東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

目黒を歩く~その十:目黒元富士跡と中目黒駅

2015-04-30 18:35:22 | 目黒区
旧朝倉家住宅から出てくると、再び目切坂上。前に掲載した道しるべと地蔵の横を下っていく路地がある。マンションのアプローチになっているが、かつてはここを三田用水が流れていた跡でもある。この先、駒沢通りに出て、鉄樋で道路上を交叉して向こうへと伸びていた。


そのすぐ近くのマンション入り口の前には、案内板が建てられている。目黒の富士塚がここにあったという。
「目黒元富士跡 上目黒1-8
 江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって冨士講という団体が作られました。冨士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。マンションの敷地にあった富士塚は、文化九年(1812)に上目黒の冨士講の人々が築いたもので、高さは12メートルもあったといいます。文政2年(1819)に、別所坂上(中目黒2-1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重の『名所江戸百景』に「目黒元不二」、「目黒新冨士」としてそれぞれの風景画描かれています。元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2-16-21)へ移されました。
 平成22年12月 目黒区教育委員会」


目切坂と富士塚跡の全体像はこんな感じ。富士塚の取り壊しは何故行われたのだろうか?明治以降と言うことは、神仏分離令に関連してのことなのだろうか。だとすると、新冨士塚の地下にあった遺構は、富士塚が廃却されることを恐れてという想像もできる。調べてみた話ではないので、単なる想像に過ぎないのだが。


目切坂が目黒川に向けて下っていく。切通になって、勾配を少し緩和している。右手は旧朝倉家住宅の庭である。


槍ヶ崎交差点に戻って、駒沢通りを下っていく。途中、古びた木製の扉が目を惹いた。


下って来たところが目黒川で、橋を渡る。「さいかちばし」と読む。この辺りにかつては、都電の終点があったそうだ。


皀樹橋から目黒川上流方向を望む。


そして、山手通りへ。中目黒駅周辺は再開発で大きく姿を変えた。私は1985年から20年近くこの町で仕事をしていたが、バブル期も含めたその間よりも、最近10年間の変化の方が大きい様に思える。


駒沢通りを少し登り掛けた辺り、常緑樹が青々と茂る。この少し先に目黒区役所がある。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 目黒を歩く~その九:旧朝倉... | トップ | 目黒を歩く~その十一:正覚... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

目黒区」カテゴリの最新記事