東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

目黒の旧跡を尋ねる~その九:たこ薬師、目黒不動前周辺

2015-01-19 18:41:57 | 目黒区
さて、目黒不動瀧泉寺の門前には古くからの寺であったからなのか、他にも多くの寺院が集まっていた。門前町の名物が筍飯と飴であったというのだが、今の門前町はこんな感じ。かつての賑わいが少し過去のものになりつつある雰囲気も感じる。


その門前の通りに、たこ薬師がある。成就院といい、慈覚大師円仁によって858年にに建立されたという。瀧泉寺が808年の創建と言い、碑文谷の円融寺が853年と言われているのだが、この辺りの整合性はこのデータだけで突き詰めても仕方のない話ではある。
「成就院(天台宗) 下目黒3-11-11
 天安2年(858)慈覚大師の開山で、本尊は大師の自作と伝えられ3匹の蛸にささえられる蓮華座に乗る薬師如来です。俗に蛸薬師とよばれ疫病除の仏として人びとにあがめられています。この寺の所有に浮世絵師鳥居清長(1752~1815)筆の歌舞伎十八番の一の出し物を描いた「矢の根五郎」の額がありますが、国の重要文化財に認定され国立博物館に保管されています。境内には、徳川2代将軍秀忠の側室、お静の方がわが子保科正之の栄達を祈願し、大願成就のお礼に奉納された「お静地蔵」が建てられ、また、3代将軍家光が遠州の秋葉大権現を勧請した「秋葉大権現」が併祀されています。この他に江戸時代の地蔵尊や庚申塔が建っています。
 平成3年3月  目黒区教育委員会」


山門は入ると左手に供養塔、庚申塔が並ぶ。
「別名「蛸(多幸)薬師」。創建は慈覚大師。本尊の蓮華座を三匹の蛸が支えている。これは、大師が海に投じた薬師像が蛸に乗り漂着した故事に由来し、蛸薬師の名もここから付いた。」(門前の案内板より)


右手の奥には、大森の入新井の講中が建てた秋葉講の石碑。秋葉講は、徳川家のお膝元、静岡の火防の神様である。


境内の少し奥にある、朱色のお堂がどうやら秋葉様を勧請してある様だ。お寺のサイトを見ると、
「家光公が当山を再興された折、江戸の火防の為とて、 徳川発祥の地にゆかり の遠州の秋葉大権現を移し勧請し併祀されたもので、現在、ご分身十数体を有し、 羽田、 大森、目黒などの各区に亘る多数の講社によって信仰されています。」とのこと。三代将軍徳川家光公は、目黒、品川方面に掛けてはことのほか熱心に寺を造ったり、再興したりしている。


境内はそれ程広いわけではない。本堂の佇まい。賽銭箱にも、大森入新井講中の文字が見える。


本尊は薬師如来。不老山薬師寺成就院が正式名称。


本堂の横手には、お静地蔵。


さて、不動前の門前をまた少し歩いていくと、臥龍山能仁寺安養院というお寺もあった。ここは参道から眺めただけで、境内までは入る時間がとれなかった。ここも、平安時代に慈覚大師によって開かれたとのこと。寛永元年(1624年)に再建されということなので、成就院と同じタイミングで再興されたと言うことの様だ。(天台宗東京教区サイトより)


そこから少し歩くと、もう品川区に入るのだが、目黒不動の門前にあった比翼塚の白井権八と小紫の物語に関連した地名で、かむろ坂という坂に出る。この坂のと中に、行元寺というお寺があった。元は牛込肴町にあり、行願寺ともいったそうで、源頼朝公に由来するとも、その後の時代に太田道灌が江戸城を造った時の地鎮祭を行った僧によって開かれたとか、諸説あるらしい。明治末に区画整理によって、この地へと移転して来たそうだ。戦災で本堂を焼失したという。(天台宗東京教区サイトより)


門前には、大震災横死者供養塔がある。


もう一つ、万人講と書かれた石碑。


こうしてみると、目黒不動瀧泉寺の周辺には、徳川家光の時代には50余塔に及ぶ伽藍があったというが、今残っているのは成就院と案養院の二寺。そして、明治後期に都心部から移転して来たものが、五百羅漢寺、海福寺、そして行元寺ということになるだろうか。


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