
『自分で選んだ道なのに』をようやく読んだ。
ちょっと辛口だけど、
法話のすばらしさにくらべると、ポエティックなニオイがつよく、
ちょっと世間を意識しすぎてる感じがした。
(それだけ法話がすばらしかったってことですが…)
キリスト教やイスラム教は、その教典である聖書やコーランを読めばわかるように、
「ああしなさい、こうしなさい」と丁寧にやさしく人びとを導いてくれる啓示にあふれている。
(お釈迦様の)仏教には啓示はなく、解脱だけを目的としている。
お釈迦様の在世中は、その教義は文字として表現されたことはなく、不立文字だった。
お釈迦様(仏教)は本来、解脱の必要性と、その方法論をわずかに説いただけだった。
大谷和尚の法話や著書にふれて感じたことは、
「こうすれば、ビジネスが成功する」とか「あれをすれば、不幸から抜けだせる」
といった現世利益や救済思想はいっさいなく、
生きる喜びについてのアドバイス(啓示ではない)にあふれていた。
人びとが元気になる機会(チャンスじゃなく)を提供してるだけだった。
仏教ってのは本来、こういうものなのだろう。
大谷和尚の講演は、“講話”じゃなく“法話”なんだよな。