馬込八幡神社の隣には、長遠寺がある。その位置関係から分かる様に、馬込八幡神社の別当が長遠寺であった。門前には庚申塔がある。右のものには寛政の文字が見えるが、剥落が激しい。中央のものは延宝五年(1677)十一月吉日の銘がある。
元は一体であったことが感じられる、馬込八幡と長遠寺。この寺はしだれ桜で知られているらしい。訪問したのは2014年12月末のこと。今年の花は終わったのだろうか?
長遠寺 . . . 本文を読む
さて、再び尾根筋の田無街道へと戻る。馬込八幡神社がある。
「時は鎌倉時代の建久四年(一一九三年)、馬込の松原(現在の北馬込二丁目付近)にいた、源頼朝の家臣の渡辺対馬守正久が、京都石清水八幡宮の分霊を勧請し、翌年の秋に遷宮を行ったと言われています。そして、その後荒廃したものを、江戸時代の文化十三年(一八一六年)、馬込村の名主であった高山幸右衛門らが再興して、馬込全域の総鎮守となりました。」(境内の案 . . . 本文を読む
前回に引き続いて、南馬込の古刹萬福寺を見ていこう。無量門を潜って境内に入ると、目の前にあるのが本堂。木造の立派なもの。年譜によると、関東大震災では東海はしなかったものの大きな被害があったらしい。大正15年に草葺きであった本堂を、銅葺きに改修したと出ている。現在の本堂は、平成17年に木造復元工事として新築と出ている。この寺の中でも、一番新しい建物。
扁額。天井に照明が埋め込まれていて、手の込んだ . . . 本文を読む
前回の神明神社の辺りから、最初の時計塔のある家の通りに戻って、更に坂を下っていくとこの寺の裏手に出る。裏からと言うのも何なので、表に回って順番に見ていこう。このお寺は萬福寺といい、鎌倉時代の初期、建久年間(1190年頃)の創建という古刹である。少し前に掲載した朝日観音もこの寺の一部のようなのだが、その辺りの説明が探しても見付からない。
門前の辺りは、尾根筋から下ってきた道と環状七号線方向へ伸びてい . . . 本文を読む
さて、時計塔の家のところで脇道へ逸れたのだが、もう少し逸れたまま周辺を歩いてみる。その直ぐ先で目に入ってきたのが、出桁造りの商家の建物。既に使われなくなって久しい様子だが、かつてのこの辺りの雰囲気を偲ぶことができる。
ただし、一部崩落している。
下見板貼りの外壁。
立派な商家造り。横手には「ぶどう酒」と書かれた看板が置かれている。元は酒屋であったのだろうか。
いつ頃まで営業されてい . . . 本文を読む
臼田坂を登り切ったところには、子育地蔵がある。戦災で像が傷んでいるというが、今も地元では大事にされているのが分かる。地蔵尊前には、臼田坂の標柱。「臼田坂 坂付近に、古くから臼田を姓とする人が多く住んでいた関係から、この名が起こったといわれている。」
小さな堂宇ながら、重厚な瓦葺きになっている。こういったところを見ても、長い歴史を持っていて大事にされてきていることを感じる。
手水舎もある。
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平間街道(旧池上通り)と大田区中央四丁目で交叉する道が、尾根を上っていき長く延びていく道になっている。地形に合わせるように曲がりくねる道筋は、古い時代からあったものなのだろう。その道を辿りながら、沿道を見ていこうと思う。「大田区の史跡と歴史」サイトによれば、この道は遠く田無まで繋がる田無街道と江戸時代には呼ばれていたようだ。出発点は新井宿。平間街道から曲がったところには、数軒の商店があって、どこか . . . 本文を読む
さて、四回目で馬込から少し外れてきたので、馬込周辺と修正してみた。前回掲載した中井谷熊野神社から南へ進んでいったところ、馬込から大田区中央へと町名が変わっているが、住宅地の中に木々の茂った一角があった。そこが黒鶴稲荷神社。これは神社裏手に当たる道。この道も一旦下って、向こうの方でまた上っているのが分かる。
角を曲がって細い道を入って行くと、先は階段になっていた。元々はここが参道であったという。 . . . 本文を読む