5、忍び寄る殺意
「マスター。コーヒーを」
喫茶Sunrise/Sunsetのカウンター席に仏頂面で座る御山。
いつものようにバイクで乗り付けた行きつけの喫茶店で出される、濃厚な黒色と香りを放つ一杯のコーヒー。
いつものようにコーヒーの中にスプーン十杯分の砂糖を御山はぶちまけ、マスターはそれを見て苦笑いをしている。
いつもの風景。
ただ一つ違ったのは……。
「カレー、オカワリ、クダサイ。モチロン、大盛リデ」
御山に見える、柱を挟んだ四十五度対角線上の席。
同じようにカウンター席に座っている大柄の男。
独特な赤紫色のサングラスをかけ、黒いハットにクリーム色のコートに身を包んだ怪しい異国人。
だがその見た目以上におかしかったのは、食べる量だった。
「はい。だけど、お客さん大丈夫かな。もう七皿目ですよ」
マスターは困ったような声で、ペロリと平らげられた皿を下げる。
飲食店として、米もルーも決して少なくはないであろう大盛カレー。
それだけを男はペースも変わらず黙々と食べ続ける。
「ノーノー。ゼンゼン足リナイヨ。モット」
そして男の前に八皿目を出すと、男は唇の端をニヤリと歪ませて、真新しいスプーンで食べ始める。
確かに、コーヒーを売るだけの喫茶店ではないのだから、それなりのメニューは揃えてあって、それなりの味ではある。
だが、まったくペースが衰えず、しがない喫茶店のカレーだけを黙々と食べ続けるこの男は、それなりに不気味であった。
「お客さん、よく食べるね。テレビの大食いチャンピオンか何か?」
マスターが流石に気になって声をかける。
すると、カレーを頬張ろうとしたスプーンは空中で止まった。
止まったまま、男の口が動き出した。
「ワタシ、オオ喰ライ。イッパイ。イッパーイ。食ベナイト。シゴト、ナラナイ。コレカラ、シゴト、ダカラ。オワカリ。オカワリ?」
日本語を覚えたての異国人特有の、言葉を理解できたようで出来ていない返答。
「あ……、ああ。はい。ちょっと次のは時間かかるから、待っててください」
どう考えても半分以上通じていない返答を耳にしたマスターが、なくなりかけの米とカレーを心配しながら、九皿目を用意しに奥のキッチンに消えていった。
それを見て男のスプーンは空中から動き出し、カレーの皿を平らげるたびに見える不気味な口元の緩みだけが、その場を支配していた。
「サテ……」
男は綺麗に食べきったカレーの皿の上にスプーンを置いて、スッと視線を皿から真正面に向かわせた。
怪しげな赤紫色のサングラスの視線は、初めてカレーではない方向に向かっていった。
そして、その視線はキッチンに向かったマスターのほうではなく、四十五度対角線の席。
御山のほうに向けられた。
「……なんだ?」
コーヒーを一口。
カップを置いた御山が、訝しげに異国人に目をやる。
「御山サン。貴方ニ、大切ナ話ヲ、モッテキマシタ」
手と手を真ん中に組んで、御山に向かって少し強いトーンで話す男。
「……お前、どうして名前を」
突然、名前を呼ばれたが、その驚きよりも早く、御山は警戒を促すように強い視線を送った。
「オット。ウッカリト失念デシタ。貴方ノ名前ハ、ゲラオ。仮面ライダーゲラオ、デシタネ」
「……!」
イントネーションと言葉遣いは変わらないものの、異国人の男が吐くその言葉の意味を御山は理解した。
御山サクヤの二つ目の名前を知る者。
つまり相手は秘密結社Dの関係者だということを。
「表へ出ろ。ここで話をしても始まらない……『そういうこと』だろ?」
席を立ち、そのまま男を睨みつけ威嚇する強い視線で、男の近くに寄る御山。
おそらく相手はDの刺客。
ならばこの店が戦う場所になって迷惑がかかる前に、と思って、男を力づくで店外に出そうとする。
右手が、男のクリーム色のコートの肩に届く。
その瞬間だった。
「思ッタ以上ニ、好戦的デスネ」
触れる手前、男の左手がガッと御山の手首をつかんでいた。
軽く指が触れる程度だが、御山の手首からはギリギリと締め付ける音が聞こえる。
およそ常人ならば悲鳴をあげるであろう痛み。
袖ごと血管と肌がまとめて引きちぎられるような、恐ろしいほどに食い込む握力。
振り解こうと思っても、振り解けるものではない。
「ノーノー。ワタシ、Dノ決定ヲ、伝エニ来タ、ダケデス」
「何だと……」
感情や温度のない、平坦な口調で淡々と唇を動かす男。
御山の位置から覗ける、赤紫のサングラスの内側の瞳から届く、静かな殺気。
掴まれた右手の握力もそうだが、明らかに人間のものではない。
「ゲラオサン。秘密結社Dハ貴方ノ抹殺ヲ決定シマシタ」
「なるほど。ライダーシステムの過程で不要になった部品は始末するということか」
静かに言葉を浮かべてはいるが、その裏には御山の怒りと嘲りが同梱されていた。
かつて『ライダーシステム』の一部となっていた自分と、そう仕向けさせた秘密結社Dという存在に対しての怒りが。
「ソウデス。貴方ヲ倒スベキ集メラレタ。秘密結社Dノ、ニューフェイス」
「……ニューフェイス。まさか!」
「ソウ。貴方ノ弟達トモ呼ベル。ライダーシステムヲ搭載シタ。新タナ、フェイス、ライダー」
「くそッ!!」
御山は掴まれた腕に力をいれた。
拳は硬く震えだし、握る力は肉を絞め、その摩擦で切れた肌の中から血が垂れる。
「ドウシタ。同ジ、ライダーシステムヲ使ウナラ。ゲラオサンモ、相手ニ不足ハナイダロウ?」
「お前たちは、そうやって自分の気が済むまで命を弄ぶつもりか!」
「弄ブ? 勘違イシテ貰ッテハ、困ル。我々ニューフェイスハ、志願シテ、ライダーシステムヲ使ウノダ」
「秘密結社Dの……誰かの野望のための殺戮者としてか!」
「ソウダ。Dノ、鉄ノ掟ノ元ニ、コノ力ハ、アル。貴方モ、最初ハ底知レヌ力ヲ手ニ入レルタメ……ソウダッタロウ?」
言葉の最後にニヤリと笑った男の顔面に向けて、御山の力強い口調が向けられる。
「違うッ!!」
怒号にも似た、その言葉を聞いて、赤紫のサングラスの男はフフッと笑う。
すると今まで握っていた御山の手首を振り解き、勢い余って倒れる御山を前に、その場に立ち尽くして、口を開いた。
「今ニ、ワカル」
不敵に微笑みながらそう言うと、黒色のハットの位置を直し、カウンターにスッと一万円札を置き、赤紫のサングラスの男は店を出ていった。
追いかけようと御山が立ち上がってドアをあけたが、そこには男の姿は無かった。
「どうしたんだゲラオちゃん。大きな声あげて」
後ろを振り返った御山の目に写ったのは、九皿目のカレーを持ったマスターの姿だけだった。
4、GERAO抹殺計画
突如として街中に吹き出した非現実。
黒い衣装に身を包んだ謎の女の放った蜘蛛の化物は、結果的に多くの死傷者を出した。
それを倒した異形の戦士、ゲラオ。
刺激的な情報を常に求め、事件の真相を人々の好奇心を満たすために死に物狂いで探るマスコミは、こぞって勝手な見出しを出し、推測の域を出ない論議を重ねたが、事実は何もわからないまま、非日常の緊張感を情報として垂れ流すだけだった。
猟奇というには奇怪に余り、奇怪というよりも現実的な凄惨さが、そこにはある。
その事実だけが、電波を通じて報道されていた。
「……裏切り者、仮面ライダーゲラオ」
街頭の巨大モニターから流れる不安感を隠しきれない好奇の報道を見上げながら、黒い衣装の謎の女は呟いた。
キャスター、コメンテーターの話を対岸の火事のように冷ややかに見守り、ゆっくりと歩いては通り過ぎて行くスクランブル交差点の群衆。
その中で一人、マネキンの入ったショーケースの鏡に向かって白い手袋を手をスッと伸ばす謎の女。
「その命、永らえても待っているのは永遠の孤独と知っていても、か。だが、邪魔をするならば……」
何の感情も呟きからは察せれない。
冷淡な。
いや、その唇からでる温度の感じない言い方でさえ、女の心中を何も教えてはくれない。
白い手袋の先から吸い込まれるような黒い渦が生まれ、女は一瞬にしてその渦に飲み込まれていった。
永遠の黒が充満した暗黒の先にある、何処かへ消えていったのだ。
群衆の中には勿論その一部始終を見ている者もいた。
だが、誰もがそれを見間違いだと思い、気に留めず。
記憶にも残さなかった。
――――――
無限の暗黒の先にある、白い枠線で囲われた閉鎖空間。
四方と天井と床に無地の白壁、一つの漆喰の黒いテーブルと、二つの赤色のドアと、三つの銀色の椅子だけがある部屋。
そこには四人の男がいた。
「ドウヤラ、作戦ワ、失敗シタヨウダナ」
カタコト言葉で喋りながら、手にもった飴玉を口に運び、舐めもせずそのままバリバリと音を立ててかじる、怪しい赤紫の色のサングラスを引っさげた大柄の男。
「Dの裏切り者が出てくるとは、あの女も案外詰めの甘い……!」
壁にもたれかかり、シワの寄った眉間に何かを睨みつけるような視線を浮かべ、腕を組む長身の男。
「まーまー、先輩。優しすぎるゲームをやるよりは、はるかに面白くなってきたじゃないすかー」
椅子の背もたれを腕と胸で抱くように座り、ただ携帯ゲームのボタンを押しながら無邪気な少年のように笑顔を浮かべる男。
「それにしても我々が全員招集されるとは……どうやらタダゴトではない様子ですね」
三者三様の有り様を冷静に見て、言葉穏やかに眼鏡の位置を直すスーツ姿の男。
キィー……。
部屋のドアの一方が開き、か細い照明器具の明かりを飲み込むような大きな闇が部屋中に広がる。
バタン、というドアの閉まる音と共に闇が引き、照明器具の明かりが現れた謎の女の風体を晒す。
「よろしい。全員集まっているようだな」
謎の女が入ってきた瞬間、四人の男の視線は女に向かった。
「秘密結社Dに忠誠を誓うライダーシステムの体現者。貴様らにDの命令を伝える」
部屋の中にいる大の男四人の誰しもが、唇を動かす女の顔を見て、背筋の冷たさを感じる。
頭の頂点から足の指先に至るまで、震えるような恐怖に纏わりつかれるように緊張感が走る。
「手段や、方法は問わない。Dの血の掟を破りし裏切り者。仮面ライダーGERAO(ゲラオ)をこの世から抹殺しろ」
実際、それまでと声の大きさは余り変わらない。
だが、命令を伝える女の口ぶりを聞いていた四人の男たちには、内側から打ち震えるようなドス黒い殺意が感じられた。
凡人が人を殺害するにあたり最も単純な動機となるべき憎しみなど、女の口には一欠片もない。
あるいは機械的とも思える、混じりっけのない純粋さ。
感情無き、純粋な殺意の伝達。
それが、四人の男たちの脳にインプットされ。
それが、仮面ライダーゲラオ抹殺という行動にアウトプットされるのだ。
無限の暗黒が先にある、あけられたドアに消えていく四人の男たちの後ろ姿を見て、謎の女は壁に『D』と書かれたエンブレムに向かって一つまた呟く。
「Dの最終計画と、究極のライダーシステムの完成。このGERAO抹殺計画には二つの意味と意義があります。首領D。これで計画はまた一つ進みます」
その言葉を聞いたDのエンブレムは、まるで頷くように、赤く点滅した。
3、仮面ライダー笑(GERAO)
螺旋状の緑と黒の光が、御山の体の隅々を覆っていく。
光が通ったあと、人間の顔は消え、浮き上がってくる大きな真紅の眼。
そして形成される緑の頭部、黒い輪郭、銀色の仮面(マスク)。
黒光りした胸と肩、脚部についた甲虫を思わせる硬い装甲。
尻尾のように首からスラッと伸びた白色のマフラーが、硝煙と血とオイルに混ざった死臭の風にたなびく。
「俺は人々の笑顔を守るために戦う戦士。仮面ライダー……笑(GERAO)!」
仮面ライダー笑(GERAO)と名乗った御山の体からは、変身後の膨大な熱量を排気するために、黒いスーツから蒸気があたりに漂っていた。
「キシャア!!」
異形の者への変身が完了した仮面ライダー笑に、増殖を終えて無数となった蜘蛛のバケモノが飛びかかっていく。
前、後、右、左、上、下。ありとあらゆる方向、ありとあらゆる死角から、バケモノの鋭利に尖った牙、毒に塗れた巨大な爪が鈍く光り、バケモノのその殺意は全ての死を誘う。
だが、悠然と左手をバケモノに構えて笑はこう言った。
「ヴァンダライズ」
その瞬間、上段に構えられた左手に隠れ、腰に当てられていた御山の右の拳が激しく上空に向けて振り上げられた。
振り上げられた拳から繰り出される辺りを巻き込む嵐のような緑色の渦巻状のエネルギー流が、襲い掛かる蜘蛛たちの勢いを削ぎ、そしてコンクリートの大地にひびを入れるほど強い突き抜けるエネルギーの潮流は、そのまま上空に蜘蛛たちを放り投げる。
「ライダー……ジャンプ!」
低く唸る笑の声と共に、そのカラダは一瞬にして高層ビルを飛び越える程の跳躍をした。
「ヴァンダライズ……ライダー……パンチ!」
エネルギーの潮流に浮き上がる蜘蛛のバケモノよりも高い位置に到達した笑は、今度は左手を空中にかざし、再び空中に先程と同じエネルギーの潮流を作った。
何もない大気の流れの中に存在するエネルギーの壁を蹴り、今度は地上に向けて姿勢を急反転させた笑は、地上に向けて右の拳を出すと、その反動蜘蛛のバケモノの中心に飛び込んでいった。
まるで自然の流れがそうであるように、笑の動きには無駄がなく。
人間の尺度で量られた地球の物理法則など、そこには存在しなかった。
上空に突き抜けるエネルギーの潮流と、地上に向かって重力に逆らうような急加速の潮流に突き出された笑の拳には、その周囲数十メートルを巻き込み、引き千切り、対象物を破壊する竜巻のような強大なエネルギーが生まれていた。
「ギェエエエアアア!」
衝撃エネルギーに耐え切れず、空中で無残に悲鳴をあげながら爆発する蜘蛛のバケモノたち。それは、あたかも彼らが食し、惨殺した被害者の人間たちのようだった。
「……ハッ!」
空中でカラダを捻り、やや音を立てて着地した笑は、休む一呼吸も置かず、眼前に広がるバケモノの群れにすでに飛び込んでいた。
笑から繰り出される手刀、回し蹴り、正面蹴り、正拳、肘打ち、裏拳。
遠目から見る人間が肉眼で捉える事のできる限界ギリギリの速度。
バケモノ数十体に囲まれながらも、そんな猛スピードで繰り出される攻撃。
エネルギーの波を含んだ笑の拳や蹴り、そのどれもがバケモノにとっては致命の一撃だった。
笑が人間であった時のそれよりも早く、それよりも強く、気づけば四散し爆発するバケモノの死体は百数体を数えていた。
「……まさか秘密結社Dの計画が、裏切り者の仮面ライダーに邪魔されるとはな」
炎上する街並みを見下ろす高層ビルの屋上から、全身黒に染まった謎の女がつぶやく。
「だが……確かにあんな低知能のケダモノに、Dが開発した仮面ライダーは倒せない。また……あんなケダモノに倒されても我がDのライダーシステムの優位性が薄れてしまう結果になる。せめてあのケダモノを使って裏切り者のデータを回収するとするか」
静かに燃える怒りでも、密かで乾いた笑いでもない。
ただただ平坦で冷徹なつぶやきを淡々と続ける謎の女は、路上に広まるバケモノたちに向かって、左手をあげた。
「プロリフェレ・スパイダー。増え続けた意味と強さを、一つとなって確かめろ。……ジーン・シンセサイザー!」
謎の女の左手に握られた黒色の水晶球から放たれた無数の光は、蜘蛛のバケモノたち一匹一匹に命中すると、その存在は地上から消え、水晶球の中に吸い込まれていく。
「……これは」
増殖し、数百を超えるバケモノが、光とともに忽然と目の前から消える光景を見て、笑は何かを悟った。
「新たに生まれ変わるがいい。蜘蛛怪人(デ・ヒューマノイド)ユニスパイダス」
大方のバケモノを回収した水晶球を、謎の女は高層ビルの屋上から重力に任せて大地に落とす。
ガラスが砕け散るような大きな音がしたが、水晶球の破片は散らばることなく消えていく。
「グルルルッ……」
黒い光が辺りを照らすと、大きな熱量を伴う蒸気と共に、そこには蜘蛛と人間を合成したような異形の怪物が、肌に感じることが出来るほどのおびただしい殺意を態度に潜めて現れていた。
「ジーン・シンセサイザー……お前もまたDに操られた合成怪人ということか」
笑の濁る口調は、その異形の怪人に向けられていたが、どこか自分に投げかけるような悲しげなものであった。
秘密結社Dの開発した遺伝子合成器『ジーンシンセサイザー』
生物や有機物、その他様々な物質の遺伝子、生体エネルギーを、その質量を問わず合成させ、異形の怪人を誕生させる装置。
それは仮面ライダー笑にとっても、謎の女にとっても既、知の技術であった。
そう。
秘密結社Dで改造された人間、そのライダーシステムを纏う仮面ライダーという存在も。
そうであるように。
「ギャァァルッッッ!!」
感傷に浸る笑の隙を突くように、気づけばユニスパイダスと呼ばれた蜘蛛怪人は、すでに手の届く射程にいた。
「くっ!」
蜘蛛型だった時のやや鈍重な動きとは違い、節足動物特有の瞬発力に富んだ恐るべきスピードで、ユニスパイダスの六本の腕から繰り出される爪の攻撃をかろうじてかわす笑。
後退、前進、左右の移動を繰り返して、その攻撃の空間をあけようと思う笑だったが、怪人の複眼による動体視力によって、笑の動き自体が読まれピタッと粘着するように休まずその場で攻撃を繰り返される。
受けては、流し、また違う場所へ移動。という、一括りの動作を繰り返すのがやっと。
先ほどまでの余裕が嘘のように、ユニスパイダスへ反撃の機会は見えてこない。
「ギィィルルッ!」
人間の手技、足技に、節足動物の瞬発力。
複眼による動体視力。
そして振り抜けるたびに風に乗って感じる怪人のおびただしい殺意は、人間である前に戦士である笑の思考を動揺から冷静に引き戻すのには、そう時間のかかるものではなかった。
「素早い攻撃に……こちらの動作が読まれても……」
振り払う攻撃を避けるために笑が屈むと、左手を怪人向かって構えた。
「ギィィィィルッ!」
「止める方法はあるッ!」
笑の頭部を狙いに同時に振り下ろされるユニスパイダスの六本の腕を、右手に握った拳で打ち返し、
「ヴァンダライズ!」
右手の拳から放たれる巨大なエネルギーの潮流によって襲いかかる六本の腕そのものを打ち上げ、
「ライダー……チョップ!」
切り裂く!
「ギィィィィィルゥ!!」
水平方向に放たれた笑の力強く素早い手刀があっという間に、ユニスパイダスの腕を胴体から離し、手刀に含まれた余剰のエネルギーが、切り離されたその腕を一瞬で爆発させる。
「ギィィィ!」
節足動物では感じるはずのない痛覚は、怪人になってしまったことで激痛となり、ユニスパイダスはたまらず悲鳴をあげた。
だが、激痛に耐えながらも、思考はケダモノであった頃よりは働いていた。
笑が発生させた巨大なエネルギーの潮流によって空中へと持ち上げられ、防御困難になった姿勢の制御用に、尻から後方の建物の壁に粘着性の高い糸を吐いて、次に来る攻撃を複眼で予測し避け、そしてあわよくば笑に向かって、糸の伸縮の反動を利用した致命の一撃を……と考えていたのだ。
その機転はケダモノであった頃の比ではない。
生物としての知恵と激痛、そのメリットとデメリットの併合は、まさにDの創りだした合成怪人の傑作であった。
「ライダー……パンチ!」
複眼の正確な予測から見えた直線的な笑の拳は、ユニスパイダスの胴体を狙ったが、その拳は寸前のところでかわされた。
「ギィィィィルゥゥッ!」
かわされ、バランスを崩したように、そのまま重力に引かれアスファルトの地上へと膝をついて着地する笑。
その笑の背後には、大きく振り子のような動きでを遠心力を得て、糸の伸縮を最大にして自ら離し、最大の武器であるギラついた牙をむき出しに襲いかかるユニスパイダスの姿があった。
牙を突き立てる場所は首から背中、人間にとって最も弱く、脆い頚椎を狙い、その牙の生えた口は少なからず笑みがこぼれていた。
勝利はすでに自分のモノに、と確信していたユニスパイダス。
だが、その確信を持つ者が、そこにもう一人いた。
「腕を亡くしたお前が攻撃を避けることも、俺の急所を狙うこともわかっていた……」
笑は着地に失敗したと思われた姿勢から、ベルトに手をかざし、
「人間だからな。俺も半分は人間だからな。その思考も、行動も、もちろん弱点もわかる」
屈んだ状態で、立ち上がり左足に力を込め、
「だからお前の苦しみも痛みも、ここで終わらせてやる」
すべての力を右足に乗せて、背後から迫るユニスパイダスへと、
「……ライダー……キック!!」
放った!
ドォン!
背後から加速をかけてきたユニスパイダスのカラダは、その場で反転する笑の極限まで高められたカウンターキックによって左右に分断され、その質量のまま爆散した……。
「フッ、以前よりも力が増している、という確認はできた。どうやら仮面ライダーとして成長はしているようだな、あの男も。だが我らが秘密結社Dを裏切った貴様の行為。決して許されるものと思うなよ……」
高層ビルから見下ろしていた黒い衣装の謎の女は、不敵な笑みを残しつつ、その場から霧のように消えていった。
「……」
無言のまま変身を解き、仮面ライダー笑は、人間『御山サクヤ』の姿に戻った。
辺りは依然として火災や人のうめき声があがっていたが、バケモノの居なくなった街に興味がないと言いたげな彼は、ただ一人地上に置いた自らのバイクに乗り、一路封鎖されていない国道へと向かった。
「……俺は戦い続ける……人々の笑顔を守るために……!」
バイクのメット越しに伝わる、鋭い御山の眼光と人間としての決意。
その裏に隠れて、仮面ライダーとしての背中は何処か哀愁が漂っていた。
2、変身
「仕事。だるいなあ……」
ブツブツとつぶやく男。
外資系の貿易会社に勤めるサラリーマンの男は、ややくたびれた黒のビジネススーツに身を固めながら、関係書類が入った薄いカバンを持って階段をのぼっていた。
「なんでこんな日に限ってエスカレーターは故障中なんだよ」
イラつく男の視線の先、階段の横には、でかでかと故障中と書かれたエスカレーター。
都市部に行き交う、いくつもの路線のターミナル駅として活躍する駅の地下から地上に出ようと、100段以上あるやたらと長く広い階段をのぼり始めた男の顔には、うっすらと汗が浮かんでいた。
男のまわりには、これから仕事に向かおうとする大量の人、人、人。
急なエスカレーターの故障で階段をのぼるはめになってしまった、憂鬱な人たちばかりが、ただ導かれるように地上の光を目指していく。
いつもの朝なら味わうはずもない階段をのぼるという徒労感。
循環されていない地下の空気が鼻腔と肌を撫でていく不快感。
これから仕事に向かわなければならないという憂鬱からの虚脱感。
「朝からついてないことだらけだぜ」
ついてないとつぶやく男は、長袖のシャツににじむ汗を背中に感じながら、やっと階段の先にある出口にたどり着いた。
しかし、この後に起こることについて、彼が本当についてないと思うには、少々……時間が足らなかった。
「うわぁぁッ!」
悲鳴。
オフィス街に続く出入り口に響く、異色の音に振り返る人たち。
地下からのぼった階段の先、その朝日が覗きこむ出口の先。
たしかにそこには、今の今までサラリーマン風の男が立っていたはず。
だが今、そこには誰も、何もいない。
「きゃあぁッ!」
再び悲鳴。
ガコン、と地上との空気交換用に設置された地下鉄のダクトの蓋が外れる音がしたあと、せこせこと階段をのぼっていたヘッドフォンをかけた女がその場から消えていた。
「どうしたってんだ、いったい。ぐわッ!」
野太い声。
今度は、それまで額から噴出していた汗をぬぐい、悲鳴のしたあたりに振り返った汗かきの着流しの男が、グサッと何かが刺さる音を立て、またその場から消えていた。
「……なになに、なんだっていうの!?」
不安感を感じたOLが、階段の先の出口を急ぐ。
悲鳴のあと、人間がその場から消えるという、あきらかな異常。
自分にも訪れるかもしれない『見えない』という未知への災いは、ただただ彼女の心を恐怖へと追いやる。
「ギャアッ!」
再び男性の悲鳴。
それが彼女の耳に入り、またそこに立っていた人間が消える。
一刻でも、一秒でも速く、その場から立ち去りたい彼女の気持ちは、逃亡という行動となってあらわれる。
カツンカツカツッ!
ヒールが地面を叩くけたたましい音。それは足早な彼女の恐怖心を表すものだった。
苦労してのぼってきた階段を駆けくだり、ありとあらゆる人の中をかきわけ、かわるがわる変わる背景。そして後ろから聞こえる、人間の悲鳴。
いつしか。
彼女の顔には。
恐怖しかなかった。
シュルシュルシュル……
「……!?」
その時、彼女の首に違和感が走った。
長く束ねられた白い糸のようなものが、自分の首に強く巻きつく。
彼女の顔は徐々にその苦しさを増し、手は、苦しみを解くために巻きついた糸をガッとつかむ。
だが、振り解こうと思っても巻きつきは強く、ちぎろうと思っても、粘着質な糸は彼女の込める力に反発するように締め付けを強くする。
「……ンッ!!」
あたりの人に助けを呼ぼうにも、後ろから巻きついた頑丈な糸が首を絞める力を増し、彼女の声はカエルのような濁った悲鳴しかでなかった。
グイッ……
そして糸は、彼女の体を強く引っ張る。
引っ張る、というより、首ごと体を吊り上げるような、恐るべき力で。
彼女は最期の抵抗とばかりに足に力をいれてその場をするが、力に負けて、彼女の体が宙に浮くと、一瞬にして構内の天井に吊り上げられる。
「……!!」
首を絞められ、体全体が酸欠状態に陥った彼女が最期に見た光景。
それは。
「グエッ……グェッ……」
天井に張り付く巨大な蜘蛛のバケモノの群れと、首や手足を糸で包まれて、拘束された人間たち。
けだるい日常の崩壊を意味する、恐怖の顔を浮かべ。
体に突き刺された管から、バケモノに生きたまま吸われる体液。
そして、だんだんとしぼむ肉の塊。
「……」
目を疑う光景と極度の酸欠は、彼女の意識を遠くへやる。
だが、たった一瞬の出来事だというのに、彼女にこれほど確定的で具体的な『死』そのものを予兆できたことはない。
目の前のバケモノたちの手にかかって、死を迎えようとしている日常。
そんな、死に向かう日常の一部に自分自身もなってしまうのだということが認識できたところで、彼女の意識は途切れる。
だが、その時だった。
彼女の首を締め付けていた糸が、突如として断ち切られる。
乱れた麻のように、繊維質をまばらにあたりに撒き散らしながら、ゆるやかに解かれる粘着質の糸。
今までかかっていた吊り上げるような強い力が抜け、ふわっと宙に浮かぶ彼女の体を、今度は何かが抱きかかえるように強く支える。
落下とともに加速した体は、いつの間にかゆるやかに着地していた。
意識の途切れた彼女に、それが知覚できたかどうかはわからない。
ただ、結果として残っていたのは、死ではなく、生だった。
「グエーッ、グエッ!」
天井に張り付いていた蜘蛛のバケモノたちの声が荒々しくなる。
バケモノたちの視線の先には、黒いジャンパーに黒いヘルメットの男が立っていた。
「……悪い予感が当たった。やはりお前たちの仕業か」
救出した彼女を物陰に隠し、バケモノたちを背にして、苦虫を噛み潰すように言葉を吐く男。
その足で、一瞬にしてバケモノの糸を断ち切り、その腕で、落下する人間一人を抱えながら固い地面へと着地した。
およそ人間離れした技。
男はバケモノたちを見るべく悠然と振り返り、黒いヘルメットを脱ぐ。
差し込むライトの光に当てられた顔は、憎しみの色を浮き上がらせていた。
その男は、御山だった。
「グエッ!」
振り返ったのを挑発と受け取ったか、天井に張り付いていた蜘蛛のバケモノが、さっきまで捕食していた獲物を捨て、御山に襲い掛かった。
糸を切り離し、ドサドサと重力に負けて落ちていく人間の体などお構いなしに、その跳躍力で強く天井から鋭い爪を御山に向かって突きたてるバケモノ。
御山は、そんなバケモノたちの動きを見て、構えるでも、逃げるでもなく、その場に立ち尽くした。
「グエーッ!!」
気色の悪い声をあげながら、御山の心臓めがけてバケモノの爪が届く。
コンクリートに穴を開ける爪の硬度と鋭利さからいって、普通の人間ならば、かすっただけで致命傷になるであろうスピードと破壊力。
だが御山は、それに対して腰を落とし、ただ拳を引いた。
「ゲェビャッ!」
グンッと空気が震えるような音とともに、蜘蛛のバケモノの声が聞こえた。
気付けばバケモノは、遠くエスカレーターの壁まで吹っ飛ばされ、固い灰色のコンクリートでコーティングされたその壁に、深くめり込むように倒れていた。
命を奪われる瀬戸際だったはずの御山は、硬く握った拳を前に突き出すだけで無傷だった。
「餌は……よく選べ」
御山は、体液を撒き散らしながら崩れ去るバケモノの体を見て、あくまでも表情に浮かんだ憎しみの色を解かなかった。
バケモノを突き飛ばした衝撃によって生じた摩擦熱は、御山の拳に湯気が沸くほど赤く熱いものだった。
人間では反応できないであろうバケモノの攻撃をかわしもせず、さらに人間大まで巨大化した蜘蛛のバケモノを一撃で吹っ飛ばす恐るべき力。
その力は、バケモノたちの目に脅威と感じられたに違いない。
気付いた時には、無数の蜘蛛のバケモノたちが一斉に御山に飛び掛っていた。
さっきまで餌となる人間に与えていたはずの恐怖心が、いつの間にか彼らをひとつの思考に……いや、生物そのものに備わった生存本能に突き動かさせていたのだ。
『殺らねば、殺られる』
御山に襲い掛かる無数の蜘蛛たちから放たれる無数の糸、ギラリと光る爪と牙、それらを前にして御山は、すでに常人を超える脚力で駆け出していた。
「餌だ……俺にとってはお前らが……」
階段の手すり近くにある厚い壁を蹴り、御山の体は大きく宙に飛び上がった。
バケモノによって放たれた無数の糸は、御山の残像を追うように壁に粘着していく。
「Dへの憎しみを癒す、唯一の餌だ!!!」
牙を突き立てて、御山のほうへ飛び掛ってくる蜘蛛のバケモノの腹を横なぎに蹴り、
その大きな力で出来た反動を利用して、もう一方から爪を伸ばしてきたバケモノを硬く握った拳で、
思いっきり、ぶん殴る。
御山が空中で姿勢を動かすその度に、あたりの壁や天井に緑色の体液を撒き散らしながら、蜘蛛のバケモノが四方八方へと吹き飛び、叩きつけられていく。
「グェッ!グェエエッ!!」
一瞬にしてはあまりにも多くの出来事が消化された、数秒間。
御山が一度飛び上がってから着地するまでに、すでに九匹以上の蜘蛛のバケモノが死骸となって存在し、あたりに血なまぐさい死臭を撒き散らしていた。
「グエッ……グエッ……!」
蜘蛛のバケモノたちが、ドサッと音をたてながら地上に降りた。
御山を囲むようにとられた距離は、半径約3m。
だがどのバケモノも、御山の人間を超えた実力に手が出せず、うろたえるようにあたりを右往左往するだけだった。
「どうした。Dの改造実験の成果は、その程度か?」
バケモノたちを前に、誘うように体液で塗れた足と手を悠々と広げ構える御山。
「来ないのなら」
御山は、再びバケモノの一端に駆け出した。
「俺が」
糸を出してきたバケモノの攻撃を避け、素早く強烈な蹴りで吹っ飛ばしながら、近くにいた次のバケモノに拳を突き立てる御山。
「行くまでだ」
身を守ろうと防御したバケモノの足ごと、御山の拳はバケモノの腹に突き刺さった。
再び撒き散らかされる、強烈な死のスコール。
「グェッ……!!」
それを見て蜘蛛のバケモノたちは、糸と脚力を使って、全力で階段の先の出口へと逃げていった。
「……逃がすか」
無数のバケモノと人間の消えた階段に残された、バケモノと人間の無残な死体の山を見て、御山の心と体は再び湧き出た憎しみに染まる。
「罪のない人々の笑顔を奪うお前たちを、俺は絶対に許さんッ!」
拳を震わせ、怒号を咆え終わると、御山は出口に向かって駆け出していた。
――――――――――
「何なんだこのバケモノは、うわあっ!」
地下鉄の出入り口から、オフィス街に飛び出した無数の蜘蛛のバケモノは、行く先々で人間を襲い、その血液を奪っていた。
「ギャアアアアアッ!!」
車道に飛び出したバケモノが、乗用車やトラックの屋根や窓ガラスに飛び乗った。
バケモノは、車の屋根やガラスに爪を突き刺し、人間一人が入れそうな入り口を開けると、その場で糸を吐き、運転手や同乗者の顔を包んで窒息させ、長く伸びた管を刺し、悲鳴をあげながら何もすることが出来ない人間をただただ吸血する。
そして、行為を終えた人間の体であったものは、力をなくし、糸を引っ張るバケモノによって引きずるように道路に無残に叩きつけられる。
歩道、車道、老若男女を問わず、オフィス街にいる様々な人間たちが、無抵抗に、無差別にバケモノに殺されては命を吸われ、抜け殻となった体を道々に晒していく。
「グェッグェッ!」
バケモノは、一人の人間を吸い終わると、驚くべきことに、その固体数を増やしていく。
吸血を終えると、大きく体をくねらせ、腹のあたりから丸い卵のような物体を噴出させる。その物体は空気にふれるとすぐさま割れ、流れ出す液体とともに4、5匹の小さな蜘蛛のバケモノがあふれる。
小さなバケモノは親を探すようにすぐさま歩き出し、その後みるみるうちに巨大化し、一分ほどで生み出した蜘蛛のバケモノと同じ人間大のサイズになっていた。
「グェッ……グェッ……」
未知への恐怖へ悲鳴をあげ逃げ惑う人間、運転手を失ったことで追突事故を起こし爆発し、燃える車体。
死んでいく日常を尻目に、非日常の歪みが広がっていく。
増え続ける蜘蛛のバケモノの数は、いつの間にか千匹をゆうに超えていた。
ドンッ!!
「グェッ!」
死臭が火災によって空中へと巻き上がり、大量の非日常の群れが町中に放たれた中、駆けつけるまでにあたりのバケモノをぶっとばし、立ちすくむ御山の姿があった。
その瞳にうつるのは、ただ、無残に殺された人々と、バケモノに対する憎しみの色。
それ、だけ。
「グェッグェッ……」
大幅に数を増したことによって、御山に対する恐怖心をぬぐった蜘蛛のバケモノが、今度は御山を煽るように、糸で包まれた人間の死体をバタバタと積み上げていく。
御山は、その光景を淡々と見ながら、胸の奥からくる衝動を体に宿らせていた。
「……どんなに」
そして彼は、バケモノたちの前でつぶやき始めた。
「……どんなに数を増やしても」
スッと手を前にだすと、御山の手には金属製の長方形プレートが握られていた。
「……俺は、お前たちを倒すまでだ!」
プレートを正面にかざした時、御山の体から機械的なベルトが浮き上がった。
左手で握った拳をグイッと前に出すと、プレートを握った右手で、すぐさまベルトの中央に差し込み。
「変身!」
御山は、そう、大きく言い放った。
すると白い光と黒い影があたりを交差し、二つは大きなラインとなって御山の全身を包んだ。
1、笑わない男
ゆるく吹き付ける海風が、潮の香りを運んでは消えていく。
まだ朝方は肌寒く感じられる4月の空の下、一直線に続く長い海岸線を行きかう様々な車両たち。
軽自動車。ワゴン車。路線バス。クレーン車。
路上清掃車。長距離トラック。コンテナ運搬用トレーラー。
バイク。
そこには、今日も普通の世界が広がっていた。
「……」
自動販売機の前で、カポッという缶コーヒーのプルタブを開ける音が聞こえた。
その音の先には、黒のジャンパーに身を包み、黒いヘルメットを左手に抱えた男が、物思いにふけるように缶コーヒーを飲んでいた。
「……にが……っ!」
目が覚めるような苦い味。というか、香り以外は苦味しかない。
男は、口いっぱいに広がる苦味に堪えられないのか、この世の破滅と言わんばかり目を瞑り、眉間に皺を浮かべた渋い顔をして、ゆっくりと手にとった温かい缶コーヒーを顔のところまで持ち上げる。
まだ湯気の立つ缶コーヒーのパッケージを見る男が、うっすらと開けた目には、ブラック無糖の文字が見えた。
「また間違えて無糖買っちまった……」
男はそういうと、路上にヘルメットを置き、どこからか片手で手掴みできる程度の空の水筒を取り出した。
「苦いのは、いつまでたっても慣れないもんだなあ」
男は水筒の蓋をあけると、ジョボジョボと音を立てながら缶コーヒーの中身を水筒の中に入れ始めた。
黒い液体の合間に見える白い湯気が、香りを男の鼻に運ぶが、男はその香りがするたびに苦い味を思い出し、渋い顔を遠ざける。
やっと缶コーヒーの中身全てを注ぎ、水筒の蓋を閉めると、男は路上に置いたヘルメットをかぶり、スッと立ち上がり、やや急ぎ目に歩き出した。
男の向かうその先には、海岸線の内側車道に止めてあったオフロードバイクがあった。
男は駆け足気味にバイクに飛び乗ると、鍵をひねり、エンジンをかける。
「しゃあねえ、口直しに行くか」
エンジンのかかる音が聞こえ、アクセルレバーに手を沿えながら男が呟く。
そしてバイクは、けたたましい音をたてて、一直線に続く長い海岸線を駆け抜けていった。
――――――――――
「うぅ~ん。いい朝だ。今日も何事もない、平和な朝を迎えられて神様に感謝します……っと」
やや潮の香りが薄まった海風を受けながら、補整されたアスファルトの道の上で、腰に黒い前掛けをつけたヒゲ面の中年の男が大きく伸びをして、太陽の方向に向かって礼をする。
「さあてと。今日も日課、始めますか」
ゆったりした白黒のチェックシャツはヨレヨレで、襟から覗ける濃紺のインナーシャツ、使い込まれたシックな茶色のジーンズで身を固めた中年の男。
彼は今日も日課である自慢のレンガ囲いの小さな家庭菜園の様子を見に行った。
「もうちっとばかし暖かくなればなァ。お前たちも大きくなって、あいつに食わせてやることも出来るんだがなァ」
弱い陽射しとヒンヤリとした空気の様子を肌で感じながら、嬉しそうにじょうろで水をやり、菜園の生き物たちに声をかけると、彼は次の日課にとりかかった。
「朝のお仕事……っと」
菜園を去る彼の目には、伐った丸太をそのまま使ったような、古びたロッジ風の建物が立っていた。
海風を受けるこの街に似つかわしくない建物の入り口の中に入る男。その男の頭上には楕円形の木製看板があり
その看板には『喫茶Sunrise/Sunset』という名前が刻まれていた。
入り口のドアを開けると、カランカランという綺麗な鈴の音をたててウェルカムベルが鳴り、男が仕掛けておいた水出しコーヒーのいい香りが店内に充満していた。
「さてと、何からやりますかね……っと。そうだまずは」
男はサッとジーンズのポケットから安全ピンのついたプラスチックケースの中に収められたネームプレートを取り出した。
そこには『伊崎洋一郎』という彼の名前と、この喫茶店のオーナー兼マスターであるという情報が書いてあった。
「これをつけないとサマにならないよねえ……っと」
うっすらと窓から差し込む陽光をバックに鏡を見てニンマリと笑う伊崎は、今日も自身の喫茶店の開店準備を始めた。
ブルルルル……!
伊崎が作業を始めようとした時、道路から一台のオフロードバイクが喫茶店の敷地の中に飛び込んできた。
ゆっくりと敷地内に停車したバイクから降りる黒のジャンパーを着た長身の男を見て、伊崎は表情をゆるめながら、つぶやいた。
「お、ありゃまさか……」
バイクからキーをぬき、ヘルメットを脱いで座席にしまい、首まであがっていたジャンパーのチャックを一気に開ける男は、窓際から見つめる伊崎の存在に気付いたのか、軽く手をあげながら、喫茶店のドアを開く。
「おっす。マスター」
伊崎を良く知っている割には、笑うでもなく、ただ手をあげたまま愛想のない真顔で店内に入る男。
「相変わらずだなぁゲラオちゃん。まだ開店前だってのに」
ウェルカムベルの音とともに、伊崎はゲラオと呼んだ男の無愛想な顔を見て、笑顔で迎えた。
その名前を聞いて、ゲラオは不愉快そうな口調でいう。
「マスター、いい加減その名前やめてくれないか。俺には御山サクヤって名前があるんだから」
「いいじゃないの。今も昔もゲラオちゃんは、ゲラオちゃんだよ」
「くっ……」
にこやかな伊崎に比べ、愛称であるゲラオという名前があまり気に入らない御山。
伊崎は、御山の姿を見ながら、カウンター席の内側で開店準備を続ける。
「で、ゲラオちゃん」
「なんだよ」
御山は、不愉快な表情のまま、ドカッと悪態をつくように勝手にカウンター席に座ると、ジャンパーのポケットから水筒を出し、テーブルに置く。
「今日は何しにきたの……って。まさかまた」
「ああ、口直し。勝手知ったるなんとやら。マスター、カップと砂糖借りるぜ」
御山は、カウンター席においてある厚手のコーヒーカップをまるで自分の物のように手に取ると、コポコポと水筒の無糖コーヒーを注いでいく。
「あーあ。やだやだ。見たくない見たくない」
御山が気に入りの水筒を出した時点で、何かを察した伊崎が、今までにこやかさが嘘のように、一気にしかめっ面になる。
ザッ、バサッ。
ザッ、バサッ。
そして、喫茶店には、砂を掻きこんでは放るような音が聞こえた。
御山の前には、喫茶店自慢の、内蔵量300グラムは入る陶器で出来た大きめの砂糖入れ。
御山の手には、カレーなどを食べる時に使う、やや大きめの平たい銀製のスプーン。
そして、そのスプーンには、明らかに尋常ではない量の砂糖の山が盛られていた。
「甘くなーれ、甘くなーれ。もっともっと甘くなーれ」
呪文のように口ずさむ御山の手は、素早く、そして手際が良かった。
そう。
先ほどの砂を放るような音とは。
御山の手によって、コーヒーカップの中に、大量の砂糖が放り込まれる音だった。
一杯。
二杯。
三杯。
四杯。
五杯。
「あ。ああ。あーーあー。あ~あ~あ~あ~。やめてくれ、コーヒーがだめになる。ゲラオちゃん。もうそのへんでやめてくれないか!」
眉をひそめた伊崎の、苦虫を噛み潰したような顔がさらに歪む。
それを尻目に、御山は無言で砂糖を放り込み続ける。
六杯。
七杯。
八杯。
九杯。
十杯。
「よし、この辺でいいだろう。いい塩梅だ」
カップをスプーンで素早くかき混ぜ始める御山。
すでにコーヒーであったカップの中の液体は少なく、かき混ぜることによって、液体というより、ややゲル状に近い存在となっていた。
「ふう。さて飲もう飲もう」
コーヒーカップの縁には、まだ固形のまま残る砂糖。
コーヒーカップの中には、コーヒーであったはずの悪魔の飲み物。
自分の唇まで持っていって、グイッと傾け一気に飲み干す御山。
「……甘い。これだよねコーヒーは。甘いっていいよねマスター」
常人には黒い毒物にしか見えないそのコーヒーを、喜ぶでも苦しむでもなく、あくまでも真顔でグイグイ飲んでいく御山。
「ゲラオちゃん。そんな、あきらかに体によくない飲み物を、よく真顔で飲めるね……うぷ。いやだ、いやだ」
それを見ていた伊崎の心には、すでにさわやかな朝の気分など消え、胸焼けと胃の痛みで気持ち悪さを覚えた。
数十分後。
カウンター席にいる御山を見ないように、さっさと開店準備を終えた伊崎が、ふとテレビをつける。
「この奇怪な連続殺人事件についての警察の見解は……」
映像には、伊崎と御山が良く知る街が映っていた。
「被害者の体液は全て抜き取られているところから、その残忍な犯行から犯人は猟奇的な……」
テレビの中継から流れる女性アナウンサーの声が、伊崎と御山の耳に入ってくる。
「ふんふんふーん」
事件が起きているのがこの喫茶店からそう遠くない場所だというのに、鼻歌交じりに割と気にしていない伊崎。
それに比べ、カウンター席から報道が伝える事件の概要を、マジマジと食い入るような眼差しでじっくり聞いている御山。
「マスター……この事件いつからだ?」
御山は、椅子にかけていた自分のジャンパーをそっと取ると、伊崎のほうを見て言った。
「あー、これね。今月からこの近くで起きてる連続殺人事件」
「たった十日で、十一件もの連続殺人か……」
「なんかね。街中で襲われるらしいんだけど、短時間で犯行が行われてるらしくて、犯人が使う凶器も証拠も、目撃者もいないから警察も犯人を特定できないんだって話」
「……街中で襲われているのに証拠もない。まさか、な」
眉間を険しくさせる御山が、ジャンパーの袖を通す。
「被害者を死なない程度の毒物で弱らせて、死体から血を抜き取って衰弱させて殺すんだって。怖い人間もいたもんだね」
「……」
「『現代に蘇った吸血鬼』なんてゴシップ記事もあるぐらい、事件が起こる前はこの世も平和だったってことかね……っと。まあ、ゲラオちゃんも気をつけないとなァ」
視線をテレビ映像から御山にやった伊崎。
その声が御山のところに届く前に、御山はジャンパーを着込み、チャックを首のところまでしっかり絞め、いつの間にか席を立っていた。
「マスター。意外と人間の仕業じゃないかもしれないぜ」
さっきまで普通に喋っていた御山の声が、やや低くなって伊崎の耳に聞こえた。
「ん、ゲラオちゃん。そりゃ、どういうことだい」
「ごちそうさん。なんかあったらまた寄るよ」
意味深な台詞に浮かんだ伊崎の疑問に答えることなく、御山はそそくさとドアを開け、店を出て行った。
笑いもせず、来た時と同じ愛想のない真顔のまま。
ヘルメットをかぶり、自前のオフロードバイクに飛び乗り、けたたましいエンジン音とともに海岸線道路に飛び出て、そのまま街に向けて走っていった。
まるで何かに急かされているようなスピードで。
「あーあ、いっちゃったよ」
伊崎がカウンター席に置かれた飲み干されたコーヒーカップを手に取りながら、すでに消えてしまった御山の姿を追うように、陽光の射す窓を見つめる。
「それにしても……いつからだろうね。ゲラオちゃんが、あんなに笑わなくなったのは……」
カップを片付け始めた伊崎の視線の先には、一枚の写真が飾ってあった。
そこには、まだヒゲをはやしていない伊崎と。
幸せそうに満面の笑顔を浮かべ、腹を抱えて笑う、御山の姿があった。
――――――――――
高層ビルが立ち並ぶオフィス街には、日の昇る朝を境目に色々な人たちがまばらに集まり始めていた。この場所に街が出来て、人が住んでから、何度も繰り返し行われてきた時間と人間の営み。その始まりが、うっすらと見えてきた頃。
「……」
とある高層ビルの屋上へリポートに、黒の帽子、黒のサングラス、黒の皮ベルト、全身カラスのような黒の衣装に身を纏い、無言でたたずむ謎の女の姿があった。高層ビル特有の上空に流れる強い風で煽られてはいるが、女はまるで微動だにしない。
「来たか……」
黒いルージュに浸された唇がゆっくりと開き、白い手袋をスッと自分の顔の前に出す女。その言葉の後に、女の後方でドサッと大きなものが着地する音が聞こえた。
「大いなる闇の洗礼を受けしモノ。屍食蜘蛛、プロリフェレ・スパイダー」
女の後ろには、いつの間にか異形のモノ達があふれかえっていた。
「グェッ……グェッ……」
異形のモノ達の口や手には、すでに人間のものであろう血のりがべったりとくっ付き、地面へと垂れ始めていた。
「そうだ、それでいい。お前たちは人間の生を奪い、殺ぎ、喰らい、増え。初めて、その生を実感できる存在。秘密結社Dに忠実なケダモノだ」
白手袋を横に流し、女がゆっくりと振り返る。
強く吹く風になびく黒い衣装が、照らされた日の光の後ろに黒い影をつくる。
その黒い影を縫って、かすかに反射する無数の赤い複眼。
「グエッ……グエッ……」
見た目は蜘蛛そのものだが、ヒト一人分はゆうに超える巨大な体を持ち。
口にはメタリックな銀色を放つ強固な鎌状の牙、細い体毛のついた赤黒い八本の足先には、獰猛で鋭い爪が生えている。
その怪物たちの姿を見て、ニンマリと不気味な笑みを浮かべる女は、再び振り返った。
今まで横に出していた手を下ろし、今度は白手袋からスッと伸びた人差し指で、人間たちが集まり始めた高層ビルの下界を指した。
「目の前に広がる全てがお前たちの餌場だ。生きるもの全てを奪い! 殺ぎ! 喰らい! 増えろ! ……行け!」
「グエッ!」
女がそう言うと、蜘蛛の怪物たちは声をあげ、腹部にある突起から強固で滑らかな糸を吐き出し、それを縁にかけ、次々と高層ビルの谷間へと降下していった。
女はそれを見ながらニヤッと笑い、ヘリポートをゆっくり歩き始めた。
「世界の歪みよ……広まれ。すべては秘密結社Dのために……」
風に吸い込まれる霧のように姿を消す女の微笑みは、邪悪に満ちていた。
0、プロローグ
人智を超えた歪みというのは、いつの時代も存在し
誰にも見えない闇の中で、その息を潜めている。
歪みの源……それは悪魔の所業か、それとも神の悪戯か。
物質文明がある程度の発展に到達した現在でも、その歪みは絶えず何処かで起きている。
この現実に、確実に。
その日、西日に照らされた白壁の会議室の中で、ひとつの殺人事件の考察が行われていた。
殺人に関する事件を取り扱う警視庁捜査一課は、今日も慌しかった。
「今月九日、港区で変死体があがりました。被害者の死因は衰弱死。後頭部の裂傷痕から微弱の毒性麻酔が検出されており、それ以外の外傷がないことから、やはり今回も化合弱性毒物による殺人です。被害者の様子から見て、同一犯の可能性があり……」
広めのホワイトボードに貼り付けられた殺された被害者の写真と、姓名、その情報の数々が黒いマジックペンで書かれている。
説明役の背広の刑事が事件の概要を丁寧に説明しながら、他の刑事たちの前で淡々と語り続ける。
「……今月に入ってもう七件目だぞ。さしもの刑事課長もおかんむりだ」
「やれやれ、また雷が落ちるぞこりゃ」
会議の合間にヒソヒソ話をする末席の二人の刑事。
一人は低身長で小太り、一人は高身長で痩せ型の対照的な男だった。
「被害者同士の関連性はまったくなし。殺しの場所もバラバラ。あるとすれば歳が二十歳前後で、血液型がA型ってことだけ……」
「通り魔的な犯行だとしても、度が過ぎるな。それに死因が外傷でも毒物でもなく衰弱死ってところが……」
ヒソヒソ話の合間に、怪奇な連続殺人事件の概要説明が終わった。
それを聞いて、犯人をあげられない怒りから会議室が揺れるほどの怒号を発する課長をよそに、二人の刑事たちの話は続く。
「被害者は、全身の血液が空っぽの状態で発見される、か。なんで犯人はそんなことをするんだろうな?」
「さあな。猟奇的な殺人を繰り返す犯罪者の多くが、凡人には理解できない思考を持っている。ようは怪物なのさ。ヒトの心の中に閉じ込められた、怪物……」
そう言うと小太りの刑事は、目の前にあるペットボトルの蓋をあけ、中に入っていた清涼飲料水を喉に通していく。
刑事課長の怒号が聞こえる会議室で、普通よりやや長い間、ゴクゴクと喉の渇きを癒す音を立てる刑事。
グイと傾けたペットボトルの清涼飲料水は、パッケージ全体の中ほどまで減っていた。
「お前……本当に飲むよな」
痩せ型の刑事が、小太りの刑事の飲みっぷりを見てつぶやく。
「プハッ…うるせえなあ。喉が水で浸されるぐらい飲まないと、なんつうかな、渇きが満たされた感じがしないんだよ」
それを聞いて、もうすでに中身がなくなりかけていたペットボトルの飲み口から唇を離す小太りの刑事。
「渇きを、満たすか……」
「なんだよ。別にお前の飲み物に手を出したりしねえよ」
小太りの刑事の怪訝そうな視線と、何かバツが悪そうに自分の頭に手をまわし椅子に思いっきりよたれかかる様子は、痩せ型の刑事の笑みを引き出した。
プッとふきだした痩せ型の刑事は、自分の席の前に置かれたペットボトルを手にとって、会議室のライトに当てて眺めた。
やや白く濁った清涼飲料水が、ライトに照らされてその液体を刑事の顔に移す。
「連続殺人犯は案外、本当に怪物だったりしてな」
ある程度の間がたった後、痩せ型の刑事は遠い目をしながら、呟くように言った。
「おいおい、どういうことだよ」
小太りの刑事は、どちらかというと現実的な思考を持つ痩せ型の刑事にしては、おかしな発言だなと思い、よたりかかっていた椅子から、やや身を起こして言葉を吐いた。
痩せ型の刑事は、再びペットボトルを眺めながら言う。
「煮詰まっている時は発想を逆転させろっていうのが、俺のポリシーでね」
「怪奇事件で、情報が無いのはわかるがよ。だからって、お前にしては少し乱暴な推理じゃないか?」
小太りの刑事が、苦笑いを浮かべながら話す。
だが、痩せ型の刑事は、それに対して何の反応もせず、またペットボトルを眺めながら呟くように言った。
「被害者たちの血を抜き、吸血することで自分の渇きを潤す……そういう怪物が、もしこの世に居たとしたら?」
ガタン。
発言のあと、小太りの刑事のテーブルに置かれたペットボトルが倒れ、彼の視線と体が凍ったように固まる。
沈黙。
停止。
無為。
暗転。
その空間に流れるのは、そんな似つかわしい言葉ばかり。
「お、おいおい。冗談きついぜ」
二人の間におかしな間が数秒ながれ、耐えられなくなった小太りの刑事が、やや慌てた口調で口を開く。そしてややあきれた様子で、言葉を吐き始める。
「連続殺人事件の犯人が怪物だなんて。天下の警視庁捜査一課の刑事としても、一人の人間としても、妄想のしすぎだ。どうかしてるぜ」
小太りの刑事の発言の何処にも不正解はない。
刑事としての発想、思考。
人間としての倫理、常識。
その全てにおいて正常であるといえる。
しかし、痩せ型の刑事はそんな真っ当な反応を聞いて、さらに真顔で答えた。
「だがな、世界には色んな生物が存在している。……たとえば節足動物の中には、弱性の毒を獲物に与えて、生きたまま食べる怪物みたいなヤツだっている。人間の世界だって、海外に行けば吸血鬼伝説なんてものが実際にあるだろう?」
「じゃあ今回の犯人は、現代に蘇った吸血鬼だってのか。馬鹿らしい……」
真顔で妄想に等しい発言をするのに対して、すかさず明らかに呆れた表情と言葉を放つ。
小太りの刑事は、倒れた自分のペットボトルを起こし、また両手を頭の後ろで組んで、椅子に深くよたると、再び、二人の刑事の間に、しばしの沈黙があった。
「……なあに、こういう思考の柔軟体操も時に捜査に必要だ」
今度は、痩せ型の刑事が先に口をあけた。
「付き合ってられないぜ。妄想も大概にし……」
小太りの刑事が言いかけた、その時だった。
「太田! 細井! さっきから、なぁにぃをぉ、くっちゃべってるんだ! そんな暇があるなら速く現場に行って、近隣の新たな目撃情報がないか調べてこんかッ!」
会議室に地鳴りのように響き渡る、二人の刑事の名前を呼ぶ課長の怒声。
何百台も並んだ大型バイクのエンジンを連続で吹かしたような爆音は、すぐさま二人の背筋をピンとさせた。
「ひー怖い怖い。課長怒りのお呼びだしだ」
「相変わらず声のでかいことで……」
二人は立つと、そのまま課長に敬礼をして、会議室を出て行った。
会議室のドアを開け、ドアを閉めても聞こえる課長の怒号に、キビキビと素早く廊下を歩き始める刑事二人は、いつもの雰囲気に戻っていた。
「まあよ。刑事なんだから、おかしな妄想推理より、まじめな捜査で犯人探しと行こうぜ」
「そうだな。課長のお怒りで地球が真っ二つにならないうちに片付けるか」
会議室のある廊下を抜け、その先の角を曲がり、二つ並んだエレベーターの前にたどり着くと、二人の思考の裏に、ふと思い出したかのように今回の怪奇事件の概要が浮かぶ。
ガッ……!
その時、エレベーターホールの右の突き当たりにある陽光が差し込む窓に、大きな移動する影がひとつ見えた。
「虫……?」
課長から、細井と呼ばれた痩せ型の刑事が、まぶたに指を当てて、もう一度目を見開いて、窓を見る。
「気のせいか……」
だがそこには、いつも通りの陽光が射していた。
「おい、何をしてるんだ。行くぜ」
「あ、ああ」
チーン、というエレベーター到着音が鳴ると、開かれたドアの中に二人の刑事が入っていく。
エレベーターの中に入ると、太田と呼ばれた小太りの刑事が、ふと呟く。
「まあ今回の怪奇事件……おとぎ話に出てくる吸血鬼でもない限り、ありえない話だよな……」
二人の刑事が乗りこむと、エレベーターはゆっくりと動き出した。
ガンッ!
誰も居なくなったエレベーターホールの突き当たりの窓には、いつの間にか波状の亀裂が、幾つも入っていた。
窓に映っていたのは、亀裂の原因である、巨大で、鋭く黒く光る、毛深い、棒状の、足らしきもの。
そして、その窓の外には……。
歪みは、起きていた。
この現実に、確実に。