東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

墨田区横網町公園~その一

2013-08-29 17:30:15 | 墨田区
 今年は関東大震災から90年目ということで、防災の日9月1日を前に関東大震災に纏わる展示なども行われており、メディアでも報道されている。そして、東京で関東大震災に纏わる事を知ろうと思えば、まずここに行くしかないと言えるのが、両国の横網町公園である。ここには、大正8年に赤羽に移転するまで、陸軍の被服敞があった。被服敞というのは、軍服を製造する工場である。移転後、その跡地が広大な空き地になっていた。大正12年9月1日に関東大震災が起きた。そして、地震による建物の倒壊もあったが、昼食の支度時であった時間帯でもあり、火災が多数発生していたのだった。持てる限りの荷物を抱え、家財道具を大八車に載せ、逃げ惑う人々は広大な空き地であった被服敞跡を避難所として集まっていった。地震に伴って発生した火災は、街全体を焼き尽くすような巨大火災になっており、これは想像を絶するものであった。巨大化した火災は、火焔旋風を各所で巻き起こしながら、次々と町を呑み込んでいった。そして、本所地区の避難民が終結していた、この被服敞跡をこの火焔旋風が襲うことになった。広大な敷地の空き地なら安全だろうと、今でもその場にいれば思うのだろうが、火焔旋風というのは想像を絶するものであり、この場所で3万8千人の方が亡くなられた。関東大震災の死亡者が5万8千人というので、半数以上はここで亡くなられた方々であった。そんな大惨事の現場であったことから、昭和5年9月1日に横網町公園として開園した。慰霊堂と翌昭和6年に建設された復興記念館が公園内に設けられている。後に、東京大空襲犠牲者の遺骨も収集され、慰霊堂に収められている。都立公園となっているのだが、慰霊のための公園であり、特別な場所になっている。






慰霊堂の設計者は、築地本願寺の設計で知られる伊藤忠太。東京の歴史上でも最大級の災厄の跡に作られる慰霊堂を、彼らしさを感じさせるデザインで作り上げている。


正面からは、唐破風の屋根が存在感を示し、大きな空間を持つ慰霊堂があり、その後ろに遺骨を集めた三重の塔が築かれている。


慰霊堂と三重の塔の基部の接合部分。鉄筋コンクリート造りだが、和風のテーマを堂々と作り上げている。


後ろへ回ると、三重の塔が聳えている。こういった特別な思いの籠もる施設でありながら、伊藤忠太という個人の溢れ出る才能を活かし、その個性でまとめ上げた建築は歳月を超えていく力があることを感じさせられる。


慰霊堂の入口付近。開口部は大きいのだが、鳩などが中へ入り込まないように、金網が貼られている。


入口付近から公園内を望む。今は、ここからもスカイツリーの姿が見える。


慰霊堂内部。外から入ると、薄暗く、周囲の壁面には震災当時の様子を描いた絵画が飾られている。荘厳な雰囲気を持っている。


この内部の雰囲気などは、築地本願寺に通じるものがある様にも思える。伊藤忠太作品としては、ほぼ同時期のものでもある。


出入り口上の壁面には、伊藤忠太作品らしい装飾も施されている。


こちらは、東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑。


朝鮮人犠牲者追悼碑。我々の歴史の中には、過ちもある。直視し、認識していくことで、同じ過ちを繰り返さないことが出来るようになると思う。


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