気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

突然日本にやってきた孫娘の思い出 その2(大阪・高知・香川)

2013-04-30 22:35:27 | 思い出

 2012年12月19日一人の孫娘が関西空港に降り立った。

 孫娘が来宅して、早いものでもう10日が過ぎ、年末の慌ただしい日々が続いている。 

 そんな中、数百枚の年賀状の投函も終え、年末の大掃除や、新年を大阪の自宅でむかえるため、おせち料理などの準備を整えている。

 愛らしい孫娘は、一人っ子で一人で過ごすことに慣れているのか、周りに友達がいなくても、好きな絵を描きながら歌を歌ったり、パソコンで楽しんだりして過ごしている。 

 日本で過ごす毎日が楽しくて仕方ないといった雰囲気で、私たち夫婦二人の静かな生活が、急に明るく賑やかな生活に変わってくる。  

 元日までは大阪で過ごし、近くの神社や観音様へ初詣をすまして、1月2日には私の郷里である高知へ行く予定である。 

高知県と徳島県を結んでいる国道32号・・大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)のV字谷峡谷に満足な表情の孫娘

 

私どもは子供や孫たちが日本にやってくると、必ずといっていいほど高知にも帰省している。

大阪から高知にマイカーで帰省する場合には、明石海峡大橋を経由し板野ICから一般道を3km程走行、

藍住ICから徳島自動車道に入り、1時間ほど走行、井川池田ICから国道32号に入って行く。 

国道32号は、風光明美な渓谷美を味合うことのできる、大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)渓谷沿いに造られた道路である。

孫娘が今まで暮らしていた、ブラジルやアメリカ、インドネシアのバリ島などと全く違ったV字渓谷の風景で、

孫娘は必ず満足すると確信していた。

国道からの渓谷美を味わった後は、高知自動車道大豊ICまで走行し帰宅する予定である。

 

身長174Cmの孫娘は、カメラを向けると自然と、色々なポーズ作ってくれる。

写真好きの私にとって、大変 写しやすい子で、愛らしいポーズを次から次へととってくれる。

 

元旦を迎える前に、話は少し戻って、犬鳴山(いぬなきさん)を訪れた折の話に触れておきたい。

犬鳴山は大阪府泉佐野市の犬鳴川渓谷を中心として、そこに流れ込む谷や山域等の、山全体の総称である。

 犬鳴山という名称の山があるわけではないが、地元では犬鳴山といえば 真言宗の犬鳴派の本山で七宝龍寺の伽藍が、風光明媚なV字渓谷の中に数多く建てられ、修験道の道場である霊山そのものを、さしていっている。 

渓谷沿いの山岳景観は、「大阪府緑の百選」にも選ばれている。

犬鳴山の歴史も古く、飛鳥時代の661年、役小角(えんのおずの)によって開基された行場である。

 葛城二十八宿修験道の根本道場で日本の霊山の一つでもある。

二度目に訪れた犬鳴山の案内絵図を前に立つ孫娘、孫娘も日本の神社仏閣の建物や山深い渓谷に興味を感じているようであった。

いかつく厳しい顔の不動明王であるが、願い事をかなえてくれるやさしい不動明王でもある。 

不動明王像から参道の石段を登って行くと本堂に出る。

さらに本堂を通り抜けると赤い伽藍のお堂があり、その奥には滝修業場である、行者の滝を清水が真っ白な泡を立てながら流下している。

静けさ中に霊験新たなる雰囲気が漂う赤い欄干の橋と行者の滝をバックにする孫娘。

滝修業は元旦を除く毎月1日に行われている。

滝壺近くは滝上部の渓谷からの流水とともに冷風がふいている行者の滝と孫娘

 

話は孫娘がやってくる前の12月1日 大阪の大学生勇士たちの滝修が行われていた。

 その状況も参考のためにお伝えします。

犬2012年12月1日、身を切るような冷たさや、寒さの中で大阪府下の大学生、数十人の男女による滝修行が行われていた。

師走の冷たい滝水を浴びる女子大生、僧侶が大きな声で念仏を唱える中で行われている。

身を切るような冷たい流水に打たれる男子大学生の滝修行と、お経を唱え、気合いを入れ、修行を指導する僧侶。

滝修行を終えた後の女子大学生、ほとんどの子が初めての体験である。

「最初は冷たかったが、修行を終えた後は、体が温かく解放されたような、清々しい気持ちである」 

とコメントしてくれた。

また、滝修行に参加した一人の男子学生は 

「自分は4年生で、毎年参加している。4年間の滝修行は、自分として大変価値のある修行で、

滝修業を終えた後の清々しい気持ちは何事にも代えがたい」 

と話をしていたのが印象的であった。

 

2013年1月元旦、私たちは孫娘とともに自宅近くにある、水間の観音様に初詣に出かける。

近くにある水間観音様へ生まれて初めて行った初詣、どのようにしてお参りすればいいのかも分からない様子であったが、

日本のお正月の風習に興味が湧いてきているようであった。

まだ16歳の高校生、やはりお参りのあとは、境内の所狭しと出店している露店に興味を持ち、

注文した料理が運ばれてくるのを楽しみに待っている孫娘。 

 

2013年1月2日(水)午前11時00分 高知へ帰省する準備を整え、大阪の自宅を3人で愛車エステイマで出発する。

南大阪の自宅から阪神高速湾岸線を走行し、明石海峡大橋を自宅から1時間ほどで通過して淡路SAに入って行く。

淡路SAから明石海峡大橋をバックに撮影するが、風が強く大変寒い撮影であった。

 

孫娘は生まれてから雪を見たことがなく、冬の寒い季節を体験するのも初めてである。 

日本に初めて来たときの服装も、冬のコートは着ているが、中のアンダーウエアーは夏物である。

そのために私は、風邪でもひかしたら大変だと思い、近くのスーパーに連れて行って、

冬用のアンダーウエアーや服装を数着買ってやった。

 

特に外出する時の冬の寒さを防ぎ、暖かい服装をどのようにするのか分からないようで、

この日も暖かい車内から15分程度、車外に出て、冷たい寒風にさらされていると、寒さで身体にふるえがきていた。

 

淡路SAからの美しい眺望をバックにした撮影も、そこそこにして切り上げ、愛車に戻るとすぐに徳島方面に走行して行く。

淡路鳴門自動車道を1時間ほど走行すると、高松自動車道に入り、板野ICより一般道を少し走行して、藍住ICから徳島自動車道に入って行く。

さらに1時間ほど走行して井川池田IC到着して国道32号に入って行く。

この一般国道は、四国三郎といわれ 暴れ川の評価のある吉野川沿いの曲がりくねった傾斜地に造られているが、

V字型の渓谷美など大変風光明美な道路でも有名である。

32号を走行中に孫娘が驚くのは、V字型の険しい山容の中腹辺りに、集落が何ケ所に分かれて存在している光景である。

徳島県内にある四国山脈の奥深い山稜には、こうした集落が多く点在している。 

これは八百年程前、源平合戦で敗れた平家の落人たちが、源氏の追跡から逃れるために険しい山の傾斜地に築いたと伝えられている。

渓谷の美しさの中を真っ白い泡を立てながら流れる吉野川の大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)渓谷にて

四国三郎といわれる暴れ川の吉野川の大歩危小歩危渓谷をバックにする孫娘

年末に降った雪が道路脇に残っているのを見つけて、初めて手に取り、取った雪を投げて大喜びする孫娘。

思いがけない雪を手にする体験ができた孫娘は、私たちに喜びの体験談を語った後、私たちは国道32号をしばらく走行し、

大豊ICから高知自動車道に入り、40分ほど走行すると伊野ICに到着する。

伊野ICから松山まで通じる国道33号に入り、郷里の佐川町に向かって行くと40分ほどで郷里の自宅に到着する。

 

1月3日(木)晴 四国の青い空が上空を覆い、晩秋のような良い天気である。 

日程の都合から、今日は広々とした太平洋が一望できる横波黒潮ライン方面に行くことに決める。

 愛車での走行中に孫娘も少しは疲れがあるのか、車中ではよく眠っていた。 

目覚めた時、この雄大な太平洋の景色に思わず見とれる程で、旅行の楽しさが少しずつ湧いてきているようであった。

 

この横波黒潮ラインは、須崎市から土佐市へと、細長く伸びた横波半島を尾根づたいにドライブが楽しめるシーサイドロードである。

ドライブロードからは、広々とした太平洋の大海原を望みながらの絶景が続いている。

ドライブロードは、左右に絶景を楽しむことができる。 南側には太平洋、北側には湖かと思いそうな内海の、北ノ内湾に面している。

このドライブコース一帯は横波県立自然公園に指定され、訪れた人たちを魅了してやまないコースで、

断崖絶壁の続く海岸線の尾根伝いに造られている。

青々とした四国の空の下、リアス式の入り組んだ海岸に、真っ白な泡を見せながら波が打ち寄せ、

青々と透き通った海がどこまでも広がっている。

また、両手方向には、はるかかなたまで海岸線の山容が続いている。

この場所から、広大な太平洋の水平線を眺めていると、自然の大きさや美しさに圧倒され、新たなる感動や勇気が湧いてくる。

横波黒潮ラインの中ほどにある駐車場、幕末に活躍した「武市半平太」の像前で、はにかむ孫娘。

 

土佐勤王党の党首、武市半平太は、尊皇攘夷を志し、命果てる瞬間まで自らの意志を貫き通した幕末の志士で、坂本竜馬とは遠戚に当たる。  ひたすらまっすぐに進んだ彼の生涯の中には、彼を支え続けた妻とのロマンスが語られている。

横波黒潮スカイラインの駐車場の上にある展望台、眼下にはリアス式の美しい湾が広がっている。

 

1月の4日~5日は、私の郷里や、高知市内への見学などをして過ごす。 

周囲を山で囲まれ、中央を川が流れ、その流域には、里山の田園風景が広がっている郷里の佐川町尾川

岩の上にある展望台から郷里、尾川の里山風景をバックにする孫娘。

私も60年ほど前に通っていた保育園で子供たちと楽しそうに戯れる孫娘。

保育園の先生も入って子供たちと一緒に撮影する孫娘

その後、郷里の尾川から30kmほどの距離にある高知市内に出かけて行く。

高知城をバックにする孫娘、下は追手門

 

高知城は高知市の中心にある典型的な平山城で、

初代土佐藩主山内一豊とその妻千代が礎を築いた土佐24万石の歴史ある城である。

 関ヶ原戦の功績により徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊が,慶長6年(1601年)新城の築城工事を始め整備する。

 高知城は、三層六階の天守閣や追手門などからなり、城の建物は国の重要文化財となっている。

「板垣死すとも自由死せず」 で有名な板垣退助の像の前で、同じボーズをとる孫娘。

 板垣退助は、天保8(1837)年に土佐藩士300石の家に生まれる。

旧姓は乾。板垣退助は自由民権運動の父とされ、

特に 「板垣死すとも自由は死せず」 の名言は明治時代の一大流行語となった。

高知城の石垣の間に築かれた石段を天主閣に向かって登って行く。

山之内一豊の妻の像の前で

山内一豊の妻(千代)は、一豊を内助の功で支え、その内助の功によって、一豊は出世できたと言われている。

賢妻として有名な女性である。

高知城をバックにする妻と孫娘

高知市内で 美味しそうにラーメンを食べる孫娘。

「 土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい 」 のはりまや橋で。 

東西と南北で路面電車(土佐電鉄)が交差するはりまや橋交差点。高知市内で最も交通量の多い交差点である。

高知市内を走る路面電車(地元の人には土電(とでん)の名で親しまれている。 路面電車に乗るのは孫娘にとっても初めてである。

 

故郷高知で3泊した後の1月5日の夕方、私たちは愛車に乗って高松方面に向かった。

妻の仕事の関係で1月6日中には、大阪の自宅に帰らなければならなかった。

明日は讃岐の金比羅さんにお参りし、午後の高松港からのフェリーで神戸に帰る予定である。

高速道路は九州や広島方面からの帰省客で大渋滞が予測されていた。

孫娘は、大型のフェリーにも乗船したことがなく、船旅の楽しさや体験をさしてやりたいと思いフェリーを予約していた。

私たちの気ままな旅は、妻と二人での車中泊が原則である。 

孫娘との3人での車中泊は初めてで、孫娘の反応が心配であったが、

何の抵抗感もない様子で、逆に初体験の車中泊に興味を示し楽しそうであった。

3人で車中泊した愛車エステイマ、車内外のガラスには特製の防寒シートを張っている。

プライバシーもあるが、真冬でもエンジンは停止する。 エンジンを駆けた状態では振動で眠れない。 

ガラス面への防寒シートがなければ寒くて眠れないが、お陰さまでぐっすり眠ることができる。

8人乗り3列シートの愛車、2列目の座席を平行にして、その上に特性に加工した木板でベットを造っている。

車の座席にそのまま寝るのは、デコボコがあって眠れない。 そのために板を加工して平らなベットを造っている。

ベットの上には通常のベットと同じようにマットや敷物をひいて眠るのである。

車幅も3人掛けでゆったりしていて、窮屈感はあまり感じなかった。

日程の都合上高速道路のサービスエリア(高松道豊浜SA) で車中泊をした時の朝食を前に微笑む孫娘

 

1月6日(日) 豊浜サービスエリアで朝食を済ました後、琴平町にあるこんぴらさんに向かって行った。

こんぴらさんまでは30分ほどの走行距離である。

JR琴平駅近くにある駐車場に愛車をとめ、3人でこんぴらさんに向かって行く。

 

こんぴら船々

こんぴら船々 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ

まわれば四国は 讃州(さんしゅう) 那珂の郡(なかのごおり)

像頭山(ぞうずさん) 金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)

一度まわれば

 

こんぴらさんは、古くから 「さぬきのこんぴらさん」 親しまれている海の神様である。

こんぴらさんの参道は長い石段で有名である。 本宮まで785段、奥社までの合計は1368段にも及んでいる。

参道から本宮までの石段沿いには大門があり、門をくぐると 五人百姓が、古くから伝わる名物のこんぴら飴を販売している。

さらに参道を進んでいくと国の重要文化財の「書院」や、広い境内には重要文化財 「旭社」 など由緒ある御社や御堂がなどが点在する。

参道の両脇には土産物店やうどんの店などが並び、訪れた多くの参拝客でにぎわっている。

参道沿いにある資料館、大きな酒びんから升に注がれる展示物をバックに記念撮影する孫娘。

長く続く参道の石段を大門まで登ってくる。 奥には五人百勝が名物の飴を販売している。

本宮まで続く長い石段をを登って行くと、幅広い石段があり、その上には重要文化財の旭社の建物が威風を放っている。

孫娘も日本の神様へ、参拝の風習が身に付いてきたのか、手や口を自然と清めて自然と参拝が出来るようになっていた。

すごい迫力の丸山応挙が描いたといわれる虎の襖絵をバックにする孫娘

最後のきつい785段の石段を登るとこんぴらさん本宮に到着する。 二人共、疲れも見せずに元気そうである。

こんぴらさん本宮の建物は桧皮で葺いた大社関棟造りで、大物主神と崇徳天皇を祭神としている。

 本宮の向かって左側には御神馬の銅像があって、身代わり地蔵のごとく自分の体の中で悪いと思う所をさすると良くなるという言われている。

785段の石段を登りきると広い境内があり、目の前にこんぴらさんの本宮が、多くの参拝客で賑わっている。 

こんぴらさんへの参拝を終え本宮の前に立つ妻と孫娘

こんぴらさん本宮の標高は約230m近辺で、周囲には視界を遮るものがないため、眼下の琴平町の街並みや、

さぬき富士を中心とする山容と讃岐平野が見事な光景を醸し出している。

本堂横の高台にある展望台から、讃岐富士を中心に3人で撮影してもらった。

ひときわ目立つ富士山のような山は、標高422mの飯野山で、讃岐富士の別名で親しまれている。

 

こんぴらさんの参拝を終え、展望台からの眺望や、本宮横のおみくじなどをひいたりして過ごした後、元来た785段の石段を下って行った。

参拝道のふもとに到着する頃には12時をまわり、孫娘が 「お腹がすいた。 何かおいしものを食べたい!」 といいだす。

やはり 「讃岐に来れば、本場の讃岐うどんに限る!」 と思っていた私は、地元の方に、「どこの店がおいしいの!」 と尋ねてみると 

「てんてこ舞」 という店を紹介してくれた。

「てんてこ舞い」 の店には10人位の人たちが、並び、店頭では 若い職人が手打ちうどんを打っている。

こんな状況から、直感的に 「この店のうどんは 美味しい」 と思った。

店内はセールスシステムで、価格も驚くほど安かった。

注文した讃岐うどんを前に微笑む孫娘、 この後、最後まで美味しそうに食べる姿が印象的であった。

 

食事を終えた後、私たちはこんぴらさんの琴平町を後にし、高松港フェリーターミナルに向かって行った。 所用予定時間は1時間である。

高松港フェリーターミナルから乗船した神戸行きジャンボフェリー、定刻の15:00に出航する。

出航して間もないフェリー船内から高松市をを望む。

フェリー船内はお正月を故郷で過ごし多くの帰省客でごったがえしていた。 船内で瀬戸内海を望みながら談笑する妻と孫娘。

高松港を出港して間もなく、源平合戦で有名な屋島の東側にある光景をバックに、長い髪で右側の目を隠しボーズをつくる孫娘。

高松~神戸を結ぶジャンボフェリー、私たちが乗船しているフェリーと同船である。

最近のジャンボフェリーは小豆島にも寄港するようになっている。 小豆島の港に寄港して、船上からの風景を楽しんでいると、

近くにいた若い男性から、「撮ってあげましょうか!」 と声をかけられて写してもらった。

瀬戸内海を航行するジャンボフェリー。 点在する島の間を通り過ぎて行く小舟が、一そう 瀬戸内海の美しい風景に花を添えている。

 カメラを向けると相変わらずいい表情をしてくれる孫娘。

高松港を出港して2時間近く経過している。 フェリーの船上には多くの人たちがデッキに出て、太陽がまだ高い

時から太陽が沈む情況を、今か今かと楽しみながら待っている。

さえぎるものが何もない船上からの夕日は美しい。

西の彼方に沈む夕日、西空を紅の色に染めながら見る、フェリーからの夕陽に、孫娘も感動するような表情をしている。

夕日も西の彼方に完全に姿を消した後、乗船したフェリーは明石海峡大橋を通過して行く。

 

ライトアップされた明石海峡大橋や、明石市や神戸の淡い船上からの美しい夜景が見えている。

乗船したフェリーは、定刻の19時30分に神戸港に入港する。 

愛車で下船すると阪神高速を走行し、途中のスーパーに立ち寄った後、21時前に南大阪にある自宅に帰宅する。

今回の高知への帰省は、色々なスケジュールの制約があって慌ただしいものであったが、

外国で育った孫娘は、つかの間の高知への帰省を喜び、楽しそうに過ごす姿があった。

次に来る時は夏にきて、赤い鯉が泳ぐ清水の川で、一緒に泳ぎたいようであった。