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東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

要町から新井薬師へ(6):豊島区長崎その四、新宿区落合その一

2015-07-26 18:16:15 | 豊島区
椎名町駅辺りから、山手通りを南へ向かう。山手通りは、首都高速道路が地下を通っているのだが、この建設工事で大きく姿を変えた道だ。ある意味、この道路の計画があったことで、沿道の開発が止まっていたとも言える訳だが、道路拡幅を伴う大きな工事が終わってみると、辺りの景色は一変した。古い時代からの昭和の趣が残されていた景色が、いきなりマンションの建ち並ぶ郊外の様な景色になっていった。南長崎の天祖神社も、その影響を大きく受けたところでもある。


恐らくは元々の正面はこちら側だったのだろうと思う。山手通りは後から出来た道だろう。山手通りに向けて勾配が登っていることが分かる。


手水舎。


神社の由来など、そして変遷を記した石碑。こうした形で残していかないと、この街がどう変わってきたのか忘れられていくことになりかねない。
「天祖神社の創建は約二百年前である。境内の手洗鉢の刻字から文政十一年(一八一〇年)頃と証明される。又神社の規模は手洗鉢からみても相当なものと推測される。氏子は江戸時代から大荒椎(オオアラシ)と呼ばれた大和田、荒井、椎名町の地域の住民での鎮守とされ、折々秋祭り等も共同で行われた。田と畑の平地の中の茅葺き農家の人々の収穫の祈りと喜びを捧げる神社であった。近年は地域の名称も南長崎三丁目北部、南長崎二丁目、南長崎一丁目、目白四丁目、目白五丁目と呼ばれる。最近五十年は神社も激動する時代の直撃を受け数奇な運命を辿った。昭和二十年春の戦災により全焼廃墟となり終戦を迎えた。戦後世相も生活第一で神社軽視の風潮が強く多難の時が続くが次第に生活が安定すると共に、郷土見直しの声が起きた。昭和四十二年に明治百年を記念して氏子有志の非常なる努力で社殿境内の復興ができた。そして、平成八年山手通りの拡幅による社殿撤去、境内削減の状態から二年後、平成十年十一月ここに新しい天祖神社が誕生した。これは長崎神社宮司、氏子総代及地元有志各位の熱意ある奉仕と努力で完成したものである。昔の人は社殿で町の豊かさを知り、鎮守の森で町の人々の心の豊かさを知ったときく。私達も豊かな心で新しい鎮守の森を創りたい。やがて迎える二十一世紀のために。
 平成十年十一月吉日」


道路拡幅の工事の時にこの神社の改築を行っていたのは、良くこの前の山手通りを車で通っていたので覚えている。


山手通りの側から見たところ。


山手通りを渡って、目白通りに入って直ぐのところを折れると、誓願寺という寺があった。浄土真宗本願寺派のお寺で、昭和38年の創建。


この目白通りが、豊島区と新宿区の境界になっている。新宿区というところも、飯田橋の辺りから山手線の外側遙かのこの辺りまで広がっているわけで、中々広い。中落合という住所に変わった住宅地を歩いて行くと、厳島神社があった。


小さいながらも立派な社号の石碑が建つ。


小さな池が境内にはある。


鯉が泳ぐ。


調べて見ると、この背後は一段下がっていて、今も段差が残っているのだが、かつてはそこに弁天池という池があったという。農村地帯であるだけに、農業用水として活用されてきたことだろう。そして、水を護る神様を祀ってきたのだろう。


花崗石十三枚奉納という石碑。

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