東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(51)回向院のにぎわい

2013-10-06 20:59:36 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回も、両国回向院にまつわる話である。本所の発展と回向院の結びつきといったこと。

「旧本所区の市街地は碁盤の目のようにつくられている。堅川を横軸とし、大横川(横川ともいう)、横十間川を縦軸として、そのなかに区画がなされている。堅川も横川も幅二十間だった。北の源森川(通称源兵衛堀)は中川出口まで直線ではないが、幅十四間、柳島から東は十間となって、いまでは北十間川とよばれる。本所から南下して深川にゆくと、寺町や貯木池があったり、また道路が少々まがったりしていて、かならずしも碁盤の目とはいいがたい。しかし、本所だけは整然としてみえた。住宅や町工場の密集地であったが、町の名はおぼえやすかった。
 その原型は明暦の大火以後の開拓によるものであった。回向院が建ち両国橋が架けられてから、幕府は江戸城下拡張のため本所築地奉行をおいて、土地整備にあたらせている。当時のこの一帯は現在より十メートルも下だったというから、基盤整備は大がかりなものだったとおもわれる。川や割下水を開削して元禄年間に完成、まずはじめに旗本の士二百四十余騎を移した。つづいて大名の中屋敷、下屋敷が出来、商人地、一般の住宅地が生まれた。江戸期の本所絵図をみていると、北割下水以南のほとんどが武家地である。町人地は、回向院門前の元町、竪川筋の相生町、緑町、花町、大川河畔の尾上町、藤代町、横網町、横川筋の入江町、長崎町、清水町、横川町、あるいは石原町から東の法恩寺、亀戸天満宮にむかう道筋その他にすぎない。本所は江戸中期のあたらしい町だったが、ここも武士階級のための新開地だったのである。」

 こういったところを見てくると、最近の下町という言葉が如何に曖昧な定義の元にいい加減に使われているのかがよく分かる。今では下町というイメージが直ぐに連想される様になっている本所だが、元々は武家地の割合が圧倒的なところというのも興味深い。もっとも、だからこそ、吉良上野介の屋敷があったり、勝海舟の出生地であったりと言ったことが今に伝わっているわけでもある。また、低湿地エリアを町人地に割り当てて、台地上を武家地に割り当てたかと言えば、確かにそういった傾向はあったものの、武家地がそれだけでは収まらなかったという方が正しいのかもしれない。
 とはいえ、現在よりも十メートルも低いというのも、相当なものだったと思われる。隅田川河口の堆積地というのが、そのままの姿だったと言える感じではないだろうか。そこを江戸時代に大規模開発を行って都市化させていったわけで、江戸時代の土木工事の規模の大きさと計画性の高さには、驚くほどのものがある。何度も出てくることだが、明暦の大火というのが江戸という都市にとっては大きなターニングポイントであったわけで、これ以後は今日に繋がる大都市へと発展していくことになる。

「幕末・明治初期の政変による住民の移動、制度の改正、そして隅田川左岸地帯の工業地化などが、本所にまたあらたな局面をあたえた。武士の町から中小工業の町へと転化したわけだが、この本所地区の発展は、なんといっても回向院と両国橋からはじまっている。それをぬきにしては本所を語ることはできない。
 まず第一に、回向院が開帳寺として名をとどろかせたことである。浅草寺や深川永代寺とならんで多くの善男善女をあつめていた。諸宗山無縁寺ということから、宗派にかかわらず全国の寺はきそって回向院を撰んだとみえる。秘仏・宝物を拝するという宗教的行事は、江戸庶民のこころに深く根ざしていた。開帳は寺の経営にもつながるが、そこでは見世物、飲食、娯楽を中心とする盛り場がおのずと形成されることになる。回向院の開帳年表をみると、明和元年(一七六四年)から嘉永元年(一八四八年)までに百四回をかぞえている。」

 明治時代には、東京の周辺まで含めて都市計画が策定されていて、工業地帯に指定されたところでは、環境悪化も容認する様な傾向があった。そのために、板橋も指定されない様に運動したと言うが、その甲斐無く、荒川、新河岸川沿いを中心に工業地達として発展することになっていく。本所も同様であった。ただ、本所はそれ以前からの町の歴史があり、その中心に回向院や両国橋がもたらした繁栄があったという点がポイントになっている。
 出開帳については、信心深かったという面と併せて、レクリエーションとしての参拝という側面もあって、イベント好きの江戸っ子が乗せられやすかったという背景もあるのだろうと思う。もちろん、回向院周辺が見世物やら屋台やらが沢山出ている、いつもお祭りの最中の様な騒ぎの場所であったことも、回向院へ行こうという動機の一つになったことだろう。両国橋界隈の賑やかさというのは、それ程のものであった。それにしても、85年間で104回の開帳というのも、年に一回以上開催されているわけで、なかなか凄いものがある。元々、明暦の大火の犠牲者の供養から始まった寺だが、諸宗山無縁寺ということで宗派の縛りもなく、ビジネスもやりやすかったのかもしれない。

回向院山門。現在は京葉道路に面したところに設けられている。


「これは深川永代寺における成田不動尊開帳と好一対の風景である。両国橋をわたるときの感触は永代橋をわたるときのそれと相通ずるものがあったのであろうか。本所・深川という新開地は宗教的なイベントで注目をあつめている。そこからは遊輿の場所としての文化がつくりだされる。人間のあつまる広場からはさまざまなものが生まれてくる。
 両国が相撲の本場として登場したのも一連の開帳と無縁ではなかった。貞享元年(ニハ八四年)、幕府の許可を得て深川八幡の境内で勧進相撲が輿行されてから、百年後には回向院にうつっている。浅草、芝、飯倉、愛宕、牛込などでもおこなわれたが、天明のころにはそこでひらかれることが多くなり、天保四年(一八三三年)十月から回向院が定場所となった、明治四十二年(一九〇九年)、回向院の一角に丸屋根の国技館が生まれた。明治・大正の近代建築をリードした辰野金吾と葛西万司の設計管理に成るものであった。当時、政府から三万円の補助をうけたというが、相撲は国技の名とともに両国の華となった。しかし矢田挿雲のように、無数の死者の白骨の上での「力士連の裸踊り」とからかう人もいたのである。」

 この辺りの感覚が当時と一番大きく変わって来ている点なのかもしれない。宗教的なイベントで始まった場所が、いつしか遊興の場になっていくというのは、真面目な見方をすれば大相撲をそこで行うことも「力士連の裸踊り」と揶揄したくもなることだろうが、沈痛な痛みを伴う想いを込めた場が、いつしか遊興の場に変貌していく中には江戸という時代の死生観まで含めた、その時代の空気を感じとっていかないと理解しきれないものがある様にも思える。落語の「大山詣り」なんて言うのも、当時のお詣りというものあり方を教えてくれる一つだろうと思う。
 それにしても、私自身は両国の旧国技館には縁の無いままで、日大講堂として存在しているうちに一度でも見ておけば良かったと後悔するばかりである。

以前も掲載したが、現在の両国シティコアの中庭には、旧国技館の土俵の位置がモニュメントとして残されている。


「回向院には鼠小憎次郎吉の墓があって、いまでも人気をあつめている。ここには加藤千蔭一族の墓、鳥居清長、磐瀬京水、山東京伝、弟の京山の墓もあるが、参詣者はそれに眼をとめない。ただただめずらしげに鼠小憎を注視するだけである。
 私は父から鼠小憎をおしえられ、少年講談とか映画とか舞台で江戸の義賊に快哉をさけんだほう淀が、史実にあたってみると、義賊とはほどとおい人物らしい。作り上げられた庶民の英雄である。」

 鼠小僧というのも、私にとってはテレビの時代劇などを通じて親しんだ世代である。さすがに、講談本という歳ではないのだが、今の世代にはどの程度の知名度を持っているのだろうか?今やテレビの時代劇も消滅寸前という状況である。思い起こせば、私の学生時代には本放送だけではなくて午後から夕方の時間帯に掛けては、ドラマの再放送が数多く流されていた。本放送を見逃してその機会に見ることもあれば、本放送で見た上で気に入っていて再度見るというのもあった。そして、それだけではなく、そこまで力の入っているわけではない感じで、時代劇の再放送なんかはズルズルと見ていた様な気がする。そして、そんな中から鼠小僧というのも、親しんでいた様に思う。現代の青少年に鼠小僧と言って、どれほど通じるものなのか、ちょっと怖い様な気さえする。

回向院内、力士にゆかりの力塚。
「 相撲関係石碑群〈力塚〉
 墨田区と相撲の関わりは、明和五年(一七六八)九月の回向院における初めての興行にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。
 天保四年(一八三三)一〇月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。
 明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治一七年(一八八四)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして、明治四十二年(一九〇九)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。
 力塚は、昭和一一年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正五年(一九一六)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。
 現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が七六年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を象徴しています。
 平成一一年三月  墨田区教育委員会」


「次郎吉の処刑より五十年ほどまえ、武州入間郡生まれの新助こと稲葉小僧という盗賊がいて、それをモデルにした草双紙『鼠小僧実記』が刊行されたという。挿雲はその生い立ちから獄門にかけられるまでの物語を紹介している。彼は子供のころ、貧のため捨てられたが、江戸川町の博奕の親方鼠の吉兵衛なる男にひろわれ、幸蔵と名づけられた。「身体すこぶる軽俊なので、鼠幸蔵を鼠小憎ともじって呼ばれ」、稼業の博奕のほか悪所がよいをおぼえ、金にこまって盗みをはじめた。大坂の巨盗淀屋辰五郎のもとでの三年問の泥棒修業、旅中の盗みと色事、そして江戸にもどってからの怪盗ぶりがおもしろく描かれている。「江戸でやる以上は、大名屋敷を荒さなければ、江戸の気分が出ないというようなことを考えた」というのである。
 草双紙の筋立てだからどζまでが「実記」なのかはわからない。しかし、白浪ものの狂言作者河竹黙阿弥はそれをうまくとりこんでいる。場所は鎌倉に移しかえているが、盗賊稲葉幸蔵と実の父親與惣兵衛(辻番人)の出合いや養母お熊、女房の松山(松葉屋の遊女)、芸者お元、刀屋新助、しじみ売りの三吉などを登場させて、人情話として、白浪ものとしての見せ場をつくる。
「盗みはすれどもこの幸蔵非義非道の働きせず、人に難儀をかけまいと利合の細き町人の家へははいったことはねえ。百はしたかねや二百の端金盗まれたとて障りにならぬ大小名のお納戸金、盗んだとてもその金をおのが私慾に使やしねえ、難儀な人を助ける金・・・・・・」
 こんな名調子が鼠小憎伝説をもりあげて、黙阿弥以後の鼠小僧をつくりあげてきたのである。」

 芝居に取り上げられたことによって、実像と懸け離れた物語が世間で当たり前のことになっていくというのは、結構あった様だ。元々、芝居では幕府の干渉を避ける意味合いからも、時代や場所を違った設定にするのは当たり前のことだったが、見る側はそれを適宜置き換えて受け取っていたわけで、結局は芝居の筋が常識化していくことの方が普通になっていた。「忠臣蔵」なども、そういった例と言えるのだろう。元々、二本差しを揶揄する様なストーリーで、人情絡みで、困ったものを助けるストーリーなら大ヒットは約束されたようなものだっただろう。とはいえ、現実の鼠小僧は義賊には程遠い、根っからの遊び人で、施しなどしたこともない盗賊に過ぎなかったというのに、その後の長い年月が経過しても、線香の煙が絶えない程に人々が有り難がる様というのは、確かにある意味では滑稽なものに違いない。
 その滑稽な有様が、巨大な墓の上にあると言えるような回向院で行われているというのも、相応しい景色であるようにも思えてしまう。

大震災横死者の墓。東京で起きた大災害の犠牲者を弔うのはこの寺の役割ということなのだろう。


「明治のはじめ、本所回向院は服部撫松によって「開帳の会社の如し・・・鳴呼嗚呼盛なる哉開帳」と書かれたことがあった。たいへん商法にたけた寺であったらしい。「一仏像来て闔都人譟ぎ、一開帳にして万金費ゆ。嗚呼嗚呼、仏躯の験の有る所に因ると雖も、然も東京に非ずんぱ豈に能く此の繁昌を致さん乎。」二本松の元藩士は、明治のはじめの東京に眼を輝かせながらも、回向院のにぎわいにびっくりした様子である。」

 以前、資料を調べていて、回向院の江戸時代の評判として、俗悪な場というような評をみたことがある。信仰の場と言うよりは、どうも遊興という色合いの方が濃くなっていったのだろうと思う。やはり、宗派を持たずに無縁寺として成立した事が、そういった発展の道を歩んでいくことになったのだろう。それは、見方を変えれば商法にたけた寺という形容にもなるのだろうと思う。その意味では、今日も高層のオフィスビルが建っている様を見ていると、今日に受け継がれているようにも見える。ただ、往年のような賑わいだけが今では幻になっているだけである。

様々な供養塔が並んでいる。やはり、回向院という寺は江戸、東京の町の歩みと共にきたお寺なのだと思う。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿