― 妖元山 中腹 林道 ―
一方。
山道の側面、深く生い茂った長い林道を行く騎馬が一騎。
おそらく人が通れるような場所ではない、その獣道(けものみち)を疲れきった馬一つで駆けるキレイとオウセイは、雨が止むのを確認すると、一面の林の天上の隙間から見える、千切れ雲の天を覗きながら、退路に適した山道を目指していた。
しかし、退路探しは困難を極めた。
獣道には、鋭く尖った野竹や、皮膚を切り裂く硬い野草や、雨上がりの湿気に踊らされて活発に動く虫などが、周りのいたるところから湧き出てており、馬が通れるような広い道も塞がれ、生い茂る林の暗闇は、キレイ達の方向感覚を失わせた。キレイとオウセイは、汗まみれになりながらも馬を降り、剣で草を分け、近づく毒虫を手で払いのけながら、傾斜の続く長い林道を下へ下へと進んでいた。
「ふぅ…ひどい獣道ですな。だが、これでは追っ手も我らを探せまい」
「それはいいが…ええぃ!この虫の多いこと!払っても払っても、よじ登ってくる!人攻めのあとは、虫攻めとはな。ふふ、私を嫌う天にしては、格別の配慮ではないか」
「はっはっは、若、やっと落ち着いて参りましたな。天も若の気持ちに負けて、晴れて参りましたぞ」
「この程度の苦難で死ねば、私が笑われる。私は、命を捨てて戦ったお前の部下の分も生きねばならんのだ。そして天を一度半殺しにしてやらねば、気がすまん」
「そこまで部下達の事を思ってやれるなら、死んでいった者達も浮かばれまする」
「…生きねばならん。生きねば」
そう、キレイが呟いた時であった。
ガサッ、ガサッ!
ガサッガサガサッ!
物陰から草を大きく揺らす音が聞こえた。
「…むっ!キレイ様、声を出さず、馬を連れて草にお隠れなされッ…」
物音に気付いたオウセイは、馬を置いてキレイを草むらに隠れさせると、自分はキレイの前に立ち、物音のする方を覗く。
「…あれは…人?」
しばらくすると、何処から湧き出たのか判らない槍や弓を持った人影数百人が、ドッドッと足音を立ててオウセイとキレイの隠れる草むらの近くを横切ってゆく。辺りが視界の悪い暗闇であったためか、人影は草むらに隠れた二人に気付かず、そのまま林道を急いで進んでゆく。
「(…あの数でこの林道を歩くとは、敵の伏兵部隊に違いあるまい。おのれアカシラめ、もう次の手を打ってきたか)」
「(まだどちらかはわかりませぬが…こちらには気付いておりませぬ。かといって傷ついた我々だけではどうにもなりませぬ。ここは、無難にやり過ごしましょう)」
「(…うむ)」
キレイとオウセイは深く身を隠し、人影が過ぎるの息を殺して待った。
だが、その時であった。
「ヒヒーーーン!!!ブルルルッ!」
まさに静寂に満ちた林道を引き裂く声。
不運にも、キレイの横に居た馬が一瞬動いた拍子に獣道の鋭い野竹に尻を刺し、痛みに耐え切れない馬は、嘶きと供にキレイ達の隠れた草むらを薙ぎ払い、多数の人影が待つほうへ走っていってしまった!
ヒュンヒュンヒュンヒュン!
ドスドスドスドスッ!
「ヒヒィィィィン…」
瞬く間の後、痛みに嘶く馬の声は、肉を切り裂く音と断末魔へと変わった。
音に気付いた数十人の人影から、寸分たがわぬ狙いで矢が放たれたのだ。
遠路を駆けて衰弱しきっていたオウセイの馬は、首や足を容赦なく射られ、ハリネズミのようになりながら、その場に倒れて絶命した。
「ルブー様!馬だ!馬が倒れてますぜ!」
うすらと見える一人の人影の野太い声に反応するように、草むらに隠れたキレイとオウセイが今までよりも背を低く構える。すると数十人の人影が林道を掻き分けて進み、その場で立ち止まると、その中から幾つかの会話が聞こえる。
「ルブー様。こいつは相当汚れてはいるが、鐙に手綱を見るところ、随分と立派な馬のようですぜ」
「なにぃ?倒した官軍の奴らの馬かぁ?」
「へぇ、たぶん。だけど、敵の残党がここらに逃げ込んでるのかもしれませんぜ?」
「なんだって!」
「どうしやすルブー様?俺たちの道筋を知られちゃ困るんじゃねえんですかい?」
「そりゃそうだがよ。アカシラ様は、何を捨てても先を急いで敵の横っ腹を突けといってたんだ。それを破るわけにはいかねえよ」
「じゃあ、俺たちが残りますよ。ルブー様は兵隊を連れて先を急いでくだせえ。なーに、二十人もいりゃ事足りますぜ。なんてったって俺たちは、頂天教軍の中でも選りすぐりですからね」
「そうかい、じゃあ任せたぜ」
「へい!」
ルブーと呼ばれた頂天教軍の指揮官らしき男が数百人の兵達を指揮すると、人影の大多数は林道の先を進んだ。場に残った屈強な二十人の頂天教軍兵士は、暗闇にギラリと刀や槍の色を光らすと、ドタドタと足音を立ててキレイ達の隠れている草むらの方へ近づいてゆく。
「(オウセイ…どうする)」
「(若、少し待っていてください。あの程度、拙者がすぐに片付けて参りましょう)」
「(何…?何をするつも…)」
自信満々な顔を浮かべるオウセイに、キレイは疑問を投げかけた。
だがオウセイは、キレイの言葉の途中で手に握った双尖刀(ソウセントウ)を腰に抱えると、草むらから人影に向けて、何かを投げ込んだ!
ヒュッ!
カラカラッ!ガン!
「ん!?そこにいるのは誰でえ!」
背を低く構えた姿勢から、鋭く大地に叩きつけられたのはオウセイの兜であった。
頂天教軍の兵士たちは驚き、槍や刀を構えながら、音のあったほうへ向かう。
だが、それこそがオウセイの狙いであった…!
バッ!ビュウンッ!!
「うっ!」
ドカッ!!
草むらから勢い良く飛び出したオウセイの双尖刀が、暗い林道に光る!
波上の片刃から片腕一本で放たれる、上段を薙ぎ払う縦一文字!
それは兵士の左腕を俄かに捉えたかと思うと、次の瞬間、兵士の胴体から肩口までが見事に二つに切断され、兵士が振り向くのを終える時には、大量の鮮血が空中を舞った。
「あっ、てめえ!やりやがったな!」
「官軍の生き残りか!このやろう!」
あたりに血を撒く兵士に気付いた、左右の屈強な男がオウセイの姿を確認すると、血に飢えた眼で、抜いた刀を片手に振り上げ、即座にオウセイに斬りかかろうとして近づいて来る!
バッ!ビュウッ!
ドカッッ!スパッッッ!
だがオウセイは、ただその場で一呼吸置くと、右へ体をひねらせ、双尖刀の長い柄を力強く横へと回す!すると、素早い一筋の刃の軌道が車輪のような回転を見せ、一回転目で襲い掛かる男たちの両足をもぎ取り、二回転目では首を的確に捉えて断った!
「ちぃ!残党のくせに粋がりやがって!」
「だがこの数に一人では勝てまい、死ねい!」
ブンッ!ヒュンッ!
血生臭くなる林道の暗闇の中で、次々にオウセイ目掛けて襲いかかる屈強な男たち!
手の寸部にギラリと光る鉄色の刀を構えては振り下ろし、ビュンと槍を伸ばしては突き殺そうと画策した!
ビュンッ!ビュンッ!
カキーン!ドスッ!ドスッ!
だが、近づく屈強な男たちは、オウセイという武将の力を知らなさ過ぎた。
首を狙って上段から刀を振り下ろせば、双尖刀の鋼鉄の柄が絡めとるようにして刃を折り!
足を狙って下段から槍を放てば、右へ左へ流れる双尖刀の一文字の軌跡が穂先を弾く!
それと同時に、屈強な男たちの目に鋭い銀色の刃が飛び込む。
すると男たちの見ていた辺りの暗闇は、飛沫する自分の鮮血によって一瞬の朱色に染まる。
ビュウッ!ドカッ!
ビュウッ!ビシッ!
機敏にして正確!微細にして猛撃!
スッと伸びた鋼鉄の柄の先、上下の二刀が闇に光れば、男たちの首と流血が空を舞う!
突き刺し、薙ぎ払い、斬り落とし、弾き返し、振り回す!
ブゥン!ガッガッ!ブシュッ!
ブゥン!ドカッ!ブシュゥゥゥ!
『突く』と『払う』を兼ね、多数を相手にする事も可能な双尖刀という武器の強さもあったが、それにも増してオウセイの斬り合いの技術が凄かった。素早く力強く、急所を的確に捉えた攻撃の数々は、あたかも舞のように見事であり、次々に重ねられる男達の死体は、オウセイのその実力を実証するようだった。実際、オウセイに斬られた者の痛みは一瞬であり、普通は痛覚によって引き起こされる悲鳴も聞こえなかった。
…次第に林道の暗闇は、元の静寂を取り戻していた。
オウセイに襲いかかった頂天教軍の誇る二十人の屈強な男達は、結果オウセイの身体一つ、甲冑一つに刀傷をつけることも出来ず、ただ無残に大地に四散する自らの死体と、流れ出るおびただしい血流を、林道の草に吸わせ続けていた。
オウセイは、斬った男達の血を顔手足甲冑全て、全身のありとあらゆる所に浴びながら、ただ敵の動きはないかと周囲を見張りながら立ち尽くし、危険が去った事を肌で感じると、草むらに隠れるキレイを呼んだ。
「若、終わりましたぞ。もう大丈夫です」
「馬鹿者!飛び込むなら飛び込むと言え!」
「敵の不意が見えましたので、つい…」
「お前が死んだら、どうするつもりだったのだ!」
「ハッハッハッ、拙者には勝てる絶対の自信がございましたから」
「オウセイ!」
バンッ!
二度三度、手を頭に置きながら軽く声をあげて笑うオウセイに対して、キレイの表情は、いつもの冷静さを一変させていた。振り上げた手を音が出るほど強くオウセイの胸の甲冑に押し当てると、キレイは、オウセイの眼を見ながら小さく呟くように言った。
「二度とこのような真似をするな…もし敵に…もっと多くの敵に気取られたらどうするつもりだった」
「安心してくだされ。敵に気付かれないように、全て即死できる急所を狙っております。敵が悲鳴をあげる暇もございませぬて」
「そうではない…そうではないのだ。お前がもし敵に討たれて死んだらどうする。天下にお前は、オウセイという人物は二人と居ないのだぞ」
「しかし死地にて生を求めるのが武将の定め。それは拙者とて同じ…」
「お前は…私を守らなければならないんだ」
「若。わかってござる。だからこそ拙者が」
切羽詰った台詞を投げかけたキレイだったが、オウセイの返す言葉に思わず噴出してしまった。武士として将として実に出来た男だが、人の心を察するにはまだまだ未熟であった。
「…ふふふ、本当に…お前の斬り合いの腕は凄い。オウセイは実に『武骨者』だな」
「それだけが唯一の得意にございまするゆえ…」
「そうか。だがな、それではいかんぞ」
血に塗れたオウセイに近づきながら、キレイは自分の懐から一枚の白い布を差し出し、兜を失ったオウセイの剥き出しの額に当てて、こう言った。
「顔についた血ぐらい拭え。この武骨者。このキレイが一番とする武将として、見苦しいわ」
「こ、これは粗相を…」
オウセイは一瞬、その行動にたじろいだ。
眉を和らげ、頬はその強張りを解き、唇を横に広げて微笑むキレイ。
目の前の恐将と呼ばれた男の口調と態度は、今まで見たことが無いほど情の篭った反応だった。部下が死んでも、兵が死んでも、眉一つ動かないキレイにしては、余りにも優しかったのだ。
「若。拙者のような武骨者に…ありがたき事この上なく。それが嘘でも嬉しゅうございます」
「馬鹿者、私は嘘などつかん。今お前が死ねば、私も死ぬ。だから一番と言った。なに気にするな。それだけのことだ。それだけの」
キレイはそう言うと、恥ずかしくなってオウセイの向ける不思議な視線から逃れるように、その場で反転して周囲を見た。携えた剣の鍔に手をかけながら、暗闇の続く林道の先と、千切れ雲の隙間から、俄かに晴れ間の見え始めた夕空を、オウセイが血を拭うのが終わるまで、ただキレイは遠くを覗いていた。
「…」
それを近くで見つめながら、顔面についた血を白い布で拭うオウセイの心は、まだ絶対の窮地に居るのにも関わらず、雲ひとつ無い、どこまでも続く青空のように澄み切っていた。
「若、そろそろ行かぬと」
「うむ。さっき下へ向かった兵が帰ってくると厄介だ。オウセイ、先を急ごう」
雨の上がった湿気と供に、血の匂いが充満した林道を後にする二人の武将は、互いに疲労に歪む顔など出さず、肩を貸しあいながら、足取り軽く獣道を進んだ。
今、山の上を囲うようにたなびいていた黒雲は、それぞれ千切れて晴れ間を覗かせているのだった。