東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(49)水辺の化粧なおし

2013-09-12 22:33:57 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、隅田川の景観整備が始まった頃の話で、水辺の化粧なおしと題して隅田川にまつわる思いを語られている。

「隅田川は昔よりせまくなったように見える。川岸にビルが建ちならんだり、橋がふえたりして、遠望がきかなくなったからであろう。ましてや高速道路が左岸の堅川から向島へとつくられてみると、なにか哀れさをもよおさすものがあった。川というものがおのずと生みだす大きなひろがりは失われて、水は鉄とコンクリートの造型物のなかを流れているという気配だ。
 空間が人間の感覚に訴えることもさることながら、川幅は実際にせばめられている。それは左岸右岸で着々とすすめられている「親水」遊歩道の工事である。永代橋付近や隅田公園のように完成したところもあれば、埋立て進行中の場所もある。昭和三十年代後半から、高潮対策としてつくられたカミソリ堤防が実用一点張りの施策だったとすると、いまの工事はなりふりを気にした隅田川の化粧なおしである。」

永代橋。こうして見ると、力強さを感じる。


 かつて大川と呼ばれた隅田川、その面影を求めようとしても、両岸のカミソリ堤防がいつも視界を遮ってしまうことが、最大のネックになっていると思っていた。あの堤防によって、視覚的にも、空間的にも町と川が厳然と区切られてしまい、連続した空間の繋がりを感じられないようになってしまったと思う。古い時代の写真や絵を見ると、町と川が隣り合って町の続きのように川があったことが分かる。たしかに、災害時にはそれは危険なことではあったのだが、あんな風に断絶させてしまったことが良かったとは思えない。そして、そう思う人が少なくないからこそ、「親水」遊歩道の整備という事業が行われるようになったのだろう。この遊歩道、今ではかなり広範囲に出来上がっていて、水辺に近づくことができる様になったのは嬉しいことだ。とはいえ、町と川の断絶は解消には程遠い。

「昨年、私は「ビジュアルブック江戸東京」シリーズの別巻『震災復興大東京絵はがき』(岩波書店)という本を編集したことがあった。尾形光彦氏の絵はがきコレクションを元に溝成したのだが、担当の桑原涼氏と尾形氏の事務所を訪ねておもしろかったのは、隅田川両岸の俯瞰図がたくさんあったことである。」



 この本、手にとって眺めているだけでも楽しい。そして、これを見ていると、東京の町が江戸以来、一番大きな変革を遂げたのが関東大震災の久人復興によるものだという思いを強くする。高度成長期に生まれ育った私にとっては、震災復興期の東京の姿はまるで知らない町ではなく、記憶の中にある建物や雰囲気の最初の形態であったことが連想できる。今の東京の大通りや町割は、ほぼこの時にできたものが未だに踏襲されている。東京大空襲でも破壊され尽くしたのだが、町の骨格という点から見ても、やはりこの時期の変革が一番ポイントになっていると思える。

「幸田文の随筆「二百十日」(昭和二十九年)には向島での台風体験が出てくる。もちろん震災前、荒川放水路ができる以前の話である。父露伴や植木屋、船頭、消防などの暴風観測、応急処置が描かれて「あらしで男前になる人間があるものだ」と感じ入っている。女学生の彼女はそんな男たちに信頼感をいだいていた。
「土手の切れさうな場処はきまつてゐた。水の突きあたるところ、底にねぢれのあるところは毎年同じで、山谷がははいつも安全で、向嶋がはだけがいけない。周さんと父は、その危険場処へ役場がどんな臨時処置を講じてゐるか、護岸工事がどうのかうのと論じる。周さんはいざとの場合の舟を約束して帰るが、いよいよもう水になりさうだとなると最後に見舞つて来るのが井戸屋の親方で、水口をとめてしまふ。半鐘は一ツニツは警戒、三ツは逃げだし、摺りばんは決潰である。異常な緊迫を押しつける音なので、ニツばんでも私はがたがたと不安になる。」
 子供たちは台風時の出水には敏感で、そんなとき戸板を用意するのが常識だった。しかし、子供というものはしようがないことばかりしたがるもので、二百十日ごっこという「土地がらかさせる季節的な惨憺たる遊び」をしていたというのである。」

 震災前の、風光明媚の地であった向島での話である。洪水の寸前の状況というのは、緊迫感溢れる危機的な状態なのだが、どこか非日常の浮ついた気分が入り込んで来る雰囲気を思わされる。いまでも、台風が直撃といわれ、接近してきて、風雨が強まってくると、不思議と気持が昂ぶって来るのを覚える人も多いだろう。実際に災害で酷い目に遭う経験を積んでいけば、そういう感覚でもなくなっていくのだろうが、あの妙に浮かれていく感じというのは、何とも言いがたいおかしなものだと思う。露伴譲りで、厳しい人柄で聞こえた文さんの文章からは、そんな馬鹿げた気分は微塵も感じられない。
 とはいえ、子供たちが二百十日ごっこをしていたという辺りは、何ともおかしい。私が小学校の低学年の頃に、大阪から祖父の兄が訪ねてきたときに、安保ごっこと称して、学生のデモのマネをして遊んでいたと感心されたことがあったのだが、身近で起きている事は大概遊びになるのが子供というものだろう。

「桜橋は台東、隅田両区の協力によって設計管理がなされた。その「デザイン検討委員会」の委員長をつとめた清家清氏は、かつて本誌に「隅田公園・桜橋」の一文を寄せたことがあった。そのなかで、
「戦後、隅田川の汚濁は甚だしく、川面からは硫化水素やメタンの泡がブクブクと発生、溶存酸素皆無の悪臭の川となってしまった。また、鋼矢板の防潮護岸堤は嘗ての墨堤に/或いは隅田川に小舟で遊んだ市民のリクリェーションを完全に奪ってしまったかのように見えた。
 もともと墨堤というのは隅田川を挟んでの両岸を指すハズである。だから隅田川を挟んでの隅田公園というのは、台東区と墨田区の両区にまたがっていて当然である。それが、この汚染というよりは汚濁して悪臭を放ち、両岸を鋼矢板で固めた大きなドブ川で隔絶される破目になっていた。
 残念なことに、防潮堤と公害に汚染した隅田川は市民から疎外され、首都高速道路がそれに拍車を掛けて折角の隅田公園を台なしにしてしまった。」(昭和五十九年八月号)
 建築家の眼からみた隅田川は、まさに死に体であった。日本橋の頭上の高速道路が東京都民を嘆かせたのとおなじように、風景の破壊はこころある人の悲しみをさそっている。右岸の今戸側からみると、三囲さまも長命寺、弘福寺も高速道路におしつぶされかたちで、眼でしっかりとたしかめなければわからぬようになった。現代の隅田川両岸図を描くとしたら、文明の犠牲としての歴史的風景をとらえなければならないだろう。」

 清家清氏、改めて調べてみると、2005年に亡くなられている。違いの分かる建築家として知られた方だった。建築家として、東京の町に対して愛情のある視線を持っておられたことが、うかがわれる。それにしても、桜橋の計画、建設を進めていた頃からでも、随分と隅田川周辺が変わって来たことを感じる。今はどの季節であっても、川面の近くまで行っても、悪臭を感じることはない。水辺まで近づけるところも数多く整備されているし、川を取り戻そうとしてきたことが、実り始めたとも言えるのかもしれない。とはいえ、カミソリ堤防で町と川が分断されている状況は今も変わっていない。

「人間は前代にたいする不満、または反省から自分たちの時代の行為を肯定して行動をおこす。隅田川の美観修復ひとつとっても、破壊されたあとの手直しである。化粧なおしである。それがどこまで可能なのか、未来を予見することのむずかしさを考えさせられるが、いまの隅田川は、化粧なおしの時代にはいっている。」

 膨大な資金を投じて作ってしまった高速道路、その結果を後から修正していくことは難しい。日本橋の上を通した高速道路を何とかしようという話も出ているし、東京オリンピックの絡みでひょっとするとそれは実現するかもしれないが、困難な事業であることに違いはない。最初に計画を立てる段階で、何を大事にするのかということがしっかりしていない限り、同じ過ちを何度でも繰り返してくことになる。そして、後になってから、何とかできるレベルで修正を試みても取り返しのつかないことの方が多くなる。はたして、次のオリンピックに向けた事業はその同じ轍を踏まずに、次代を見据えた街造りをすることができるのだろうか。

「さきほどの尾形光彦コレクションをみていて、びっくりしたことがある。「機上ヨリ見タル清洲橋ノ偉観」という一枚に、なんと焼けるまえの私の生家が写っていた。いまでこそ航空撮影の市街地写真は多いが、震災復興のころにこんな絵はがきがつくられていたと知って、懐旧のおもいをおさえがたかった。
 それとともにあらためて感じたのは、大川が人間の生業とともにあったということである。清洲橋を中心として両岸にはその匂いがたちこめている。箱崎上空から撮っているが、左手(右岸)の中洲には料亭、廻漕問屋の建物、清洲橋のたもとには永井荷風の主治医大眉貞夫が昭和二年に再建した中洲病院がみえる。彼は南神保町生まれだが、不鳴庵と号し自然居士と称したほどの中洲好きだった。右手には浅野セメントエ場の荷上げ場がみえる。北にむかって昔づくりの倉庫がつづき、川べりには舟運に関連のある建物がならぶ。僻鰍図にはビルディング、コンクリート造りの建物はまだわずかである。清澄町では小学校同級の坂部君の丸木組(廻漕問屋)が唯一のビルであった。
 小名木川に架かる万年橋をわたると常盤町だ。左手の空地のわきの小路を入ると、芭蕉庵跡、柾木稲荷がある。河岸には一銭蒸汽の乗場がはっきりとわかる。こんな写真をみていると、過ぎ去った五十年まえの時間があたかも昨日のようによみがえってくる。この本には、両国橋とその両岸、吾妻橋・東武線鉄橋とその両岸の絵はがきを拡大してとりいれたが、隅田川べりに生活の痕跡をのこす人ならば、道路も建物も、橋も運河も、すぐそれと指呼できるにちがいない。」



 なんといっても、こんな風に近藤氏の生の感情が出てくるところが、この「東京・遠く近き」の中でも好きなところだ。ここで何度も書いているように、私は下町の生まれ育ちではないので、隅田川沿いのエリアにはむしろ疎かった。それだけに、こんな形で氏の生まれ育った辺りについての話が出てくると、つい引き込まれて読んでしまう。この界隈、変わったといえば変わっているのだが、浅野セメントも今もあるし、清洲橋は変わらずにあって、今も歩いていみればこの頃の面影を追うことはできる。
 とはいえ、より大きく変わっているのが中洲、箱崎の側であって、すでにどちらも洲でもなく、島でもなく、地続きになっている上に、舟運の時代の面影も消えて、料亭で賑わった所であったことを思い起こさせるものもほとんどない。
 この後の略した部分には、荷風の中洲通いからあちらこちらへと足を伸ばした話が引かれているのだが、中洲だけではなく、荷風の愛した方々の町々も変わり果てていることに違いはない。その変わり様には、ただ郷愁という話ではなく、昔よりは良い世の中になってきたことで消えていったこともある訳で、色々と思いを深くすることになる。

「あの一枚の絵はがきは、まさに荷風の「深川の散歩」のころのものであろう。そこには「いつものように清洲橋をわたつて」という彼の姿がうつされているようにおもえる。私の記憶にのこる風景は昭和十年以後のものだが、写真のなかの倉庫の一角はとりはらわれて広い原っばになり、「にんべん」とよばれていた。子供たちがバッタとりに熱中する遊び場であった。そんなことを想いおこすと、絵はがきからは小学校に上る寸前の静かな生活風景がみえるような気がした。」

少年だった近藤氏もこの橋を渡っていたのだろう。そんなことを思う事ができるのも、今もこの橋があるお陰だと思う。


 私の暮らす町は、今も変わらず多くの人が生活している町だ。だが、私が子供だった頃は、多くの子供がいて、路上で遊んでいたものだった。その後の町の変遷を思い起こしてみると、近所の子供が集まって遊んでいた様な状態は、私くらいが最後の世代であったようにも思う。小学校に上がっても遊んでいたけど、近所の面倒見の良かった兄弟の暮らしていたアパートが無くなり、これまた本当に近所の悪ガキ連の世話をよく見てくれていた少し年上の女の子の暮らしていた長屋も消えていき、小学校の高学年になる頃には地元の繋がりは消滅していたように思う。私が地元の小学校に通っていなかったことも、地元の繋がりが希薄になっていく大きな要素だったのだが、アパートが古くなって壊されていったりという、即物的な現象と共にそこに暮らしていた友人も引っ越していったのだった。近藤氏の清洲橋周辺の想い出を読んでいると、やはり自分自身の子供の頃のことを思い出してしまう。

「年の暮の夕方、私は永代橋東詰下の遊歩道をのぞいてから箱崎、中洲へと歩いてみた。そして清洲橋をわたり万年橋を過ぎて森下に出、新大橋でまた大川をわたりかえした。このあたりの隅田川両岸ではいわゆるスーバー堤防(緩傾斜式護岸堤防)は望むべくもないが、河岸七、八メートルを埋め立てる「親水テラス」の工事があちこちで進行中だった。
 橋は塗りかえられ、遊覧船からもそれとわかるような、寄席文字による橋名板までがとりつけられた。水辺の魅力の見なおしとはいうが、隅田川の化粧なおしはいまや真っ盛りである。
 そのうえ、橋は照明に輝いていた。あらたに完成した中央大橋は真ん中の鉄塔にのみ光があてられて、簡素な美しさをかもしだしていた。しかし、永代橋の骨太のアーチはブルーに浮き上がっている。清洲橋の装飾電灯は、遠目には燈色にみえるが、近づくと鋼鉄板に長方形の窓があけられていて、ピンクの電灯が点々とともされている。化粧なおしもこうまでしなければならないのか。夜は夜であってほしいとおもわずにいられなかった。」

清洲橋。この橋の美しさは、格別だと思うようになった。それだけに、近藤氏がピンクの照明をつけられたりしたらがっかりされるのは、よく分かる。


 橋を綺麗にして、親水テラスを設けて、今度はライトアップという、定型的な進行で「水辺の再生」とかお手軽なお題目に予算が付いて動いていく様が目に浮かぶ。それぞれの橋のデザインに思いを馳せ、水辺を本当に親しむことはどういうことなのか、そんなことを考えさせられる。できることなら、私はもっと水上を交通路として復活させて欲しいと思う。かつての水上バスをもう一度、と思うのだ。今の物見遊山だけの観光水上バスではなく、都市交通として水上バスを再生させることができたら、もっと面白くなるだろうという気がする。生活の中で、ごく普通に水上バスを使うことができる様になれば、それこそが水辺に親しむということの実現の一つになるだろう。
 この稿が書かれてから、既に約二十年の歳月が経過しているのだが、本当の意味での水辺の見直しは未だ終わっていないと思う。


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4 コメント

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はじめまして (Unknown)
2013-09-14 10:10:44
突然のコメントすみません。
先日仕事で大正10年に建てられた物件にいってきました。
つくりのひとつひとつに歴史を感じました。
豊島区高田でした。お近くに寄ることがあればぜひ!
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ありがとうございます。 (kenmatsu)
2013-09-14 18:43:40
御覧頂いて、コメントまでいただいて、どうもありがとうございます。
豊島区高田の大正十年築の物件、どの辺りでしょう?
ちょっと調べてみたんですが、まだ正解に辿り着けません。明治通りに近い辺りは結構戦災で焼けているので、残っているのは目白台の下の辺りか、学習院の下側の辺りかなと思うのですが。
ご教授頂ければと思います。
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こんばんは。 (Unknown)
2013-09-16 00:19:23
わあ!お返事ありがとうございます。
豊島区高田1の11のいくつかでした…確か一階に栃谷紙工さんとあった気がします。
私は不動産屋で、賃貸にでていて先日お客様をご案内しました。
中はもちろんリフォームされているのですが、それでも歴史を感じる所が随所にみられ、感動してしまいました。
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今度歩いてみます。 (kenmatsu)
2013-09-16 09:28:41
ご教授頂いて、どうもありがとうございます。
近くまで歩き回っているのに、肝心なところを見落としているというのはよくあることで、今度歩きに行く楽しみが出来ました。震災前の建物は、東京では本当に希少だと思います。
大事に使われているというのも、何よりだと思います。
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