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震災・原発事故にあらためて「科学リテラシー」を考える。 その2

2011年03月18日 | 鬼笑が語る
 名古屋からのお友だちといっしょに県内の遠隔地でお仕事。

 往路の車の中で、自然と、震災・原発事故の話題に。

 彼女--
 「あの日は、たしかにおかしかったんです。
 朝からどんより曇って、これまでみたことのないような嫌な雰囲気の空で。それが、突然さっと晴れて、それまでがウソのような真っ青な空に。
 いやーな予感がしていたら、大地震が起こったんです。
 やっぱり、『予兆』ってありますよね。」


 人間、何か大きなことがあると、それに意味づけをし、何かと関連づけたくなるものです。


 大地震と天候の間に何からの関係があるのかないのか、そのあたり、僕は専門家ではないし、おそらく専門家の間でもいろいろ議論があるところかとは思います。

 でも、彼女の話は、明らかに、おかしい。科学の初歩に違反しています。

 かりに、地震と天候の間に何らかの関係があるとしても、それなら、名古屋の空ではなく、震源地(帯)の上空を問題にするべきです。
 そこでも同じような天候の変化があったのか?

 あるいは、地震と天候の間に関係があるのではなくて、人間の予知能力・予感と天候の間になんからの関係があるのだとすれば、岩手・宮城・福島など被害の中心となったところの天候を問題にするべきです。

 要するに、彼女の言っていることは、なんの関係もないふたつの事柄に、あとからもっともらしい関係の意味づけをしたにすぎない、ということです。

 だいたい、こういう「不吉な予兆」というのは、それまで雲ひとつない快晴だったのに一転かき乱したように黒い雲が湧き起こり……というのが定番なのですが、曇天から快晴になったのなら、意味づけをするにしても「吉兆」だと思うのですが。


 こういうと、彼女、「そういう愚かなところが『人間らしい』ということなんですよ♪」と。

 これもちがう。

 賢明でない、愚かなことだと分かっていてもやってしまう、そういう「愚かさ」が人間らしいというのは、僕もそう思います。

 たいして似合わないブランド物に大金を費やしてしまう。
 こんな女とつきあっていたら、たがいにどんどん堕落してしまう、と分かっていて別れられない。
 安月給で安アパートに住んでるのに、無理なローンを組んでフェラーリを買ってしまう(無理か)。

 いいか悪いかは別として、そういった愚かさも人間らしさの一部であり、関係者の苦労はあるとしてもある意味、愛すべきものだとは思います。


 こうしたことは、もともと、「曖昧な問題」で、科学の対象とならない問題、あるいは科学が苦手とする問題なのです。
 似合わないブランド物にお金を注ぎ込んで貧乏するのは、愚かなことのように思えるけど、そのブランド物の支えがなければ、精神的に破綻してもっと悲惨なことになったかもしれない。
 恋人は性悪女かもしれないけど、無理して別れたら、孤独に苛まれて鬱病になるかもしれない。
 貧乏なうえにフェラーリに乗るというアイデンティティさえ失ったら、もうあまりに惨めで自殺したかもしれない。

 全部、「しれない」だけれど、どちらがいいか、必ずしも断定できないのです。

 それにたいして、「名古屋で曇天から晴天に変わったことと今回の地震の間には何の関係もない」ということは、断定的に言えることです。


 曖昧な部分があるほうがいいという人間世界の道徳の分野の問題と、人間の存在・不存在に関わらない客観世界の科学の分野の問題を混同してはいけない、ということです。


 科学の守備範囲と、科学の守備範囲外とをきちんと分けて、ごっちゃにしない、ということが大切です。

 「あらゆることが科学の守備範囲だ」というのもまちがいだし、「あれもこれも科学の守備範囲外だ」というのもまいがいなのです。


 話をもどすと、「愚かさ」の意味がちがう。
 「不合理と(うすうす)気づいていてもやってしまう」という意味の愚かさは、ロボットとはちがう、人間らしさではあります。ロボットには、設計ミスやプログラミングミスはあっても、「愚かさ」はありませんから。
 「明らかに不合理なことなのに不合理と気づかない」というのは、やはり、科学リテラシーに問題があるということなのです。
 


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