東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

佐竹商店街

2011-11-27 18:09:51 | 台東区
私が佐竹通りの名を最初に知ったのは、木村東介氏の著書「池ノ端界隈」を読んだときだった。大正時代に木村氏は雲井塾という本人書くところの愚連隊を率いていた。その頃に喧嘩の名所として下谷一と言われていたのが、この佐竹通りだったという。そこに喧嘩の腕試しに出掛けていった話が出て来た。結局、その辺りでは一番強いという市村座の用心棒に連れが喧嘩を売ってコテンパンにされる経緯が描かれる。木村氏は、相手を尾行して市村座の用心棒と突き止めるのだが、その時はそれ以上にはならずに済む。後年、下谷へ活躍の場を移したときに親しくなるという武勇伝になる。
市村座については、私も色々と調べていたので、この話に興味を持った。改めて調べると、大正っ子シリーズの「大正の下谷っ子」鹿島孝二著で佐竹通りの様子が詳しく描かれていた。

元々はこの地は江戸時代には秋田の佐竹藩の上屋敷があった。明治維新で屋敷は政府へ上納されたのだが、長い間空き地になっていたという。この空き地に露店が建ち並ぶようになり、賑わいを見せ始めたのが佐竹通りの始まりということのようだ。位置としては現在の御徒町駅の東側になる。


今はアーケードの掛かった佐竹商店街がある。舗装もカラーブロックが敷かれ、整った環境。なのだが、どこか鄙びた不思議な雰囲気を醸し出している。明治末から大正期にかけて、下谷の盛り場として浅草に次ぐ賑わいを見せていたという。


このエリアは、関東大震災で焼失しているものの、第二次大戦中の空襲では焼けずに済んだ。その為に、昭和初期の震災復興期の建物が残されている。


とはいえ、シャッターの降りた商店も多い。「大正の下谷っ子」に描かれていた商店などは、さすがに現存しないようだ。


春日通りの新御徒町駅出口横から、南北に伸びている。


金沢の商店街に続いて明治31年に商店街組合を結成したとのこと。


ふとん屋さんも往年の賑わいの雰囲気を残している。二階の窓が特徴的。


人形町に大元のある重森の人形焼き。暖簾分けが都内各所にある。店ごとに結構味が違うので、面白い。ここの店のは未食だが。


商店街南端。少し行けば鳥越のおかず横町も近い。


この界隈は、昭和初期の町並が高密度で残されている都内でも数少ないエリアになっている。数回に分けて、紹介していきたいと思う。

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