作者 大伴御行(おおとものみゆき) 巻十九 四二六〇番歌
大君(おおきみ)は 神にし坐(ま)せば 赤駒の 匍匐(はらば)ふ田居を 都となしつ
訳:天皇は神でいらっしゃるので、赤駒が腹ばう田を都としてしまわれた。
解説
壬申の乱が平定された後の歌と題された二首のうちの第一首です。壬申の乱とは、天智天皇亡き後に、子の大友皇子と弟の大海人皇子(後の天武天皇)との間で起こった皇位継承争いであり、古代最大の内覧といわれています。結果は大海人皇子側が勝利し、飛鳥浄御原宮で即位しました。作者である大伴御行は、壬申の乱で功績をあげ、大伴氏の繁栄の基礎を築いたといわれる人物です。
「大君は神にし坐せば」とは、天皇の偉大さをたたえる特別な表現で、後の句に人間では実現不可能な神わざを詠むことで神性さを強調します。この歌でも、馬の脚が沈み込むような深い田んぼを整地して都にしてしまった。と詠んでいます。天武天皇の宮があった明日香村岡の辺りには舒明天皇以降に歴代の天皇宮が営まれていた形跡があり、実際に田んぼが広がっていたわけではないようです。しかし、続く四二六一番歌でも「水鳥のすだく水沼」を都にしたという神わざが表現されており、壬申の乱の平定はそれほどの偉業と認識されていたことがわかります。同様の表現は巻三・二四一番歌などにもみられ、天武・持統両天皇の時代に特徴的な表現であることが指摘されています。
さらに、この歌には天平勝宝四年(752年)二月二日に聞いて書き記した、という注も付されています。672年に起こった壬申の乱からちょうど80年後にあたり、実際に体験した人はもういなかった可能性が高いですが、何らかの契機があって記憶が呼び覚まされたとみられます。平城京遷都後に古京・飛鳥を懐かしんだ歌がほかにも見られることを踏まえると、皇統のルーツとして天武天皇が回顧され、改めて顕彰されたと考えられます。
万葉集ゆかりの地~吉野・国栖~
神武天皇東征のおり、この地で光る井戸から出てきた尾のある人と出会い、それが国栖人であったと日本書紀や古事記などは伝えています。
尾のある人などいるはずもなく、東征軍が当地で最初に出会った先住民でしょう。平野部の人と違い獣の皮を尻に当てて山で働く姿が奇異に見えたのでしょうか。また当時西日本の豪族を支配して近畿に力を伸ばしてきた、神武の東征軍が、支配者としてのおごりの視線で、先住民を見下していたのがそんな記述につながったと考えられています。
壬申の乱 吉野の宮
今から約千三百年前大海人皇子は、兄、天智天皇の子大友皇子と戦って勝ち天皇の座につき、天武天皇となりました。その戦いの旗揚げの地が吉野の宮と言われています。国栖から吉野川沿いに5キロほど下流右岸の宮滝遺跡とその付近に吉野の宮はあったとされ、近くには、吉野歴史資料館があります。
国栖では犬を飼わない
壬申の乱の折、吉野川の川べりで大友皇子の兵に追われた大海人皇子が村人に助けを求めました。村人は川舟を逆さにしてその中に皇子をかくし、追っ手の目につかぬようにしたところ、現れた犬が舟を嗅ぎまわり吠えたので、村人はこの犬を打ち殺して、皇子の危機を救ったのでしたが、死んだ犬が実は大海人皇子の愛犬だったと知った村人は、その亡骸を丘の上に葬りました。それ以来この集落では、誰も犬を飼わなかったという伝説が残っています。
片腹渕
皇子の危機を救った村人は、皇子を付近の岩窟に案内し、粟飯にウグイを添えてもてなしました。皇子は食べたウグイの片側を水中に投じて勝敗を占ったところ、ウグイは勢いよく泳いで戦勝を予兆しました。
その地を片腹渕と呼ぶようになったと言われています。場所は国栖中央公民館の下付近とされています。
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