昨日は従姉の主人が入院している岩見沢の病院にお見舞いに行ってきた。従姉の嫁入り先、ご主人の実家は「三笠市」であるが、三笠市には「自由党士・原利八(明治23年3月24日、40才で病死、加波山事件の関係者)」の獄死を後世に伝える昭和6年同志の、「河野広体」等に建てられた碑がある、と聞かされ、従姉の息子の車で見学に行ってきた。
・・・従姉のご主人の御祖父さんが18歳の時に鳥取から南米移民を試み、途中、暴風雨で北海道に立ち寄って、そのまま居座ってしまったのが「三笠」であった。
ボクは以前から「三笠」と言う「市の名前」がナンなんだろうと興味があったのだが、
「1906年空知郡
幌内村、
幾春別村(いくしゅんべつ)、
市来知村(いちきしり)の一部が合併、
二級町村制、
空知郡
三笠山村となる(三村合併)」
である・・・これら、「三村」の名前はアイヌ語をモジッタとしても、「明治日本の記念詞」を示すモノである・・・役所の所在地が「北海道三笠市幸町二番地」・・・
「自由民権運動」、明治時代の「政治運動、社会運動」、明治時代の「自由党」・・・今現在の「自由民主党」と「民主党」が歴史的に国家権力から「弾圧」を受けた等とは聞かない・・・何処に追求すべき「自由と民主」があるんだか?・・・明治の「自由党」とは雲泥の差が歴然である・・・
「板垣 退助
(天保八年四月十七日(1837年5月21日)
~
大正八年(1919年)七月十六日)」は、
土佐藩士で幼名が「猪之助」。通称、「退助」。諱は初め「正躬(まさみ)」、後に「正形(まさかた)」。号は「無形(むけい)」・・・如何せん、奈何せん、「国家主義=民族主義」者だった・・・「百円札」は・・・あか(垢・閼伽・赤・亜掛・阿科)札・・・である・・・
ーー↓板垣退助・・・自由は死すとも、イタガキ生きる?
「土(十一)佐=とさ=十三」、
「幼名=ようめい=養命・陽明・用名・要名・葉名」が、
「猪之助=いのすけ=猪子諏懸・亥支=北西・23時~零時帯」、
「通称=つうしょう=通商・通証・通唱」
「退助=たいすけ=退叙・碓諏懸・替素懸・他意素懸」
「諱=いみな=忌み名・意味名・威視名」
「初め=はじめ=葉字目・一・肇・啓・始・基・元・源・大・本・哉」
「正躬(まさみ)=正己・真作視」
「後=のち=野馳」、
「あと=跡・址・痕」
「正形(まさかた)=真作掛他」、
「せいけい=成型・成形・西経・聖経・整形」
「号=ごう=合・傲(倣)・劫・轟・拷・強・郷・業」
「無形(むけい)=無稽・無恵・務恵・ム計」
ーーー
それに、「法治国家」の論理を詰めれば「韓国の強盗、仏像判決」・・・「国家」の「返す、返さない」は「釈迦」も困惑のホトケ・・・かな・・・「法治国家」なのか、「放置国家」なのか・・・「国際法」では、どうなる「竹島」、「尖閣」、「北方領土」・・・「養殖あわび」を高速船で盗みにくる「お隣さん」を以前TVニュース番組でみたけれど・・・兎に角、「日本国」は「仏教徒国」ではないし、「神道、シンコク」でもない・・・モチロン、「隣国」も・・・「拝金国」であるらしい・・・
ーーーーー
「明治憲法」は「欽定憲法」であり、「日本国民」が「自ら選択したモノ」ではない。では、「日本国憲法」が「マッカーサー」に与えられた「準欽定憲法」なのか?・・・
「憲法制定の主体」を基準にすれば、「亜米利加合衆国占領軍」下、影響下にあろうとも、トリアエズ、「国民」が「選んだ憲法」なのである・・・
仮に「民主主義」を押し付けられたとしても、ソレを嫌うのはダレか?・・・その「民主法治」を「放置」している、「放置」しようとしている、「放置」させようとしているのは、ダレか?・・・「民が主」と思っているらしいヒトビトの「理解度の基準」であるらしい・・・
では、「日本国憲法発布、施行」の手続きは「民主的」であったのか?そして、その「内容」は「民主的」であったのか?・・・あった、のだ。
1946年(昭和二十一)二月、国務大臣松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会起草の憲法改正要綱がGHQに提出されたが、民主化には不十分であるとして拒否され、いわゆるマッカーサー草案が提示された。政府はこれに従って作業を進め、3月6日憲法改正草案要綱を発表した。
1946年4月、戦後初の総選挙。1946年12月17日の選挙法改正で20歳以上の男女が投票権を得て国会議員を選出した。第一次吉田茂内閣が成立。憲法改正草案は、帝国憲法改正案として6月20日第90回帝国議会に提出された。
1947年11月3日
「日本国憲法」は、「帝国憲法」の改憲手続の規定に従い、衆議院・貴族院及び枢密院の審議を経て、修正の上、成立し公布。
1947年(昭和二十二)5月3日に施行。
「日本国民は、正当に選挙された(間接にしろ、直接にしろ)国会における代表者」を通じて行動し、「日本国憲法1946年(昭和二十一年十一月三日発布)」を選択承認したのである。
「欽定憲法」とは「君主の意思で制定され、国民に与えられた憲法。君主の権力が強い場合、国民の憲法制定要求に先手を打って制定される(1814年のフランス憲法、大日本帝国憲法)」・・・「国民が選んだモノ」ではない。
「制定の主体を憲法」の分類すると・・・
欽定憲法
君主によって制定された憲法(大日本帝国憲法など)。
民定憲法
(直接または間接に)人民によって制定された憲法。
協約憲法
君主と人民により制定された憲法。
条約憲法
連邦国家の憲法がその構成主体間の条約によって
成立した場合のもの
(ビスマルク憲法、アメリカ合衆国憲法など)
ーーーー↓自由民権運動
1874年(明治七年)の「民撰議院設立建白書の提出」を契機に始まったらしい・・・それ以降、薩長藩閥政府政治に対して、「憲法制定、議会開設、地租軽減、不平等条約改正阻止、言論、集会の自由の保障」などの要求を掲げ、1890年(明治二十三年)の帝国議会開設頃まで続いた。
ボクが「三笠市」で見たものは
「加波山事件」の「自由党士、原利八の獄死を後世に伝えるために昭和6年同志河野広体等により建碑」されたモノで、明治二十三年三月二十四日、この地で投獄、四十歳で病死人物である。
明治十五年九月~二十五年十二月まで
死亡した
囚人(国事犯?)
965体を集骨
明治二十九年十月合葬され、明治三十四年の廃監まで
1,158体が合葬されている、と碑石にあった
ーー ↓福島事件
「喜多方事件」
裏面の文字は風化していて判別が難しくなっている石碑が「喜多方」にあるらしい・・・事件百周年記念顕彰碑・・・の本文の最後には、
「・・・ここに事件百周年を迎えるにあたり、この建碑に参加する者は、わが国民主主義の源流をたどり、先人の苦難をしのび、その復権を確認するとともに、自由民権運動の退潮と同時に帝国主義への道を踏みだし、悲惨な戦争へとつき進んだわが国の歴史をかみしめ、今日再び重大な試練に直面している民主主義を守るために、決意を新たにするものである」
喜多方厚生会館駐車場の
喜多方事件百周年顕彰碑と説明板
自由民権
喜多方事件百周年記念
顕彰碑
自由民権運動弾圧
一八八二年二月
福島県令
三島通庸は、
強制夫役による会津三方道路の強行開削
会津農民は自由党の指導のもとに、
権利恢復訴訟同盟を結ぶ
盟約参加者は八千余名
官憲は、財産の差押え、競売等による
代夫賃の強制取立てと、指導者の逮捕
十一月二十八日
人々は弾正ケ原で集会、代表者を選んで
喜多方警察署の指導者拘留の理由、その釈放を求めた
警察は参集した千数百名に対し
凶徒集合を口実に、抜刀、襲撃
五百名余りを逮捕
県会議案毎号否決事件・無名館血判盟約事件
警察署
明治九年(1876)十二月十三日
県第65号布達
福島県警察
若松出張所所属
「耶麻郡ノ内一小区ヨリ∧小区迄」を管轄する
喜多方屯所の設置
この管轄区域は、
二日後の区統合により、
第13区の
耶麻郡のうち
一町六十七ケ村
明治十三年七月県会
警察署昇格の決定
明治十四年六月二十五日
喜多方警察署が誕生
その所轄区域は
耶麻郡一円であり、
管下に
猪苗代分署が置かれた
この警察署が
喜多方事件の舞台となった
久山寺会合で決めた13ヵ条にわたる
「権利恢復の規約書」
久山寺
福島県令
三島通庸の一方的な
会津
三方道路工事施工に反対した、
自由党派六郡連合会議員による
臨時会開催要求も拒否し、
道路工事の強行
自由党員と農民が同盟し
「権利恢復同盟」を組織
官憲との対峠のなかで、
11月19日
権利恢復同盟の指導者の検挙開始
示現寺
加波山事件
明治十七年(1884)九月
三島通庸栃木県令と政府顕官の暗殺計画
茨城県の
加波山上で決起して、
地元の警察分署や豪商を襲うなど、
革命挙兵の撒文で
決起者16人のうち、12人が福島県人
会津からは
三浦文次・原利八・横山信六が参加
裁判で、強盗・故殺の常事犯として、
三浦・横山は死刑、
原は無期徒刑
事件後26年の
第26回帝国議会(明治四十三年)で、
名誉回復決議
をうけた。
事件後5年
三浦・横山の顕彰墓石が示現寺に建立
原に対しては、
北海道空知集治監跡に、
昭和六年に
河野広体らによって建碑された
「自由党志士・原利八君碑」
現在三笠市指定重要文化財
中善寺
1882年(明治十五)二月
福島県令
三島通庸は
会津三方道路の開削計画
工事の着工は国庫下附金の許可後を無視
七月に着工し、
代夫賃(だいぶちん)は
四月にさかのぼって徴収
反対する農民たちは、
地元豪農層の自由民権家たちと
「権利恢復訴訟同盟」を結成
「正夫服役(せいふふきえき)」と
「代夫賃上納」の拒否で抵抗
自由党員、反対運動の指導者が逮捕
11月二十六日
村人たちがこの中善寺に集会
同盟の結束と訴訟の継続を会議
逮捕者の見舞のため
28日の
喜多方集合決定
寺の会合は、
喜多方事件の発端の地となった
弾正ケ原
明治十五年(1882)11月28日
農民三千名が喜多方に集合
若松警察署へ指導者が護送されたと聞き、
若松へ向かい、途中、弾正ケ原で集会
再度、喜多方警察署へもどり、
宇田らの拘留理由をただすと決めて解散
その後、見張所に行き逮捕理由をただすが
その最中に投石があり、
抜刀警官達により、
二人が重傷、四人が逮捕
翌二十九日早朝、警官隊の急襲
同盟幹部・県内外の応援隊
44人が逮捕
「権利恢復同盟」は崩壊
県下自由党員の一斉大検挙に発展
原 利八
喜多方市関柴町下柴字小松の人
宇田成一の影響をうけ自由党に入党
六郡連合会議員の説諭委員となり
大沼郡を担当
喜多方事件では逃れて逮捕をまぬがれ、
逃亡中の宇田を助けた
三島県令に対する念から
加波山事件に参加、
事前に発覚して
逃亡中
明治十八年二月六日
福井で逮捕
無期徒刑の宣告
鍛冶橋監獄から
北海道の空知監獄に服役
明治二十三年三月二十四日
39歳で獄死
喜多方事件
中心的指導者
宇田成一
嘉永三年(1850)
下柴村肝煎伝蔵の長男に生まれ、
戊辰戦争時には会津藩校日新館に学ぶ
明治十一年の
民会規則による
県会議員に
耶麻郡から当選し、県会活動開始
愛身社設立(明治十一年十一月十日)
安瀬敬蔵と共に
設立趣意書、規約の編成
周辺の旧肝煎層、富農層を集めて
設立発起人となって
自由民権運動を推進
後、自由党会津部を設立、国会早期開設を建言
明治十五年の県会では、
議案毎号否決動議を提出
河野広中らと自由党の先鋒に立ち
三島県令と対立
三月
会津三方道路開削問題で、
六郡連合会議員に選出
選ばれ、県令に抵抗
八月の道路起工式の夜に、
宿泊先の
清水屋で
会津帝政党員に襲われ負傷
九月には
米岡村久山寺で
権利恢復同盟の訴訟委員
官憲は、首謀者とみなし
十一月二十四日
訴訟費用一戸十銭ずつ集めた
詐欺取材容疑で逮捕
喜多方事件発生の直接の導火線となった
国事犯及兇徒緊衆教唆者首魁として
東京に護送
高等法院の予審で
十六年四月
三方道路反対闘争は、
全員無罪になり赦免
二年余り逃亡生活
この間に同志による
第二次訴訟の失敗、
加波山事件の激発
十九年八月
官吏侮辱の実刑を終えて出獄
後、大同団結運動の先頭に立ち
二十五年、二十九年と県会議員に当選
反動派優勢のなかの会津政界で、
耶麻郡の一角から自由党の孤塁を死守
晩年は、郡会議長、関柴村長を務める
大正十五年
76歳で死亡
高田事件―福島・喜多方事件と秩父事件
ーーー↓三笠市
三笠市は、北海道の空知地方南部にある市
北海道の石炭と鉄道、『北海盆唄』発祥の地
三笠メロン・三笠スイカ・三笠たまねぎ
三笠あすか・梅の杜(旧三笠梅林邦梅園)の梅
炭鉱史跡群
アンモナイト化石等で有名
地名の由来
明治時代に存在した
空知集治監の建物の
裏山が
奈良の
三笠山に見えることから・・・?戦艦三笠
自由民権運動の
「原利八君」の「碑」が存在する
ーー↓
枕草子
六六段・・・六拾六段・六十六段・陸足陸段
6+6=12=十二=壱拾弐=壱弐
6×6=36=三十六=参拾六=参六=参足陸
里は・・・・・「理」はスベテの「葉」とする
逢坂の里。
ながめの里。
いさめの里。
ひとづまの里。
たのめの里。
朝風の里。
夕日の里。
十市の里。
伏見の里。
長井の里。
つまとりの里、
人に
とられ
たる
にや
あらん、
わが
取り
たる
にや
あらん、
いづれも
をかし。
ーー↓「三笠山」村
桂沢ダム
1909年(明治四十三年)から幾春別川におけるダム計画として水力発電用として現在の桂沢地点が着目され、1934年(昭和九年)には多目的ダム計画に格上げされ、1952年(昭和二十七年)に「石狩川水系総合開発計画」として北海道で初めての多目的ダム(貯水池)
ーーー↓「三笠山」村
日露戦争
1904年(明治三十七年)二月八日
~
1905年(明治三十八年)九月五日)
五月二十七日
日本海海戦(The Battle of the Sea of Japan)
主力十二隻
連合艦隊
連合艦隊司令長官
第一艦隊司令長官
東郷平八郎が兼任
旗艦
三笠
ーー↓
「三笠山」村→1906年(明治三十九年)
ーー↓
1906年(明治三十九年)
1月7日 西園寺公望内閣成立
1月14日 乃木希典第三軍司令官、東京に凱旋
1月29日 札幌・日本・大坂の
ビール三社が合併を発表
2月17日 坪内逍遥らの文藝協会発足
2月18日 福島県平町の大火(570戸)
2月19日 英国皇太子コンノート殿下来朝
2月20日 コンノート殿下参内、
最高貴のガーター勲章を捧呈
2月22日 日本・ハワイ間修交通商条約公布
2月24日 日本社会党第一回大会
(日本社会党結党)
3月1日 振替貯金制度実施
3月2日 非常特別税法改正
3月15日 日堺利彦「社会主義研究」創刊
3月15日 日東京市電値上反対運動激化、
電車を焼打ち、軍隊出動
3月17日 日台湾大地震、死者1110人余
3月31日 鉄道国有法公布
4月4日 徳富蘆花、ロシア文豪トルストイ訪問
横浜出帆(7月、両氏会見)
4月7日 廃兵院法公布
4月11日 華族女学校を学習院に併合
4月30日 日露戦役凱旋大観兵式、
青山練兵場(明治神宮外苑)で挙行
5月1日 横浜三渓園、市民に開放
5月5日 第一回全国小学教員大会
5月11日 満州軍参謀
福島安正少将、
ロシアの満州参謀次長
オラノフスキーと会見
(満州鉄道授受開始)
5月20日 鉄道総哩数5000哩(マイル)
開通記念祝賀会を
名古屋市で挙行
5月22日 元老会議で満州問題協議
5月28日 幸徳秋水、
「世界革命運動の潮流」を演説
6月1日 ロシアより北緯50度以南の
樺太受領
6月1日 日米間海底電信布設竣工
6月7日 南満州鉄道会社設立動令公布
6月9日 林権助を清国公使に任命
6月11日 京都帝国大学に文科大学開設
6月12日 エスペラント協会創立
6月26日 日米直通海底有線電話開通
7月11日 新潟県直江津の大火
7月13日 南満州鉄道株式会社に
参謀総長児玉源太郎を
委員長とする設立委員会を設置
7月23日 児玉源太郎没(享年55歳)
7月24日 逓信省において
女子判任官任用の新例開かれる
8月1日 日米間の海底電線による通信開始
8月1日 愛知県豊橋に市制実施される
8月8日 佐世保港内沈没の
戦艦「三笠」浮揚す
8月18日 呉海軍工廠の職工、
戦時手当の廃止に反対し騒擾
9月1日 煙草「ゴールデンバット」発売
9月1日 東京に廃兵院開設
(初代院長に川崎虎三中佐任命)
9月1日 三重県宇治山田に市制実施
9月5日 「革命評論」創刊
9月10日 南満州鉄道会社(満鉄)、
株式募集開始
9月24日 南米最初の日本商店、
サンパウロに開店
(野間貞七郎経営の藤崎商会)
10月11日 初めて整形外科の一科を
東京帝国大学
医学部に開設する
10月11日 アメリカ(亜米利加)の
サンフランシスコ(桑港)に、
日本児童排訴問題おこる
10月11日 夏目漱石、第1回「木曜会」を開く
11月5日 日本・チリ間通商航海条約調印
11月22日 ロシアでストルイピンの農業改革
11月26日 南満州鉄道株式会社設立
(初代総裁は後藤新平)
11月27日 東京市会にて電車電車市営を可決
12月6日 日本最初の
地下鉄道計画書が東京に立てられる
12月14日 大阪砲兵工廠の賃上げ運動を
憲兵、警官弾圧
12月16日 東京赤坂に国語擁護会創立
12月19日 教育会議にて義務教育延長可決
12月20日 英国コンノート殿下来日
12月26日 『大日本史』編纂の大事業完成
内閣総理大臣 桂太郎
(明治34年6月2日~明治39年1月7日)
西園寺公望
(明治39年1月7日~明治41年7月14日)
生活
衣
ゴム底の地下足袋現れる
大阪十合呉服店・白木屋呉服店、
下関に臨時出張販売する
食
銀座にできた
台湾コーヒー店に女給
住
下関市水道竣工
博多ガス会社開業
文学
「婦人世界」創刊(1月)
振替貯金事務開始
鉄道国有法公布
鉄道五千哩記念祝賀
東京市街鉄道三社合併成立
東京市街電車値上反対市民大会、
電車焼打ち騒ぎあり
金銭登録器を初めて輸入
阪神電車開通
救世軍本部で無料宿泊・職業紹介を開始
新橋・下関間急行列車開始
年賀郵便特別取扱開始
地方
北海道
東北
石川啄木が郷里渋民村に帰って小学校の
代用教員になる(岩手)
大湊海軍修理工場で
ストライキおこり軍隊が出動(青森)
関東
水戸藩ではじめられた
「大日本史」の編修が完成する(茨城)
中部
近畿 •新橋・神戸間に
最大急行列車(13時間)運転
高野山が女人と肉食の禁制を解く(和歌山)
中国・四国
四国幹線
(琴平・須崎間、これと徳島を連絡する線)の
建設が決定
九州
高島炭坑でガス爆発
坑夫ら256名死亡
ーーーーー
「三笠」は・・・コジキに、イト、関連するや、否や・・・?
・・・従姉のご主人の御祖父さんが18歳の時に鳥取から南米移民を試み、途中、暴風雨で北海道に立ち寄って、そのまま居座ってしまったのが「三笠」であった。
ボクは以前から「三笠」と言う「市の名前」がナンなんだろうと興味があったのだが、
「1906年空知郡
幌内村、
幾春別村(いくしゅんべつ)、
市来知村(いちきしり)の一部が合併、
二級町村制、
空知郡
三笠山村となる(三村合併)」
である・・・これら、「三村」の名前はアイヌ語をモジッタとしても、「明治日本の記念詞」を示すモノである・・・役所の所在地が「北海道三笠市幸町二番地」・・・
「自由民権運動」、明治時代の「政治運動、社会運動」、明治時代の「自由党」・・・今現在の「自由民主党」と「民主党」が歴史的に国家権力から「弾圧」を受けた等とは聞かない・・・何処に追求すべき「自由と民主」があるんだか?・・・明治の「自由党」とは雲泥の差が歴然である・・・
「板垣 退助
(天保八年四月十七日(1837年5月21日)
~
大正八年(1919年)七月十六日)」は、
土佐藩士で幼名が「猪之助」。通称、「退助」。諱は初め「正躬(まさみ)」、後に「正形(まさかた)」。号は「無形(むけい)」・・・如何せん、奈何せん、「国家主義=民族主義」者だった・・・「百円札」は・・・あか(垢・閼伽・赤・亜掛・阿科)札・・・である・・・
ーー↓板垣退助・・・自由は死すとも、イタガキ生きる?
「土(十一)佐=とさ=十三」、
「幼名=ようめい=養命・陽明・用名・要名・葉名」が、
「猪之助=いのすけ=猪子諏懸・亥支=北西・23時~零時帯」、
「通称=つうしょう=通商・通証・通唱」
「退助=たいすけ=退叙・碓諏懸・替素懸・他意素懸」
「諱=いみな=忌み名・意味名・威視名」
「初め=はじめ=葉字目・一・肇・啓・始・基・元・源・大・本・哉」
「正躬(まさみ)=正己・真作視」
「後=のち=野馳」、
「あと=跡・址・痕」
「正形(まさかた)=真作掛他」、
「せいけい=成型・成形・西経・聖経・整形」
「号=ごう=合・傲(倣)・劫・轟・拷・強・郷・業」
「無形(むけい)=無稽・無恵・務恵・ム計」
ーーー
それに、「法治国家」の論理を詰めれば「韓国の強盗、仏像判決」・・・「国家」の「返す、返さない」は「釈迦」も困惑のホトケ・・・かな・・・「法治国家」なのか、「放置国家」なのか・・・「国際法」では、どうなる「竹島」、「尖閣」、「北方領土」・・・「養殖あわび」を高速船で盗みにくる「お隣さん」を以前TVニュース番組でみたけれど・・・兎に角、「日本国」は「仏教徒国」ではないし、「神道、シンコク」でもない・・・モチロン、「隣国」も・・・「拝金国」であるらしい・・・
ーーーーー
「明治憲法」は「欽定憲法」であり、「日本国民」が「自ら選択したモノ」ではない。では、「日本国憲法」が「マッカーサー」に与えられた「準欽定憲法」なのか?・・・
「憲法制定の主体」を基準にすれば、「亜米利加合衆国占領軍」下、影響下にあろうとも、トリアエズ、「国民」が「選んだ憲法」なのである・・・
仮に「民主主義」を押し付けられたとしても、ソレを嫌うのはダレか?・・・その「民主法治」を「放置」している、「放置」しようとしている、「放置」させようとしているのは、ダレか?・・・「民が主」と思っているらしいヒトビトの「理解度の基準」であるらしい・・・
では、「日本国憲法発布、施行」の手続きは「民主的」であったのか?そして、その「内容」は「民主的」であったのか?・・・あった、のだ。
1946年(昭和二十一)二月、国務大臣松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会起草の憲法改正要綱がGHQに提出されたが、民主化には不十分であるとして拒否され、いわゆるマッカーサー草案が提示された。政府はこれに従って作業を進め、3月6日憲法改正草案要綱を発表した。
1946年4月、戦後初の総選挙。1946年12月17日の選挙法改正で20歳以上の男女が投票権を得て国会議員を選出した。第一次吉田茂内閣が成立。憲法改正草案は、帝国憲法改正案として6月20日第90回帝国議会に提出された。
1947年11月3日
「日本国憲法」は、「帝国憲法」の改憲手続の規定に従い、衆議院・貴族院及び枢密院の審議を経て、修正の上、成立し公布。
1947年(昭和二十二)5月3日に施行。
「日本国民は、正当に選挙された(間接にしろ、直接にしろ)国会における代表者」を通じて行動し、「日本国憲法1946年(昭和二十一年十一月三日発布)」を選択承認したのである。
「欽定憲法」とは「君主の意思で制定され、国民に与えられた憲法。君主の権力が強い場合、国民の憲法制定要求に先手を打って制定される(1814年のフランス憲法、大日本帝国憲法)」・・・「国民が選んだモノ」ではない。
「制定の主体を憲法」の分類すると・・・
欽定憲法
君主によって制定された憲法(大日本帝国憲法など)。
民定憲法
(直接または間接に)人民によって制定された憲法。
協約憲法
君主と人民により制定された憲法。
条約憲法
連邦国家の憲法がその構成主体間の条約によって
成立した場合のもの
(ビスマルク憲法、アメリカ合衆国憲法など)
ーーーー↓自由民権運動
1874年(明治七年)の「民撰議院設立建白書の提出」を契機に始まったらしい・・・それ以降、薩長藩閥政府政治に対して、「憲法制定、議会開設、地租軽減、不平等条約改正阻止、言論、集会の自由の保障」などの要求を掲げ、1890年(明治二十三年)の帝国議会開設頃まで続いた。
ボクが「三笠市」で見たものは
「加波山事件」の「自由党士、原利八の獄死を後世に伝えるために昭和6年同志河野広体等により建碑」されたモノで、明治二十三年三月二十四日、この地で投獄、四十歳で病死人物である。
明治十五年九月~二十五年十二月まで
死亡した
囚人(国事犯?)
965体を集骨
明治二十九年十月合葬され、明治三十四年の廃監まで
1,158体が合葬されている、と碑石にあった
ーー ↓福島事件
「喜多方事件」
裏面の文字は風化していて判別が難しくなっている石碑が「喜多方」にあるらしい・・・事件百周年記念顕彰碑・・・の本文の最後には、
「・・・ここに事件百周年を迎えるにあたり、この建碑に参加する者は、わが国民主主義の源流をたどり、先人の苦難をしのび、その復権を確認するとともに、自由民権運動の退潮と同時に帝国主義への道を踏みだし、悲惨な戦争へとつき進んだわが国の歴史をかみしめ、今日再び重大な試練に直面している民主主義を守るために、決意を新たにするものである」
喜多方厚生会館駐車場の
喜多方事件百周年顕彰碑と説明板
自由民権
喜多方事件百周年記念
顕彰碑
自由民権運動弾圧
一八八二年二月
福島県令
三島通庸は、
強制夫役による会津三方道路の強行開削
会津農民は自由党の指導のもとに、
権利恢復訴訟同盟を結ぶ
盟約参加者は八千余名
官憲は、財産の差押え、競売等による
代夫賃の強制取立てと、指導者の逮捕
十一月二十八日
人々は弾正ケ原で集会、代表者を選んで
喜多方警察署の指導者拘留の理由、その釈放を求めた
警察は参集した千数百名に対し
凶徒集合を口実に、抜刀、襲撃
五百名余りを逮捕
県会議案毎号否決事件・無名館血判盟約事件
警察署
明治九年(1876)十二月十三日
県第65号布達
福島県警察
若松出張所所属
「耶麻郡ノ内一小区ヨリ∧小区迄」を管轄する
喜多方屯所の設置
この管轄区域は、
二日後の区統合により、
第13区の
耶麻郡のうち
一町六十七ケ村
明治十三年七月県会
警察署昇格の決定
明治十四年六月二十五日
喜多方警察署が誕生
その所轄区域は
耶麻郡一円であり、
管下に
猪苗代分署が置かれた
この警察署が
喜多方事件の舞台となった
久山寺会合で決めた13ヵ条にわたる
「権利恢復の規約書」
久山寺
福島県令
三島通庸の一方的な
会津
三方道路工事施工に反対した、
自由党派六郡連合会議員による
臨時会開催要求も拒否し、
道路工事の強行
自由党員と農民が同盟し
「権利恢復同盟」を組織
官憲との対峠のなかで、
11月19日
権利恢復同盟の指導者の検挙開始
示現寺
加波山事件
明治十七年(1884)九月
三島通庸栃木県令と政府顕官の暗殺計画
茨城県の
加波山上で決起して、
地元の警察分署や豪商を襲うなど、
革命挙兵の撒文で
決起者16人のうち、12人が福島県人
会津からは
三浦文次・原利八・横山信六が参加
裁判で、強盗・故殺の常事犯として、
三浦・横山は死刑、
原は無期徒刑
事件後26年の
第26回帝国議会(明治四十三年)で、
名誉回復決議
をうけた。
事件後5年
三浦・横山の顕彰墓石が示現寺に建立
原に対しては、
北海道空知集治監跡に、
昭和六年に
河野広体らによって建碑された
「自由党志士・原利八君碑」
現在三笠市指定重要文化財
中善寺
1882年(明治十五)二月
福島県令
三島通庸は
会津三方道路の開削計画
工事の着工は国庫下附金の許可後を無視
七月に着工し、
代夫賃(だいぶちん)は
四月にさかのぼって徴収
反対する農民たちは、
地元豪農層の自由民権家たちと
「権利恢復訴訟同盟」を結成
「正夫服役(せいふふきえき)」と
「代夫賃上納」の拒否で抵抗
自由党員、反対運動の指導者が逮捕
11月二十六日
村人たちがこの中善寺に集会
同盟の結束と訴訟の継続を会議
逮捕者の見舞のため
28日の
喜多方集合決定
寺の会合は、
喜多方事件の発端の地となった
弾正ケ原
明治十五年(1882)11月28日
農民三千名が喜多方に集合
若松警察署へ指導者が護送されたと聞き、
若松へ向かい、途中、弾正ケ原で集会
再度、喜多方警察署へもどり、
宇田らの拘留理由をただすと決めて解散
その後、見張所に行き逮捕理由をただすが
その最中に投石があり、
抜刀警官達により、
二人が重傷、四人が逮捕
翌二十九日早朝、警官隊の急襲
同盟幹部・県内外の応援隊
44人が逮捕
「権利恢復同盟」は崩壊
県下自由党員の一斉大検挙に発展
原 利八
喜多方市関柴町下柴字小松の人
宇田成一の影響をうけ自由党に入党
六郡連合会議員の説諭委員となり
大沼郡を担当
喜多方事件では逃れて逮捕をまぬがれ、
逃亡中の宇田を助けた
三島県令に対する念から
加波山事件に参加、
事前に発覚して
逃亡中
明治十八年二月六日
福井で逮捕
無期徒刑の宣告
鍛冶橋監獄から
北海道の空知監獄に服役
明治二十三年三月二十四日
39歳で獄死
喜多方事件
中心的指導者
宇田成一
嘉永三年(1850)
下柴村肝煎伝蔵の長男に生まれ、
戊辰戦争時には会津藩校日新館に学ぶ
明治十一年の
民会規則による
県会議員に
耶麻郡から当選し、県会活動開始
愛身社設立(明治十一年十一月十日)
安瀬敬蔵と共に
設立趣意書、規約の編成
周辺の旧肝煎層、富農層を集めて
設立発起人となって
自由民権運動を推進
後、自由党会津部を設立、国会早期開設を建言
明治十五年の県会では、
議案毎号否決動議を提出
河野広中らと自由党の先鋒に立ち
三島県令と対立
三月
会津三方道路開削問題で、
六郡連合会議員に選出
選ばれ、県令に抵抗
八月の道路起工式の夜に、
宿泊先の
清水屋で
会津帝政党員に襲われ負傷
九月には
米岡村久山寺で
権利恢復同盟の訴訟委員
官憲は、首謀者とみなし
十一月二十四日
訴訟費用一戸十銭ずつ集めた
詐欺取材容疑で逮捕
喜多方事件発生の直接の導火線となった
国事犯及兇徒緊衆教唆者首魁として
東京に護送
高等法院の予審で
十六年四月
三方道路反対闘争は、
全員無罪になり赦免
二年余り逃亡生活
この間に同志による
第二次訴訟の失敗、
加波山事件の激発
十九年八月
官吏侮辱の実刑を終えて出獄
後、大同団結運動の先頭に立ち
二十五年、二十九年と県会議員に当選
反動派優勢のなかの会津政界で、
耶麻郡の一角から自由党の孤塁を死守
晩年は、郡会議長、関柴村長を務める
大正十五年
76歳で死亡
高田事件―福島・喜多方事件と秩父事件
ーーー↓三笠市
三笠市は、北海道の空知地方南部にある市
北海道の石炭と鉄道、『北海盆唄』発祥の地
三笠メロン・三笠スイカ・三笠たまねぎ
三笠あすか・梅の杜(旧三笠梅林邦梅園)の梅
炭鉱史跡群
アンモナイト化石等で有名
地名の由来
明治時代に存在した
空知集治監の建物の
裏山が
奈良の
三笠山に見えることから・・・?戦艦三笠
自由民権運動の
「原利八君」の「碑」が存在する
ーー↓
枕草子
六六段・・・六拾六段・六十六段・陸足陸段
6+6=12=十二=壱拾弐=壱弐
6×6=36=三十六=参拾六=参六=参足陸
里は・・・・・「理」はスベテの「葉」とする
逢坂の里。
ながめの里。
いさめの里。
ひとづまの里。
たのめの里。
朝風の里。
夕日の里。
十市の里。
伏見の里。
長井の里。
つまとりの里、
人に
とられ
たる
にや
あらん、
わが
取り
たる
にや
あらん、
いづれも
をかし。
ーー↓「三笠山」村
桂沢ダム
1909年(明治四十三年)から幾春別川におけるダム計画として水力発電用として現在の桂沢地点が着目され、1934年(昭和九年)には多目的ダム計画に格上げされ、1952年(昭和二十七年)に「石狩川水系総合開発計画」として北海道で初めての多目的ダム(貯水池)
ーーー↓「三笠山」村
日露戦争
1904年(明治三十七年)二月八日
~
1905年(明治三十八年)九月五日)
五月二十七日
日本海海戦(The Battle of the Sea of Japan)
主力十二隻
連合艦隊
連合艦隊司令長官
第一艦隊司令長官
東郷平八郎が兼任
旗艦
三笠
ーー↓
「三笠山」村→1906年(明治三十九年)
ーー↓
1906年(明治三十九年)
1月7日 西園寺公望内閣成立
1月14日 乃木希典第三軍司令官、東京に凱旋
1月29日 札幌・日本・大坂の
ビール三社が合併を発表
2月17日 坪内逍遥らの文藝協会発足
2月18日 福島県平町の大火(570戸)
2月19日 英国皇太子コンノート殿下来朝
2月20日 コンノート殿下参内、
最高貴のガーター勲章を捧呈
2月22日 日本・ハワイ間修交通商条約公布
2月24日 日本社会党第一回大会
(日本社会党結党)
3月1日 振替貯金制度実施
3月2日 非常特別税法改正
3月15日 日堺利彦「社会主義研究」創刊
3月15日 日東京市電値上反対運動激化、
電車を焼打ち、軍隊出動
3月17日 日台湾大地震、死者1110人余
3月31日 鉄道国有法公布
4月4日 徳富蘆花、ロシア文豪トルストイ訪問
横浜出帆(7月、両氏会見)
4月7日 廃兵院法公布
4月11日 華族女学校を学習院に併合
4月30日 日露戦役凱旋大観兵式、
青山練兵場(明治神宮外苑)で挙行
5月1日 横浜三渓園、市民に開放
5月5日 第一回全国小学教員大会
5月11日 満州軍参謀
福島安正少将、
ロシアの満州参謀次長
オラノフスキーと会見
(満州鉄道授受開始)
5月20日 鉄道総哩数5000哩(マイル)
開通記念祝賀会を
名古屋市で挙行
5月22日 元老会議で満州問題協議
5月28日 幸徳秋水、
「世界革命運動の潮流」を演説
6月1日 ロシアより北緯50度以南の
樺太受領
6月1日 日米間海底電信布設竣工
6月7日 南満州鉄道会社設立動令公布
6月9日 林権助を清国公使に任命
6月11日 京都帝国大学に文科大学開設
6月12日 エスペラント協会創立
6月26日 日米直通海底有線電話開通
7月11日 新潟県直江津の大火
7月13日 南満州鉄道株式会社に
参謀総長児玉源太郎を
委員長とする設立委員会を設置
7月23日 児玉源太郎没(享年55歳)
7月24日 逓信省において
女子判任官任用の新例開かれる
8月1日 日米間の海底電線による通信開始
8月1日 愛知県豊橋に市制実施される
8月8日 佐世保港内沈没の
戦艦「三笠」浮揚す
8月18日 呉海軍工廠の職工、
戦時手当の廃止に反対し騒擾
9月1日 煙草「ゴールデンバット」発売
9月1日 東京に廃兵院開設
(初代院長に川崎虎三中佐任命)
9月1日 三重県宇治山田に市制実施
9月5日 「革命評論」創刊
9月10日 南満州鉄道会社(満鉄)、
株式募集開始
9月24日 南米最初の日本商店、
サンパウロに開店
(野間貞七郎経営の藤崎商会)
10月11日 初めて整形外科の一科を
東京帝国大学
医学部に開設する
10月11日 アメリカ(亜米利加)の
サンフランシスコ(桑港)に、
日本児童排訴問題おこる
10月11日 夏目漱石、第1回「木曜会」を開く
11月5日 日本・チリ間通商航海条約調印
11月22日 ロシアでストルイピンの農業改革
11月26日 南満州鉄道株式会社設立
(初代総裁は後藤新平)
11月27日 東京市会にて電車電車市営を可決
12月6日 日本最初の
地下鉄道計画書が東京に立てられる
12月14日 大阪砲兵工廠の賃上げ運動を
憲兵、警官弾圧
12月16日 東京赤坂に国語擁護会創立
12月19日 教育会議にて義務教育延長可決
12月20日 英国コンノート殿下来日
12月26日 『大日本史』編纂の大事業完成
内閣総理大臣 桂太郎
(明治34年6月2日~明治39年1月7日)
西園寺公望
(明治39年1月7日~明治41年7月14日)
生活
衣
ゴム底の地下足袋現れる
大阪十合呉服店・白木屋呉服店、
下関に臨時出張販売する
食
銀座にできた
台湾コーヒー店に女給
住
下関市水道竣工
博多ガス会社開業
文学
「婦人世界」創刊(1月)
振替貯金事務開始
鉄道国有法公布
鉄道五千哩記念祝賀
東京市街鉄道三社合併成立
東京市街電車値上反対市民大会、
電車焼打ち騒ぎあり
金銭登録器を初めて輸入
阪神電車開通
救世軍本部で無料宿泊・職業紹介を開始
新橋・下関間急行列車開始
年賀郵便特別取扱開始
地方
北海道
東北
石川啄木が郷里渋民村に帰って小学校の
代用教員になる(岩手)
大湊海軍修理工場で
ストライキおこり軍隊が出動(青森)
関東
水戸藩ではじめられた
「大日本史」の編修が完成する(茨城)
中部
近畿 •新橋・神戸間に
最大急行列車(13時間)運転
高野山が女人と肉食の禁制を解く(和歌山)
中国・四国
四国幹線
(琴平・須崎間、これと徳島を連絡する線)の
建設が決定
九州
高島炭坑でガス爆発
坑夫ら256名死亡
ーーーーー
「三笠」は・・・コジキに、イト、関連するや、否や・・・?