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東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(16)丸ビルの歌ごえ

2012-05-19 22:08:36 | 東京・遠く近き
 「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。

今回は丸ビルの歌ごえというタイトルで、舞台は丸の内。今では丸ビルも新丸ビルも建て替えられてしまい、丸の内で往年の面影を捜すことの方が難しくなっている。今も昔のままのビルと言えば、明治生命館と工業倶楽部くらいしか残っていない。少しずつやっているように思えた建て替えも、ふと気が付くとほとんどのビルが建て替えられているという有様になっている。
私自身にとっては、丸の内に勤めた経験はないし、身近と言うまでは行かないところでもあった。とはいっても、丸の内北口からは、志村車庫、蕨行きの路線バスが運行されていて、丸の内北口で降りたり、乗ったりした経験は何度もある。また、少年の頃に晴海のモーターショーへ行くために、臨時バスに乗ったのも丸の内からだった。
数少ない丸の内の生き残り、工業倶楽部。

このビルは保存されているが、三菱UFJ信託銀行本店ビルが覆い被さるように聳えている。これでもこの辺りではかなり良い状態といわざるを得ない。


「そのころ、東京駅の乗車口(いまの丸の内南口)から丸ピルにかけて、一本の地下道が通じていた。コンクリートの壁を打ちつけただけの不愛想なもので、照明はけっして明るいとはいえなかったが、なんとなくあたたか味があった。というのは、声がほどよく反響したからである。
 朝、出勤のサラリーマンたちは急ぎ足でかけぬけていく。日中も人通りは多い。ところが、夜の八時、九時になって通行人がまばらになると、そこからはよく歌ごえが聞えてくるのであった。丸ビル内の食堂で飲んできた、ほろ酔い加減の人もいれば、わざわざここまでやってきて、みごとなハーモニーをみせる合唱団もあった。」

丸の内南口の地下道入口。駅前広場越しに丸ビル方向を望む。


こういった、自然発生的に皆で集まって歌を歌うという感覚というのは、私の少年時代の昭和40年代には既に無くなっていた様に思う。私の母親に聞いてみると、この場所での合唱に参加したことはなくとも、そんな雰囲気は理解できると言っていた。昭和47年に東京地下駅が開業するのだが、この丸の内南口の地下通路は何となくうっすらと記憶にある。京葉線の開業以前には、まだこの地下道の雰囲気は残されていたのではないかと思う。
これはようやく戦前の三階建ての姿への復元工事が終盤に近づいてきた東京駅舎。


「長さ百メートル、幅七・三メートル、高さ二・四メートルの地下道だった。昭和十二年十二月、東京駅の乗降客の混雑を緩和するためにつくられたというが、こんなところから歌ごえがきこえてきたというのは戦後の特色だったのかもしれない。その後、地下鉄が開通し、地下に横須賀線、総武線が乗り入れ、京葉線の起点となってみると、四方八方に地下通路ができた。そのうえ、照明は燦々と輝いている。いまでは声を出すなんてことはとうていできない。」

今では戦前にあった地下道の面影などまるで感じようもない、丸ビル~東京駅丸の内南口間の地下。


確かに、今の東京駅と丸ビルの間の地下は、到底自然に人が集まって合唱するなどと言うことは想像も付かない有様である。丸ビルと新丸ビルが建て替えられたことで、広大な地下のコンコースが出現しており、それを見ているだけでも茫然としてしまう。かつては、日曜日には人通りが絶えて深閑としていた丸の内だが、今は数多くの人がショッピングや散策に歩いている。小綺麗になってショッピングモールが出来た今の丸の内を見ていると、かつての重厚感のあるオフィス街、そしてそれ故の休日の静けさが懐かしくも思い出されてくる。近年の再開発で確かに人の姿は多く見られるようになったが、どこの再開発エリアに行っても似たような景色ばかりというのも事実だろう。既に、その手法そのものが色褪せて見えると言えば厳しすぎるだろうか。
そして、広大なという形容しかしようのない地下道、丸ビル前から新丸ビル方向。


「私が東京駅とか丸の内界隈にやや郷愁めいたものを感ずるのは、勤め先の中央公論社が丸ビルの五階にあったからである。戦中戦後は外から建物をながめたにすぎなかったが、昭和三十年三月からそこに出入りするようになってみると、近隣の建物をふくめたオフィス街の生活実感というものがわかってきた。朝、どっと人が押しよせるかとおもうと、夜は無人地帯になる。その動きをみていると、寒暖の差の激しい砂漠のようなものにおもえた。ほかの会社とちがって、出版社の仕事はどうしても夜がおそくなる。終電車にまにあうようにして、地下の守衛口から出してもらうと、あの天井のひくい地下道は森閑としていて、不気味なほどであった。」

初代丸ビルでの勤務経験というのも、今となっては懐かしくも羨ましいものだと思える。私にとっての丸ビルは外から眺める、重厚で少し厳めしさをも感じさせるビルだった。皇居側の一階に鰻の竹葉亭があって、その看板と丸ビルの建物のクラシックな重厚さが、不思議とマッチして見えたのを覚えている。竹葉亭、銀座の店には行ったことがあるが、丸ビルの店には入ることのないうちに建て変わってしまった。
著者は、昭和三十年から中央公論社に勤めたというが、ちょうど私の両親と世代が重なっていて、興味深い。私の父が社会人になった時は、朝鮮戦争景気の終わった後の不景気時代で、就職難だったという話を聞いた。その辺りの雰囲気も一年違うと随分違うのかもしれないが、どうだったのだろうと考えてしまう。
明治維新の時点では、江戸城の外堀の内側で徳川家に親しい大名の屋敷で埋められていたこの地である。それがまず新政府の役所として使われたり、創設されたばかりの軍隊が使ったりとなり、それが移転して取り壊されていったわけである。そう言った経緯は、前回の「東京・遠き近くを読む」でも触れた。明治末にアメリカ艦隊の日本訪問があり、その歓迎に提灯行列を市民が行ったという話があるのだが、この時にも三菱ヶ原を集合場所にして宮城前広場へ向かったという話が出ていた。その様子でも、どことなく寂しい原っぱと言った雰囲気を感じた。巨大な大名屋敷のびっしりと建ち並ぶ丸の内というのも、今の状況から想像するのが難しい。そこから、一面の広大な原っぱとなり、そこに西洋建築のビルが建ち並ぶ様に変わっていった。さらに、巨大なビルディングへと建て直されていき、それも一巡して高層ビルへと建て替えが行われてきたものが、既に終盤に向かってきているのが今の姿である。今では日本のビジネスセンターの一角である丸の内、その開発が当初遅々としか進まなかった理由を著者はこう分析している。

「日本の名だたる大財閥の力をもってしてもこのありさまだったのだが、そこには二つの要因が考えられる。ひとつは交通が不便だったこと、もうひとつは日本人の商業感覚である。
 東海道線はまだ頭端駅の新橋までである。明治三十年代はじめの丸の内で利用できる交通機関といえば、日比谷・大手町間、日比谷・数寄屋橋間のわずかな距離の市内電車だけである。お茶の水からくるにしても、上野、両国方面からくるにしても、かなりの道のりを歩かなければならなかった。通過駅としての中央停車場一東京駅一の案はあつたものの、大正三年の完成まではかなりの時間を要したことになる。」

確かに、丸の内の交通機関の整備というのは、明治という時代の間にはほとんど改善されていない。人力車、馬車、そして馬車鉄道の敷設と都市交通の整備が少しずつ行われていった東京だが、馬車鉄道は新橋から銀座、京橋、そして日本橋を通って上野へと向かうルートをとっていた。当然のことだが、江戸以来の下町であった商業地域が都市活動の中心であり、その動脈として交通も整備されていた。鉄道は長い間、新橋をターミナルにしており、東京中央駅の建設は明治の中頃には決まっていたにもかかわらず、その竣工は大正三年まで掛かっている。現在の東京駅と上野駅の間を結ぶ環状線の最後の区間の開通が関東大震災の後まで掛かっていたことも合わせてみると、既存の都市の中に鉄道を通すことの困難さがよく分かる。今よりも個人の権利が制限されていた時代であったと言っても、既に出来上がった街の中に鉄道を引くことは多大な困難以外の何物でもなかった。東京中央駅までの鉄道の延長という点では、建設費用が膨大であったことが予定よりも遅れていった最大の原因であっただろう。日露戦争は国庫を激しく圧迫したこともあって、東京駅を建設する余裕がなかったとも言えるだろう。

「商業事務所としてのピルディングの建設をおくらせたことには、日本人個有の商店感覚が存在していたことも考えなければならない。『丸の内今と昔』は戦後、『縮刷丸の内今と昔』(昭和二十七年十一月、三菱地所刊)という冊子になったが、こんな一節を読むことができる。
「この頃は、一つには貸事務所というものの意味が一般に理解されていなかったのと、一つには日本人の中に深く根ざしている家族主義の影響で、杜会的な共同生活を好まないのとで、とかく一棟の建物を専有したがる気風があった。これが貸事務所の提供を目的とするビルデング建設の発達を阻む有力な原因となっていた。
 そこで第六号館即ち仲通りの二階建赤煉瓦は、長屋式に数軒続いた貸事務所を建てることになった。しかも内部は事務所と住居とを兼ねさせるため、日本式に襖を立て、一部には畳を敷くように設計されていた。」
 外見はあきらかにロンドンの街なみだが、内部は町人衆の街の小商店の感覚である。三菱地所部ではそんなところにまでこまかく気をつかったのであろう。公共生活に慣れるまでに、日本人は長い歳月と度かさなる経験を必要とした。
~(中略)~
 東京駅前にアメリカ式建築法による「丸ノ内ピルヂング」が完成したのは、大正十二年二月のことである。「延坪一万八千余坪で、それまで一位を占めていた海上ビルヂングの三倍余・施工期問は海上ビルデングの約四カ年に対して二年余り、予定期間は更に短く二年以内であったが、前年四月、東京地方を襲った激震で若干の被害があり、その補強などの事情で竣工が数カ月遅れた」とあるが、完成半年後の関東大震災に耐え、第二次大戦下の空襲の被害からもまぬがれたので、いまなお当時のままの姿であろうとおもわれる。」
長く大正以来の景観を保っていた丸の内だが、多くのビルの建て替えが急速に進んだ。名前は同じなのだが...。


明治時代には、洋風の建築が建ち始めているものの、生活様式はそれ以前の時代からいきなり大幅に変化したわけではない。断髪令やら廃刀令やら、そんなことを経て徐々に変わっていった。肉食も牛鍋を食べるようになったりしていったが、明治後期になる頃でも動物性脂肪を食べることへの抵抗感は強かったようだ。今では当たり前に食べているチョコレートやビスケットなども、バター臭いといって嫌われたものである。大きな商売と言えば、大通りに面した大店で主人を頭に皆でその家に暮らしながら行っていたものが、職住分離して近代的なビルディングで仕事だけを行うという形にいきなり変わろう筈もない。サラリーマンというあり方が、社会的に新鮮であり、またエリートであったその創世記の事情は如何ばかりであったのかということになる。働く人のあり方が会社員という形態に集約される社会になるまでに掛かった年数を考えると、考えさせられる。明治から大正に掛けて、ようやくビルの建ち並ぶ街が出来上がっていったのだが、その面影も今はあまり残されていない。巨大なビルディングさえも、そのまま生きながらえることが出来ない東京という街の貪欲なエネルギーを思う。

ここで、西条八十作詞の東京行進曲が出てくる
「恋の丸ビルあの窓あたり
 泣いて文書く人もある
 ラッシュアワーに拾ったバラを
 せめてあの娘の思い出に

この歌はいつごろうたわれたのだろう。ちょっと調べてみると、昭和四年六月、菊池寛の小説「東京行進曲」の映画化に際して発表、申山晋平の作曲で佐藤千代子が歌ったとある。ビクターからレコードが発売されると、たちまち二十五万枚を売りつくすという破格の記録を生んだ。新聞連載の完結を待たずに、溝口健二監督(小杉勇、一木礼二、夏川静江、入江たか子ら出演)によって作られたというから、菊池寛の人気のほどがわかるが、歌については、東京逓信局から「ラジオは何も知らぬ子女の耳に入る。浅草で逢いびきして小田急で駆けおちするような文句は困る」と放送禁止が命じられた。」

今となっては、時代を映す鏡としての流行歌を失ってしまったことも味気ないものだと思う。時代や世相をその中に留めながらメロディが歌い継がれていく流行歌というものも、一つの文化だったのだと思う。その歌が好きではなくても、一つの時代の象徴として共通の存在として流行歌があったのだが、いつの頃からか音楽は大衆から離れていってしまった。大衆という、大きな括りが意味を持たなくなっていったのかもしれないが。
放送禁止になったことについては、放送局がNHKのラジオ放送のみであったことを考えておく必要がある。この時のラジオはマスディアとしてのラジオであり、しかもワンアンドオンリーな存在であった。そうであったから、公序良俗を害するということに対して、神経質な面を持っていたわけである。

「長い髪してマルクスボーイ
 今日も抱える「赤い恋」
 変る新宿あの武蔵野の
 月もデバートの屋根に出る

 この詩が「苦楽」に発表されると、中山晋平が作曲を申しこんできた。と同時にこれでは官憲がうるさいから書きかえてくれと、ピクターの岡文芸部長が言ってきた。八十は何回か断わったものの、やむを得ず最初の二行を「シネマ観ましょかお茶のみましょか/いっそ小田急で逃げましょか」という文句に替えたというのである。それでも放送禁止の憂き目をみたのであった。」

マルクスボーイが流行歌の歌詞に入ってくる辺り、この時代の空気の面白さを感じる。共産主義を恐れつつ、官憲は締め付けていく意志を明確にしている一方で、若者にとっては新しい思想に惹かれていくことが当たり前とでも言いたげな感覚がこの歌詞には感じられる。ソ連の崩壊に至るまで、共産主義という思想がある種の引力を持ち続けていったことも確かだし、それが社会に与えた影響も小さくはなかった。善し悪しの問題ではなく、世相という切り口で見た時の興味といえる。消費されていくだけの流行歌といえばそうなのかもしれないが、時代の気分を撮し込んでいくということは、簡単に思えて、実はそれなりの覚悟を要するものなのだとも思える。
新宿にデパートが出来て、新しい繁華街としての繁栄を確かなものにしていくのも、この頃からと言えるだろう。明治末頃から既にその兆しは見えていたのかもしれないが、関東大震災で旧来からの下町が壊滅的な打撃を被り、多くの人々が周辺の地域へと住まいを移していった。その中では、東京の西へと移っていくことが、一つの流行とすら言えるほどのムーブメントになっていった。そんな中で、私鉄のターミナル駅でもある新宿が、震災後の新しい東京を象徴する新たな繁華街として発展していったことを、この詞はその時代の気分と共に書き写している。また、「いっそ小田急でにげましょうか」には、箱根という土地が変わらず東京のリゾートの代表であったこと、温泉宿で逃避行というイメージにリアリティがあったことを感じさせる。それ故に、この歌は放送禁止の憂き目をみることになったのだろう。

新しく建て替えられた丸ビルは、今風のガラスを多く使った建物になり、かつての重厚さは失われた。三菱一号館を新たに建ててみせる位なら、もう少しオリジナルの丸ビルに対しての敬意が払われても良かったのではないかと思えてしまう。


「中央公論社が丸ビルに入居したのは、完成早々の大正十二年四月一日のことだった。はじめは七階の七七六号室である。それ以前は本郷西片町の麻田駒之助社長邸が編集室であり、大正十年六月からは本郷三丁目の東海銀行の三階を間借りしていた。最新式ビルに移ったものの、社員はずいぶんと戸惑いをおぼえたらしい。とくに編集長の滝田樗陰は本郷村の自宅から通うのに不溝たらたらである。まえに交通事故の経験のある彼は、抱えの人力車もやめていたし自動車に乗るのも避けていた。「あののろくさい電車で四十分ももまれてきたらいいかげんかんしゃくを起すだろう」と編集部員の木佐木勝は書いているのだが、通勤第一日目から樗陰は電車の混雑ともどかしさにかんしゃくをおこしている。そのうえ、彼は着物に下駄ばきであった。『木佐木日記』大正十二年四月二日の項にはつぎのように書かれている。
「…丸ビルでエレベーターに乗る前に、地下室の下足預り所へ行って、下駄を草履にはき代えなければならないことだった。はき物は駒下駄以外ははかないことにしている樗陰氏は、これには一番閉口しているようだった。そこへ行くと自分などは、今日から大枚五円を奮発してフェルトぞうりに代えてしまったから、いちいち地下室へ下りて下駄を預けるめんどうもないが、樗陰氏は絶対にフェルトぞうりなどはかないから困る。樗陰氏がフエルトぞうりをきらうのは、からだが肥っていて、背があまり高くないからだろうと思う。洋服を着ない理由もそういうところにあるのではないかと思っている。」

中央公論社は1990年代に経営危機に陥り、読売新聞傘下へ入っている。そこで中央公論新社となり、元の会社は平成出版と名を改めた後に2001年に消滅している。大正デモクラシーの中心的な存在で、我が国の文学界でも多大な貢献をしてきた出版社であるが、既に元々の形では存在していない。この老舗出版社は、明治19年に京都で創立され、その十年後に東京に移ってきた歴史を持つ。本郷西片町の社長邸の編集室というのは、いかにも明治という時代の出版という事業のスケールがまだ巨大化する以前のどこか家内手工業的な匂いを感じる。そこから徐々に出版社という、今日のイメージに近い形へと会社が大きくなっていく様子が分かる。この時代に日本橋辺りの商家でも、少しずつ同じ様な感じでビジネスが巨大化していき、商家から会社へと転換していったものがあったのではないだろうか。それでも、こういったエピソードには、単なるビジネスとしての出版という以前の明治人の描いた理想像のきらめきが感じられる様に思える。無邪気に「坂の上の雲」を目指していた同時代性というべきかもしれないが。

それにしても、本郷から丸の内まで市電で40分というのも、当時の市電の混雑振りを想像させる。永井荷風の日記にも、市電が混雑しているから乗らずに歩いたという記述は覚えがある。今日の目から見ると、本郷から丸の内への通勤など至近距離で恵まれたものだとしか思えないのだが、この大正末の感覚とはそのくらいの大きな違いがあったということなのだろう。また、この当時の服装に関しての感覚が窺えるところが面白い。洋装で背広を着るのが当たり前というのは、まだこの頃には一般化していないと言うことが分かる。着物に駒下駄でいつも過ごしているとしたら、今の時代なら確実に注目の的になれるだろう。また、丸ビル内では出来た当時から下駄は館内禁止であったことも面白い。その為の下足預かりがあったという辺り、時代性を感じさせる。この頃、日本橋の三越でもまだ下足預かりを行っていた。買い物に行くと履き物を預けて店に入っていたわけである。その背景には道路の舗装率が極めて低く、雨が降れば泥濘と化すような当時の道路状況があった。屋内を清潔に保つには、下足預かりが必要との認識もあったわけである。ここに書かれているフェルト草履というのは、フェルトに畳表を貼り付けた草履で、昭和初期から流行したという。軽い上に減りにくく、重宝されたという。

「しかし丸ビルで樗陰がたちまちのうちに気に入ったのは、部屋からの展望のすばらしさと食堂街、商店街であった。窓からはビル街をこえて日比谷公園、内堀の水もみはるかすことができる。ビルのなかの便利さはことのほか彼を喜ばせた。木佐木は「本郷村から丸の内の中心地へ来てみて、何もかも新しく見えた。今日から新生活が始まるのだと思うと、すこしばかり張り合いが出てきた」と書いている。」

それまでにはなかった環境である新しいビルディングの職場、そのことだけでも新しい時代の息吹を感じることが出来た時代なのだ。これまでになかった新しいもの、それが新しい時代を予感させて、何かが変わっていく。いつしか、そんな新鮮さを何に対しても感じることがなくなっていく。既にそこいら中に同じ様な再開発という名の下に建てられた高層ビルが建ち並び、似たようなショッピングモールが併設され、ということになると、既に新しい環境を生みだしているとは言い難い。何かを変えていくような新しさというものが、限りなく出続けていくわけでもないし、そのマンネリに慣れて耐えていくだけのことなのだろうか。

こちらも張りぼてとして、表面だけが「保存」された東京中央郵便局。これが都市景観にあり方として後世に誇れるものなのか、疑問に思う。


著者が中央公論社に入社した昭和三十年という時期は、戦後の疲弊から抜けだそうとしていた時期で、既に冷戦は始まっていたが、東京から焼け跡の残骸が消え去ろうとしていた時期でもあった。それでも、戦争中の経験などは未だ生々しく、労働運動や反戦運動が盛んだったという。
「とはいえ、社内の組合運動はいたってのどかだった。五月がちかくなると、昼休みにはかならず歌の練習にひっばりだされる。将棋などバチバチやってはいられない。丸ビルの屋上にのぼるか、皇居前広場に行くかである。そこでは東大出のソプラノの美女淑子さんがリーダーであった。詩人の本郷隆氏がアコーデオンをひく。淑子さんは組合ニュースに「屋上への招待」という文章を発表、「屋上にたむろしているよその会社の人たちが羨しがって加わってくることもあります」と書いた。
 屋上ではあちこちに合唱のグループができて、青年歌集をひろげている。

晴れた五月の青空に
歌ごえ高くひびかせて
進むわれらの先頭に
なびくは赤い組合嬢

こんな歌声が交響して、丸ビルの上空に散っていくのであった。」

戦後の開放感に加えて、ようやく必至で復興に走り続けてきたものが形になり始め、戦後という言葉の後という部分が実感を伴い始めた時代なのだろうと思う。少し余裕が出来たとはいっても、まだ人々の真摯さは失われることもなく、どこか古き良き時代といった感を抱かされる。娯楽が豊富なわけでもなく、物質的な豊かさでは今日に遠く及びもしないのだが、この頃のこういった話を見聞きすると自分の生まれる前の時代の話であるにもかかわらず、どこか懐かしさを覚えてしまう。それは、自分の知っている高度成長期の中でもこの時代の空気の残滓がまだ残されていたからではないかという気がする。とはいえ、純朴とすら思える、この当時の中央公論社の雰囲気が何とも言えず、羨ましくさえ思える。この時代と現在とで何がこれほどの違いを生みだしていて、我々は何を得て何を失ったのかということを改めて考えさせられてしまう。一言でいえば、希望に満ちた時代とそれを失っている時代の違いと言えるのかもしれない。


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