鬼笑で行こう。

おいしいものの話や、まじめでいい加減な不定期評論など…

震災ボランティア  こういう論理は困る。

2011年04月13日 | 鬼笑が語る
被災地につぎつぎとボランティアが入り、活躍されています。

阪神・淡路大震災以来、僕も被災地へボランティアに入り、こうした活動はほんとうに大切だと実感しています。


ところが、ボランティアに関わって、困った問題も。

職場の同僚が、職場でボランティアを募る「緊急集会」を計画しています。
それはいいのですが、よびかけのメールを読むと、ちょっと前のめり過ぎて、困ったもんだと。

「十分に準備してから」「現地の受け入れ態勢が整ってから」というのでは遅い、現地は人手を求めている、とにもかくにもまずは現地入りを--といった調子。

遠方で開かれた集会に出かけたのは熱心でいいのだけど、そこで専門家から「溺れている子どもがいるときに、泳ぎ方を習ってから助けにいったのでは遅い」といわれて目が覚めた、と。


災害問題の専門家がなぜこういうことを言うのかと訝しく思うのだけれども、こういうのがいちばん困ります。

たしかに、溺れている子どもを目の前にして「さあ今から水泳の特訓だ」と言うのはどうかと思いますが、だからといって「習ってからでは遅い」とカナヅチが飛び込んだのでは、溺れる人をひとり増やすだけで、ほかの救援者に迷惑をかけるばかりです。

もっともよくないところは、ボランティアに行きたいと思いつつ何らかの事情があっていますぐ現地に行けない人に、「自分はあれこれ理由をあげつらって溺れる子どもを見捨てようとしているのではないか」と自責の念を抱かせること。
「とにかく現地へ行け」という強迫になりかねません。


僕も、若い仲間に声をかけて、現地へ行こうと考えています。
そのためには、現地の受け入れ態勢をはじめ十分な情報を集め、周到な準備が必要です。

レベル7であることがようやく明らかにされた原発からの放射能、飛散が確実なアスベスト、……いっしょに行く人の安全確保もたいへん。
日常生活に必要なガソリンもなかなか入手できないところにバスや数台の車で入って、帰りの燃料買って迷惑をかけることなども考えなければいけない。


それぞれの判断でボランティアに行くことを否定しているのではありません。
それは必要なことであり、ぜひやってほしい。

「いま行かないことは溺れる子を見捨てるようなもの」とばかりに、職場や地域、学校などでボランティア参加を強迫することは、厳に慎まなければならないと、言いたいのです。


原発がますますたいへんなことになることは確実だし、阪神・淡路などとくらべても、今回ははるかに長期の取り組みにならざるをえません。
ほんとうに、今以上に、ボランティアの支援が必要なときになって息切れしていないように、長期的な視点に立った覚悟が求められます。

震災直後からのデマメール、チェーンメールに関わって

2011年04月13日 | 鬼笑が知らせる
 『中谷宇吉郎随筆集』(岩波文庫)に収められている「流言蜚語」がたいへんいい教訓をしめしています。

 「『そんな馬鹿なことがあるものか』と言い切る人がないことが、一番情ないことなのである。」
 「『そんなことがあるはずがない』と言い切る人があれば、流言蜚語は決して蔓延しない。」

 文庫4ページの短文ながら、いま僕たちがしっかり読むべきエッセイだと思います。

 同じ文庫に収められている「硝子を破る者」「原子爆弾雑話」なども、いま、興味深い。

原発は「壊れても仕方ない施設」か?

2011年03月31日 | 鬼笑が語る
 誤解を恐れずにあえていえば、世に「壊れても仕方ない施設」と、「絶対に壊れてはいけない施設」というのがある。

 今回と同規模の地震が直下で起こっても壊れない橋。
 現代の技術をもってすれば、造ろうと思えば造れる。
 けれども、そうした地震が起こるリスクとかかる費用を考慮して、ふつうはそんなに頑丈な橋は造らない。
 これは、はっきり言えば、橋は「壊れても仕方ない施設」だと考えられているということだ。

 たまたま橋を渡っているときに大地震が起こって橋が落ちたとしたら、それは「不運」ということになる。
 (土木工学の専門家から、「橋は走って渡れ」という言葉をきいたことがある。)

 これが、ダムになるとそういう訳にはいかない。
 膨大な量の水を貯めたダムが万が一にも倒壊すれば、下流(たいていは都市部)では、とんでもない大惨事が起こることになる。
 だから、ダムは、絶対に壊れないように造られている(ことになっている)。


 今回の東京電力福島第一原子力発電所の事故。
 東電関係者の言葉として、「どこまで想定しなければいけないのか、キリがないというところもある」「隕石の落下まで想定しなければいけないのか」といった発言が報じられている。

 結論的にいえば、そこまで想定しなければ、いけない。

 原発反対論者の一部が、「ジャンボジェット機が墜落したら」「隕石が突入したら」といったことを言う。
 それに対して、電力会社はじめ原発推進者は、「そんなことはあり得ない」「そこまで言い出したら何も造れない」と反論する。(「何も」ではなくて「原発を」なのだけれど。)

 1985年の御巣高山の事故以来、日本ではジャンボジェット機の墜落事故は起こっていない。「もう四半世紀も墜落していない」という人もいるかもしれないが、逆に言えば、就航15年程度でこのせまい日本列島の陸地に墜落しているのだ。

 ここで、最初の、「壊れても仕方ない施設」とそうでない施設の話にもどる。

 極端にいえば、ダムにジャンボ機が激突したり隕石が直撃したりして決壊したら、下流ではたいへんなことになる。
 数千人、場合によっては数万人規模で死者が出るかもしれない。

 しかし、これは、場所を選んだり、設計をどうこうしたりして人間が防げる事故ではない。
 下流域で大惨事が起こっても、生き延びた人たちは、筆舌に尽くしがたい苦労をともないつつも、また町を再建し、生活を再建することができる。

 原発の場合、これも場所や設計の問題ではないが、原発とその周辺(おそらくは非常に広い地域)は、ひとが住むどころか近づくことさえできない場所になってしまう。

 「地震や津波では絶対に壊れない原発」を造ることができたとしても(実はそれ自体、ほとんど無理なのだが)、「誰の責任にも帰すことのできない理由で原発が壊れる」ということはあり得るのだ。

 原発推進論者にいわせれば、隕石やジャンボ機の直撃を想定しろというのはほとんど言いがかりのようなもので、「そんなことまで言い出したら、原発は造れない」のである。

 しかし、「そんなこといったら原発は造れない」というのは、「原発を造る」ということを前提とした思考だ。


 結論の第一。
 需要それ自体の抑制や、再生可能エネルギーの開発など、原発にかわる方向性を真剣に考えなければいけない。
 端的にいえば、24時間休みなくフル回転で活動する社会でいいのか、ということだ。

 第二。
 それらを推進してもなお、原発抜きの供給を需要が上回るのであれば、我々の社会は、エネルギー供給の絶対的限界に突き当たっていると考えなければならない。

 つまり、社会のあり方そのものが、もう「やってはならないことをやっている」状態になっているということだ。

 今回の大事故は、日本社会がこうした絶対的限界を越えてしまっていることをしめしている。

 これは、相対的限界ではない。絶対的限界なのだ。
 

 

震災・原発事故にあらためて「科学リテラシー」を考える。 その2

2011年03月18日 | 鬼笑が語る
 名古屋からのお友だちといっしょに県内の遠隔地でお仕事。

 往路の車の中で、自然と、震災・原発事故の話題に。

 彼女--
 「あの日は、たしかにおかしかったんです。
 朝からどんより曇って、これまでみたことのないような嫌な雰囲気の空で。それが、突然さっと晴れて、それまでがウソのような真っ青な空に。
 いやーな予感がしていたら、大地震が起こったんです。
 やっぱり、『予兆』ってありますよね。」


 人間、何か大きなことがあると、それに意味づけをし、何かと関連づけたくなるものです。


 大地震と天候の間に何からの関係があるのかないのか、そのあたり、僕は専門家ではないし、おそらく専門家の間でもいろいろ議論があるところかとは思います。

 でも、彼女の話は、明らかに、おかしい。科学の初歩に違反しています。

 かりに、地震と天候の間に何らかの関係があるとしても、それなら、名古屋の空ではなく、震源地(帯)の上空を問題にするべきです。
 そこでも同じような天候の変化があったのか?

 あるいは、地震と天候の間に関係があるのではなくて、人間の予知能力・予感と天候の間になんからの関係があるのだとすれば、岩手・宮城・福島など被害の中心となったところの天候を問題にするべきです。

 要するに、彼女の言っていることは、なんの関係もないふたつの事柄に、あとからもっともらしい関係の意味づけをしたにすぎない、ということです。

 だいたい、こういう「不吉な予兆」というのは、それまで雲ひとつない快晴だったのに一転かき乱したように黒い雲が湧き起こり……というのが定番なのですが、曇天から快晴になったのなら、意味づけをするにしても「吉兆」だと思うのですが。


 こういうと、彼女、「そういう愚かなところが『人間らしい』ということなんですよ♪」と。

 これもちがう。

 賢明でない、愚かなことだと分かっていてもやってしまう、そういう「愚かさ」が人間らしいというのは、僕もそう思います。

 たいして似合わないブランド物に大金を費やしてしまう。
 こんな女とつきあっていたら、たがいにどんどん堕落してしまう、と分かっていて別れられない。
 安月給で安アパートに住んでるのに、無理なローンを組んでフェラーリを買ってしまう(無理か)。

 いいか悪いかは別として、そういった愚かさも人間らしさの一部であり、関係者の苦労はあるとしてもある意味、愛すべきものだとは思います。


 こうしたことは、もともと、「曖昧な問題」で、科学の対象とならない問題、あるいは科学が苦手とする問題なのです。
 似合わないブランド物にお金を注ぎ込んで貧乏するのは、愚かなことのように思えるけど、そのブランド物の支えがなければ、精神的に破綻してもっと悲惨なことになったかもしれない。
 恋人は性悪女かもしれないけど、無理して別れたら、孤独に苛まれて鬱病になるかもしれない。
 貧乏なうえにフェラーリに乗るというアイデンティティさえ失ったら、もうあまりに惨めで自殺したかもしれない。

 全部、「しれない」だけれど、どちらがいいか、必ずしも断定できないのです。

 それにたいして、「名古屋で曇天から晴天に変わったことと今回の地震の間には何の関係もない」ということは、断定的に言えることです。


 曖昧な部分があるほうがいいという人間世界の道徳の分野の問題と、人間の存在・不存在に関わらない客観世界の科学の分野の問題を混同してはいけない、ということです。


 科学の守備範囲と、科学の守備範囲外とをきちんと分けて、ごっちゃにしない、ということが大切です。

 「あらゆることが科学の守備範囲だ」というのもまちがいだし、「あれもこれも科学の守備範囲外だ」というのもまいがいなのです。


 話をもどすと、「愚かさ」の意味がちがう。
 「不合理と(うすうす)気づいていてもやってしまう」という意味の愚かさは、ロボットとはちがう、人間らしさではあります。ロボットには、設計ミスやプログラミングミスはあっても、「愚かさ」はありませんから。
 「明らかに不合理なことなのに不合理と気づかない」というのは、やはり、科学リテラシーに問題があるということなのです。
 

原発(核反応)をあつかうのは、化学反応でうごく人間

2011年03月15日 | 鬼笑が知らせる

 われわれ人間は、化学反応で生き、動いている。
 一方、原発は、核反応で動いている。
 その反応の速度は、3桁、場合によってはそれ以上にちがう。
 だから、化学反応で動く人間が核反応で動く原発を完全に制御することは、絶対にとはいわないまでもほとんど絶対に不可能だと考えておいたほうがいい。

--以前、このような話を読んだことがあります。


 スリーマイル島の事故が起こったときも、日本ではありえない。
 チェルノブイリのときも、日本ではありえない。

 そう言い続けて、世界でほかにあり得ないような大事故を起こしそうになっています。


 途方もないリスクを考慮に入れてもエネルギー大量消費をつづけたい、という国民的合意があるのであれば、まあ仕方がないところもありますが、国民の大半は、リスクを、ましてや不確実性を知らずに(知らされずに)消費のほうだけみているのではないでしょうか?

津波は天罰! 石原慎太郎がまた暴言

2011年03月14日 | 鬼笑が知らせる
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110314-OYT1T00740.htm

「我欲に固まった日本人ども」に、福島第一原発敷地内から説教をしていただきたいものです。

福島原発の再建は東京で

2011年03月14日 | 鬼笑が語る
日本列島は、数々の地震や火山活動をともないつつ、その形成過程にある。

--地質学などでは常識に属することです。


何かことがあるたびに責任ある立場のひとが「想定外だ」とだれもが想定する言い訳をしますが、ほんとうは想定内のことで、言い訳しているひとが目をそらしあるいは閉じていたか、恐るべきことにほんとうに無知だっただけのことです。

世界有数の「地震の巣」の上に原発を置くということは、よほどの覚悟が必要なことですが、日本社会全体がリスクと不確実性を考慮したうえで、覚悟を決めて電気を大量消費しているとは思えません。

いずれにしても、リスクと犠牲の大部分を地方に押し付けるのは、ほんとうにもうやめてほしいです。

福島第一原発の代替施設の建設は東京で。
それがダメなら、供給の範囲に需要を抑えるほうを考えるべきです。

震災・原発事故にあらためて「科学リテラシー」を考える。

2011年03月13日 | 鬼笑が語る
 今回の震災と原発事故については、すでに多くが語られているし、僕も何かをまた語ることがあるかと思いますが...


 こういう非常時に、国民の「科学リテラシー」を普段からどれだけ高めているかが、問題になるように思います。

 「リテラシー」は、普通は「識字」のように訳されますが、この場合の「科学リテラシー」は、「似非情報・似非科学に出会ったときに、科学のコンテキスト(文脈)から考えて、『これはおかしい』と怪しむぐらいの感覚」と思ってください。

 たとえば...
 「関西電力に勤めているひとからの依頼でひろめているメール」として--
東北・東京両電力会社の発電所がダメージを受けた。
それで、関西電力・中部電力から電力を融通することになった。
関西に住んでいる私たちにせめてできることとして、節電につとめましょう。
それで、被災地の携帯電話が充電できたり、病院の医療機器がつかえたりして、ひとりでも多くの命が助けられます。
--というようなメールが、多方面に飛び交っています。
(あとを追って、打ち消しのメールも多数、出ています。)

 そこそこの「科学リテラシー」があれば、これはチェーンメール化をねらったイタズラメールだとすぐ分かります。

 被災地は送電施設が壊滅状態で、関西で節約した電気が被災地に届くことはほとんどありません。

 周波数も、西日本60Hz、東日本50Hzで、そのまま送電しても使えません。
 変換施設が3、4カ所ありますが、最大限稼働できても、約100万キロワットまでで、(ないよりましかもしれませんが)焼け石に水です。(そもそも上記のように、被災地に届かないのだから、変換しても意味がない。)

 同様に、「コスモ石油の施設が爆発・炎上し、有害物質が大量に放出された。雨や風にあたるとたいへんなので、なるべく外出しないように」といったメールも出回りました。

 これも、普通に考えて、メールを転送する前に、コスモ石油のホームページをみることが必要だし、第一、外出したら危険なほどなら責任ある機関から何らかの発表がありそうなものですが、狼狽して転送した人が少なくなかったようです。

 有線・無線どちらも、できるだけトラフィックを少なくして、ほんとうに必要な情報を流さなければならない局面。
 電話が通じなかったり、メールが届かなかったために、間一髪が間に合わず命を落とした人もいるかと思われます。

 こういう局面で愉快犯的イタズラをする人の退廃ぶりは、本当にみすぼらしく醜いこと、この上もありません。

 同時に、危機的局面にかぎらず、普段から、似非科学・情報、擬似科学・情報に接したときに、直感的に「なにかがおかしい」「ちょっと立ち止まって考え直してみよう」と思うぐらいの科学リテラシーをもちたいし、ひろめたいものです。

まとめて気味の悪いコメント

2011年03月12日 | 鬼笑な日々
 まあブログをやっていたらある程度仕方ないのだけれど、たまに、「からみ上戸」の酔っぱらいみたいなコメントが、まとめて届くことがあります。

 今回は、ご苦労なことに、ずいぶん前の日記までさかのぼって、日記本文をよく読んだのかどうかあやしいようなコメントが7件きましたよ。

 全体として、愚にもつかない「コメント」なのでうっちゃっとけばいいのですが、存外、同じように思っている人がいるかもしれないコメントについてだけ、一言。

> 戦争の結果として、国境の線引きが行われるのは当たり前なのです。それが不当、だなんて言ってたら、じゃあ、ヨーロッパは何千回と国境線を引きなおさなければなりませんよ。それも、いったいいつの時点までさかのぼって確定するのですか。
北方領土を取り返したかったら、もう一回ロシアと戦争をして勝つことです。それがいやなら、返せと言ってもムリ、ムダ。道理とはそういうことです。

 「いったいいつの時点までさかのぼって」って、常識的に、第二次世界大戦の戦後処理の合意です。
 第一次世界大戦までは、この引用にあるように、「力のある者が力にみあった領土をとって当然」という世界でした。
 それが、第一次大戦でそれまでとは比べものにならない災厄が世界中に撒き散らされて、「この論理ではまずい」という機運が高まりました。
 ところが、「交渉・合意によらない武力による領土拡張は違法」という合意が確定する前に、第二次世界大戦に。

 第二次世界大戦で、すべての反ファシズム・反軍国主義勢力を結集するために合意されたのが、「領土不拡大」の原則です。

 国際連合は、United Nations。これは、ほんとうは「連合国」です。
 日本、ドイツ、イタリアが、国連(連合国)に加盟(参加)したのは、自らのファシズム・軍国主義を反省して、反ファシズム・反軍国主義の連合国側についた、ということです。

 こうして、二度の世界大戦を経て、国際的に確立・合意されてきたルールを無視して、「国境は昔から戦争の結果引かれてきたものなのだから、北方領土(正確には千島列島と歯舞・色丹)を戦争の結果とられたのは仕方ないし、取り返したかったら再戦して勝つしかない」というのは、ほんとうに暴論です。


> ほう、じゃあ、
日本より法人税が低くて、消費税(付加価値税)が高い、北欧、西欧諸国で日本より健全財政の国は多くありますが、それに倣えばいいんです。

 付加価値税はたしかに高いけれど、所得税などをあわせた勤労者の全体としての負担は、とくに高いわけではありません。
 それ以上に、社会保障給付が高いので、ネットの負担は低い。
 また、歳入全体に占める付加価値税の割合も高くありません。
 スウェーデンはじめ、北欧諸国・西欧諸国の財政統計を一覧すれば分かることです。


 最後は、おまけ。

> そんなに頻繁に若い娘さんとデートですか。うらやましいです。

 どうぞ、うらやんでください。(笑)
 陰湿に的外れなコメント連発しているようじゃ、女の子も近づいて来ないでしょう。

 僕だけで短時間にコメント7連発している間に、ご自身の品性を磨いてください。
 



タイガーマスク余話 (どーでも話)

2011年01月12日 | どーでも話
タイガーマスク運動。

深刻に検討してみるといろいろ難しい問題を抱えているけれども、なにしろ世のなか荒んだニュースばかりが目立つなか、心温まる話とまずは素直によろこびたいものです。

善意を形にするのに匿名性が必要な社会というのもどうかと思うけれど、やっている人たちはどうも話題になることを狙っているようですね。

なかにはマスコミに取り上げられるのを喜んでいる節がある行動もあるけれど、話題になることで「運動」がひろがることを願っていると、ここは善意に受けとめたいものです。
(ほんとに覆面して訪れるというのは、やりすぎのように思う。)

タイガーマスクといえば、テーマソングで
♪ルール無用の悪党に
 正義のパンチをぶちかませ!
という一節がありますが、パンチって反則技だから正義と言えんだろう、と子ども心にツッコミを入れた記憶があります。

ところが、歌というのは、リズム・テンポと歌詞の語呂があっていないといけない。
「正義のキックをぶちかませ」でも、「正義のエルボーぶちかませ」でも、「正義のパッチギぶちかませ」でもすわりが悪く、やはりここは「パンチ」しかありえません。

こう考えてくると、「パンチ」というのは、すごい言葉です。
「パンチの効いたキャッチコピー」とか、「パンチ力のある企画案」とか、いまだにいいます。
一発で広島型原爆の数百倍の破壊力がある核兵器がいっぱいある現代において、人間の素手の「パンチ」が瞬発力の代名詞としてつかわれる。

ある意味、生身の人間がやっぱり基準だということで、社会の健全さをしめしているのかもしれません。