月5日 「革命評論」創刊

 9月10日 南満州鉄道会社(満鉄)、

     株式募集開始

 9月24日 南米最初の日本商店、

     サンパウロに開店

    (野間貞七郎経営の藤崎商会)

 10月11日 初めて整形外科の一科を

      東京帝国大学

      医学部に開設する

 10月11日 アメリカ(亜米利加)の

      サンフランシスコ(桑港)に、

      日本児童排訴問題おこる

 10月11日 夏目漱石、第1回「木曜会」を開く

 11月5日 日本・チリ間通商航海条約調印

 11月22日 ロシアでストルイピンの農業改革

 11月26日 南満州鉄道株式会社設立

    (初代総裁は後藤新平)

 11月27日 東京市会にて電車電車市営を可決

 12月6日 日本最初の

     地下鉄道計画書が東京に立てられる

 12月14日 大阪砲兵工廠の賃上げ運動を

     憲兵、警官弾圧

 12月16日 東京赤坂に国語擁護会創立

 12月19日 教育会議にて義務教育延長可決

 12月20日 英国コンノート殿下来日

 12月26日 『大日本史』編纂の大事業完成

 内閣総理大臣 桂太郎

 (明治34年6月2日~明治39年1月7日)

 西園寺公望

 (明治39年1月7日~明治41年7月14日)

 生活

 衣

 ゴム底の地下足袋現れる

 大阪十合呉服店・白木屋呉服店、

 下関に臨時出張販売する

 食

 銀座にできた

 台湾コーヒー店に女給

 住

 下関市水道竣工

 博多ガス会社開業

 文学

 「婦人世界」創刊(1月)

 振替貯金事務開始

 鉄道国有法公布

 鉄道五千哩記念祝賀

 東京市街鉄道三社合併成立

 東京市街電車値上反対市民大会、

 電車焼打ち騒ぎあり

 金銭登録器を初めて輸入

 阪神電車開通

 救世軍本部で無料宿泊・職業紹介を開始

 新橋・下関間急行列車開始

 年賀郵便特別取扱開始

 地方

 北海道

 東北

 石川啄木が郷里渋民村に帰って小学校の

 代用教員になる(岩手)

 大湊海軍修理工場で

 ストライキおこり軍隊が出動(青森)

 関東

 水戸藩ではじめられた

 「大日本史」の編修が完成する(茨城)

 中部

 近畿 •新橋・神戸間に

 最大急行列車(13時間)運転

 高野山が女人と肉食の禁制を解く(和歌山)

 中国・四国

 四国幹線

 (琴平・須崎間、これと徳島を連絡する線)の

 建設が決定

 九州

 高島炭坑でガス爆発

 坑夫ら256名死亡

ーーーーー

 「三笠」は・・・コジキに、イト、関連するや、否や・・・?
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憲法・ノリのスベテの音訓漢字

2013-06-28 13:14:09 | 古事記字源
 昨日、2013年六月二十六日、「特別老人ホーム」にお世話になっているオフクロ(大正十年生まれ)を午後2時から3時半まで家に連れ帰った。水仙やチューリップ、百合、カトレア、躑躅、山吹が咲いているうちに連れてきて見せてあげたかったが、ズーッと晴れの日が少なく、晴れたと思ったら30度前後の高温・・・昨日も朝は雨がショボショボ、昼ごろは曇り空、肌寒い一日だった。花は家の周りを囲むマーガレットが満開、庭はアヤメ、名前の判らない小さな白や、黄色、ピンクの花、それにトマト二本の茎に黄花、イモの茎三本に紫花、胡瓜数本に黄花・・・ピーマンや朝顔の種も植えたんだけれども、芽を出す兆候はない・・・
 2011年六月二十六日にこの地に移って来てから3年目・・・ボクにとっては不相応な「広い敷地と家」であるが、都会の「一ヶ月の家賃」と比べれば、ふんだくられる「年間の土地、家屋不動産の税金」はそれ以下である。しかも、元々が「オフクロの私有財産」である・・・オフクロをこの家に一時帰宅してもらったのは今回で三回目。帰宅の理由が「気分転換」・・・オフクロは脊髄補強の鉄板が首の付け根からお尻まで入っていて、腰とお尻の間の鉄板がポコンと曲がってしまって、その部分の外観が瘤のように張り出している。

 ベットから車椅子に乗せられるときは痛そうである。ボクも2、3回やってみたが「イタイ、イタイ」と悲鳴をあげられてから、プロの看護養護師さんにお願いしている。

 送り迎えの介護養護タクシーさんは女性の方だった。なんでもプロの技術と知識がなければ、素人にとっては大事(おおごと)である。

 助っ人は、ボクの従姉と彼女の息子で、従姉の旦那が重病にもかかわらずやって来てくれた。

 オフクロを介護するにはボク一人ではムリである。ただ、彼女の入院しているホームには毎日、訪問している日課だが、僅かな時間帯を過ごして傍にいるだけの役立たずである・・・「オフクロのネガイ」は「ボクの立身出世」と、「アタリマエの親子孫、家族形成」だったようだから、結果の今現在のボクは「裏切り者の親不孝もの」・・・である・・・

 オフクロのネガイを叶えるべく・・・再起出発、再チャレンジは、一度あの世を過ごしてからと、なるカナ・・・その時、オフクロは何処に存在しているのだろう・・・その時、ボクを産み落としてくれる「女性」はダレなんだか・・・そして、どんな「世界」なんだか、「地球」なんだか・・・

 兎に角、オフクロもボクも、「もも」も「ブブ」も、今現在がモンダイである・・・多分、この宇宙に生きている個々人、それぞれミンナがそうであろう・・・「ブブ」の敵対者である「マイケル」が左前足を痛めたのか「ビッコ」を曳いて庭に遊び(?)に来ている・・・「ブブ」は相変わらず、窓越しに唸って威嚇体勢である。ブブにとっては「怪我をしているマイケル」であっても「侵入者」であるらしい・・・「友達」になれないのかな・・・「ブブ」ちゃん、ノラになったらどうするんだろう・・・「野良犬」になった犬タチが蝦夷鹿を襲っていた映像がTVニュースになっていたが・・・人間の「エゴ」から「解放」されたイヌたちである・・・「友達、家族」であること「人間から拒否」された彼等である・・・そして今現在「生きている姿」である・・・

 大陸中国の指導者も、韓国の指導者も、亜米利加の指導者も「日本国憲法」が「記録」している「条文」がナンであるかの本質に言及したことを聞いたことが無い・・・「日本国憲法」を基準にした「右」なのか「左」なのか、彼等の「自国憲法」との「日本国憲法比較」はモチロンのコト、未だかって聞いたコトがない。加えて「日本国の指導者」が世界に向かって「日本国憲法」を一度たりとも「発信アピール」したことを聞いた事も無い・・・海外派遣地の「自衛隊の看板」は英語で「日本国軍隊」を掲げているらしい・・・「自衛隊」では現地人に理解されがたいから、との「理由」であるらしい。元々「自衛隊の意味」を「現地人」はもとより、「世界の人々」にその「本質」を理解させるコンタンは毛頭ないらしい・・・この看板は今現在は「日本国憲法違反」である・・・

 個人情報の収集、「亜米利加政府」、「亜米利加合衆国憲法違反」である・・・「収集」・・・「個人情報改作」で「冤罪者」を創り出す「アメリカ映画」は数多くある・・・「ヒのナイところにはケムリがタタナイ」であるが、「ニホン語」ではドウショウモナイ・・・

 オフクロが「特別老人ホーム」から帰宅する時に「特別老人ホーム」のスタッフ全員から「いってらしゃい」と声をかけられ、戻ってきた時には「よかったね、おかえりなさい」と声をかけられた・・・「イノチ」を大切にしてくださる皆さんに感謝いたします・・・ありがとう・・・

ーーーーー

 枕草子

 (六五段)・・・六拾五段・六十五段・陸足伍段

         6+5=11=十一=壱拾壱=足壱

         6×5=30=三十=参拾=参足

 橋は

 あさむつの橋。

 長柄の橋。

 あまびこの橋。

 濱名の橋。

 ひとつ橋。

 佐野の船橋。

 うたじめの橋。

 轟の橋。

 小川の橋。

 かけはし。

 勢多の橋。

 木曾路の橋。

 堀江の橋。

 鵲の橋。

 ゆきあひの橋。

 小野の浮橋。

 山菅の橋。

 一筋

 わたし

 たる

 棚橋、

 心

 せばければ

 名を

 聞き

 たる

 をかし。

 假寐の橋。

ーーーーー

 ・・・ 心、せばければ、名を聞きたる、をかし・・・「假寐の橋」って、「コジキ」の「仮寝の橋の下」・・・?

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阿毎王朝

2013-06-28 12:52:39 | 古事記字源
 「東京電力福島第一原子力発電所」の港湾内から放射性物質の「トリ・チ・ウム」・・・それでも「阿毎王朝」か・・・
ーーーーー

 枕草子

 (六四段)・・・六拾四・六十四・陸足肆

         6+4=10=十=壱拾=拾=足

         6×4=24=二十四=弐四=弐拾四=念肆

 瀧は・・・・・たき・ロウ

 音・・・・・・おと・オン・イン

 無の・・・・・ナシ之

 瀧。

 布留の・・・・ふる・降る・振る・古

 瀧は、

 法皇の・・・・ホウコウ・咆哮・方向・芳香・放校・彷徨

 御

 覽

 じ

 に

 お

 はし

 けん・・・・・巻・牽・懸・縣・憲・建

 こそ

 めでた

 けれ。

 那智の・・・・名知

 瀧は

 熊野に

 あるが

 あはれ・・・・亜葉例

 なる

 なり。

 轟の・・・・・等々力・驫木・トドロキ

 瀧は

 いかに

 かし

 がま

 しく

 怖し

 か

 らん。

ーーーーー

 ・・・

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鯨面・黥面・くるめ・文身・刺青・つらい・からい・むごい

2013-06-26 20:52:21 | 古事記字源
 クジラ・・・鯨=魚+京(亠口亅ハ)・・・「白黒・黒白」・・・くじら?・・・句字等・・・
ーー↓参照、参考全文は以下に

クジラ - Wikipedia

ーー↓以下は参考抜粋し改作したモノ

 「クジラ」=「鯨鯢(けいげい)」

 クジラの諸説

ーー↓

 「日本釈名・中魚」

 1700年

 (元禄十三年)

 貝原益軒著や

ーー↓

 「東雅・十九鱗介」

 1719年

 (享保四年)

 新井白石著

 「ク」は古語で

 黒を表し

 「シラ」は

 白を表し

 「黒白」で「クシラ」で、

 その後「シ」は「チ」に転じて

 「クチラ」になり

 「チ」が「ヂ」に変り

 「クヂラ」になった・・・との説らしい・・・ボク的には「史・詞」が「知・地」に転じて「時・事・字」に変わり、「公事等・句字等」になった・・・「アミダ籤」、「久慈降る高千穂」、「句字振る多寡地保」である・・・

ーー

 「日本古語大辞典」

 「ク」は

 古韓(国)語で「大」を意味

 「シシ」は「獣」・・・しし(宍)は

        「肉(にく・ジク)」で

   「牡丹(ぼたん)=猪肉」→亥は北西

   「桜・櫻(さくら)=馬肉」は桃色(ピンク)

 「ラ」は接尾語

 日本語では「ラ=羅」は「あみ(網)」である

    辰韓・・・・・馬韓・・・・弁韓

    龍      午  「弁=辨=辯=瓣」韓

    ↓      ↓     ↓ベン・扁・変   

  たつ・リュウ  うま・ゴ  わきまえる・任那

 ・・・新羅(白)VS百済(赤)

 ・・・源氏(白)VS平家(赤)・天武(赤)

      (白)VS(黒)→唐、周、漢?

      (白)VS(黒)→高句麗?北方種族?

 黒→墨→隅(すみ・くま)=隈→球磨=熊=久万

 熊→熊本・・・黒田武士?・・・黒田官兵衛(孝高)・キリシタン(切支丹・耶蘇)大名→クロス(十字架)・ロザリオ(数珠)・如水=黒色、北方水の方合会局「亥子丑」・・・出家後の号は「如水」・天文十五年十一月二十九日(1546年12月22日)播磨、姫路で誕生・・豊臣秀吉の側近で「竹中重治(半兵衛)」と双璧の参謀・・・築城に於ける「屋根瓦の白黒区分弁別」・・・「弁=辨(わきまえる)=辧=辯(ことば)=瓣(はなびら)=辮(あむ)=辦(さばく)」とはコトバの区別である。

 「辛(はり・からい・つらい・かのと・シン)」と「辛(はり・からい・つらい・かのと・むごい・シン)」の間にある「文字」であるが、「はり・からい・つらい・むごい・シン」の同音異字漢字のスベテの意味である・・・「辛=立+十」は罪人に「黥(鯨)面・入墨・文身」の「刺青の針」である・・・「魏志倭人伝」の「男子皆黥面文身」の「ハリ」である。江戸時代の刑罰に「左腕の上腕部を一周する一本ないし二本の線(単色)の入れ墨」を施した・・・入れ墨の模様は地域によって異なり、額に入れ墨をして、段階的に「一」「ナ」「大」「犬」という字を入れ、五度目は死罪になるという地方もあったらしい・・・谷崎潤一郎「刺青」の「刺青師・清吉」と美女の背に彫られた「蜘蛛」・・・「tattoo」は「タトゥー」・・・立とう・他等・多等・田等・他党・多党・絶とう・断とう・多頭・建とう・・・太(おおの)問う・・・太安万(萬)侶を問う・・・

 前漢の将軍・英布(黥布)は若い頃に罪を犯し顔面に入れ墨された

 履中天皇元年四月

 住吉仲皇子の反乱に加担した

 阿曇野連浜子に「即日黥」との記述(日本書紀)

 阿曇野連は「海部」を統括する氏族で

 河内飼部は「馬飼部」

 鳥の飼育は「鳥飼部」

 雄略天皇十年十月

 宮廷飼育の鳥が犬にかみ殺され

 犬の飼い主に

 黥面して「鳥飼部」したとの記述(日本書紀)

ー↓辛(葉理)+Ⅹ?+辛(葉理)

 辯論の「言(ことば・ゲン)」

 辨別の「刀(かたな・トウ)」

 辮髪の「糸(いと・シ)」

 花瓣の「瓜(うり・カ・ケ)」

 辦公の「力(ちから・リョク)」

 弁別された「カミ」を「辮髪=弁髪」と言う・・・「カミ形」を強要し、同化しようとしていたのは「清国(女真・女直・金・満州・蛮習→万集→万葉集→播州)」である・・・「白黒(しろくろ)」で人種差別したのは「白人種の支配層」である。「紅白(べにしろ・赤白)」の「あか」の「アメリカインデアン」を敵対排除したのは「白人種の支配層」である・・・東洋人は「黄色」だが、「アラブ人」は・・・?・・・「人種?を肌色」は、「白人(White)・黒人(Black)・黄色人 (Mongoloid)・赤色人 (Red)・褐色人 (Brown) 」、白人以外を総称して有色人種 (colored) と呼ぶらしいが、なぜか、英語では「黄色人 (Mongoloid)」は「yellow」では無い。「モンゴロイド」である・・・「蒙古斑」は「幼児の仙椎(尻の中央)の皮膚にでる「薄青い灰色の母斑」だが、「にび色?(薄墨に藍をさした染色の伝統色名・橡(つるばみ・クヌギ、トチノキ・どんぐり)で染めたネズミ色)」で、三~五歳ころに消える・・・「母斑(ボハン)」は「痣(あざ)」、「ほくろ(黒子)」とも訓まれる。他の箇所、腰椎、臀部、脇腹、肩に現れるらしい・・・仙骨(仙椎)両方のお尻(骨盤)の真ん中部分・・・「太田母斑」は顔に出る「褐青色から灰青色」の痣(あざ)である・・・「あざ」って、地名番地の「字」も「あざ」だけれど、「古事記」は「太田母斑」であるかな・・・寝不足で目に現れるのは「クマ」である・・・

 「太田母斑」って、

 1929年(大正15年)10月~1937年(昭和12年)に

 「眼上顎褐青色母斑」を「太田母斑」の病名とした

 太田正雄=木下杢太郎

 仙台医専が

 1912年(明治四十五年)に

 東北帝国大学医学専門部に改組され、

 1913年

 東北帝国大学医学専門部附属医院が設置と

 県立

 宮城病院の移管がなされた後、

 1917年(大正六年)九月に

 東北帝国大学医科大学として

 皮膚病学・梅毒学講座が開設された。

 第二代教授務めのが

 太田正雄が、作家の「木下杢太郎」だった・・・とはッ・・・

 ・・・まったく、あざとい(小聡明い)・・・ やり方があくどく、抜け目がなく、あくらつである・・・「日本語」が、である。

  原本なのか、写本なのか、贋作なのか、やり方がキタナイ・・・「あざ」って、地名番地の「字」も「あざ」だけれど、「古事記」は「太田母斑」であるかな・・・寝不足で目に現れるのは「クマ」でもある・・・目の隈(眼窩の隈・Periorbital dark circles)」は、「目下」の黒ずんだ・・・部分・・・家なきコジキも眠れず・・・相模・佐賀視・・・

ーーー↓「現存・古事記」原文

 故

 爾

 各

 中

 置

 天安河

 而、

 宇氣布

 時、

 天照

 大

 御、

 先

 乞度

 建

 速

 須佐

 之

 男

 命

 所佩

 十拳

 劒、

 打折

 三段

 而、

 奴那登母母由良邇(此八字以音)。

 下效此。

 振滌

 天之眞名井

 而、

 佐賀美邇

 迦美而、

 (自佐下六字以音)。

 下效此。

 於

 吹棄氣

 吹之狹霧

 所成

 御名、

 多紀理毘賣命。(此名以音)。

 亦

 御名、

 謂

 奧津嶋比賣命。

 次

 市寸嶋上比賣命。

 亦御名、

 謂

 狹依毘賣命。

 次

 多岐都比賣命。

 三柱。

 (此名以音。)

   ↓

 他義通・・・他の(イ)義を通す・・・

ーー↓クマ

  大隈重信→佐賀藩        ↓

       肥前国佐賀郡・肥前藩

       鍋島氏が藩主であったことから

       鍋島藩(なべしまはん)とも

       鍋島騒動

       肥前佐賀藩の御家騒動

       鍋島化け猫騒動

       肥前国佐賀藩の

       二代目藩主

       鍋島光茂の時代に

       光茂の

       碁の相手を務めていた

       臣下の

       龍造寺又七郎が、

       光茂の機嫌を損ねて斬殺され、

       又七郎の母も飼っていた

       ネコに怨みを語って自害

       母の血を嘗めたネコが化け猫となり、

       城内で毎晩、光茂を苦しめるが、

       忠臣の

       小森半佐衛門がネコを退治し、

       鍋島家を救うという伝説

       ↓化け物物語

      「番町皿屋敷」は、

      「お菊「という女性の幽霊が

       夜な夜な皿が

       一枚足りないと数える怪談

       播州

       姫路が舞台の

       「播州皿屋敷」、

       江戸番町が舞台の

       「番町皿屋敷」

       同類のハナシは

       北は岩手県滝沢村や江刺市

       南は鹿児島県南さつま市まで

       あるらしい・・・

       江戸時代にはこれらの話が

       浄瑠璃、歌舞伎の題材とされた

       鍋島藩は

       明治維新の「薩長土肥」の一

       佐賀県、長崎県の一部の領域

       鍋島氏の前は

       竜造寺氏の領域

ーーー大隈重信

    ↓

 天保九年二月十六日(1838年3月11日)

   ~

 大正十一年(1922年1月10日)

 佐賀藩士

 位階勲等爵位は

 従一位大勲位侯爵

 参議兼大蔵卿

 外務大臣(第三・四・十一・十四・二十九代)

 農商務大臣(第十三代)

 内閣総理大臣(第八・十七代)

 内務大臣(第三十・三十二代)

 貴族院議員などを歴任した

 1898年11月

 財団法人「東京専門学校」設立

 1902年(明治三十五年)9月

 早稲田大学と改称

 1920年(大正九年)

 二月五日、大学令による大学

 早稲田大学の

 初代総長

 身長180センチの大男

 国家主義組織

 玄洋社の一員である

 来島恒喜の

 爆弾襲撃で、

 右脚を切断

ーー↓クジラ・・・クジラの爆発

  打ち上げられたクジラの死骸の

  体内腐敗でガスが溜まってもたらす爆発

ーー↓クジラ

 「大言海」

 「クチビロ(口広)が変化したもの

 「日本捕鯨語彙考」では

 「クジンラ(九尋羅)」が

 変化したもの

 ・・・では、「九尋羅」とは何か?・・・「奇門遁甲・鬼門遁甲・九星学」、「河図洛書=河圖洛書」である。中国伝説、「河圖」は「伏羲(古代聖王の名)」の時、黄河から出た「龍馬」の背中に現れた図で「易の原点」となったモノで、「洛書」は「禹(古代聖王の名)」の時、洛水(川の名)からでた「神亀」の「背中(甲羅)」にあった「数文字」で、書経の「洪範」の本になったモノ、である。いわゆる「魔方陣」の「三×三=九」の桝目で、縦横斜めの三桝目の加算の和がイズレも「十五」になると言うモノで、

ーーー↓

   九星学上の配置    北を上とした地図上配置

      南      亥  北  鬼門

    4 9 2     6 1 8

   東3 5 7西  西7 5 3東

    8 1 6     2 9 4

      北     裏鬼門 南

ーー

 西北(戌亥)象意

   ↓

 乾金天父首  北  鬼門

      亥 子 丑

      6 1 8

     西7 5 3東

      2 9 4

  裏鬼門   南

 坤土地母腹

   ↑

 西南(未申)象意

ーー↓

 「易繁辞上」・・・役判事情(時定・事条)=訳判事情(字帖・治定)?・・・「河出図、洛出書、聖人則之」・・・

ーー↓クジラ

 山鯨(やまくじら)

 主に猪の肉の意味

 獣肉(特に野獣)をさす場合もある

 皮鯨(かわくじら)

 鯨の背と腹の色の違いを模して

 器の口が黒くなっている茶碗や湯呑など

 あるいは鯨肉の本皮の断面を模したとも

 鯨帯(くじらおび)

 昼夜帯という

 和服の帯で表と裏があり、

 鯨の背と腹の色の違いを模して

 鯨帯と呼ばれる

 鯨尺(くじらじゃく)

 鯨差しともいい

 和裁用の物差し。

 元は鯨の髭から作られていた

 鯨豆腐(くじらとうふ)

 豆腐の片面を

 昆布などで

 色付けして白黒にした物

 鯨羊羹(くじらようかん)

 鯨羊羹とは

 鯨肉の

 外観を模した

 和菓子

 鯨餅(くじらもち)

 鯨餅とは

 鯨肉の

 外観を模した

 餅菓子

 鯨幕(くじらまく)

 黒と白の布を交互に縫い合わせた

 (主に仏式の葬儀の際に用いられる)

 垂れ幕、

 鯨帯

 同様に鯨の体になぞらえて

 鯨幕と呼ばれる

 鯨百合(くじらゆり)

 ユリ根の料理法の一つ

 板に薄く伸ばすと

 形が皮鯨に似るから

 「鯨百合」の名が付いた

 鯨飲(げいいん)

 がぶがぶと酒を飲む様

 鯨音(げいおん)

 釣鐘や鐘の音や音が響き渡る様

 鯨吼(げいほう)も同じ意味である。  

 鯨鯢(けいげい・げいげい・げいじ)

 鯨が雄鯨で鯢が雌鯨をさし、

 あわせて鯨を意味する

 大きな口で

 小さな蝦や魚を飲み込む様から

 多数の弱者に被害を与える

 極悪人またはその首謀者をさし、

 大きな刑罰や罪人を意味する

 鯨鐘(げいしょう)

 梵鐘のことで、

 別称として

 華鯨、巨鯨

 吊り金具の部分(龍頭)が

 龍を模しているのは、

 鯨を抑える事が出来るのは

 龍以外に無いという説

 鯨呑(げいどん)

 大きな口で

 小さな蝦や魚を飲み込む様から

 強者や覇者が

 弱者などを取り込む事や

 強い国や地域が

 弱い国や地域を

 吸収合併または、

 併合する事をさす

 鯨波(とき、げいは)

 大波や 鬨の声

 「えいえい おうおう」をあらわす

 「とき」という

 大和言葉に

 「鯨波・鬨・時」という字が充てられた

 時間や間合いや機会などを意味と

 する説がある

 鯨浪(くじらなみ)

 鯨涛 (げいとう)も大波を意味する。

 鯨鵬(げいほう)

 大きいこと。または、大きいモノのたとえ

 すんくじら

 鹿児島弁で端や隅の意味。

 鯨に鯱(くじらにしゃち)

 付きまとう事または、

 付きまとって

 相手に被害を与える事

 鯨の喧嘩に海老の背が裂ける

 (くじらのけんかにえびのせなかがさける)

 強者の争いに

 弱者が

 巻き込まれ

 被害を受ける事

 鰯網で鯨捕る

 (いわしあみでくじらとる)

 予想せず大きな獲物や収穫を得ること、

 思いがけず幸運に恵まれたりすること

 同義語で

 「棚から牡丹餅」

 長鯨の百川 吸うが如し

 (ちょうけいのひゃくせん すうがごとし)

 大酒のみのことで

 元は漢詩である

 鯨鯢の顎にかく

 (けいげいのあぎとにかく)

 鯨のあごに

 引っ掛かり

 飲み込まれそうになったという

 九死に一生を得る様な体験をさす

 虎伏 野辺 鯨の寄 浦

 (とらふす、のべ。くじらのよる、うら)

 虎や鯨が出没する様な

 原野や

 海がある様な所という

 未開の地をさす

ーーー

 「クジラ」のコトバの変遷

 奈良時代(710~794年)

 万葉集

 イサナ=鯨魚、鯨名、勇魚、不知魚、伊佐魚

 又は

 「イサ」

 捕鯨は

 「イサナトリ」「イサナトル」

 古事記→「区施羅=クヂラ」

 日本書紀→「久治良=クヂラ」

 平安時代(794年~1185年)

 新撰字鏡

 オスは

 「鼇(本来は大亀の意味)」=クチラ(久治良)

 メスは「鯢」=メクチラ(女久治良)

 類聚名義抄

 オスは「巨京(渠京を略した文字)」

    クヂラ、ヲクヂラ

 メスは「鯢」

    クヂラ、メクヂラ。

 常用漢字表

 魚偏(さかなへん)のある文字は

 「鯨」と「鮮」

 漁業神(えびす)

 鯨は、鯛と釣竿を持つ姿で知られ

 漁業の神でもある

 「恵比寿」との同一視がなされた

 漁師が、鯨にカツオがつく様子を

 鯨付きと呼ぶように、

 魚群の水先案内として鯨類を目印としていた

 東北、近畿、九州の各地方をはじめ

 日本各地で、

 鯨類を「エビス」と呼んでいた

 ニタリクジラにカツオが

 付いたり、

 イルカにキハダマグロがつく

 アイヌ民族は

 寄り鯨をもたらすとして

 ハクジラ(歯鯨)類の

 シャチを沖の神とした

 石川県の宇出津(うしつ)でも、

 捕鯨対象の

 鯨を追い込んでくれる

 シャチを

 「神主」と呼んでいた

 漂着神(えびす)

 島嶼部性(とうしょうぶせい)の

 高い日本において

 「寄り鯨」・「流れ鯨」と呼ばれた

 漂着鯨も「エビス」と呼んで、

 「寄り神信仰」の起源ともいわれている

 特に

 三浦半島や

 能登半島や

 佐渡島などに

 顕著に、伝承

 寄り鯨の到来は、

 七浦が潤うともいわれ、

 恵比寿が身を挺して住民に恵みをもたらしてくれたものという理解もされていた。もっとも土地によって逆の解釈もあり、恵比寿である寄り鯨を食べると不漁になるという伝承も存在した

 水神

 「漁業の神」として祀って

 内陸部においても

 河川や水源の近くにある

 岩や石を

 鯨と見立てて、

 鯨石や鯨岩と呼び、

 治水や水源の「水の神」として

 祭っている地域も存在する

ーー

 黥(いれずみ・ゲイ・ケイ)・黯(くろい・くらい・アン・エン)・黭(くろい・くらい・アン)・黮(くろい・くらい・タン)・黔(くろい・ケン・ゲン)・・クジラのヒゲは「カラクリ人形の」の「発条(ぜんまい)」に使用された・・・「黒子(ほくろ)」は、皮膚の表面にある黒ないし褐色の班で、母斑の一種。平安初期から鎌倉初期には「母糞(ははくそ)」と言ったらしい・・・「黒子(くろこ)」は歌舞伎か、浄瑠璃に登場する役者の助っ人である。

ーーーーー

 枕草子

 (六三段)・・・六拾参段・六十三段・六参・陸足参段

         6+3=9=九=玖

         6×3=18=十八=壱拾八=壱八=足捌

 よき

 家の

 中門

 あけて、

 檳榔毛の

 車の

 白

 きよ

 げ

 なる

 に、

 蘇枋の

 下簾、

 にほひ

 いと

 きよらかに

 て、

 榻(しぢ)に

 うち

 掛け

 たる

 こそ、

 めでた

 けれ。

 五位、

 六位

 などの、

 下襲の

 裾

 はさみて、

 笏の

 いと

 白き

 扇

 うち

 置き

 など

 して

 とかく

 行き

 違ひ、

 また、

 装束し、

 壺胡

 (つぼ

  や

  な

  ぐ

  ひ)

 負ひたる

 随身の

 出で

 入り

 したる、

 いと

 つき

 づきし。

 厨女

 (くり

  や

  め)

 の

 きよげ

 なるが、

 さし

 出で

 て、

 「なに

  がし

  殿の

  人

  や

  さぶらふ」

 など

 言ふも、

 をかし。

ーーーーー

・・・

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トギセン→伽先→賭欺宣→雪能生伝

2013-06-24 22:12:22 | 古事記字源
 沖縄・琉球・・・「龍寓城」・・・「寓=宮」は海の底の「廈」ですか・・・「オトヒメの様」、「ウラのシのマの太の郎(いらっこ=意等通拠・ロウ=瀧・賂烏・弄・廊・漏・浪)」・・・
 去年造った物置の屋根の「廂(庇・ひさし)」が雪の重みで壊れていたのを修理・・・漢字転換の「ひさし」は「軒(のき)」と思っていたが・・・「庇(廂・ひさし)」だった。
 記憶している「コトバ」は随分といい加減である。調べると、ブログ辞典の説明に「吉里吉里人」の著作者、「井上ひさし」の「ひさし」がオマケに出てきた。「1934年11月17日~2010年4月9日)・小説家、劇作家、放送作家・本名は井上 廈(いのうえ ひさし)。1961年~1986年までの「本名は内山 廈(うちやま ひさし)」で、「廈(いえ・カ・ゲ)」・・・号は「遅筆堂(ちひつどう)」であったらしい。未完の作品が、沖縄琉球を舞台にした「木の上の軍隊」ですか・・・沖縄戦終結・・・「ひょっこりヒョウタン島」・・・
 兎に角、「庇護」の「庇(ひさし・かばう)=广+比」、「廂(ひさし・ショウ・ソウ)=广+木+目」は、「家屋の開口部(窓、出入り口)の上に取り付けられる日よけや雨よけ用の小型の屋根のこと」で、「軒(のき)」とは別物であった・・・が・・・
 ・・・「建物の外壁から差し出した、日光、雨などを防ぐための小さな片流れの屋根・のき」

 「寝殿造りなどで、母屋(もや)の外側に付加された細長い下屋(げや)部分。その外に簀(す)の子縁を設ける」

 「建物の窓・出入り口・縁側などの上部に張り出す片流れの小屋根。軒(のき)」

 「帽子の、額の上に突き出た部分・つば・「庇髪(ひさしがみ)」の略」

 「寝殿造りで、母屋(もや)の外側に張り出して付加された部分」

 「中国で主として宋代に使われた都市内外の区画の名称。原義は母屋(おもや)の両脇の副屋。八世紀、唐の玄宗時代、禁軍を左右の廂に分置したことから,軍隊区分、駐屯地域に意味が拡大」

 「五代初めには都市内の軍事警察管轄区としての廂が確立。北宋の国都開封では内外城が四廂ずつ八廂に分けられ、各廂に廂典以下の胥吏(しより)が配置されて、防犯、防災、簡易裁判などの機能を果たした。南宋になると機能が細分化して隅(ぐう)などを生じ、廂は城外隣接区の呼称に変わる」

 「庇を貸して母屋を取られる・庇を借りて母屋を乗っ取る」

 「廂番(ひさしばん)営中に宿直(とのい)して将軍に近侍する番衆の一つ。鎌倉幕府は1257年(正嘉一年)、仙洞の制を模して廂番を設け〈当参の人数の中、或いは然るべきの仁、或いは要枢の輩(ともがら)を撰〉んで六番に結番し、交替で昼夜将軍に近侍させることとした。各番十人でその中の一人を番頭とした。番頭には、主として京下りの公卿殿上人や、北条氏一門の者を任じた。1260年(文応一年)には、各番の成員を十二人に増加。建武新政府も、足利直義に奉じられて鎌倉に下向した征夷大将軍成良親王の下に関東廂番を置いた」

 ・・・そうですか、ボクの記憶も満更ではないか、「軒(のき)」、「退き=引退・後退」で、「退化の戒心」・・・類字は「屁(へ・ヒ)」、「庀(ヒ)」は「具える意味」であるらしい。「尼(ニ・ジ・あま)」・・・「雨樋(あまどい)」、「天問い・海問い・編土肥」・・・「厦門(アモン)」、福建省南部、九龍江の河口に開けた海浜都市・・・厦門港・・・

 「望厦条約(ぼうかじょうやく・Treaty of Wanghia)」は、1844年に清国とアメリカ合衆国の間で結ばれた条約。

 アヘン(阿片・鴉片)戦争で「英吉利(イギリス)」帝国に敗北した清国は、

 イギリスと

 南京条約、

 虎門寨

 追加条約を結んだ

 清国の

 関税自主権の喪失、

 治外法権などを定めた

 不平等条約

 1844年7月3日

 マカオ(澳門)郊外の

   ーー↓  

    「澳門=広東語は「イェール式」で

            「オーメン」

     マカオの別表記

    「媽閣=広東語で「Ma kok」

    「馬交=広東語で「マーガーウ」

    「歴史的には、

     蠔鏡という名が

     明代に記録されているのが最初

     別表記で

     濠鏡澳、海鏡、香山澳などの名称

     文語的な表現でマカオは

     「濠江=北京語で「ハオジアン」

         広東語で「ホウゴーン」

     「蓮」が多いことから

     「蓮島、蓮海」などの呼称もある

     元は「葡萄牙(ポルトガル)」の

     植民地

ーー↓

 望厦村において、

 イギリス(英吉利)と南京条約で認めた

 内容と同様な

 修好通商条約が

 アメリカ(亜米利加)と

 結ばれた

 十月には、

 清国は

 フランス(仏蘭西)とも

 黄埔条約を結んだ

 ・・・幕末、明治の支配者は、よく、これを「軒先」で見ていた・・・

 ・・・「沖縄地位協定」・・・厚顔無恥な「アベ」は「阿片・鴉片」・・・かも・・・「日本」は「深刻・申告・親告・神国・震国・新穀・唇語句」の「臣国」で、かっての「清国」の「清の語句」なんだろう・・・「清少納言」・・・

ーーーーー

 枕草子

 (六二段)・・・六拾弐段・六十二段・六弐段・陸足弐段

         6+2=8=八=捌

6×2=12=十二=壱弐=壱拾弐

 人の

 家の

 前を

 わたるに、

 さぶらひ

 めき

 たる

 男、

 つちに

 居る

 もの

 など

 して、

 男子の

 十

 ばかり

 なるが、

 髮を

 かしげ

 なる、

 引き

 はへ

 ても、

 さばき

 て

 垂る

 も、

 また

 五つ

 六つ

 ばかり

 なるが、

 髮は

 頸の

 もとに

 かい

 くく

 みて、

 つらいと

 赤う

 ふくらか

 なる、

 あやしき

 弓、

 しも

 とだち

 たる

 物

 な

 ど

 ささげ

 たる、

 いと

 うつくし。

 車

 とどめて

 抱き

 入れ

 まほしく

 こそ

 あれ。

 又

 さて

 往くに、

 薫物の

 香の

 いみじく

 かかへ

 たる、

 いとをかし。

ーーーーー

 ・・・

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