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「近藤君。わりいなぁ、こんな時間まで」
「まったくだよ。店を出るたびに、僕の鞄を持っていくんだから」
時が経った。
僕と宮沢は、すっかり人の居なくなった夜の駅の近くを歩いていた。
映画館を出た僕は、すぐさま駅に足を進めようと思ったが、宮沢は僕の鞄を持ちながら、寂しげな顔で僕に訴えかけた。「行ってはダメ」といわんばかりの宮沢の顔に、今の僕は「NO」と言えるほど強い拒否感がなかった。おかげで、散々嫌だったはずの『街遊び』のプランに、僕は、すっかり乗せられてしまっていた。
それほど拘りもないのに、遅い昼食にと二人でオムライスを頼んだ洋食屋。
たいして上手くもないのに、人形目当てでUFOキャッチャーをしたゲームセンター。
ろくに買物もしないのに、キャッキャッと各フロアを好奇心で練り歩いたショッピングモール。
神様なんて居ないと思っているのに、やる事がなくなってお参りした神社。
隣に宮沢の笑顔があるだけなのに、どれも春先に吹きぬける風のように鮮烈で、早い。
およそ時計の針が進むのを早めたと思うほど、時間が経つのが早い。信じられないほど。
いつもは毛嫌いする宮沢…いや、他人という存在と過ごす時間が、これほど短く、楽しく感じたのは、僕自身、意外なことだった。
たしかに、その中には、傷付けてしまった罪悪感にかられた謝罪の気持ちもあっただろう。
だが、純粋な宮沢と会話を重ねるうちに、僕は重く閉ざされた心の扉が次第に開きつつあるのを確かに感じていた。ここ数年間、両親以外、誰にも開かなかった僕の心の扉の錠は、宮沢の持っている鍵にぴったりだったようだ。
「近藤君。もう駅だよ」
「あ、ああ」
ふと僕は、腕時計と電車の出る時刻表を確認した。
まだ列車の出発までは20分以上時間がある。別れ難いとも思えてきた僕だったが、その瞬間は必ず訪れることを知っていた。手を振って、別れの挨拶をすれば、それで全てが成立する。今日という謝罪の日の終わりだ。
「なあ近藤君、まだ時間もあるし。ちょっとそこまで行くべ…」
「あ、ああ」
宮沢の言葉に、僕の心が少し浮き上がった。
僕は宮沢に連れられて、近くの公園のベンチに座った。
「ど、どうだった?」
「え?」
ベンチについた途端、急に宮沢が質問する。
どうだった?今日という日が、か?と思った僕は、とりあえずいつもの調子で返答をする。
「休日にしては疲れたよ」
「そうかぁ…」
「まんまと宮沢さんに、そそのかされたよ」
「お、おら、なんだかんだ言って自分勝手に近藤君のこと連れまわしちまったもんなぁ」
「まったく。もうやめてくれよな。こういうの」
「ははは…ごめんなぁ…」
乾いた笑いを浮かべる宮沢は、何となくバツが悪そうだ。
僕はそれを察することはできたが、まだ心の底に残る小さな悪魔という取っ掛かりが邪魔して、彼女に優しい言葉を言えないでいた。
「なあ、近藤君」
「え?」
しばしの沈黙を置き、宮沢が僕の名前を呼ぶ。
「あの映画。そんなに面白くなかったけ?」
「ああ。宮沢さんには悪いけど、面白くなかった」
「でも、近藤君、最後まで真面目に見てただ」
「字幕を目で、英語を耳で聞き取ってたのさ」
「ははは、そ、そうだったのけ。おら、てっきり気に入ってるもんだと思って…」
「映画に興味はないよ。だって、誰かが作った台本通りに人が喋るだけじゃないか」
「つ、冷てぇだなぁ。近藤君は」
「だから孤独なのさ。宮沢さんも知ってるだろ?」
自嘲気味に、今までの生き様に酔う僕。
それを見て宮沢は、何か言いたそうだった。だが一向に言う気配はない。
何か重大なことでも隠しているのか?僕は宮沢に質問してみた。
「宮沢さん。言いたい事があるなら、遠慮せず言いなよ」
「えっ…?」
「わかりやすいからね、宮沢さんは」
「ああ…うん…」
「早く言いなよ。黙っていられるより、いい気持ちだからね」
「…絶対、怒らないでけろ?」
「怒らない」
「…絶対、おらのこと嫌いにならないでけろ?」
「わかったから、早くいいなよ」
「じゃあ、言うだ!」
宮沢さんはベンチからバンと手をついて立って、僕のほうに向かって大声で言い放った。
「近藤君!おら、今日確信しただ!あんたは都会の子だが、田舎の子にも負けねえくらい、とっても優しくて良い子だ!」
「えっ?」
「始めて越して来た頃から、おらは知ってる!近藤君の本当の優しさ!傷ついて、歪んでるけども、心は誰よりも繊細で、綺麗だってこと!誰かを傷付けるのが怖くて、誰かを悲しませるのが怖くて、結局誰とも接せられねえんだ!」
「な、何を言い出すんだ。宮沢さん」
「近藤君!嫌がらずに、誰か友達を作ってけろ!おら、近藤君が、す、好きだから。誰かに陰口言われて、指差されながら生きてゆく近藤君を見るのが嫌だ!それを孤独だなんだって、認めてしまう近藤君が嫌だ!」
「別にいいじゃないか。僕の勝手だ」
「そうやって誰かのために一人になって、自分の優しい気持ちを傷付けて、素直な気持ちだせねえのは悲しいよ。孤独なんて、ただ寂しいだけで、何も生みやしねえだ!」
「君は僕の孤独を否定するのか!」
なぜこんなに宮沢が、熱くなるのかわからなかった。
怒りにも悲しみにも似た、宮沢の声に対して、僕は僕なりの理論を冷静にぶつける。
「近藤君の気持ち、おらわかるんだ」
「嘘をつくな!人気者の君に、僕の気持ちなんて、わかりっこないさ!」
「嘘じゃねえ!近藤君は優しくて!人が好きだ!」
「嘘だ!」
「おら最初から気付いてた!小学校に来たあの頃から!おらと近藤君は似てるんだ!」
「宮沢さんと僕が似てる!?どこが!?全然似てないじゃないか!」
「おらも昔はイジメられてたからわかる!近藤君もそうだべ!?」
「そ、そんなこと…宮沢さんと僕のはレベルが違う!」
日向のような宮沢に、日陰の僕の孤独のアイデンティティーなど理解できない。
誰かに言われて孤独になったわけじゃない。いつの間にか、孤独を愛してたんだ。嘘つき、インディアン、上辺人間、良い子を演じる、そんないらない物を消去していって残ったのが、僕一人。孤独そのものだったということだ。何が悪い。何が…!
「喫茶店でも、映画館でも、嫌いだって言ったおらに優しかったじゃねえか!」
「それは宮沢さんを傷付けてしまったと思ったからやったんだ!別に優しさじゃない!」
白熱の議論展開は、互いを興奮させた。
顔色は赤みを増し、呼吸は乱れ、額には汗が浮かんだ。だが、二人ともそこを逃げようとはしなかった。主張する、その思いを譲れなかったのだ。
さっきまでの静かで楽しい雰囲気から一変した、どこか喧嘩腰の二人。
孤独を愛する者と、孤独を嫌がる者。そんな平行線をたどる口論は、すでに10分もの長丁場に及んでいた。
そして、ついに宮沢は疲れたのか、麦わら帽子が置かれたベンチに座った。
呼吸を整えるように数度スーハーと深呼吸を繰り返し、僕の横で何か考えるそぶりをしながら、最後に大きな深呼吸をして、こう言い放った。
「ぷふぁああああああ!やった!おら、やっと!近藤君に、言いたいこと言えたーー!」
「うぇえあぁ!?」
宮沢の雄たけびに近い声は、僕を仰天させた。
そして宮沢は、いつも通りの笑顔を僕に投げかけた。
「ははは、本当は小学校の頃に言いたかったんだけんどね。おらも、そこまで近藤君のこと知らなかったし、傷付けるのが怖かった。でも、これで嘘はねえ。スッキリしただ」
「宮沢さん…?」
「ごめんなぁ近藤君。映画館で約束したろ?おら、嘘はつけねえ。だから、こんときに言っとこうと思ってぇ。腹の中で考えている事、全部言っておくだ」
「じゃあ、今までのことは全部…」
「ははは、本当だ。おら、近藤君が来る前は、皆に嫌われてて独りぼっちだっただ。友達も愛想でしか付き合えない人ばかりだった。近藤君もそうなんだろ?」
「うん…都会の学校でね…」
「近藤君を見て思ったんだ。おらと同じだって。でもおら、最後まで孤独が良いもんだとは、思えなかった。誰かと話したり、誰かといがみあったりして、結局他人と接しなきゃ生きれない、心の弱い人間なんだよ」
「そ、そんな。宮沢さんは強いよ。孤独しか愛せない僕よりは、ずっと!」
「いいんだ。だからこそ、おらは『孤独だけど、本当は優しい近藤君』を好きになったんだ。つーより、こりゃ格好をつけられるってことの憧れかなぁ?ははは、なんか全部言ったら笑いがこみ上げてきただよ」
「宮沢さんって…結構大胆に物を言うね」
「え?あはは、大胆だなんてそんなことねーべよ。でも、言いたい事を言えるって、大事なことだと思うんだぁ」
僕は、笑顔を浮かべる宮沢を前に自分が恥ずかしくなった。
小さな悪魔にそそのかされて傷付けてしまったはずの彼女が、こんなにも自分を理解し、守っていてくれたこと。自分の過去をサラッ言える大胆さと、嘘をつけない素直な彼女。その気持ちに気付いた瞬間、重く閉ざされていた僕の心の扉が、完全に開いた。
「宮沢さん、じゃあ僕も。本当に言いたい事言うよ」
「ん?」
僕は決心した。
僕も宮沢に対して、嘘はやめようと。
「今日は宮沢さんと居て、本当に楽しかったよ」
「こ、近藤君」
「僕は、君みたいな友達がずっと欲しかったのかもしれない。誰からも好かれて、誰からも愛されて。僕も君みたいになりたかった。でもなれなかった」
「い、今から頑張れば、近藤君だって、なれるべよ」
「いいや、僕には無理さ。君には素質がある。人から愛される素質がね。それが証拠に、君が安達先輩に告白された時、僕は嫉妬の感情が沸いたんだ。孤独を愛していたはずの僕がね。それほど君は魅力的なんだ」
「そ、そんだら近藤君に褒めてもらって、な、なんかおら、ムズ痒いよっ」
「だから僕は、言わなくちゃならない。君に一言を」
「なんだべ?」
「今まで僕を守ってくれてありがとう。そして、あの時は、ごめんなさい」
たった一言。
詰まっていて、二度と通らないと思っていた、言えなかった感謝と謝罪の言葉が言えた。清々しさに目覚めた心の息吹、その躍動が、爽やかな風となって僕の体を走る。
「い、いいだよ!お、おら。馬鹿だからすぐ忘れちまうだ。べ、別に気にしてねえから!」
手を麦わら帽子のツバにつけ、グイッと深く下げて赤面を隠す宮沢。
小さな街灯に照らされながら、もじもじと鼻と唇を震わせて恥ずかしがる宮沢を見て、僕はふいに映画館での一コマを思い出した。
「そういえば、君が映画館で言ってた約束って何?」
宮沢は、僕の言葉をきくなり、再びもじもじと体を震わせ始めた。
嘘をつけなくなった僕らの関係でも、そんなに恥ずかしい事なのだろうか?僕は意地悪く聞いてみた。
「ねえ。気になるから。言ってよ宮沢さん。嘘はないんだから。恥ずかしがらずにさ」
だが、それでも宮沢は答えなかった。
答えられないようなことなのか?とりあえず時間が気になったので時計を見る。
やばい、そろそろ電車が来る時間だ。僕は、恥ずかしがる宮沢を連れて、駅まで猛然とダッシュした。
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ホームに電車が来る。
改札を通って、僕らは電車に飛び乗った。
相変わらず宮沢は、僕の質問に答える気がないようだが、とりあえずはいいだろう。これからいつだって話は聞ける。僕ら二人は、赤の他人から、共有する二人に生まれ変わったのだから。
いつの間にか僕は、孤独の時間が消えるのが怖くなくなっていた。
自分を良く理解している人物が、こんなに近くに居ると思うと、なぜかそれまで無かった勇気が沸き、実に頼もしく思えた。
ガタンゴトン…
そろそろ宮沢の降りる駅が見えてくる。
僕の駅は二駅先。ここで宮沢にお別れになるだろう。また会えるその時が、僕にとって待ち遠しくも感じられた。
プシュー…
列車のドアが開く。
停車時間は2分弱。都会の駅から乗ってきた多くの客が降り始め、人もまばらになった車両で僕は宮沢に声をかけた。
「宮沢さん。駅だよ。降りなきゃ」
「…」
「どうしたの?駅だよ」
「…約束」
「えっ?」
「降りてけろ!」
「う、うわあ!」
まるで引きずられるように、袖の中央を思いっきり引っ張られ、ドアから飛び出した宮沢と僕。
電車の先頭でホームを覗く車掌から、その光景は見えていたが、車掌は無碍にも停笛を吹き、電車を発進させた。
ゴトンゴトン…
暗がりの田舎道に続く線路に消えてゆく電車の影を目で追いながら、僕は次の電車の時刻を調べていた。その内に駅のホームは客が消え、小さなライトだけがホームを照らし、実に閑散としていた。僕は次の列車が来るのが30分後だとわかると、ポツンとホームに立つ宮沢を見た。
赤いポシェットに麦わら帽子を被った女の子がたたずむ。
今思えば、夏でもないのに何故麦わら帽子なのか?だが、思うよりも先に、日向のような笑顔を持つ彼女には、その姿が実に似合っていた。
「なあ宮沢さん。もういいだろ?人も居ないし、聞かせてよ。僕が守らなきゃいけない約束」
僕は宮沢に問いかけると、宮沢はコクッと頷く。僕はなんとなく宮沢の顔が見たくて、思わず深く被った麦わら帽子に手をポンと置くと、ツバに手をかけ、今まで見えなかった彼女の顔を、ゆっくりと薄暗いホームのライトに照らし出した。
「お、おらとの約束。ほ、本当に守ってくれるだな?」
まだ震えている宮沢の顔には、麦わらの跡が見える。
僕は、とりあえずコクリと頷く。
そして宮沢は震える声に力を振り絞り、言った。
「近藤君。お、おら…の…こ……こ、恋…と…友達になってほしいだ!」
宮沢は、また嘘をついた。
さっき自分の心に嘘はつかないと誓ったのに。優しさが前に出てしまった。
彼女も傷つくのが怖いんだ。
「宮沢さん。僕との約束を破るの?嘘はやめなよ」
「えっ…?」
心なしか、声にも落ち着きと張りが出ていた。
宮沢には悪いけど。僕は、もう決心している。そう、僕が宮沢にもらった大きな勇気を、今度は返す番だ。
言おう、僕の素直な気持ちを。
「宮沢さん。君がどう思おうと関係ない。僕は今日、気付いたんだ。どうやら君が、僕の一番の理解者であり、親友なんだと」
「ははは…親友…近藤君なら…や、やっぱ、そうだよねぇ」
「だけど、違うんだ。僕の心は。もう違うんだ。もう、自分自身に嘘をつくのはやめたんだ。言うよ」
「え?」
言おう、僕の素直な気持ちを。
「僕、宮沢さんが好きなんだ。僕みたいな恋人でも、いいかな?」
コクンと頷く宮沢は、僕の言葉にはっきりと「はい」と答えた。
僕らは、その日、互いに一つの約束をした。
友人であり、親友であり、理解者であり、恋人の宮沢と見に行った映画のタイトルを思い出しながら、僕は、いつまでもホームから手を降る麦わら帽子の宮沢に送られ、帰りの電車に乗った。
『甘い約束を』
交わる事の無いはずの平行線は、徐々に放物線を描き始めた。
【終】