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東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

北区田端二丁目周辺地区再開発

2011-11-13 19:02:26 | 北区
再開発に限らないのかもしれないが、日々見ていると遅々として変わらないようで、数ヶ月目を離していたら激変というのが世の常である。北区田端二丁目周辺地区の再開発も気が付くと終盤を迎えようとしている。この眺望は今の内しか得られないと思うので、急ぎアップすることにした。場所は薄い黄色で示したエリアで、この場所が大規模に再開発され、一旦広大な更地となり、そこに新しい家が建ち始めている。周辺には興味深いポイントもあるので、合わせて紹介していこうと思う。水色のラインは区界であり、今は暗渠となっている谷端川の流路を示している。
このエリアを楽しむには駒込駅で下車する事をお勧めしたい。そして東口に出て、山手線の外側を線路沿いに進んで行く。しばらく行くと山手線で残された唯一の踏切がある。この踏切の際にある圓勝寺には、幕府の数寄屋頭伊佐家の墓がある。数寄屋頭は幕府の茶道の総元締めといった役割を果たしていた。そして、踏切を渡り見えてくる小学校の前を進んで行くと、大龍寺がある。ここには正岡子規、陶芸家の板谷波山の墓所でもある。尾根伝いに上野まで続く地形になっているのだが、根岸の子規庵からここまで子規の妹は歩いていたのだろうか?などと思いつつお参りしてみる。そして、隣の上田端八幡神社を横目に坂を上る。そこを右に曲がって道なりに行くと、眺望が開けていく。


その前に寄り道。圓勝寺前で踏切を渡らずにさらに進んで行くと、古河庭園前から本郷通りと分岐してきた道にぶつかる。恐らくは、この道は赤羽の稲付城辺りから繋がって、平塚神社と中世の重要地点を結びながら上野まで繋いでいた道筋で古道というべき存在だろうと思う。その道が、切通の山手線の線路を越える辺りから見ることが出来る。山手貨物線の線路は開通以来配置の変更が行われている。今は山手線と並行して進んできて、田端手前で左へとカーブしてトンネルに入り、王子方向へ向きを変えるようになっている。かつては山手線と平行してそのままの向きで田端駅へと向かっていた。その痕跡がこのトンネルポータルである。斜面から突き出したレンガ造りが、かつてここにトンネルの入り口があったことを示している。ここは第二次大戦後間もなくに瓦礫が投棄され埋められてしまったという。


さて、再開発地区へと戻ってみよう。再開発地区の中心を広い道路が通る。山手線の線路に近い辺りに短い区間ながら妙に広い道路があるのだが、そこへと繋がる。ただし、行く手は山手線の線路がある。2011年7月と11月の様子の比較。まず7月。

そして11月。工事が進んでいないようにも見えるが、これは遺跡の発掘調査などが行われて、その後に道路の舗装工事が始まっているせい。


そして、7月にはまだ家は一軒もなく、広大な敷地だけが広がっていた。この辺りは谷端川の刻んだ谷を見下ろし、その向こう側の本郷へ連なる台地を見晴らす地形。それでも、これほどの眺望をここで得られたのは何十年ぶりのことだったのだろうと思う。




そして11月の様子。山の上から見て、中央の道路から左手に当たるエリアは、一斉に住宅の建設が行われている。7月には田端八幡神社まで遮るもの無く見渡せていたのが嘘のよう。



見てきたところでは、この中央の道路の右手側はマンションが建設されるようで、その工事が間もなく始まる様子だった。この工事が始まってしまうと、いよいよこの谷田川渓谷から本郷台地を望む眺望も見ることが出来なくなってしまう。この眺望を楽しむのなら、今が最後のチャンスと言うことになる。

この辺りについては、田端駅近くに田端文士村記念館という施設もあり、どんな人々がどの辺りにいたのかというような資料もあったと思う。また、佐多稲子の「私の東京地図」でも、動坂下のカフェで働いていた頃の話や、芥川竜之介の自死に衝撃を受けたこと、戦後に焼け野原の動坂から田端駅方向を見やっての情景描写など、かつての田端文士村の雰囲気が偲ばれる描写が出てくる。そんなことを頭に入れて歩いて見ると、この辺りの情景もまた違って見えることだろうと思う。山手線内では大きな再開発に入るものだろうと思うのだが、出来上がってしまうと失われてしまう光景が、今なら見ることが出来る。かつての長閑な田端を思い起こしながら見るも良し、谷端川が谷を刻んだ地形を思いながらみるも良し、広大な見晴らしを楽しむだけでも面白いと思う。


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