東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(48)水の流れ(つづき)

2013-08-20 18:58:01 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、前回の続きで水の流れというタイトルで、隅田川、幸田露伴から話が拡がって行く。

「幸田露伴がいうように、隅田川はたしかに荒れ放題だった。人家がふえ工場がたちならび、そこからの排水が川に流れこんでくる。震災復輿事業で橋が架けかえられ、あたらしい橋も生まれて、都市景観は一変したが、その反対に水は汚れてゆくばかりである。震災の直後にあって、彼はこの川に死の世界の予感を感じとっていた。
 復輿後の隅田川をみつめてきた私などは、それをあたりまえのようにうけとめてきた。昔は白魚がとれたとか、浜町や両国に水練場があったなどという話をきくと、なにか別世界のようなおもいをいだいたものである。船の往き来がふえて油をながすようになると、川面は光線でぎらぎらと反射していた。それでもまだ極度の不快感をおぼえるほどではなかった。それは昭和三十年代後半以後の、悪臭にみちた巨大なドブ川の印象と比較しての話である。そのころは、たとえば夏の夕方、電車が総武線の鉄橋をわたるとき、乗客は急いで窓をしめた。車中のあちこちで、バタン、バタンという音をたてていた。隅田川はまさに死の世界を目前にした末期的症状であった。」

 私の知る隅田川のイメージというのも、この昭和三十年代からのどん底の時代のイメージが強いのかもしれない。この時代、隅田川に限らず、東京を流れる川の水質汚染はピークを迎えていた時期で、どこも川と云えば悪臭を放つどぶ川という印象が強かった。この時代に川沿いに建てられた建物は、軒並み川を向いた面に窓を設けず、完全に裏として扱うようになっていた。橋を渡ったり、川沿いの道を行くだけで川の悪臭を浴びるように思えた頃であったと思う。その後の時代に、河川浄化が具体化されていき、今ではそんな時代があったことが嘘のようにどこの川も綺麗になったのは、高度成長期以降の出来事では良かったことに数えて良いと思う。

夕暮れの清洲橋近く。ちょうど、二つのビルの隙間に夕陽が沈んでいった。


同じ日の川面の全景。


両国橋付近にて。かつては、この辺りに水練場があったという。明治の中頃の話。この少し向こうに、上記の話に出ていた総武線の鉄橋が架かっている。


「向島に住んだ露伴は、二年目の明治三十一年八月、隅田川の上流、荒川への旅に出ている。同行は淡島寒月だった。それは五日間におよんだが、その旅の記「知々夫紀行」の冒頭に、
「年月隅田の川のほとりに住めるものから、いつぞは此川の出づるところをも究め、武蔵禰之美禰と古の人の詠みけんあたりの山々を見んなど思ひしこと数々なりしが、或時は須田の堤の上、或時は綾瀬の橋の央より雲はるかに遠く眺めやりし彼の秩父嶺の翠色深きが中に、明日明後日は此の身の行き徘徊りて、此心の欲しきまま林谷に嘯き倣るべしと思へば、楽しさに足もおのづから軽く挙るごとくおぼゆ。」
 と書いている。ここからは荒川の水源と甲武国境の山々にほのかな瞳れをいだいていたと読める。」

 隅田川を意識し、その近くに居を構えていれば、その元を尋ねてみたいと思うのは自然な流れだと思う。そして、その水源が遙か秩父の山並みの中にあると聞けば、そこへ訪ねて山歩きをしていくというのも楽しい一時だろう。だが、今なら秩父の麓まで電車で一気に運んでくれるのだが、明治三十一年ではその上り口まで行くだけでも、一つの旅であったのではないだろうか。その時点では、秩父鉄道は会社の設立すらされておらず、東武東上線も影も形もなかった頃のことである。熊谷まで日本鉄道が上野からの路線を開業させたのは、明治十六年のことだった。
 この明治三十一年の秩父への旅は、いかにも楽しそうだ。そして、その時代の町々の様子を思い浮かべてみたくなる。

白髭橋より隅田川を望む。


「川の下流にあって、この水はどこから流れてくるのかと、その源をたずねたくなるのは人の常であろう。私なども小学校のとき、荒川は奥秩父山系甲武信岳に発すときかされて、その山の名だけはおぼえていた。
「雁坂越」に登場する僻村の少年が東京に憧れたのとは逆に、隅田川の源流に夢をいだいたことがあった。しかし旅行に出るわけにもいかず、ただ漢然と空想していたにすぎない。実際にその源流地帯にほいったのばずっとあとのことで、戦後、山登りの楽しみを知ってからであった。露伴の「知々夫紀行」を読んだのも、近代の紀行文学に興味をおぼえてからだった。」

 著者の近藤氏は、登山関係の評論がホームグラウンドとのことだが、ここまでこの「東京・遠き近く」を読んできて、博識な氏の講義を受けているような楽しさを味わってきた。そんな近藤氏であっても、段階的にまた、御自身の身近な世界を広げていく中で、多くの文学作品に触れていったということを知ると、少しはホッとしたような気持になる。こういうきっかけでも、これまでに触れ得なかった文学作品への興味をかき立てられると言うことに、この随筆に触れてきた甲斐もあると思う。「雁坂峠」を読んで、バイクに乗って秩父からこの峠に向かってみたいという気分になってくる。

「東京の治水・風水害対策として荒川放水路が完成したのは、震災のあとだった。明治三十年代から四十年代にかけてのたびかさなる水害、ことに明治四十三年八月の大水害では、志村、岩淵あたりで荒川の増水は二丈八尺に達したと記録されていて、千住、王子、日暮里、下谷、浅草、向島、本所、深川、亀戸の一帯は見わたすかぎりの泥海になったという。そのため翌四十四年から大正十三年まで十四年間をかけて放水路が開削された。私たちの子供のころ、放水路とは、人工的な響きの名称であった。
 それを感じさせたのは、小学校二年生のときの春の遠昆で荒川放水路へ出かけたことがあったからである。錦糸堀まで市電で行き、城東電車に乗りかえたと記憶する。しかしどこをどう歩いたのかはおぼえていない。そのとき同行の写真技師が撮ってくれた記念写真が一枚あるだけである。それをみて想いおこすのは茫漠たる川の景色である。ふだん見なれていた大川や小名木川、仙台堀川とちがって、とらえようのない大きな空間があった。先生のほうは、下町の風水害とその対策を教材としたらしいが、土堤を歩くだけの遠足はいっこうにおもしろ味がなかった。放水路というものをみつめるようになったのは、その後二、三年して、仲間たちと葛西橋や船堀橋のあたりヘハゼ釣りに行くようになってからであった。」

 荒川放水路という名称が使われなくなったのは、昭和四十年に放水路が正式な荒川の本流とされ、岩淵水門から別れる旧荒川が隅田川という名称に定められてからのこと。私の小学生時代には、まだ地図には荒川放水路と書かれていたように思う。私にとっては、荒川、隅田川はあまり身近なものではなかったのだが、上野から乗った長距離列車の車窓から見る広大な河川敷が荒川だというのは、恐らく親に教えられていたのだろうが、早くから覚えていたように思う。そして、どこかへ出掛けた帰りに荒川の鉄橋を越えると、帰ってきたという意識を持つようになった。そんな、車窓越しの対面がほとんどで、その近くまで実際に行ったのはずっと後の時代になってからのことだった。
 そして、その広大な荒川が人口河川であることを知ったのも、より近年になってからのことだった。隅田川が狭く、曲がりくねった川に見えるほど、広大な河川敷を持つ荒川。放水路という名前は昔から馴染んでいたけど、その名前から来る人工的な響きと、現実の広大な河川とがなかなか結びつけられないものだった。あれ程の大規模な人口河川の工事を行ったことを知ったときには、驚きと治水という事業のスケールの大きさを思い知らされた気がした。

北区神谷の辺りの隅田川。この辺りは河幅もそれ程広くはない。


「ところが堤防の決潰となると、水のいきおいはものすごい。戦後のキャサリン台風(昭和二十二年九月)で利根川が決潰したとき、轟々たる濁流を眼のあたりにしたことがあったが、葛飾区、江戸川区はまさに死の海であった。その後昭和三十三年七月、荒川放水路と中川にはさまれた逆井に住んでいたとき、中川の水位上昇で不寝番にあたったことがあった。こちらの堤防が切れるか、あちら側が切れるか、その瀬戸際だった。夜どおしおきていて、無気味なほどの時間の停滞を感じた。どちらが切れても不幸なことだが、このときは中川新橋際の亀戸側堤防が決潰、張りつめて流れていた水はどっとあちら側へ吸いこまれていった。」

幸いにして、私の住んでいるところは武蔵野台地上で石神井川がそう遠くないとは言え、水害の直接的な影響を受けるような場所ではないところである。その為に、長年暮らしていても、水害の恐怖というものを感じることなくこれたことは、有り難いことだと思っている。集中豪雨などで短期的な排水が間に合わずに道路が水浸しになっていることなどは見たことがあっても、河川の水量をみて、怖いと思うほどの経験はしたことがない。こういった話を聞くと、水害が起きたときの大変さや恐ろしさというのは、計り知れないものだと思う。明治の大洪水で東京の低地部は大きな被害を出しているが、志村、岩淵辺りというのは、永年に渡って市街を守る犠牲になってきた面もあり、その苦労の多さを思う。今、そういった町を歩いても、かつての備えである水塚が残されている。

「たまたま『三田村鳶魚全集』第九巻をひらくと、「亨保・天明の洪水」の章があって、『窓のすさみ』という江戸洪水記録集のあることを教えられた。鳶魚の一節に、「寛保二年(一七四二)八月、関東に大風雨あり。武蔵・下総・上野・下野・信濃の五州いづれも被害甚だしく、利根川・荒川・中川氾濫し、千住・浅草・下谷・本所は、平地において浸水一丈を超え、東北三里の間、濁水滔々として海のごとく、溺死せる者無数。これによりて政府は夥多の救助船を艤して、一面危地に避難したる者、漂泊する者を救助するとともに、他面には食物を搬送し、鋭意救助に努力せり。滅水後は、十一諸侯に命じて、治水の任に当らしめ、決潰せる堤防を修築し、河川の凌媒をなさしむること、半歳に及べり。かく水害の甚大なるは、職として年々新田開拓のために、雨水を湛ふるに足るべき沼地を埋去し、いたずらに河川及び水道の方向を転じて、水流の奔下を円滑ならしめざると、森林を濫伐して、至る所禿山赤地を見るに至らしめたるに由るべし、と『窓のすさみ』は記せり。」
 この寛保二年の洪水は関東水害史のなかでももっとも大きなものだった。暴風雨がつづいて上流の水は一気に下流に押しよせている。太宰春台も、「本朝にて近世是ほどの死亡は多く有まじく存候」と書いたほどだが、『窓のすさみ』の筆者はこの水害の原因として新田の造成、水路の変更、森林の濫伐をあげている。そして鳶魚はさらに明治の水害に際して政府のとった態度をつぎのように書いている。
「今次の大水害に当り、現時の大臣・宰相が、言を交通の杜絶に籍りて、悠々山水の間に酒色をこれ事とし、酸鼻の惨害を雲煙過眼に付し去りて、やうやく減水を待ち、悠揚として被害地に臨みたるがごとき、その冷淡千万なるやに思はるるものの比にはあらざりき。」
 これは江戸時代の役人と比較しての話なのだが、民衆の生活を軽んじていたことへの怒りと読める。荒川放水路の完成によって隅田川の安全はいちおう保たれることになったが、下町地区がそのつぎに直面したのは工場の急増による地盤沈下であった。戦後、そのための高潮対策がはかられて、あの評判のわるいカミソリ堤防がつくられている。河岸に住む人々はさぞ不決なおもいをしたにちがいない。隅田川の風景をもとめて散策する余裕すら失われてしまった。眼のまえをふさがれてしまっては、どうしようもない。隅田川は災害からの防備一方でいじくりまわされてきたといえるかもしれない。そのうえに、河川の空間を利用した高速道路が建設されてしまった。」

 江戸時代にも、明治末の大洪水を上回るような、関東最大の水害も起きていた。荒川放水路に限らず、東京周辺の河川は江戸以来の治水のために人の手の入っているものがほとんど、といっても良いのかもしれない。利根川の付け替えはその中でも最大規模の工事であった訳だが、荒川放水路は残された課題を近代になって解決したと言えるのではないだろうか。それにしても、災害が起きたときに、為政者がどんな対応をするのかということは、今日に至っても同じ様なことが繰り返されているのが、何とも言えない感じがする。今は、マスメディアがをそれを積極的に報道したがるということもあるし、本当のことがより分かりにくくなっているのかもしれない。
 そして、地盤沈下対策で都内での地下水利用は大幅に制限を受けるようになったのだが、その結果として地下水位の上昇が問題になり始めているというのも、皮肉なことと感じる。地下水位が上昇しているために、東京駅の地下駅は放置すると浮かび上がって行ってしまうと言うし、その対策で膨大な地下水を汲み上げているという。地下鉄のトンネルも地下水位の上昇でコンクリートの腐食が想像以上の速度で進んでいるために、対策が急がれているとそうだ。どちらに振っても、なかなか思い通しにはいかないものなのだろう。
 カミソリ堤防、これだけは何とかして欲しいものだと思う。これによって、せっかく水質が改善されて川面の魅力が取り戻されてきたというのに、かつて大川端と言われた町ですら、今では川が切り離された存在になってしまっている。町と川がより親しい関係を取り戻せるような、新しい形態の治水対策があっても良いのではないだろうか。
 さらに言えば、河川空間を踏みにじるようにして出来た高速道路も、大規模改修を今後維持するために考慮していく必要があるのなら、地下化を含めたこれまでとは違った新しいあり方を求めていくことが必要だろう。都市の価値のための投資が、そんな風に行われていくべきではないだろうか。前のオリンピックの際に、東京の町を無計画に蹂躙したことの反省が、充分に行われるべきではないかと思う。

荒川放水路のシンボルとも言える、岩淵の赤水門。今は使われていない。


こちらが今現役の青水門。隅田川の治水を担っている。


荒川全景。とにかく、広い。広大という言葉しか思い浮かばない。ここから分岐していく、隅田川が小さく見えるほど。


「隅田川は東京の大動脈だった。産業や住民の生活にとっては大切な川であった。それだけにさまざまなドラマが秘められている。しかし水上交通の役割を果たしおえたいま、極度に観光地化しつつある。水辺の見なおしとはいうが、さんざんに痛めつけたあげくの救済におもえてならない。人間は勝手なものだ。大川ぺりを歩いていると、ふとそんなおもいが湧いてくるのである。」

 やはり、隅田川の近くで生まれ育った人の思いは厳しいものがあると思う。それだけ、気持があればこそという気がする。東京の町を変えていく話になると、どうにも東京に愛着のない人たちが金銭ずくの上で計画を動かしていくことばかりの様に思えてならない。その結果が、今の東京という町になっている。ただの利益誘導ではない、東京という都市がこれから先の長いスパンで良い都市であり続けるための都市計画が、今こそ必要なのではないだろうか。間もなく、次のオリンピックの開催都市も決まるのだが、これまでのような流れのままなら、東京での開催を手放しでは喜べない。

夕暮れの隅田川。かつて大学ボート部の艇庫が並んでいた辺りにて。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿