「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、浅草の演劇の話から、沢村貞子さんの話へと移っていく。
雷門の話は何回か前のこのテーマで触れてられていたが、この門がない時代が長かったというのは、出来てしまうと不思議に思えるものだ。
「~浅草は小芝居とか綬帳芝居とかいわれて、劇壇主流からは蔑まされていた様子である。小芝居には花道、引幕、廻り舞台、やぐらは許されていない。引幕のかわりに緞帳がつかわれていたのである。そんなことからそこに出演する役者は緞帳役者といわれて、大劇場には出られなかった。当時の大劇場といえば、歌舞伎座であり帝国劇場である。中村芝鶴(五世中村伝九郎)の甥にあたる波木井皓三(演劇評論家)「回想の宮戸座」に、吉井勇の歌「宮戸座の看板の前にたたずめる音の我を見るよしもがな」をひきながら、つぎのように書いている。
「浅草で、あの海鼠壁に囲まれて、櫓のある芝居小屋といったら宮戸座だけでした。明治二十年十一月に、千葉勝五郎、山下清兵衛等の人々で、『緞帳芝居』吾妻座として創立されて以来、後に明治二十九年九月に名輿行師小川金太郎が太夫元として参加して宮戸座と改名し、更に明治三十九年九月には座主となって名実共に手腕を発揮して、演劇史的に評価される仕事をし乍ら、『小芝居』とか『綴帳芝居』という名の下に不当に評価されて、今は全く跡方もないばかりか、その存在すら埋没されてきていました。古い明治生まれの浅草人にとっては、あのしっとりとした歌舞伎芝居に適わしい、江戸浅草猿若町の名残りを伝えたような、下町的な劇場の雰囲気は忘れ難い印象を残しています。宮戸座のことを想うにつけ、思わず冒頭の吉井勇の歌を口詠むわけです。」」
東京一の遊興の地であった浅草、この昔の姿を知らない世代のものが理解する難しさということを思う。緞帳芝居という言葉は知っていても、そこで上演されていたのはどんな芝居であったのかと言うことなど、なかなか一筋縄ではいかないものだ。それでも、こんな風に書いてあれば、やっぱり明治期には芝居と言えば、まず歌舞伎であったことが見て取れる。歌舞伎座を中心にした歌舞伎の地位向上を目指した、演劇改良運動などというのも、どんな位置付けになるのかと言うことも、こういった話から少しずつ想像できる様になっていく。さらには、E.サイデンステッカー著「東京下町山の手1867~1923」や「立ちあがる東京」で書かれている浅草についても、ジワリと理解を深めていくことが出来る。浅草は何でもあるが、一流のものは何もないというような書かれ方をしているが、これを単に字義通りに受け止めているだけでは浅草を知り、当時に生きた人たちの心を知る事は出来ない。歌舞伎座や帝劇は無くても、宮戸座があったことの意味を考える必要がある。
現在の宮戸座跡。浅草寺裏の言問通りを越えた、浅草の検番に近い所の料亭がその場所である。かつて多くの人を魅了した芝居小屋がここにあった。
ここで出て来た波木井皓三氏は、このブログでも何度も取り上げている「大正・吉原私記」青蛙房刊の著者でもある。彼の本職は演劇評論であり、その道に至る彼の少年期から青年期に掛けての物語が、「大正・吉原私記」になっている。
「この宮戸座は昭和十二年二月に廃座になったというから、私たち同世代のものはほとんど知らないのである。しかし、宮戸座の楽しさを語る年上の人は多い。先日、ある会合で勤め先の先輩藤田圭雄さんにお目にかかったら、やはり宮戸座の語が出た。昔のプログラムを大切に保存しておられるとのことであった。永井荷風は宮戸座の庶民的な芸風をほめたたえたことがあった。浅草生まれでは、久保田万太郎はもちろんのこと、沢村貞子さんの回想記『私の浅草』にも宮戸座が出てくる。
「浅草の娘たちのなによりの楽しみは、宮戸座の芝居を見に行くことだった。
若い女のひとり歩きや夜遊びをやかましく注意し、活動写真を見に行くことを許さなかった商家の旦那衆も、宮戸座見物だけは、あんまり文句を言わなかった。自分も次のだしものを楽しみにして、
『うん、〈籠つるべ〉は久しぶりだ、ありやあ、いつみてもいい芝居だ』
と、機嫌よく、それぞれのひいき役者に贈り物などして声援していた。色気と活気に溢れながら、どことなく行儀のいい、この小芝居が、働きもののこの町の人たちの気に入っていたせいだと思う。たしかに宮戸座の舞台は、いつもいきいきと華やかで楽しかった。
腕におぼえの先輩たちから、きびしく仕込まれた若い役者たちは、身体をぶっつけて熱演していた。芝居かうまくなれば人気が出る。いい役がつく。収入があがる。だから、一生懸命だった。
いわゆる檜舞台の人たちからは、
『たかが浅草の小芝居じゃねえか……』
『びた芝居の役者に、ろくな芸が出来るはずはねえよ……』
などとさげすまされていたけれど、門閥の上にあぐらをかいていた大芝居よりも、ずっと魅力があることも、浅草の客たちはよく知っていて、『芝居の楽しさ』を堪能していたに違いない。
狂言がつき変るたびごとに、両側の桟敷には、常連の旦那衆や色町の姐さんたちがズラリと並び、芝居茶屋のお茶子が、ひっきりなしにお茶やお弁当を運んでいた。」
この一節を読んだだけでも、芝居小屋の家囲気がわかる。彼女の兄の沢村国太郎も、弟の加東大介も、子役としてここで初舞台を踏んだ。沢村貞子はことに三歳年下の大介の付人役となって、小学校から帰るとすぐ宮戸座へ出かけていたのである。」
確かに、このあたりを読むと、宮戸座がいかに魅力のある存在であったのか、そして多くの人から愛されていたのかと言うことが、伝わってくる。そして、沢村貞子という人、私は元気でおられた頃からテレビなどでは見知っていたから、そういう環境で育ったという話として納得がいくのだが、最近ではもうどんな人だったのかが忘れられてきているのだろうかとも思う。NHKの朝ドラで「おていちゃん」というタイトルで放送されたのは、1978年のことだから、もう30年以上昔のことになってしまった。
明治から大正という時代の浅草の話を追っていれば、宮戸座は避けて通れないところでもある。大芝居が社交の場でもあり、華やかな非日常の世界であったことも理解した上で、庶民的な娯楽の街であった浅草での宮戸座という存在がどんなものであったのか、考えて見るのも面白い。二長町で市村座が全盛を迎えるのは大正時代の事と言うが、その背景をも結びつけてみると、当時の演劇の状況が俯瞰できる様に思える。
宮戸座跡の碑。
「宮戸座は、明治二十九年九月開場。座名は隅田川の古称“宮戸川”にちなんだ。関東大震災で焼失後、昭和三年十一月この地に再建。同十二年二月廃座。ここの舞台で修行し、のちに名優になった人々は多い。東京の代表的小芝居だった。大歌舞伎に対し規模小さな芝居を小芝居と呼んだ。
昭和五十三年六月二十四日 台東区教育委員会」
「松本克平氏が『浅草双紙』に寄稿したころ、沢村貞子の『貝のうた』(昭和四十四年)『私の浅草』(五十一年)が評判になっていた。静かな筆致で、激しい時代の半生を語り、少女時代にみた浅草の風物詩をつづるところは、実に名エッセイストの風格をそなえていた。『貝のうた』はのちにNHKの連続ドラマ「おていちゃん」となってさらにいっそうの人気を博したが、その舞台歴を考えてみると、二人は新築地のほぽ同期生である。それも浅草での舞台に縁があった。そんなことから克平氏はお貞ちゃんの秘話にふれることにしたいと書いている。
「私はこの『全線』(「暴力団記」改題)で青山という闘士の役をやりました。お貞ちゃんが新築地に所属していながらこの時のどの舞台にも出演していないのは、実は、この一年前に沿安維持法によって検挙され、市ヶ谷刑務所の未決監につながれていたからです。そして四月にやっと保釈出獄しました。そしてこのガジノフォーリーのあとの築地小劇場のメーデー公演『恐怖』(アフィノゲーノフ作)に主役で出演しました。」
正確にいえば新築地と左翼劇場の合同公演である。沢村貞子の役は共産党員の婦人闘土クララだった(レーニン夫人クレブスカヤとドイヅのクララ・ヅェトゥキンをモデルにしたといわれる)。克平氏はヅェハヴォザイというインテリの役で出ている。この革命劇の舞台は『浅草双紙』に掲載されている舞台稽古の写真から想像できるが、実は初日直前になって主役クララは地下にもぐってしまったというのである。保釈中の身でありながら「当局の温情を無視した」ため、お貞さんには再逮捕の通告が出ていた。そこで先輩の山本安英が一晩で膨大な量のセリフをおぼえて代役に立った。しかし地下潜行のお貞さんは、七月に逮捕された。巣鴨署から市ヶ谷刑務所に収容されて、懲役三年執行猶予五年の判決を言いわたされた。ドタバタ喜劇の芝居小屋と目されていた水族館のカジノ・フォーリーにも、非合法時代の荒波が押しよせていたのである。刑務所の独房、取調べや公判のいきさつについて、彼女は『貝のうた』の「蚊がすりの壁」「挫折して……」の章にこまやかに書きこんでいる。」
プロレタリア演劇というものが、庶民の娯楽の殿堂であった浅草という地と結びついたことは、時代的な背景があるにせよ、社会の不公平を糺すことの意味合いが一般庶民にとっても無縁ではなかったことの証左とも言えるだろう。搾取されているのは、我々の側であると言うことに自覚的であるかどうかは、個人の資質にあったとしても、自らの立場がどこにあるのかは目をつぶるわけにはいかないものであったことは間違いない。
沢村貞子さんが特高に目を付けられていた時代のことは、古美術店主木村東介氏が自らのごろつき時代の思い出として、隣の牢に彼女が囚われていたところを見たことがあると書いていたのも思い出す。若く権力に屈しない彼女の姿勢は、敬意を持って注目されていたようだ。佐多稲子さんがやはり特高に囚われた時に、赤ん坊を抱いて収監されて、拍手で迎えられたと書いていたのも思い起こされる。
今の時代には、簡単にカタカナでサヨクと書いて馬鹿にする風潮だが、厳しい時代に強い意志を持って戦った人たちもおられたことは忘れたくはないものだ。
現在の木馬館のところに水族館があり、その二階にカジノ・フォーリーがあった。その背後には、大小の池があった。
「彼女は浅草の芝居好きの父親のもとで育っている。宮戸座の狂言作者だった父は、子供たちを役者にするため子役に出していた。兄沢村国太郎は沢村宗十郎に入門、はじめは「沢村小槌」という芸名をもらっている。弟の加東大介は「沢村金槌」だった。小槌、金槌で宮戸座に出たことから二人の芸能生活がはじまったが、貞子はというと、やはり宮戸座の新派に出されている。幕あきの通行人の子供役で「はやくお家へかえろうよ」としゃべる役だった。帝劇の女優劇の人気が高まったころで、「父は私を、本気で女優にしようとおもうようになったらしい」と彼女は書いている。
そのときの舞台では下手から出て上手へ引込むはずなのに、立ちどまって台詞をいうかわりに、母親役の手をふりはらい、もとの下手へかけもどってしまった。
「名子役の姉としては、あるまじき醜態である。
『これだから、女の子はいやだってんだ。とんだ恥をかかしやがった』
父に頭をこづかれてベソをかいたが母は、
『いいよいいよ、そんなにイヤなら役者にならなくてもいいんだから……』
と、そっと慰めてくれた。その母も、どうも芝居になじめなかった人だった。」
こんな出来事があってから、父親はもうあきらめたらしい。芸妓にという話が出たり、宗十郎のひいき筋の吉原の大店から養女にしたいとの申し出もあった。だが、彼女は首をふるぱかりである。
そんな環境のなかで育った彼女にはむしろ好学心があって、第一高女から日本女子大にすすんでいる。自伝『貝のうた』にはそのいきさつが生き生きと描かれている。女学校のときから家庭教師をしながら上級学校をめざすという気醜は彼女の生き方につながるものであったといえるかもしれない。」
沢村貞子という人の面白さというのは、浅草というした町を背景にした庶民の娯楽の街で育った気風と、この時代に日本女子大まで進学するというインテリジェンスの混ざり合ったところだと言えそうだ。それでいて、彼女は演劇という世界に入ることになる。大学を辞めて、プロレタリア演劇の世界に入り、結局その世界で生きていくことを選んでいったというところが、彼女の特徴になっている。その生まれでありながら、学究の世界で名を成すことを目指すのではなく、多くを学んだ上で生まれ育った時から馴染んできた芝居の世界に戻って来たというのが面白い。そして、その後に、エッセイストとして名を成していくのは、彼女の人生を振り返って見ればどこか順当にも思えるものがある。そうして、文字にして形が残り続けている事で、彼女がいなくなって久しい時代になっても、その時代のこと、その町のことを活き活きと思い浮かべることが出来るようになっているわけである。
「女子大から左翼系劇団の女優への道は、たいへん興味ぶかい。山本安英にみちびかれて「演劇が反動化の手段であったり、限られた知識階級の占有物であってはいけません。芝居は大衆のものでなけれぱいけないはずです……」と教えられ、新築地の研究生になって、結局は女子大を退学することになる。自発的な退学というよりは、校長命令による退学であった。兄の沢村の名を借用して「沢村貞子」とし、自分をかくしたつもりだったが、学校側の知るところとなった。「アカの芝居をつづけるなら退学したまえ、君の意志で、この学枚を出てゆきなさい、今、すぐに……」と叱責されたというのだ。そのため彼女は「私こと、今度、家庭の事情により……」という届を出した。女の生きにくかった時代に、彼女は敢然と自分の道を選んでいる。
日本女子大をやめた直後の昭和四年十一月、彼女は長谷川如是閑の『大臣候補』(一幕)に出た。公演は下旬の六日間、舞台は浅草の昭和館だった。官僚出身の実業家が文部大臣か鉄道大臣になれそうだと噂されながら、最後のどんでん返しで失格するというファルスである。大臣候補役は丸山定夫だった。華族の娘との政略緒婚をきらう息子、父親の無知無能をからかう娘が登場して、大臣侯補をからかうという筋である。沢村貞子の役はその娘だった。いま読んでみても、如是閑の社会批評が躍如とする痛快な諷刺劇である。
大役をもらった貞子は「いくら体当たりしてみても、いたずらにからまわりするだけだった」と書いている。そこで丸山定夫に相談すると、教えると減るからいやだとつっばねられている。
「役者が人に教わろうなんてふとどきだ。役者は教わってできるものじゃない。盗むものさ」
そして、そのあとでも、
「沢村君、笑いたかったら、お金を払つて客席へ行ってひとの芝居を見て笑いなさい。役者が舞台でほかの役者の芝居を見て吹いてるようじゃ、とても本当の役者にはなれないよ」
彼女はその言葉をかみしめつつ、芸に打ちこんでいる。」
演劇と左翼の結びつきというのも歴史的と言うべきもので、特にこの時代にはインテリと左翼は限りなく重なり合う存在であったとも言える。社会主義思想に全く触れることのないままの高等教育を受けた人というのは、希有だったのではないだろうか。その思想に感化されるかどうかはともかく、田舎の秀才であってもそういった思想書くらいは読んでいたようだ。私の祖父は四国香川の田舎の人だが、やはり東京からそんな本を取り寄せていたらしい。それでも彼は、全く左翼思想には感化されていなかった人だったけど。
昭和4年の長谷川如是閑の作品が、回り回って今の時代から見ても、大昔のお話に見えない状況というのは、一体どうなっているのだろうか。人のすることは変わらないとか、そういうレベルでは普遍的な諷刺というものが成り立つことは納得出来る話だが、このエッセイが書かれた時代には少しはこういった状況から離れたところに辿り着けたと思っていたのにという気がする。
そして、父親の願いとは別のところで、彼女自身の選択の結果として進んだ演劇の中で、彼女は芝居と向かい合っていく様子が伝わってくる。
こちらは六区のかつて昭和館があったところ。国際通りから入った直ぐの角である。
「それにしても長谷川如是閑と沢村貞子との出会いがおもしろい。深川の材木商の家に生まれた如是閑は、父親が浅草の花屋敷を建設してからそこで切符きりをしていた。それは、深川の章でちょっと書いたことだが、彼が花屋敷に住んで浅草の空気を吸いこんだことは、社会批評と諷刺精神とは無縁ではなさそうである。その喜劇を馬道育ちの生粋の浅草っ子が演じている。それも封建的な習俗に反抗し、名誉のとりことなった父親をからかう役であった。私は浅草を歩いていて、変転のはげしい芝居の街にこんな情景のあったことをおもいうかべるのである。」
浅草という町のもっている空気の中に、社会批評と諷刺を育むものがあったということになる。たしかに、庶民の娯楽の街である浅草には、庶民を睥睨する者達への反発が底流として存在してきたこともあるだろう。もとから江戸、東京の町場の空気を吸って育った如是閑という人が、浅草という町で受けた刺激で社会へと目が向いていったこと、その結果が諷刺という形を取っていったことは、興味深いところだと思う。かつての時代であれば、社会性を意識した中で弱者の立場からの視線を持つことは当たり前であったのに、いつしか自らが弱者の側にいながら、より弱いものを見下していく様なことが当たり前になっている。むしろ、こんな時代の方が解き明かされるべき問題を含んでいるというべきなのではないかとも思う。
今の花やしきは、如是閑が切符きりをした頃の様相とは相当に違っているようだ。それでも、池まで姿を消してしまう浅草で、今もその名を留めているだけでも大したことなのかもしれない。
雷門の話は何回か前のこのテーマで触れてられていたが、この門がない時代が長かったというのは、出来てしまうと不思議に思えるものだ。
「~浅草は小芝居とか綬帳芝居とかいわれて、劇壇主流からは蔑まされていた様子である。小芝居には花道、引幕、廻り舞台、やぐらは許されていない。引幕のかわりに緞帳がつかわれていたのである。そんなことからそこに出演する役者は緞帳役者といわれて、大劇場には出られなかった。当時の大劇場といえば、歌舞伎座であり帝国劇場である。中村芝鶴(五世中村伝九郎)の甥にあたる波木井皓三(演劇評論家)「回想の宮戸座」に、吉井勇の歌「宮戸座の看板の前にたたずめる音の我を見るよしもがな」をひきながら、つぎのように書いている。
「浅草で、あの海鼠壁に囲まれて、櫓のある芝居小屋といったら宮戸座だけでした。明治二十年十一月に、千葉勝五郎、山下清兵衛等の人々で、『緞帳芝居』吾妻座として創立されて以来、後に明治二十九年九月に名輿行師小川金太郎が太夫元として参加して宮戸座と改名し、更に明治三十九年九月には座主となって名実共に手腕を発揮して、演劇史的に評価される仕事をし乍ら、『小芝居』とか『綴帳芝居』という名の下に不当に評価されて、今は全く跡方もないばかりか、その存在すら埋没されてきていました。古い明治生まれの浅草人にとっては、あのしっとりとした歌舞伎芝居に適わしい、江戸浅草猿若町の名残りを伝えたような、下町的な劇場の雰囲気は忘れ難い印象を残しています。宮戸座のことを想うにつけ、思わず冒頭の吉井勇の歌を口詠むわけです。」」
東京一の遊興の地であった浅草、この昔の姿を知らない世代のものが理解する難しさということを思う。緞帳芝居という言葉は知っていても、そこで上演されていたのはどんな芝居であったのかと言うことなど、なかなか一筋縄ではいかないものだ。それでも、こんな風に書いてあれば、やっぱり明治期には芝居と言えば、まず歌舞伎であったことが見て取れる。歌舞伎座を中心にした歌舞伎の地位向上を目指した、演劇改良運動などというのも、どんな位置付けになるのかと言うことも、こういった話から少しずつ想像できる様になっていく。さらには、E.サイデンステッカー著「東京下町山の手1867~1923」や「立ちあがる東京」で書かれている浅草についても、ジワリと理解を深めていくことが出来る。浅草は何でもあるが、一流のものは何もないというような書かれ方をしているが、これを単に字義通りに受け止めているだけでは浅草を知り、当時に生きた人たちの心を知る事は出来ない。歌舞伎座や帝劇は無くても、宮戸座があったことの意味を考える必要がある。
現在の宮戸座跡。浅草寺裏の言問通りを越えた、浅草の検番に近い所の料亭がその場所である。かつて多くの人を魅了した芝居小屋がここにあった。
ここで出て来た波木井皓三氏は、このブログでも何度も取り上げている「大正・吉原私記」青蛙房刊の著者でもある。彼の本職は演劇評論であり、その道に至る彼の少年期から青年期に掛けての物語が、「大正・吉原私記」になっている。
「この宮戸座は昭和十二年二月に廃座になったというから、私たち同世代のものはほとんど知らないのである。しかし、宮戸座の楽しさを語る年上の人は多い。先日、ある会合で勤め先の先輩藤田圭雄さんにお目にかかったら、やはり宮戸座の語が出た。昔のプログラムを大切に保存しておられるとのことであった。永井荷風は宮戸座の庶民的な芸風をほめたたえたことがあった。浅草生まれでは、久保田万太郎はもちろんのこと、沢村貞子さんの回想記『私の浅草』にも宮戸座が出てくる。
「浅草の娘たちのなによりの楽しみは、宮戸座の芝居を見に行くことだった。
若い女のひとり歩きや夜遊びをやかましく注意し、活動写真を見に行くことを許さなかった商家の旦那衆も、宮戸座見物だけは、あんまり文句を言わなかった。自分も次のだしものを楽しみにして、
『うん、〈籠つるべ〉は久しぶりだ、ありやあ、いつみてもいい芝居だ』
と、機嫌よく、それぞれのひいき役者に贈り物などして声援していた。色気と活気に溢れながら、どことなく行儀のいい、この小芝居が、働きもののこの町の人たちの気に入っていたせいだと思う。たしかに宮戸座の舞台は、いつもいきいきと華やかで楽しかった。
腕におぼえの先輩たちから、きびしく仕込まれた若い役者たちは、身体をぶっつけて熱演していた。芝居かうまくなれば人気が出る。いい役がつく。収入があがる。だから、一生懸命だった。
いわゆる檜舞台の人たちからは、
『たかが浅草の小芝居じゃねえか……』
『びた芝居の役者に、ろくな芸が出来るはずはねえよ……』
などとさげすまされていたけれど、門閥の上にあぐらをかいていた大芝居よりも、ずっと魅力があることも、浅草の客たちはよく知っていて、『芝居の楽しさ』を堪能していたに違いない。
狂言がつき変るたびごとに、両側の桟敷には、常連の旦那衆や色町の姐さんたちがズラリと並び、芝居茶屋のお茶子が、ひっきりなしにお茶やお弁当を運んでいた。」
この一節を読んだだけでも、芝居小屋の家囲気がわかる。彼女の兄の沢村国太郎も、弟の加東大介も、子役としてここで初舞台を踏んだ。沢村貞子はことに三歳年下の大介の付人役となって、小学校から帰るとすぐ宮戸座へ出かけていたのである。」
確かに、このあたりを読むと、宮戸座がいかに魅力のある存在であったのか、そして多くの人から愛されていたのかと言うことが、伝わってくる。そして、沢村貞子という人、私は元気でおられた頃からテレビなどでは見知っていたから、そういう環境で育ったという話として納得がいくのだが、最近ではもうどんな人だったのかが忘れられてきているのだろうかとも思う。NHKの朝ドラで「おていちゃん」というタイトルで放送されたのは、1978年のことだから、もう30年以上昔のことになってしまった。
明治から大正という時代の浅草の話を追っていれば、宮戸座は避けて通れないところでもある。大芝居が社交の場でもあり、華やかな非日常の世界であったことも理解した上で、庶民的な娯楽の街であった浅草での宮戸座という存在がどんなものであったのか、考えて見るのも面白い。二長町で市村座が全盛を迎えるのは大正時代の事と言うが、その背景をも結びつけてみると、当時の演劇の状況が俯瞰できる様に思える。
宮戸座跡の碑。
「宮戸座は、明治二十九年九月開場。座名は隅田川の古称“宮戸川”にちなんだ。関東大震災で焼失後、昭和三年十一月この地に再建。同十二年二月廃座。ここの舞台で修行し、のちに名優になった人々は多い。東京の代表的小芝居だった。大歌舞伎に対し規模小さな芝居を小芝居と呼んだ。
昭和五十三年六月二十四日 台東区教育委員会」
「松本克平氏が『浅草双紙』に寄稿したころ、沢村貞子の『貝のうた』(昭和四十四年)『私の浅草』(五十一年)が評判になっていた。静かな筆致で、激しい時代の半生を語り、少女時代にみた浅草の風物詩をつづるところは、実に名エッセイストの風格をそなえていた。『貝のうた』はのちにNHKの連続ドラマ「おていちゃん」となってさらにいっそうの人気を博したが、その舞台歴を考えてみると、二人は新築地のほぽ同期生である。それも浅草での舞台に縁があった。そんなことから克平氏はお貞ちゃんの秘話にふれることにしたいと書いている。
「私はこの『全線』(「暴力団記」改題)で青山という闘士の役をやりました。お貞ちゃんが新築地に所属していながらこの時のどの舞台にも出演していないのは、実は、この一年前に沿安維持法によって検挙され、市ヶ谷刑務所の未決監につながれていたからです。そして四月にやっと保釈出獄しました。そしてこのガジノフォーリーのあとの築地小劇場のメーデー公演『恐怖』(アフィノゲーノフ作)に主役で出演しました。」
正確にいえば新築地と左翼劇場の合同公演である。沢村貞子の役は共産党員の婦人闘土クララだった(レーニン夫人クレブスカヤとドイヅのクララ・ヅェトゥキンをモデルにしたといわれる)。克平氏はヅェハヴォザイというインテリの役で出ている。この革命劇の舞台は『浅草双紙』に掲載されている舞台稽古の写真から想像できるが、実は初日直前になって主役クララは地下にもぐってしまったというのである。保釈中の身でありながら「当局の温情を無視した」ため、お貞さんには再逮捕の通告が出ていた。そこで先輩の山本安英が一晩で膨大な量のセリフをおぼえて代役に立った。しかし地下潜行のお貞さんは、七月に逮捕された。巣鴨署から市ヶ谷刑務所に収容されて、懲役三年執行猶予五年の判決を言いわたされた。ドタバタ喜劇の芝居小屋と目されていた水族館のカジノ・フォーリーにも、非合法時代の荒波が押しよせていたのである。刑務所の独房、取調べや公判のいきさつについて、彼女は『貝のうた』の「蚊がすりの壁」「挫折して……」の章にこまやかに書きこんでいる。」
プロレタリア演劇というものが、庶民の娯楽の殿堂であった浅草という地と結びついたことは、時代的な背景があるにせよ、社会の不公平を糺すことの意味合いが一般庶民にとっても無縁ではなかったことの証左とも言えるだろう。搾取されているのは、我々の側であると言うことに自覚的であるかどうかは、個人の資質にあったとしても、自らの立場がどこにあるのかは目をつぶるわけにはいかないものであったことは間違いない。
沢村貞子さんが特高に目を付けられていた時代のことは、古美術店主木村東介氏が自らのごろつき時代の思い出として、隣の牢に彼女が囚われていたところを見たことがあると書いていたのも思い出す。若く権力に屈しない彼女の姿勢は、敬意を持って注目されていたようだ。佐多稲子さんがやはり特高に囚われた時に、赤ん坊を抱いて収監されて、拍手で迎えられたと書いていたのも思い起こされる。
今の時代には、簡単にカタカナでサヨクと書いて馬鹿にする風潮だが、厳しい時代に強い意志を持って戦った人たちもおられたことは忘れたくはないものだ。
現在の木馬館のところに水族館があり、その二階にカジノ・フォーリーがあった。その背後には、大小の池があった。
「彼女は浅草の芝居好きの父親のもとで育っている。宮戸座の狂言作者だった父は、子供たちを役者にするため子役に出していた。兄沢村国太郎は沢村宗十郎に入門、はじめは「沢村小槌」という芸名をもらっている。弟の加東大介は「沢村金槌」だった。小槌、金槌で宮戸座に出たことから二人の芸能生活がはじまったが、貞子はというと、やはり宮戸座の新派に出されている。幕あきの通行人の子供役で「はやくお家へかえろうよ」としゃべる役だった。帝劇の女優劇の人気が高まったころで、「父は私を、本気で女優にしようとおもうようになったらしい」と彼女は書いている。
そのときの舞台では下手から出て上手へ引込むはずなのに、立ちどまって台詞をいうかわりに、母親役の手をふりはらい、もとの下手へかけもどってしまった。
「名子役の姉としては、あるまじき醜態である。
『これだから、女の子はいやだってんだ。とんだ恥をかかしやがった』
父に頭をこづかれてベソをかいたが母は、
『いいよいいよ、そんなにイヤなら役者にならなくてもいいんだから……』
と、そっと慰めてくれた。その母も、どうも芝居になじめなかった人だった。」
こんな出来事があってから、父親はもうあきらめたらしい。芸妓にという話が出たり、宗十郎のひいき筋の吉原の大店から養女にしたいとの申し出もあった。だが、彼女は首をふるぱかりである。
そんな環境のなかで育った彼女にはむしろ好学心があって、第一高女から日本女子大にすすんでいる。自伝『貝のうた』にはそのいきさつが生き生きと描かれている。女学校のときから家庭教師をしながら上級学校をめざすという気醜は彼女の生き方につながるものであったといえるかもしれない。」
沢村貞子という人の面白さというのは、浅草というした町を背景にした庶民の娯楽の街で育った気風と、この時代に日本女子大まで進学するというインテリジェンスの混ざり合ったところだと言えそうだ。それでいて、彼女は演劇という世界に入ることになる。大学を辞めて、プロレタリア演劇の世界に入り、結局その世界で生きていくことを選んでいったというところが、彼女の特徴になっている。その生まれでありながら、学究の世界で名を成すことを目指すのではなく、多くを学んだ上で生まれ育った時から馴染んできた芝居の世界に戻って来たというのが面白い。そして、その後に、エッセイストとして名を成していくのは、彼女の人生を振り返って見ればどこか順当にも思えるものがある。そうして、文字にして形が残り続けている事で、彼女がいなくなって久しい時代になっても、その時代のこと、その町のことを活き活きと思い浮かべることが出来るようになっているわけである。
「女子大から左翼系劇団の女優への道は、たいへん興味ぶかい。山本安英にみちびかれて「演劇が反動化の手段であったり、限られた知識階級の占有物であってはいけません。芝居は大衆のものでなけれぱいけないはずです……」と教えられ、新築地の研究生になって、結局は女子大を退学することになる。自発的な退学というよりは、校長命令による退学であった。兄の沢村の名を借用して「沢村貞子」とし、自分をかくしたつもりだったが、学校側の知るところとなった。「アカの芝居をつづけるなら退学したまえ、君の意志で、この学枚を出てゆきなさい、今、すぐに……」と叱責されたというのだ。そのため彼女は「私こと、今度、家庭の事情により……」という届を出した。女の生きにくかった時代に、彼女は敢然と自分の道を選んでいる。
日本女子大をやめた直後の昭和四年十一月、彼女は長谷川如是閑の『大臣候補』(一幕)に出た。公演は下旬の六日間、舞台は浅草の昭和館だった。官僚出身の実業家が文部大臣か鉄道大臣になれそうだと噂されながら、最後のどんでん返しで失格するというファルスである。大臣候補役は丸山定夫だった。華族の娘との政略緒婚をきらう息子、父親の無知無能をからかう娘が登場して、大臣侯補をからかうという筋である。沢村貞子の役はその娘だった。いま読んでみても、如是閑の社会批評が躍如とする痛快な諷刺劇である。
大役をもらった貞子は「いくら体当たりしてみても、いたずらにからまわりするだけだった」と書いている。そこで丸山定夫に相談すると、教えると減るからいやだとつっばねられている。
「役者が人に教わろうなんてふとどきだ。役者は教わってできるものじゃない。盗むものさ」
そして、そのあとでも、
「沢村君、笑いたかったら、お金を払つて客席へ行ってひとの芝居を見て笑いなさい。役者が舞台でほかの役者の芝居を見て吹いてるようじゃ、とても本当の役者にはなれないよ」
彼女はその言葉をかみしめつつ、芸に打ちこんでいる。」
演劇と左翼の結びつきというのも歴史的と言うべきもので、特にこの時代にはインテリと左翼は限りなく重なり合う存在であったとも言える。社会主義思想に全く触れることのないままの高等教育を受けた人というのは、希有だったのではないだろうか。その思想に感化されるかどうかはともかく、田舎の秀才であってもそういった思想書くらいは読んでいたようだ。私の祖父は四国香川の田舎の人だが、やはり東京からそんな本を取り寄せていたらしい。それでも彼は、全く左翼思想には感化されていなかった人だったけど。
昭和4年の長谷川如是閑の作品が、回り回って今の時代から見ても、大昔のお話に見えない状況というのは、一体どうなっているのだろうか。人のすることは変わらないとか、そういうレベルでは普遍的な諷刺というものが成り立つことは納得出来る話だが、このエッセイが書かれた時代には少しはこういった状況から離れたところに辿り着けたと思っていたのにという気がする。
そして、父親の願いとは別のところで、彼女自身の選択の結果として進んだ演劇の中で、彼女は芝居と向かい合っていく様子が伝わってくる。
こちらは六区のかつて昭和館があったところ。国際通りから入った直ぐの角である。
「それにしても長谷川如是閑と沢村貞子との出会いがおもしろい。深川の材木商の家に生まれた如是閑は、父親が浅草の花屋敷を建設してからそこで切符きりをしていた。それは、深川の章でちょっと書いたことだが、彼が花屋敷に住んで浅草の空気を吸いこんだことは、社会批評と諷刺精神とは無縁ではなさそうである。その喜劇を馬道育ちの生粋の浅草っ子が演じている。それも封建的な習俗に反抗し、名誉のとりことなった父親をからかう役であった。私は浅草を歩いていて、変転のはげしい芝居の街にこんな情景のあったことをおもいうかべるのである。」
浅草という町のもっている空気の中に、社会批評と諷刺を育むものがあったということになる。たしかに、庶民の娯楽の街である浅草には、庶民を睥睨する者達への反発が底流として存在してきたこともあるだろう。もとから江戸、東京の町場の空気を吸って育った如是閑という人が、浅草という町で受けた刺激で社会へと目が向いていったこと、その結果が諷刺という形を取っていったことは、興味深いところだと思う。かつての時代であれば、社会性を意識した中で弱者の立場からの視線を持つことは当たり前であったのに、いつしか自らが弱者の側にいながら、より弱いものを見下していく様なことが当たり前になっている。むしろ、こんな時代の方が解き明かされるべき問題を含んでいるというべきなのではないかとも思う。
今の花やしきは、如是閑が切符きりをした頃の様相とは相当に違っているようだ。それでも、池まで姿を消してしまう浅草で、今もその名を留めているだけでも大したことなのかもしれない。
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