東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

両国広小路~その三

2011-09-13 20:22:58 | 中央区
私が両国広小路に興味を持つ様になったのは、両国橋界隈を歩いてみたことから始まる。神田川が隅田川に流れ込む辺りには、柳橋が掛かっており、かつては東京でも有数の花柳界で知られたところである。現在では見る影もなく、橋にその名を留めている。隅田川は堤防で囲われ、町から水面の雰囲気を感じ取ることは難しい。かつては、人々の生活と共に水面があり、憩いの場でもあったのだが、周辺の町自体も生活感を感じない町にもなっている。

今は隅田川の堤防を越えて、川沿いの遊歩道を歩く事ができる様になっている。そこを歩いて見ていたときに、ふと気が付くと微妙に盛り上がっているところがある。川のこちら側も向こう側も同じようなところが、少し盛り上がっている。微妙な起伏なので写真では分かりにくい上に、デジカメは画像の歪みが大きくてより分かりづらくて、申し訳ない。


そして、よく見ると向こう側にちょっと面白そうな建物があるのだが、その角度が何となく腑に落ちない感じに見える。反対側にも行って見ると、その建物はこんな感じで、そこから回向院の真横に向けて道路が通っている。



改めて古い地図を見ていくと、回向院の真横に道路が向かっているのではなく、元々そこに両国橋があって、道路の正面に回向院があったということなのだ。当時はこちら側が正面だった訳だ。
そう見てくると、反対側のカゴメ食品のビルの辺りが妙な形の三角形になっている。震災後の区画整理で元の雰囲気を感じ取るのが難しいが、どうやらここに両国広小路があったようだ。


さらに詳細な位置関係を明らかにしてみたくなり、重ね地図を自作しみた。青で描かれているのが現在の道路である。完璧に位置関係があっているとは言えないのだが、ほぼこんな感じではなかったかと思えるところまでは合っていると思う。


両国橋は明治8年架橋の木橋時代と現在の橋との比較になる。明治37年に架けられた橋は、現在の橋のほぼ隣20メートル下流側にあったという。この橋は関東大震災で被災したので掛け替えることになり、現在の橋が架けられた。そして、その橋は損傷の少なかった中央部分を活かして、亀島川の南高橋へと移された。この橋は現在でも健在であり、都内でも最も古い鉄橋としてその姿を留めている。この橋は「なんこうばし」ではなく、「みなみたかばし」という。この橋が健在であるお陰で、往年の両国橋をこの橋から感じ取ることが出来る。


木村荘八の生家、第八いろはは今では靖国通りに飲み込まれている場所だったようだ。横山町の外れも江戸通りになっている。震災と戦災にあったこの町は、昔の名残というのもないに等しい。荘八の書き遺してくれた絵図を片手に、町を歩いてみても、遠い昔のこの町の賑わいを思い浮かべることすら難しい。ただ、広小路の痕跡を知ることで、この町の過去を辿る手掛かりを得ることは出来たと思う。馬車鉄道が走り、江戸黒といわれた土蔵造りの黒塗りの商家が立ち並んだ横山町。今の街もその過去の上にあることは間違いない。


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2 コメント

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Unknown (まさそり)
2011-09-13 20:59:07
ワタシはてっきり、柳橋あたりから両国郵便局あたりが広小路として栄えていたのだと思い込んでいました。汗。
昔の両国橋の位置を考えると、納得ですね。

南高橋は、自転車で通った事があります。
何故こんな立派な橋がこんな所にあるんだろうと、これも不思議でした。
なるほどなぁ。
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Unknown (kenmatsu)
2011-09-13 21:33:21
回向院と旧国技館についても、少し触れようと思っていて忘れました。(^^;
明暦の大火の犠牲者の供養のために建てられた回向院ですが、江戸時代の内から境内では怪しげな見せ物とか多かったようです。聖と俗で言うなら、圧倒的に俗の方だったみたいで、余り芳しくない評判も当時からあったそうです。そこに明治41年に国技館が出来るわけですが、その時も江戸の災厄の犠牲者の上で、褌姿の裸の大男のとっくみあいとは情けないという評もあったそうな。
ももんじやは江戸以来の名店ですが、ここも元は広小路にあったようですね。鳥安という合鴨の店が、向こう側で残る老舗ではあります。
明神下の神田川の支店が回向院に向かう川筋からの道の入り口辺りにあるので、鰻なんて言うのも良いですね。
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