旧朝倉家住宅から出てくると、再び目切坂上。前に掲載した道しるべと地蔵の横を下っていく路地がある。マンションのアプローチになっているが、かつてはここを三田用水が流れていた跡でもある。この先、駒沢通りに出て、鉄樋で道路上を交叉して向こうへと伸びていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/e8/57e38eb2b6e8a7ef750127d87c6fc1a7.jpg)
そのすぐ近くのマンション入り口の前には、案内板が建てられている。目黒の富士塚がここにあったという。
「目黒元富士跡 上目黒1-8
江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって冨士講という団体が作られました。冨士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。マンションの敷地にあった富士塚は、文化九年(1812)に上目黒の冨士講の人々が築いたもので、高さは12メートルもあったといいます。文政2年(1819)に、別所坂上(中目黒2-1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重の『名所江戸百景』に「目黒元不二」、「目黒新冨士」としてそれぞれの風景画描かれています。元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2-16-21)へ移されました。
平成22年12月 目黒区教育委員会」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/85/f6c2a5304432e83fee69872385c77a03.jpg)
目切坂と富士塚跡の全体像はこんな感じ。富士塚の取り壊しは何故行われたのだろうか?明治以降と言うことは、神仏分離令に関連してのことなのだろうか。だとすると、新冨士塚の地下にあった遺構は、富士塚が廃却されることを恐れてという想像もできる。調べてみた話ではないので、単なる想像に過ぎないのだが。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/2e/463121cab2525f95f9bf64bf8a777128.jpg)
目切坂が目黒川に向けて下っていく。切通になって、勾配を少し緩和している。右手は旧朝倉家住宅の庭である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/be/cdbc7cbf7d529a8d0ac0fb339ec488de.jpg)
槍ヶ崎交差点に戻って、駒沢通りを下っていく。途中、古びた木製の扉が目を惹いた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/58/7864437621a004b73a5f76cade1caba6.jpg)
下って来たところが目黒川で、橋を渡る。「さいかちばし」と読む。この辺りにかつては、都電の終点があったそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/02/389fe068fa9a0093ba31c54990a917a0.jpg)
皀樹橋から目黒川上流方向を望む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/6f/9f6cce508cb1491555f29fa5dbb6fc20.jpg)
そして、山手通りへ。中目黒駅周辺は再開発で大きく姿を変えた。私は1985年から20年近くこの町で仕事をしていたが、バブル期も含めたその間よりも、最近10年間の変化の方が大きい様に思える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/40/27177740f0f9b2f67c7615b5a99f2b60.jpg)
駒沢通りを少し登り掛けた辺り、常緑樹が青々と茂る。この少し先に目黒区役所がある。
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そのすぐ近くのマンション入り口の前には、案内板が建てられている。目黒の富士塚がここにあったという。
「目黒元富士跡 上目黒1-8
江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって冨士講という団体が作られました。冨士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。マンションの敷地にあった富士塚は、文化九年(1812)に上目黒の冨士講の人々が築いたもので、高さは12メートルもあったといいます。文政2年(1819)に、別所坂上(中目黒2-1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重の『名所江戸百景』に「目黒元不二」、「目黒新冨士」としてそれぞれの風景画描かれています。元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2-16-21)へ移されました。
平成22年12月 目黒区教育委員会」
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目切坂と富士塚跡の全体像はこんな感じ。富士塚の取り壊しは何故行われたのだろうか?明治以降と言うことは、神仏分離令に関連してのことなのだろうか。だとすると、新冨士塚の地下にあった遺構は、富士塚が廃却されることを恐れてという想像もできる。調べてみた話ではないので、単なる想像に過ぎないのだが。
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目切坂が目黒川に向けて下っていく。切通になって、勾配を少し緩和している。右手は旧朝倉家住宅の庭である。
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槍ヶ崎交差点に戻って、駒沢通りを下っていく。途中、古びた木製の扉が目を惹いた。
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下って来たところが目黒川で、橋を渡る。「さいかちばし」と読む。この辺りにかつては、都電の終点があったそうだ。
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皀樹橋から目黒川上流方向を望む。
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そして、山手通りへ。中目黒駅周辺は再開発で大きく姿を変えた。私は1985年から20年近くこの町で仕事をしていたが、バブル期も含めたその間よりも、最近10年間の変化の方が大きい様に思える。
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駒沢通りを少し登り掛けた辺り、常緑樹が青々と茂る。この少し先に目黒区役所がある。
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