――――――
しばしの沈黙が寝所を包み、外で鳴く夜虫の声が、なんとも悲しげに聞こえだした頃。
優男は、ポウロとスワト、二人の前で土下座しながら、ワナワナと震える体にグッと力を入れると、伏せていた頭を戻し、唾液が出ないほど乾燥しきった口内を潤すために、傍においてあった水筒の水を勢い良く飲む。
「……(おそらくこれは俺が飲む最後の…死に際の末期の水だ)」
ゴクリゴクリと喉を通る水。
おそらく最後になるであろう潤いの感覚を死ぬ前に焼き付けようと、しばらくの間、口に水を含ませてまま飲み込んだ優男は、2回、3回、深呼吸を繰り返すと、ついにその重く閉ざされた口を開いた。
「…ポウロ殿の仰る通り。私は無銭飲食を働いた、ただの流浪の百姓でございます。名をミレムと申しまして、毎日の食にも事欠き、お恵みや施しを受けて生活をし、口先三寸と小さな嘘で世間を騙す、しがない小悪党にございます」
ガタッ!
黙って座っていたスワトが、再び鬼のような形相でミレムを睨む。
「な、なんだと!!で、では、それがしへのあの忠義の言や、あの天下万民への嘆き、そして英雄の嫡流だというのは、全て嘘だと申されるでござるか!!」
「その通りでございます!私はヤケになって英雄の嫡流と嘘をつき!貴方様が私を嘘を信じ、それから間もなくして鉄の牢を打ち破った姿を見て、およそ度胸の無い私は恐ろしく感じてしまい、その時とっさに真を語ることができなかったのです!」
「な、なにぃ!」
「あの時、私が嘘を嘘だとスワト殿に言っていれば…あなた様を恐れずに、申せる度胸があれば!…いえ、今となっては全て言い訳になりましょう。…さあ、どのような罰も受けます!どうぞ!」
さっきのどもりがちの声と、汗まみれで逃げるような姿がまるで嘘のように、ミレムの声と態度は落ち着き払っていて、実に雄弁なものであった。
バンッ!
しかし、そんなことでスワトの逆上した心は止められなかった。
スワトは、言葉を聞くや否や床を大きく叩いて立ち上がり、ミレムの胸倉を掴む。
「おう!最後にして、その言や良し!この小悪党め!英雄の嫡流など名乗りおって、なんという罰当たりでござろうか!忠義に燃えるそれがしを謀(たばか)るなど言語道断でござる!油で煮てやろうか、火で炙ってやろうか!それとも、この場で柔首をへし折ってやろうか!!!」
ミレムの体を持ち上げて、掴んだ胸倉をユサユサと揺らして恐怖心を煽ろうとするスワト。
おそらくスワトのような怪力の持ち主を前にして、そのようなことをされれば、誰でも恐怖心が沸くもの。
「…」
だが、ミレムは黙って、ただ眼を瞑ってスワトの言葉を聞くだけであった。
スウッ…
そんなスワトの腕に伸びる一本の手。
息苦しそうなミレムの姿を見ながら、ポウロがスワトをなだめるように言った。
「まあまあ豪傑殿、落ち着きなされ。たしかにこのミレムの嘘は罪です。万死に値する虚言にございましょう。しかし世には嘘も方便という言葉がございます。それに、真を言う前に早とちりしたスワト殿にも、十分責任がございます」
「むむむ…ポウロ殿!それでもこの男許せぬ!どうか、それがしを、お停めなさるな!」
「まあまあ。それにここは我が家でございます。どうか血で汚れるようなことは避けたく思い…」
「うぬぬぬ…それはそうでござるがのう!」
「落ち着きなされ。いつも通りの冷ややかな心で、この場を見れば、なんてことはないでしょう。ただ暑い夏に吹く、一瞬の涼風のようなものかと思われますが…。どうか、怒りを静めてくだされませぬか」
「うぬぬぬぬぬぬぬ!!!」
余りに怒り猛ったため、スワトは掴んだ胸倉の腕の力を緩める事が出来なかった。
ポウロの再三の言葉に、まるで激流の如く憤慨の声を漏らし、その場でミレムの首を絞めようと手を伸ばしたが、とっさにそこへ仲立ちするようにポウロが耳に通るような涼やかな声をあげた。
「ゆ、許せぬのだ!それがしの祖、豪傑スオウの盟主であり戦友たる英雄ガムダ様の嫡流を名乗ったこの男が、息をしているだけでも許せぬのだ!」
「落ち着きなさい!そして良く考えるのです。謀られたとはいえ、脱獄をさせてまで救った、その男を殺せば、スワト殿の名誉ある家名に傷がつきますぞ!」
「うおおお…しかし…」
「だまらっしゃい!!そのように家名を重んじるスワト殿が、ただ一時の感情に流されて、己が立派な祖と家名を汚すおつもりか!どのような罪あれど、謝せば広い心で許してこそ、真の豪傑ではあるまいか!」
「ぐむむむ…」
スワトの怒りは、その頂点を極めていた。
だが、家名を重んじる武家という事を逆手にとり、理屈の通ったポウロの巧みな話術に根負けし、手からミレムを離すと、その場にドシンと座り込んだ。
「家名汚さずが武家の習い!ミレムとやら、命拾い致したな!」
「…ありがとうござる。しかし、罪は罪でござる。そのうち、追って役人から沙汰(判決)がありましょうや。許してくださったスワト殿には悪いが、私はそれを喜んで、お受けいたす」
「ふん。せっかく拾った命を粗末にするとは、とんだ奇人でござるな!」
「申し訳ありませぬ。スワト殿の厚い忠義の心を無にした事。ここで今一度、心から謝りましょうぞ」
ミレムは深深と床に顔をついて、誠心誠意謝った。
その謝罪の態度は、どこか清々しささえ残る立派なものであった。
「ううむ…」
スワトは、目の前のミレムを見た。
ただひたすら謝罪のために土下座し、命乞いをするでもなく、床に顔をただ埋め許しを請うためにはどのような罰をも受けると言う、その立派な態度。
しかも、謝るべき男は、並の男の前ではない。
並み居る番兵を物ともしなかった、この豪傑スワトの前で物怖じすることなく、まさに死を覚悟したような、威風さえ漂うミレムの姿。
スワトは、この男の根底にある『何か』を感じた。
「…ふうむ。それではよろしいかな」
状況を見守っていたポウロが、ゆっくりと口を開いた。
そして、こう言った。
「ミレム殿。どうやらスワト殿も謝罪の態度を判ってくれた様子。ささ、そのように男がずっと地に頭をつけるべきではなかろう。どうか、お顔をお挙げなされ」
ポウロの言葉を聞いてミレムは、誰に臆することもなく、ゆっくりと頭を上げる。
その表情は、少し前の優男の軟弱な顔ではなかった。視線は下を向いていたが、真っ直ぐポウロとスワトの姿を見、背筋にハリガネが通ったようにピンと張った姿勢は、目に映るミレムの姿を倍にも見せるほどの威風だった。
それを見ていたポウロは、優しげな太い眉をキリッと直すと、口元を強張らせ、ミレムに向かって真剣な口調で語り始めた。
「最初に会った時から私は気づいていた、そなたが英雄の血筋ではないことに。みすぼらしい風体、見えぬ徳、優れぬ話術、貧弱な腕力、無知に近い知識…見るところ、どれをとっても英雄としての風格が無い。しかし、私はそう判っていても寝所を貸し、三日三晩贅の極みを尽くし、そなたに礼を尽して差し上げた。それは何故だと思いまする?」
ミレムは静かに答えた。
「…私には皆目…」
ポウロは続け様に、胸を張ってこう言った。
「ならば教えよう!そなたには誰にも負けぬ気運がある!それが証拠に、罪をもって牢に閉じ込められても、スワト殿のような豪傑と出会い、番兵差し迫る中を無傷で駆け抜けられ、暗い夜の道筋も流れる星の軌跡が照らした。そして天が乱るるを察知した、このポウロと出会い、その施しを受けた。出来すぎているほど巧妙な、幸運の連続ではないか!」
「……」
「それも全て、そなたが束ね、集め、この世に生まれいずる時より持っている、気運というものなのだ。気運というものは、人がどう足掻こうと、最初から定まっているもの。それを得た物は何者にも変えられぬ人物ということだ」
「…気運…」
「今、天下は頂天教の横暴を許し、帝に忠誠を誓う将星(将の運命を司る星)も、多くが他の国へと流れた。そして、その後示し合わせたように我々は出会った。これは、我らが力をあわせ、義を持って立ち上がれという天からの意思であろうと思わぬか?いや、そうであるはずだ!」
「…」
ポウロの饒舌は、手ぶり素振りを右へ左へ流し、畳み掛けるような論理でミレムを説いた。
だがミレムは、湧き出る罪悪感から一向に黙ったままだった。たとえ気運と褒められ、呼ばれても、目の前の二人を騙し、罪を犯した罪人であることに変わりは無かったことを心に留めていた。
ミレムの態度にポウロは、少し考え込むと、大きく息を吸い込んだ。
そして、再びゆっくり話し始めた。
「ミレム殿、私が先ほど戸の前で言ったことを覚えてらっしゃるか?」
「…?」
「寝床から落ちる時に呟いた言葉です」
「…死ぬつもりで三つ(度胸、知恵、権力)を手になされ、と」
怪訝そうな顔を浮かべるミレムに対して、ポウロは声を張って、ズイとミレムの前に出て言った。
「度胸は世に揉まれればつくでしょう、知恵は書を学べばつくでしょう、世を動かす権力は大義さえあれば得れるでしょう。問題は、定められた気運と世を生き抜こうとする覚悟です。天を突くような勢いの気運と、世を生き抜く覚悟があれば、どんなみすぼらしい小池の鯉も、時を得、雷雲を呼び、咆哮を上げ、龍となり天下を見下ろし、天空を飛び回るでしょう」
「…」
「あなたは今は小池の鯉だが、いつか天に昇って龍になる者なのです!」
バッ!
そう言うとポウロは突然着物を翻し、ミレムの前にひれ伏した。
「何を」と言いたそうなミレムをよそに、ポウロは続けてこう言った。
「ミレム殿。天下を動かすには天、地、人の三つが必要といいます。『天』、これは天運。つまり気運を持ったミレム殿の事でしょう。『地』は領土、財産。これは富を持つ私の役目でしょう。そして『人』、つまり優秀な人物。これは豪傑のスワト殿のことでしょう。つまりここに、天下を動かす天、地、人が揃っているのです!」
「私に何をさせようと…」
「どうか、我が明主として、国を憂う真の英雄となってくださらぬか!」
「む・・むう・・」
余りにも唐突な告白と出来事に、ミレムは内心混乱していた。
死の覚悟を決めてから、澄み切ってゆく自分の気持ちに、大志の芽が育っていくのを感じてはいたが、今の自分にそのような大役がまかりなるかどうか。天下に躍り出ようとして湧く、矮小な恐怖心が、大いなる大志を邪魔していた。
そしてミレムは、己の心が噴出したように、自らの大志に言い訳をして、言いたくも無い苦言を、自ら口にした。
「しかし私は罪人。それに嘘をつき、英雄の嫡流の名を語り、忠義を蔑ろにするような者。いくら気運が私にあったとしても、そんな名声無き嘘つき罪人に、軍や人を任せられようか?そんな罪人に天下の大義が得られようか?」
「ふふふ。はっはっは!」
ポウロは笑った。ミレムの放った言葉の先にある、矮小な恐怖心を見抜いていたからだ。
言い訳をするミレムに対してポウロは、大きく眼を開いてグッとミレムの肩を掴むと、強く反論した。
「罪を感じる気持ちは大事。ですが、それに捉われて動けなければ、天下の龍も、ただの邪魔な岩。降りかかる汚名は、私が全力で対処します。それに、嘘をつく、つかないは問題ではありません。今、天下は、平和な治世から乱世に差し掛かり、これから世には様々な野心を抱く者が出てくるでしょう。しかし、最後に勝つのは実直な覚悟です。名声はその後からついてくるでしょう」
「…」
「おお、そうだ。そういう意味で英雄ガムダの嫡流ではまだ小さすぎます。ミレム殿には、皇帝の嫡流を名乗るがよろしいことかと」
「こ、皇帝の嫡流だと!?お、恐れ多いことを申す奴じゃ!」
「ふふふ、しかしこのまま凡人として過ごしても、どこかで野垂れ死ぬともしれない世の中になりますぞ。義に立ち、兵を興して帝国を救って大志を持った英雄となるが良いか、一介の小悪党のまま犬死するのが良いか。どちらが賢明な判断でございましょうか」
「むむむ・・・」
悩むミレム。
その前に、ただ実直な姿で平伏するポウロ。
幾分。
長い沈黙が続くかと思われた時、ポウロの横で何かを考えるように黙っていたスワトが、ついに口を開いた。
「その男…いや!ミレム殿の実直さ、ポウロ殿の言葉を聞いて、それがしの心も、今決した!頼む、ミレム殿!我らが憂国の士を束ねる明主になってくださらぬか。我が武勇、何を言われようが、今からミレム殿と共にあることをここに誓うでござる!」
「私も誓いましょう!ミレム殿、ご決断をお願いいたします!」
ミレムの前で跪くスワト、そしてその声に続くポウロ。
その光景に、ミレムは大志に纏わりつく矮小な恐怖心を解いた。
そして。
「…本来なら手打ちにされても文句の言えない私の罪を許してもらい、そのようにあなた達が私を慕う…。私が、あなた達の期待に応えることが出来るかわかりませんが…!このミレム。心、決しました!義のため!人のため!我ら三勇士、ここに立とう!」
「「おおお!!!」」
――こうして三人の勇士は、自らの大志と義のため立ち上がった。
その夜は、三人だけで酒宴の続きが行われ。
三勇士は、盃を酌み交わし、ミレムを上として軽い主従の儀を結んだ。
翌日、ポウロの財を元に兵を整え、その数にして100騎の軍団が出来上がった。
装備を整えるためによった鍛冶屋では、剣や槍、鎧甲冑。
そして、豪傑スワトのために、想像を絶する巨大な鉄の薙刀が作られた。
三勇士は三日後、胸を張り、惣村を出立した。
皇帝の嫡流を名乗った気運ミレム、大薙刀を持った豪傑スワト、論に長ける徳者ポウロの三勇士の名声は、町を越えて郡に知れ渡り、大地を揚々と駆ける馬蹄と軍団の輝きは、出来上がったばかりの新星の輝きにも似たものがあった。
そして三勇士を含めた100騎の軍団は一路、官軍と合流し、特別遊撃隊として、謀反を起こした南国の頂天教軍討伐へと向かうのであった。
小池の鯉、龍成れりて。
しばしの沈黙が寝所を包み、外で鳴く夜虫の声が、なんとも悲しげに聞こえだした頃。
優男は、ポウロとスワト、二人の前で土下座しながら、ワナワナと震える体にグッと力を入れると、伏せていた頭を戻し、唾液が出ないほど乾燥しきった口内を潤すために、傍においてあった水筒の水を勢い良く飲む。
「……(おそらくこれは俺が飲む最後の…死に際の末期の水だ)」
ゴクリゴクリと喉を通る水。
おそらく最後になるであろう潤いの感覚を死ぬ前に焼き付けようと、しばらくの間、口に水を含ませてまま飲み込んだ優男は、2回、3回、深呼吸を繰り返すと、ついにその重く閉ざされた口を開いた。
「…ポウロ殿の仰る通り。私は無銭飲食を働いた、ただの流浪の百姓でございます。名をミレムと申しまして、毎日の食にも事欠き、お恵みや施しを受けて生活をし、口先三寸と小さな嘘で世間を騙す、しがない小悪党にございます」
ガタッ!
黙って座っていたスワトが、再び鬼のような形相でミレムを睨む。
「な、なんだと!!で、では、それがしへのあの忠義の言や、あの天下万民への嘆き、そして英雄の嫡流だというのは、全て嘘だと申されるでござるか!!」
「その通りでございます!私はヤケになって英雄の嫡流と嘘をつき!貴方様が私を嘘を信じ、それから間もなくして鉄の牢を打ち破った姿を見て、およそ度胸の無い私は恐ろしく感じてしまい、その時とっさに真を語ることができなかったのです!」
「な、なにぃ!」
「あの時、私が嘘を嘘だとスワト殿に言っていれば…あなた様を恐れずに、申せる度胸があれば!…いえ、今となっては全て言い訳になりましょう。…さあ、どのような罰も受けます!どうぞ!」
さっきのどもりがちの声と、汗まみれで逃げるような姿がまるで嘘のように、ミレムの声と態度は落ち着き払っていて、実に雄弁なものであった。
バンッ!
しかし、そんなことでスワトの逆上した心は止められなかった。
スワトは、言葉を聞くや否や床を大きく叩いて立ち上がり、ミレムの胸倉を掴む。
「おう!最後にして、その言や良し!この小悪党め!英雄の嫡流など名乗りおって、なんという罰当たりでござろうか!忠義に燃えるそれがしを謀(たばか)るなど言語道断でござる!油で煮てやろうか、火で炙ってやろうか!それとも、この場で柔首をへし折ってやろうか!!!」
ミレムの体を持ち上げて、掴んだ胸倉をユサユサと揺らして恐怖心を煽ろうとするスワト。
おそらくスワトのような怪力の持ち主を前にして、そのようなことをされれば、誰でも恐怖心が沸くもの。
「…」
だが、ミレムは黙って、ただ眼を瞑ってスワトの言葉を聞くだけであった。
スウッ…
そんなスワトの腕に伸びる一本の手。
息苦しそうなミレムの姿を見ながら、ポウロがスワトをなだめるように言った。
「まあまあ豪傑殿、落ち着きなされ。たしかにこのミレムの嘘は罪です。万死に値する虚言にございましょう。しかし世には嘘も方便という言葉がございます。それに、真を言う前に早とちりしたスワト殿にも、十分責任がございます」
「むむむ…ポウロ殿!それでもこの男許せぬ!どうか、それがしを、お停めなさるな!」
「まあまあ。それにここは我が家でございます。どうか血で汚れるようなことは避けたく思い…」
「うぬぬぬ…それはそうでござるがのう!」
「落ち着きなされ。いつも通りの冷ややかな心で、この場を見れば、なんてことはないでしょう。ただ暑い夏に吹く、一瞬の涼風のようなものかと思われますが…。どうか、怒りを静めてくだされませぬか」
「うぬぬぬぬぬぬぬ!!!」
余りに怒り猛ったため、スワトは掴んだ胸倉の腕の力を緩める事が出来なかった。
ポウロの再三の言葉に、まるで激流の如く憤慨の声を漏らし、その場でミレムの首を絞めようと手を伸ばしたが、とっさにそこへ仲立ちするようにポウロが耳に通るような涼やかな声をあげた。
「ゆ、許せぬのだ!それがしの祖、豪傑スオウの盟主であり戦友たる英雄ガムダ様の嫡流を名乗ったこの男が、息をしているだけでも許せぬのだ!」
「落ち着きなさい!そして良く考えるのです。謀られたとはいえ、脱獄をさせてまで救った、その男を殺せば、スワト殿の名誉ある家名に傷がつきますぞ!」
「うおおお…しかし…」
「だまらっしゃい!!そのように家名を重んじるスワト殿が、ただ一時の感情に流されて、己が立派な祖と家名を汚すおつもりか!どのような罪あれど、謝せば広い心で許してこそ、真の豪傑ではあるまいか!」
「ぐむむむ…」
スワトの怒りは、その頂点を極めていた。
だが、家名を重んじる武家という事を逆手にとり、理屈の通ったポウロの巧みな話術に根負けし、手からミレムを離すと、その場にドシンと座り込んだ。
「家名汚さずが武家の習い!ミレムとやら、命拾い致したな!」
「…ありがとうござる。しかし、罪は罪でござる。そのうち、追って役人から沙汰(判決)がありましょうや。許してくださったスワト殿には悪いが、私はそれを喜んで、お受けいたす」
「ふん。せっかく拾った命を粗末にするとは、とんだ奇人でござるな!」
「申し訳ありませぬ。スワト殿の厚い忠義の心を無にした事。ここで今一度、心から謝りましょうぞ」
ミレムは深深と床に顔をついて、誠心誠意謝った。
その謝罪の態度は、どこか清々しささえ残る立派なものであった。
「ううむ…」
スワトは、目の前のミレムを見た。
ただひたすら謝罪のために土下座し、命乞いをするでもなく、床に顔をただ埋め許しを請うためにはどのような罰をも受けると言う、その立派な態度。
しかも、謝るべき男は、並の男の前ではない。
並み居る番兵を物ともしなかった、この豪傑スワトの前で物怖じすることなく、まさに死を覚悟したような、威風さえ漂うミレムの姿。
スワトは、この男の根底にある『何か』を感じた。
「…ふうむ。それではよろしいかな」
状況を見守っていたポウロが、ゆっくりと口を開いた。
そして、こう言った。
「ミレム殿。どうやらスワト殿も謝罪の態度を判ってくれた様子。ささ、そのように男がずっと地に頭をつけるべきではなかろう。どうか、お顔をお挙げなされ」
ポウロの言葉を聞いてミレムは、誰に臆することもなく、ゆっくりと頭を上げる。
その表情は、少し前の優男の軟弱な顔ではなかった。視線は下を向いていたが、真っ直ぐポウロとスワトの姿を見、背筋にハリガネが通ったようにピンと張った姿勢は、目に映るミレムの姿を倍にも見せるほどの威風だった。
それを見ていたポウロは、優しげな太い眉をキリッと直すと、口元を強張らせ、ミレムに向かって真剣な口調で語り始めた。
「最初に会った時から私は気づいていた、そなたが英雄の血筋ではないことに。みすぼらしい風体、見えぬ徳、優れぬ話術、貧弱な腕力、無知に近い知識…見るところ、どれをとっても英雄としての風格が無い。しかし、私はそう判っていても寝所を貸し、三日三晩贅の極みを尽くし、そなたに礼を尽して差し上げた。それは何故だと思いまする?」
ミレムは静かに答えた。
「…私には皆目…」
ポウロは続け様に、胸を張ってこう言った。
「ならば教えよう!そなたには誰にも負けぬ気運がある!それが証拠に、罪をもって牢に閉じ込められても、スワト殿のような豪傑と出会い、番兵差し迫る中を無傷で駆け抜けられ、暗い夜の道筋も流れる星の軌跡が照らした。そして天が乱るるを察知した、このポウロと出会い、その施しを受けた。出来すぎているほど巧妙な、幸運の連続ではないか!」
「……」
「それも全て、そなたが束ね、集め、この世に生まれいずる時より持っている、気運というものなのだ。気運というものは、人がどう足掻こうと、最初から定まっているもの。それを得た物は何者にも変えられぬ人物ということだ」
「…気運…」
「今、天下は頂天教の横暴を許し、帝に忠誠を誓う将星(将の運命を司る星)も、多くが他の国へと流れた。そして、その後示し合わせたように我々は出会った。これは、我らが力をあわせ、義を持って立ち上がれという天からの意思であろうと思わぬか?いや、そうであるはずだ!」
「…」
ポウロの饒舌は、手ぶり素振りを右へ左へ流し、畳み掛けるような論理でミレムを説いた。
だがミレムは、湧き出る罪悪感から一向に黙ったままだった。たとえ気運と褒められ、呼ばれても、目の前の二人を騙し、罪を犯した罪人であることに変わりは無かったことを心に留めていた。
ミレムの態度にポウロは、少し考え込むと、大きく息を吸い込んだ。
そして、再びゆっくり話し始めた。
「ミレム殿、私が先ほど戸の前で言ったことを覚えてらっしゃるか?」
「…?」
「寝床から落ちる時に呟いた言葉です」
「…死ぬつもりで三つ(度胸、知恵、権力)を手になされ、と」
怪訝そうな顔を浮かべるミレムに対して、ポウロは声を張って、ズイとミレムの前に出て言った。
「度胸は世に揉まれればつくでしょう、知恵は書を学べばつくでしょう、世を動かす権力は大義さえあれば得れるでしょう。問題は、定められた気運と世を生き抜こうとする覚悟です。天を突くような勢いの気運と、世を生き抜く覚悟があれば、どんなみすぼらしい小池の鯉も、時を得、雷雲を呼び、咆哮を上げ、龍となり天下を見下ろし、天空を飛び回るでしょう」
「…」
「あなたは今は小池の鯉だが、いつか天に昇って龍になる者なのです!」
バッ!
そう言うとポウロは突然着物を翻し、ミレムの前にひれ伏した。
「何を」と言いたそうなミレムをよそに、ポウロは続けてこう言った。
「ミレム殿。天下を動かすには天、地、人の三つが必要といいます。『天』、これは天運。つまり気運を持ったミレム殿の事でしょう。『地』は領土、財産。これは富を持つ私の役目でしょう。そして『人』、つまり優秀な人物。これは豪傑のスワト殿のことでしょう。つまりここに、天下を動かす天、地、人が揃っているのです!」
「私に何をさせようと…」
「どうか、我が明主として、国を憂う真の英雄となってくださらぬか!」
「む・・むう・・」
余りにも唐突な告白と出来事に、ミレムは内心混乱していた。
死の覚悟を決めてから、澄み切ってゆく自分の気持ちに、大志の芽が育っていくのを感じてはいたが、今の自分にそのような大役がまかりなるかどうか。天下に躍り出ようとして湧く、矮小な恐怖心が、大いなる大志を邪魔していた。
そしてミレムは、己の心が噴出したように、自らの大志に言い訳をして、言いたくも無い苦言を、自ら口にした。
「しかし私は罪人。それに嘘をつき、英雄の嫡流の名を語り、忠義を蔑ろにするような者。いくら気運が私にあったとしても、そんな名声無き嘘つき罪人に、軍や人を任せられようか?そんな罪人に天下の大義が得られようか?」
「ふふふ。はっはっは!」
ポウロは笑った。ミレムの放った言葉の先にある、矮小な恐怖心を見抜いていたからだ。
言い訳をするミレムに対してポウロは、大きく眼を開いてグッとミレムの肩を掴むと、強く反論した。
「罪を感じる気持ちは大事。ですが、それに捉われて動けなければ、天下の龍も、ただの邪魔な岩。降りかかる汚名は、私が全力で対処します。それに、嘘をつく、つかないは問題ではありません。今、天下は、平和な治世から乱世に差し掛かり、これから世には様々な野心を抱く者が出てくるでしょう。しかし、最後に勝つのは実直な覚悟です。名声はその後からついてくるでしょう」
「…」
「おお、そうだ。そういう意味で英雄ガムダの嫡流ではまだ小さすぎます。ミレム殿には、皇帝の嫡流を名乗るがよろしいことかと」
「こ、皇帝の嫡流だと!?お、恐れ多いことを申す奴じゃ!」
「ふふふ、しかしこのまま凡人として過ごしても、どこかで野垂れ死ぬともしれない世の中になりますぞ。義に立ち、兵を興して帝国を救って大志を持った英雄となるが良いか、一介の小悪党のまま犬死するのが良いか。どちらが賢明な判断でございましょうか」
「むむむ・・・」
悩むミレム。
その前に、ただ実直な姿で平伏するポウロ。
幾分。
長い沈黙が続くかと思われた時、ポウロの横で何かを考えるように黙っていたスワトが、ついに口を開いた。
「その男…いや!ミレム殿の実直さ、ポウロ殿の言葉を聞いて、それがしの心も、今決した!頼む、ミレム殿!我らが憂国の士を束ねる明主になってくださらぬか。我が武勇、何を言われようが、今からミレム殿と共にあることをここに誓うでござる!」
「私も誓いましょう!ミレム殿、ご決断をお願いいたします!」
ミレムの前で跪くスワト、そしてその声に続くポウロ。
その光景に、ミレムは大志に纏わりつく矮小な恐怖心を解いた。
そして。
「…本来なら手打ちにされても文句の言えない私の罪を許してもらい、そのようにあなた達が私を慕う…。私が、あなた達の期待に応えることが出来るかわかりませんが…!このミレム。心、決しました!義のため!人のため!我ら三勇士、ここに立とう!」
「「おおお!!!」」
――こうして三人の勇士は、自らの大志と義のため立ち上がった。
その夜は、三人だけで酒宴の続きが行われ。
三勇士は、盃を酌み交わし、ミレムを上として軽い主従の儀を結んだ。
翌日、ポウロの財を元に兵を整え、その数にして100騎の軍団が出来上がった。
装備を整えるためによった鍛冶屋では、剣や槍、鎧甲冑。
そして、豪傑スワトのために、想像を絶する巨大な鉄の薙刀が作られた。
三勇士は三日後、胸を張り、惣村を出立した。
皇帝の嫡流を名乗った気運ミレム、大薙刀を持った豪傑スワト、論に長ける徳者ポウロの三勇士の名声は、町を越えて郡に知れ渡り、大地を揚々と駆ける馬蹄と軍団の輝きは、出来上がったばかりの新星の輝きにも似たものがあった。
そして三勇士を含めた100騎の軍団は一路、官軍と合流し、特別遊撃隊として、謀反を起こした南国の頂天教軍討伐へと向かうのであった。
小池の鯉、龍成れりて。