気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

日本の夜明けに貢献 ジョン(中浜)万次郎の痕跡を訪ねて・・・鎖国日本へ帰国・・・・(4)

2017-03-06 23:34:33 | 思い出

 1851年2月2日 万次郎、伝蔵、五右衛門の3人は、 11年前に土佐沖から5人の乗った小さな漁船は,鳥島に漂着、通りかかったアメリカの捕鯨船に救助される。

           それから12年、万感の思いで、夢にまで見た祖国、日本が目の前に見えている。 

アメリカの商船サラ・ボイド号に乗船、ハワイホノルルを出港して30日余、船は黒潮に乗って琉球沖に接近して行く。

琉球・沖縄

サラ・ボイド号の船長以下、乗組員の方との別れの時が来た。

 何かと親身になって心配してくれる、ホイットモアー船長らの好意に対して、感謝の言葉を述べると、乗組員たちは、パンや飲み物をのどをボートに積んでくれた。

いよいよ、アドベンチャー号がゆっくりと甲板から海上に下ろされ、サラ・ボイド号の全乗組員が見送る中を、小さなアドベンチャ号に乗り込んでいく。

そして、波間にもまれながら、万次郎達3人が乗ったアドベンチャー号は、陸を目指して進んで行く。

アドベンチャー号は、しばらく帆走していたが、この日は、折あしく、帆を上げていられないほどの強風と、みぞれ交じりのあいにくの天気で寒い、

3人は、帆を下ろし、オールを漕ぎながら、湾内に入って行く。 それを見届けた、サラ・ボイド号は、開帆して去って行った。

間もなく日も暮れ、波風は収まったが、上陸は無理と判断し、陸から千数百メートルの地点のボートを止めて仮眠する。

万次郎(左)と 伝蔵(右)の洋装の姿

 

アドベンチャー号で仮眠した翌朝(1851年2月3日)万次郎・伝蔵・五右衛門の3人は、オールを漕ぎ、ゆっくりと接岸していく。

「日本だ!、日本にとうとう帰ってきたんだ!」 3人は喜びをかみしめていた。 

しかし 喜んではいられない。 これから役人による取り調べが待っているのだ。 鎖国を続ける日本の役人から、どんな取り調べをうけるか! 不安な気持ちも漂ってくる。

万次郎たち3人が上陸したのは、現在の沖縄県糸満市大戸浜である。

 

万次郎たちの服装は、服にズボンという異人の姿である。

島の人が数人集まってくるが、万次郎たちの姿をみると、姿を隠していく。 

残った人に声をかけても、いっこうに返事が返ってこない。 3人は家のある方へ歩いて行った。

伝蔵が漂流してからの顛末を村の人に話すと、村の人は それを役人に伝え、薩摩藩からの指示を待つことになる。

この当時、琉球は、薩摩の統治下にあった。 

薩摩藩の役人は、番所に入り、入れ替わり、立ち代り、何度も同じようなことを7ケ月間に渡って尋問する。

万次郎たちは、琉球での取り調べ中の間、地元の言葉も覚え、村民たちとも交際をした。

琉球には1844年と1846年の、2回にわたってフランス軍艦が来航しており、薩摩藩は諸外国の動きに注目して情報収集に躍起になっていた。

そのためにか、薩摩藩は、万次郎たちからの海外情報を知りたがっていた。

そんなおり、薩摩藩は3人を鹿児島に召喚することを決め、1851年7月、那覇から薩摩藩の船「大聖丸」で出航し、12日後には鹿児島湾入りする。

 

万次郎一行を厚遇し、海外情報入手に熱心だった薩摩藩主 島津斉彬公

薩摩に着くと、3人には屋敷を提供され、衣装のほかに、金銭を与え、酒食を供にして賓客並みに扱って厚遇した。

薩摩での取り調べは、琉球からの情報が届いているのか、万次郎一人に、連日、集中的な取り調べが行われた。

特に万次郎一行に興味があったのは、薩摩藩士 島津斉彬公であった。

斉彬公は、開明家で西洋文物に関心が強く、自ら万次郎に海外の情勢や文化、国家体制等についても興味深々としていた。

斉彬公は、今までの役人とは取り調べが全く違っていた。 万次郎を罪人としてではなく、初めてアメリカで学んだ者として、また、先進的な多くを経験した知識人としての扱いであった。

万次郎は、このような若い殿様がいるのに驚き、また、うれしくなってくる。 自分の知っている全てを伝えようと思った。

そのことが、日本を狙っている外国に対して、抵抗力を強めると信じていた。

万次郎は、英語交じりのたどたどしい日本語で、アメリカという国の生い立ちから、現状まで、国民がすべて、法の下で自由であり、平等であること、

国家体制や大統領を選ぶのは、全国民の数(投票)で選ばれること、蒸気機関などの文明の実情、捕鯨の話などを情熱的に話をする。

斉彬公は、万次郎が西洋の船に航海士として乗船し、世界の海を航海したことに強い関心を示していた。

斉彬公は、万次郎に西洋船を造ることができるか! 万次郎は、船大工を集めてくれれば可能であると返答する。

斉彬公は、早速、藩内の腕のいい、船大工を3~4人を万次郎の基に派遣して、西洋船の造船技術を学ばせた。

万次郎は、捕鯨船 ジョン・ハウランドやフランクリン号の隅々まで、覚えており、絵を描いて、船の構造、仕組みを解説した。 蒸気船についても、教えた。

斉彬公の特命で、捕鯨船の模型が造られ、 また、この模型船をもとに、小型の帆船をも試作された。

洋式帆船は、地元船大工と伝蔵や五右衛門も手伝って、日夜の突貫工事で造船を急ぎ、わずか48日で完成さした。

進水の日、錦江湾内は、地元の人にとって、奇異な形の船に興味を持ち、一目見て見たいとの思いで黒山の人たちが見守ってていた。

この帆船は、「越通船(おっとせん)」と名付けられた。 その船が錦江湾(鹿児島湾)を見事に帆走する姿を

磯御殿から眺めていた斉彬公は、 「でかしたぞ、でかしたぞ」 と拍手喝采しながら喜んでいた。 

斉彬公は、万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の開成所(洋学校)の英語講師として招いている。

 

万次郎たちは、やがて薩摩から、長崎におくられた。

島津斉彬公は、長崎奉行 牧志摩守宛てに送り状を添えていた。

3人の漂流民に邪宗等の問題が一切なきことに加え、

「万次郎が儀、利発にして、覇気あり。将来必ずやお国のために役立つ人材であるがゆえ、決して粗末に取り扱わぬよう」

 

江戸幕府の長崎奉行所での取り調べは10ケ月間も続いた。(1851年から1852年)

奉行 牧志摩守 が中心になって 「踏み絵」も試され、キリスト教徒でないことが証明され、外国から持ち帰った物は没収された。

 

万次郎が日本に持ち込んだ品

書籍(ボーデイッチの航海術書、数学、辞書、歴史、ジョージ・ワシントン伝記、農家歴など13冊の英書と地図7枚)

日用品(薬、かみそり、マッチ、裁縫道具、はさみ、時計等)

道具類(船具、のみ、かんな、オクタント(八分儀、天体観測器)、コンパス、石板、ピストル、鉄砲など)

衣類(西洋衣装、靴、帽子)、貴重品(砂金、金、銀)

金と銀については、日本銀85.3匁(もんめ)(一匁は小判一両の六十分の一)と好感された。

これらの没収品のほとんどは、後に江川太郎左衛門らの努力によって返還された。

 

※ 「江川太郎左衛門(1801~1855)」

「江戸幕府の世襲代官。文化4年 兄の英虎の病死により、代官職を継いだ。天保4年、高島秋帆より西洋砲術の伝授を受け、伊豆韮山に鋳造所を設け、諸藩の求めに応じた。

嘉永6年、黒船来航に当たり、海防の儀に参画した。

品川の台場設置、湯島や韮山での大砲製作、また、韮山郊外に反射炉を設けて鉄砲を製造するなど海防に尽力した。

嘉永6年、万次郎は幕命により江戸に及ばれた。万次郎の能力を高く評価した江川は幕府に願い出て、万次郎を御普請役として自分の手付とした。

蒸気船を造船中であった江川は、万次郎を本所の屋敷に住まわせ、蒸気船の乗組員を呼び、操帆術を学ばせた。

嘉永7年、黒船が再来した際、交渉役の江川は通訳に万次郎を起用するつもりであった。 しかし、水戸烈公と阿部伊勢守に反対され、結局、万次郎は、交渉の通訳をしなかった。」

 

 

 長崎の取調べは、万次郎を時々いらだたせた。 

せいぜい1ケ月もあれば終わると考えていたが、同じことを何度も聞かれ、万次郎は深い失意に陥っていた。

アメリカと日本ではこれほど違うのかと、万次郎は国の違いを、いやというほど見せつけられた。

アメリカは移民の国であり、異国人に対しては寛大である。 何年も暮らせば市民権も与えてくれる。

ところが日本は、かたくなに鎖国をまもり、異人を卑しみ嫌い、漂流した自国民を犯罪者として取り調べている。

万次郎は、納得できなかった。

 海の彼方の国はどんどん進歩している。 

このままの日本では、取り残され、やがて占領される恐れさえある。

何とかしなければと思いが強くなってくるが、何ともし難いと、地団駄ふんで悔しがる万次郎であった。

 

それにしても、鎖国体制下にあっても唯一の窓口であり、国際情勢に一番明るい立場にいる長崎奉行所が、この体たらくでは、失望するほかはなかった。

長崎奉行と薩摩の対応の違いを身を以て感じていた、薩摩の島津斉彬公は、進歩的で異例中の異例であったかも知れない。

万次郎はさらに奉行に海外事情の説明をする。

「アメリカの大統領は、能力と学識によって、人民の中から選ばれる。 任期は4年で、人民から評価されて、徳を備えていれば、任期がきても解任されない」

「身分の高いお役人が道を通るときでも、商人や百姓は、土下座する必要はなく、また、誰でも役人になれる。 身分の差などはないのです」

奉行は、その都度万次郎に 「 待て、待て、その話は危険な考えであるぞ」 とか 

「でたらめを申すな」 「そちの話は どうも偏っている。 気を付けて喋れ」 などといっている。

これに対して万次郎は、奉行に 「私は自分の考えをお話しているのではありません。 アメリカのことを話しているのです」

「このようなお話も、薩摩のお殿様にもお話をしました。 お殿様は そうか!そうか!と言って、よく聞いてくれていました」

などを話して、奉行に応答している。 

長く続けられている長崎奉行所での取り調べていた最中に、土佐藩主 山之内容堂公より 「3人の漂流民を引き取りたい」 との連絡がはいってくる。

万次郎たちは、喜び、「これでやっと 故国 土佐に帰れる。 おっ母に合える」

 

その後、長崎での取り調べは終わり、土佐藩から身柄を引き取りに来た17名の役人と共に、6月25日、長崎を徒歩で、郷里土佐を目指して行った。

一行は船を乗り継いで伊予(愛媛県)に着く。 さらに国境を越え、土佐国に入りして 7月11日 高知に着く。

 

大手門から、高台にそびえる高知城天守閣を望む

 

高知城下に着くと、万次郎たち漂流民を一目見ようと大勢の人たちが出迎えに集まっている。

一行は物見高い群衆の中を通り、その日は城下の旅籠で宿をとった。

山之内容堂公は、島津斉彬公より、万次郎の稀有まれな体験や博識ぶりを聞いており、一日も早く帰国を望んでいたが、幕府長崎の取り調べが長期間に及び、やっと願いがかなった思いであった。

容堂公も開明派の主君で、ものの道理をわきまえていたが、家臣のおおくは、保守的で頑固な人たちであった。 

高知でも、やはり万次郎ら3人が高知入りした時から役人による尋問責めが続けられていた。

しかし、数日たって様子が変わってくる。 

土佐藩重臣の吉田東洋が選んだ、高知城下随一の知識人 河田小龍が尋問にあたることになった。

小龍は幼い時から秀才ぶりを発揮、特に絵画は藩より認められ、江戸にも出て腕を磨き、帰国するや吉田東洋の門下にはいる。

吉田東洋の海外政策論に傾倒し 「鎖国はもう古い。大船を建造し、大砲を製造して、異国とも付き合わねばならぬ」 という思想に共鳴し、学問に励んでいた最中に、万次郎が帰国したのである。

小龍の尋問は、罪人としてではなく、すこぶる穏やかで、万次郎が喜んで海外事情を伝えたい!と思うほどであった。

小龍の願いもあって、小龍の家で寝食起居を共にしながら、万次郎は熱心に海外事情の話をしていった。

小龍は、万次郎から聞きとっった海外事情を丁寧に記載し、後に 「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」 にまとめる。

万次郎にとっても、小龍との出会いで、小龍の人徳に惹かれた。 逆に、小龍から日本事情や日本語を学び、教養・知識の幅を広げることができた。

これは、万次郎のその後の人生を、きわめて有意義に過ごすのに大いに役立っていく。

 

長崎奉行の保守頑迷な態度の比べ、土佐の開明思想は際立っているように思える。

河田小龍は、高知城下で学問塾を主宰するテキストに、万次郎の話した漂巽紀略を使用していた。

門下生には、日本の夜明けに大きく貢献した坂本竜馬、中岡新太郎、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎などを輩出する。

万次郎は、土佐藩主の山之内容堂や吉田東洋、河田小龍のどの重臣に気に入られ、生まれ故郷の土佐で羽ばたくことになる。

 

高知城下での3ケ月に及ぶ、取り調べも終わり、万次郎たち3人は高知城下を後にして 、伝蔵の故郷である宇佐浦(土佐市)に陸路で向かった。

伝蔵の村では、心温まる大歓迎を受け、新しく用意された伝蔵の家で一泊して、万次郎は、翌朝一人で足摺岬を目指し、仲ノ浜に帰って行く。

 

高知を出て4日目に中ノ浜に着く。 万次郎が宇佐浦を出たことは、昨日のうちに中ノ浜に伝わっていた。

峠には何人もの村人が万次郎を出迎えに来ていた。 峠を越えると、11年ぶりに見る懐かしい故郷の光景が広がっている。

昔と変わらないリアス式の美しい海岸線があり、子供の頃によく遊んだことが昨日のことのように思い出され、やっと故郷に帰った実感から心が奮い立ってくる。

「とうとう帰ってきたのだ!」 「 夢にまだ見た 故郷に帰ってきたのだ」

万次郎は,出迎えてきてくれた一行と共に、まず庄屋の家に帰国の挨拶に出向くことになった。

峠から曲がりくねった坂道には、大勢の村人たちが、万次郎を一目見ようと集まり、庄屋の家までぞろぞろと一緒に歩いて行く。

万次郎の生家のある現在の中の浜地区(土佐清水市)

庄屋の家の門をくぐると、村人の視線が万次郎に集中する。 大勢の村人たちが集まっている。 見覚えのある顔が並んでいる。

兄の時蔵、姉のせきと志ん、妹の梅、その真ん中には、片時も忘れることがなかった母親の汐が座っていた。 

さらに、万次郎の家族を大勢の村人たちが集まり、取り囲んでいる。

集まった全員が、万次郎と家族の感激の再会を固唾を呑んで見守っている。

「おっかさん ただいま帰りました!」

と いうなり万次郎は、母親の膝にすべり寄って母親を抱いた。 兄弟、姉妹のすすり泣きで泣いている。

この感激シーンに、多くの村人たちも、もらい泣きしたのか! 目には一杯の涙を浮かべている。

母親の汐は、万次郎と抱き合いながらも、庄屋の方を何度も振り返り、

「ほんとうに万次郎ですか!私の倅の万次郎ですか! 」 幾度も問い返した。

「間違いなく汐さんの大事な倅、万次郎さんだよ」 庄屋は、笑顔できっぱりと答えた。

「ほんとうに、万次郎ですか! ほんとうですか!」

想像もできないほど別人のように立派に、逞しく育って、12年ぶりに見る倅を母親を見上げていた。

「万次郎・・・・・」

母親の汐は、感激にむせんで、目を手ぬぐいで押し当てたままで言葉が出てこなかった。

万次郎も 「ただいま帰りました。お達者で・・・・」 というのが精一杯で、目には大きな涙がこぼれていた。

母親の汐は、倅は海で亡くなったものと思い、近くの大覚寺の境内に自然石を置いて、それを、万次郎の空墓とし、一日とも欠かさずに、毎朝 お参りを続けていた。

「自分が 宇佐浦などに漁師見習いに、だしさえしなければ」 と、己の過ちを責め続けていたのである。

それが、1年ほど前に、 薩摩へ漁に行った者から、「万次郎は生きており、メリケの国から帰ってきたらしい」 との噂が流れていた。

信じられなかった。 しかし 2ケ月前に、土佐藩の役人が現れ、聞き取りの調べも済み、万次郎が帰ってくるとの連絡を受けていた。 噂は本当であった。

 

万次郎の中ノ浜(土佐清水市)にある生家

12年ぶりに再会した万次郎と家族、親子水入らずでゆっくり落ち着いた生活もあっという間に過ぎ去った。

中ノ浜に帰って3日後、万次郎に高知城から出頭命令が届いてくる 。

万次郎を定小者(さだめこもの)とういう士分に取り立て、高知城下の教授館(学校)の教授に任命するというものであった

身分制度の厳しい時代に、一漁師から下級武士であっても、さむらいに昇格するのは異例の出世である。

 

この時代は、万次郎が侍に昇格するよりも、世界の先進国で学んだ知識や経験が、当時の日本が必要で、万次郎の国際的な高い知識や能力が活かされる時代が到来したのである。

当時25歳の万次郎は、高知に出ると、教育に情熱をそそいでいく。

聴講生には、吉田東洋の門下生の若者たちが多くをしめていた。 みんな一語一句も聞きもすまいと真剣に受講していた。、

後藤象二郎とともに山之内容堂公に勧めて、大政奉還を将軍徳川慶喜建白させた坂本竜馬や三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎などもいた。

万次郎は、自らの体験したアメリカの民主主義、自由、平等、独立の精神、さらに航海術や捕鯨船による活動状況などについて講義した。

土佐の若い聴講生の目は輝き、新しい日本の姿などに夢を膨らましていた。

また、万次郎は英語の教育にも力を入れ、耳から覚えられるように、発音やイントネーションに優れた授業を行った。

書く力も、現在の大学生の平均値より高いといわれ、英語的な表現方法も、さすが本場仕込みと思えるほどである。

軍艦4隻を率いて浦賀にやってきたアメリカのペリー提督

1853年6月 日本に大きな事件が発生する。ア メリカの提督ペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀に現れ、開国を要求する事件(黒船)が起きる。

この事件は、万次郎の耳にも入った。 「いよいよやって来たか!」 と 万次郎は予期していた。

大砲を備えた 「黒船」 の出現に幕府は慌てた。 追い払おうにも、そんな武力は日本にはなかった。

軍艦の砲口を町に向けて、不気味に威圧した上で、武装した数百名の海兵隊員を従えて、ペルー提督は久里浜(横須賀市)に上陸し、親書を浦賀奉行に突き付けた。

アメリカ大統領から鎖国を解き、開国するようにとの要望書であった。

来春に再び来るまでに、返答を用意しておくように一方的に言い放った。

4隻のペリー艦隊が浦賀から江戸湾を航行したコース、測量も行っていた。

 

ペリー艦隊は、江戸の至近まで接近させ、号砲をうつなどの示威行動で江戸市民を震え上がらせ6月12日(西暦7月17日)悠然と去った。

浦賀に現れた黒船 ポーハタン号

幕末の西洋艦船の外輪船

ぺリー-艦隊が去って江戸庶民はホットしたが、幕府は、それからが大混乱に陥っていった。

老中阿部伊勢守正弘は、対応策に関して諸大名に諮問したが、情報が分からず、知恵を出そうにも新興国アメリカの情報は、全くと言っていいほど入っていなかった。

そんな時、進歩的な蘭学者が土佐の万次郎の登用を進言してきた。

万次郎のことは、阿部正弘も知っていた。

長崎奉行から 「頗る(すこぶる)怜悧(れいり)にして、国家の用となるべき者なり」 との報告が入っている。

急ぎ 阿部正弘は、土佐藩江戸屋敷に 「万次郎と申す者を、外国の様子等を尋ねたいので江戸に呼び寄せて貰いたい」 との書状を届けた。

書状を受け取った土佐藩江戸屋敷や江戸から報を受けた高知城下も慌てて対応していた。

土佐藩では、幕府が必要としている重要人物に、自分の藩では、足軽にも及ばない最下級の身分しか与えていなかった。

このままでは、幕府に 「人材も見抜けない愚かな藩だ」 と思われる可能性があった。 これは、土佐藩の威信にかかわる問題だ。

急いで万次郎の身分を 「定小者」 から 「徒士格(かちかく)」 へ引き上げた上で、江戸へ送り出したのである。

 

ペリーが去って1ケ月後に、ロシアの艦隊が長崎に強引に入港して、通商を要求して来たとの情報も万次郎に入っていた。

しかし 万次郎は驚かなかった。

 ロシアもアメリカが、浦賀に軍艦を引き連れて強引に開国を要求したとの情報を入手した後の行動だと思った。

日本の混乱ぶりをみて、力による外交交渉を始めてきたのである。

万次郎が恐れていたことが、本当に始まろうとしている。

「何としても、母国 日本を守らねば」 との思いを強くしながら、来春の再来を言い残して、ペルーが去って、2ケ月半後の8月30日、万次郎は江戸に到着した。

待ちかねていた、老中阿波正弘は、即刻 万次郎を呼びつけ アメリカなる国についての質問をうけた。

 

時は来た、、、、万次郎は、アメリカで生活していた時に、日本に関するニュースやアメリカ政府の考え方、今後の方針などの情報を聞き、日本が心配でならなかった。

やっと、日本国の中枢にある人に自分が培わしてきた知識や技術、情報を話す機会が訪れたのである。

万次郎は感慨深かった。 自分は、この日のために、アメリカから鎖国を続ける日本に帰国してきたのである。

といっても過言ではなかった。