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東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(20)銀座の子(つづき)

2012-07-23 22:46:28 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。

「池田弥三郎は銀座に育ったものの実感として、銀座は水にかこまれた「島」のような土地であったと書いている。「どこへ行くのにも、銀座の外へ出ようとすれば、道は必ず水に行きあたって、橋を渡らなければならなかった」といい、鏑木清方の『こしかたの記』からつぎの一節をひいている。
「このへんの道筋は、どちらへ出ても河岸から橋へ、また橋から河岸に沿う。かりそめのゆききにも、潮の満ち干を身近かに覚えて、磯くさい香りは袂にしみる。柳の垂れる石垣にも、真黒な橋杭にも、黒茶色の舟むしがビッシリと、まるで生えた苔が揃ってぞろぞろと動くかのように這いまわり、石垣のすき間からは、赤い具足に身を固めた弁慶蟹が、大まさかりのようなはさみを立てて、あたりをうかがう。」
島といい橋といい、潮の満ち干といい、水にかこまれた東京の下町生活を経験したものには、なつかしい感覚である。池田は『銀座十二章』(昭和四十年、朝日新聞社)に「橋と水の物語」の章をもうけて、少年時代の記憶を清方の回想にかさねあわせている。明治十年代半ばから約十年間、鉄砲洲、築地、木挽町で過した清方と、大正期以後の銀座で育った彼とでは時代にかなりの隔りはあるが、共通するのは、震災前の水景の記憶である。」

私は戦後の生まれだし、高度成長期に育った世代なので、「島」だった時代の銀座を知らない。物心付いた時には既に外堀は埋められており、数寄屋橋も交差点の名前でしかなかった。三十間堀川などは、想像の外になってしまう。後々になって、こういったかつての東京の町の姿に興味を持つようになってから、始めてそういえば三原橋というくらいだから、あそこにも川があったんだと思ったほどである。私が社会人になって初めて勤めた会社は三原橋に近いところにあったが、今思えば、あれは三十間堀川の跡に建てられたビルだったのかと思う。そのビルも、今は建て替えられており、今はもう無くなっている。銀座という町は、東京という巨大な欲望の渦巻く都市の中でも、その中心にあるような町でもある。移り変わりの激しさは、東京の欲望の激しさの表れとも思える。
私の意識の中でも、銀座が下町であるというのは、永らくピンと来ないものだった。これも、先に書いたことと同様で、下町とは何かということを知っていく中で、初めてそういうことだったのかということが分かってきたと思う。
銀座八丁目のバー・ボルドー。銀座最古のバーともいわれている。「銀座十二章」の中でもこのお店のを作られた当時の御主人の話も出てくる。


ボルドーの入口付近。昭和2年築、木造二階建て。宮大工の手になる凝った洋館である。


「たしかに銀座は「島」のようなところだった。中央通り(東海道)をまんなかにおいて、西北に外濠、東南に三十間堀川があり、北と南は京橋川、汐留川によって画られている。「島」という印象はこの銀座だけではなく、随所にあった。大川にちかく掘割にかこまれた町は、みな島にたとえられる。築地にしても明石町・鉄砲洲にしても、八丁堀・茅場町、霊岸島・越前堀、あるいは水路によってこまごまと区画された深川の町も、みな島であった。中洲や箱崎になると、完全に独立した島であったという印象がふかい。
 京橋・銀座についてみると、外濠には橋がすくなかった。日本橋川との分岐にある呉服橋と、新橋川(下流は汐留川)の土橋とのあいだには、鍛冶橋、数寄屋橋、山下橋の三つしかなかった。明治十七年に八重洲橋という木橋がつくられたが、中央停車場の新設工事とともに撤去されている。有楽橋、新有楽橋、丸の内橋、新幸橋が架かったのは、みな震災後のことである。
 それにくらべると、三十間堀には銀座と木挽町のあいだには多くの橋があった。池田は「銀座の旧来の本部とでもいうべき京橋寄のほうは、さすがにどの通りにも橋があって、まわり道をしないでも木挽町へ渡ることができた」と書いている。水谷橋、紀伊国橋、豊玉橋、朝日橋、三原橋、そして木挽橋、出雲橋とつづき、新橋川の蓬莱橋(汐留橋)に出る。水谷橋をのぞくとすべて江戸期の架橋であった。震災後、木挽橋と出雲橋のあいだに賑橋が出来、銀座八丁目と木挽町八丁目に通ずる八通八橋が架けられている。」

新幸橋跡。外濠が消えた時、橋も消え去ってしまった。


こうして読んでいくと、堀川と橋が銀座、そして下町エリアの大きな特徴であったことが分かる。古い地図を見れば、日本橋周辺に限らず、神田川や日本橋川を中心にそこから別れた細い水路が様々に巡っていたのが、かつての東京の有り様だったことが分かる。水の都は大阪だけの話ではなかった。物流の主役がであった時代には、こうなるのが当たり前というべきかもしれない。さらには、鉄道輸送の時代になっても、都市内輸送などが自動車に取って代わられていくのは結構後の話で、舟に積み替えて市中を運んでいたというのは戦前まではまだ見られた光景だった。埋立で出来ていった、中央区のあちらこちらがこの水路で区切られて島であったことは、その成り立ちを思えば分かりやすい。
外堀に橋が少なかったのは、やはり江戸時代からの名残であったのだろう。そして、明治期を通じても丸の内の開発は比較的ゆっくりと進んで行ったことで、尚のこと外堀に橋を架ける必要性に迫られなかったと言えるように思う。
そして、銀座辺りと大川の向こう側の違いとしては、銀座の橋は地平カラスこそ盛り上がった程度なのに対して、大川の向こう側のエリアではほとんどの地面がより低い高さである所為なのだろうが、橋に向かって坂を上っていく形になっているところが印象深い。私は台地の上で育ったので、アップダウンが多いのはどこか当たり前に思える。その一方で墨田区や江東区へ行くと、真っ平らな地面が広がっていて、橋に向かって上っていく景色はどこか見慣れない新鮮な思いがする。
それにしても、震災前の東京の話というのは、どうしてこうも魅力的なのだろうか。
銀座六丁目松坂屋裏の銀緑館。大正13年築、RC。


このビルが出来た頃には、眼の前には三十間堀川が清らかな水を湛えていた。


この会社の社長の設計により、浜田組の施工で建てられた。建築要覧15481。


「三十問堀川は慶長年間の開削といわれる。その名のとおり三十間の幅があった。『慶長見闘集』によると、当時、改架のきいの日本橋は長さ三十七間四尺五寸だったとあるから、日本橋川に匹敵するほどの水をたたえていたのであろう。しかし享保年間になって、川幅十六間にせばめられている。
 幕末から明治十年代の地図をみていると、この堀川は、京橋川に架かる白魚橋の下手から水を引きこんでいる。出合いの正面は、日本橋川に通ずる楓川であった。そこでは水の流れが十字に交叉していて、三つの橋が架けられている。白魚橋、弾正橋、真福寺橋、それは「三ツ橋」とよばれて『江戸名所図会』に描かれている。河岸のにぎわいのなかに美しい風情をたたえた場所であったことがわかる。
 真福寺橋地点から水をひく三十間堀川は、鉤の手状に、二度直角に曲って、紀伊国橋から南へ下っている。明治十七年の五千分の一実測図では、はじめの曲り角に金六町と木挽町一丁目とを結ぶ豊蔵橋のあったことがわかるが、その鉤の手はまもなく消えてしまう。三十間堀川はまっすぐにつくられて京橋川と結び、埋めたてられたあたりには京橋小学校が建設される。震災後になって白魚橋の下流から築地川支川の周曲点にむけて水路が掘られ、昭和五年三月、その合流点に三吉橋が竣工した。三島由紀夫が『橋づくし』に月明りのなかの三叉の橋と描写したところだった。いま、白魚橋跡は高速道賂の下にあり、三吉橋では橋下に高速道路が走っている。江戸の三ツ橋と昭和の三吉橋と、どのような関連があったのかはわからがないが、江戸の河岸の美的イメージが昭和にひきつがれ、その一部が生かされたのではないかとおもう。」

今では、周辺のエリアまで広く銀座の町名が付けられているが、今回の引用文の先の方にも出て来たように、最初に銀座の町名が付けられたのは一丁目から四丁目までであった。四丁目の交差点は、銀座が八丁目まで拡張された後も永く尾張町交差点と呼ばれていたという。三十間堀川の向こうは木挽町だったのだが、築地川まで今では全てが銀座という町名になっている。とはいえ、外濠から昭和通りまでのエリアを丁寧に歩き回ってみても、なかなか古い時代の銀座の痕跡を見つけることは難しくなっている。ビルさえも次々と建て替えられていくのが銀座という土地であって、感傷を許してくれる町ではない。とはいえ、昭和通りを越えて今の広くなった銀座の端まで来ると、ようやく昭和の初めから変わらない家が僅かに残されているのを見つけることが出来る。ちょっと前までは、昭和通り沿いなどにも、結構年代物のビルディングなどあったはずなのだが、そう思って歩いて見てもすっかり見当たらなくなっている。「ちょっと前までは」などという言葉を吐くこと自体が、既に高齢化の証しとも言えるのだろう。
とはいっても、戦後間もなくに都心部の他の数多くの運河と同様に三十間堀川も戦災瓦礫の埋め立てで埋め尽くされて、すっかりその姿を消してしまった。辛うじて、三原橋に川があった名残が残るだけである。その三原橋にあったシネパトスという映画館が間もなく閉館になるという。耐震性が保証できないのでということだが、川が埋められてその跡に出来た映画館が姿を消そうとしている。三原橋の下は、晴海通りの下を潜る抜けられる通路になっている。私の銀座勤め時代には、時々この下を潜って食事やら用事やらに出掛けていった。そんな時、当時はピンク映画専門の映画館のけばけばしいポスターが貼られて、アンモニア臭い臭気の漂う地下街は、銀座のど真ん中とは思えないような、不思議な空間だと思えたのを思い出す。銀座の会社へ通わなくなり、歳月が経過する内に映画館はすっかり小綺麗に改装されて、まともな映画を単館上映するシネパトスへと変わった。そして、間もなくそれも姿を消していく。
銀座の周囲の川がほぼ全て埋め尽くされてしまい、川があったことを知らない世代の方が既に多数はになっているのだろうと思う。既に若いとは言えない私ですら、知らないのだから。
三原橋のシネパトス。


「このような狭い一角でも多くの変遷がかさねられている。ましてやつねに新しいものを求めて変貌しつづけ、住人や地権者の入れかわってきた銀座では、わからなくなってしまったことが多い。明治の煉瓦街以来の銀座を知るためには、そのおりおりの生活記録や見聞記にあたらなければならないが、そのなかでおもしろいのは池田弥三郎の銀座随想である。前記の『銀座十二章』をはじめ『ふるさと東京』(昭和三十八年)、『露地に横丁に曲り角』(五十年)『町っ子土地っ子銀座っ子』(五十一年)『わが町銀座』(五十三年)、さらに『東京の十二章』(三十八年)『日本橋私記』(四十七年)などの随想集をあげてゆくと、銀座を語りつづけ、ふるさと東京を愛してやまぬ人だったことがわかる。そこにはなによりもまず少年時代から青年時代の生活体験が生き生きとしている。銀座にかんする文献をふまえ、親類縁者や土地の故老の話をきき、それを生かしているからである。」

銀座という、東京いや日本で最も有名な町の話は、それ故もあって数多くされてきているし、出版されてきた数も多いのだが、人の暮らさない町になってからの銀座はそれ以前とは違う町へ変わってしまったのではないだろうか。都市の進化として、職住分離とかそういう進み方をしていくとはいうが、暮らす人のいなくなった町はピークを越えてた証拠ではないかとさえ思える。ここに挙げられている池田弥三郎氏の著書、きっと近くの公立図書館に蔵書されていると思う。是非、そんな形ででも読んでみて頂けると、下町銀座の姿が具体性を持って甦ってくると思う。

銀座八丁目にある芝口御門跡。かつては、新橋を芝口といった。芝の入口だから芝口という。銀座からみると、新橋という橋を越えればその向こうは芝へと連なっていく。


「彼は元数寄屋町の天ぶら料理業天金の三男だった。父は天金の三代目、母は尾張町新地の大黒屋(食料品卸問屋)の娘である。筋むかいの銀座四丁目で営業していた店が元数寄屋町に移ったのは、五歳のときであった。父が隣家の服部金太郎(服部時計店)との地所争いに敗訴したことによるが、追いたてられたいきさつについては『銀座十二章』にこまやかに書いている。当時の新聞記事「銀座太平記」(「都新聞」伊原青々園の執筆)とか、服部金太郎の孫礼次郎の談話、土地所有者秋葉大助の話、祖母池田乃婦の「覚え帳」(長男金太郎の妻筆記。表紙に「子孫代々にこの帳面を残すべし」とあったとある)、叔父の劇作家池田大伍の作品などをまじえながら、土地争いの顯末が描かれている。」

今は既に無いが、「天金」は銀座の天麩羅の名店であった。今でいう銀座四丁目の角に近い辺りで店を構えていたが、服部時計店との争いに敗れて店を移転している。この経緯は、銀座に伝わる物語の中では有名な話で、その詳細が池田氏の「銀座十二章」に詳細に語られているのは、銀座の変遷の一ページとしても貴重な記録であると思う。銀座という、第一級の商業地だけに、昔から数限りなく争いが起き、詐欺が行われ、そのすれすれの行為で騙される側がいたことは間違いない。今日に至るまで、夢破れて失意の底にたたき落とされた人の数は、怖ろしいほどのものになるだろうとも思う。とはいえ、その華やかさ故に闇が深いとも言えるのが銀座であって、その両側の顔の内、訪れる人々には良い顔しか見せないのも銀座という町らしい。
銀座一丁目の一番端っこ。昭和通りを越えて、かつては築地川だった、その川底を今は首都高速道路が走る手前に、時の止まった様な一角がある。まずは岩瀬産業貿易。木造モルタル二階建ての看板建築。正面にはスクラッチタイルが貼られており、屋根裏部屋も併せて三階建てに見える。特徴からみて、震災復興期の昭和初期のものと思われる。


屋根裏部屋の窓、意匠が凝っていて美しい。スクラッチタイルも良い風合いになっている。アクセントになっている銅が使われているところも、緑青が綺麗だ。


本体は切り妻の屋根を持つ家屋なのだが、正面からはあくまで洋風の建築物に見える。通路になっている右側の側面は、横に回り込むようにスクラッチタイルが貼られている。


その隣の鈴木ビル。こちらは建築要覧に出ている。昭和4年築。設計者は新定蔵。要覧の番号は15447。


これも凝った意匠のビルで、見ていて楽しい。かつては甲子屋倶楽部と呼ばれていたという。今は東京都選定歴史的建造物に指定されている。


丸い明かり取り、馬蹄型の屋根の窓、表情の異なる窓が幾つも使われている。


「その語りくちは軽やかで自在である。銀座に育ったからといって昂ぶる表情もないし、人を見下すところもない。人間一般のあらゆることに興味をもちながら、博学ぶりをひけらかすことはない。むしろ酒落とユーモアでしめくくりをつける。要するに都会っ子であって、野暮ではないということになるが、ときに人間と社会をみつめて鋭い観察をなげかける。その文章からは彼のモラリスト的風貌がおのずと浮んでくる。
 池田弥三郎という人格をつくったのは、銀座商人の血筋であり、泰明小学校であった。銀座という名の「島」への出入口には二十一の橋があったというが、そのなかでは「なんといっても数寄屋橋が、一番わたしと縁が深かった」と書いている。泰明小学校はその橋のたもとにあり、外濠にむかって正門があった。電車は外濠ぞいに走っていて、交差点の手前を左に曲ると、丸いドームの三階建ての正面が石畳のつきあたりに美しい姿をみせている。その泰明の向う側のたもとには数寄屋橋公園があって、子供たちの遊び場であった。」

つまり東京人気質ということを考える上で、商人気質というものを欠かすことが出来ないといつも思うのだが、その東京らしい商人が、今では絶滅種になっている。大阪とは違う、東京の商人気質を抜きにしては、池田弥三郎は勿論のことだが、谷崎潤一郎だって理解することが出来ないものだと思う。私自身の経験でいえば、いわゆる団塊世代の人の中には、東京の商人気質を受け継いでいる家庭で育ったことを感じさせる人がいる。上手く言葉で説明できないのだが、話をしてみると、何となく分かるのだ。この東京人らしさとはどういうことなのか、それを言葉で表現できるように、より深く理解したいと思っている。
かつては当たり前であったことが、いつの間にか、その基盤すら変わって来て、幻のように消えてしまうというのは、時代が変わっていく以上仕方が無いことなのかもしれない。
銀座二丁目の昭和通りの向こうの一本裏通りにある、酒蔵秩父錦。1983年頃には、既にこのお店だった。それ以前は燃料店だった。


「そんな子供のころ、彼は内濠と外濠との関係についておもしろい経験を味わっている。いたずら好きな小僧さんといっしょに日比谷公園に出かけたとき、その帰りがけに、小僧は内濠の曲り角にポカリと口をあけている土管のなかに入ろうといってきかないのである。内濠の水際におりて中をのぞくと、大きさは子供が立って歩けるくらいだった。
 「はるか彼方に、点のように光が見えるだけで、臆病なわたしには、とうていはいっていけない。彼は、じゃ一人で行くといって、どんどんはいっていってしまった。わたしは、道の上にはい上って、土管の方向とおぼしい方向に向かって、半分ベソをかきながらかけ出した。まっすぐに行き着いたところは数寄屋橋の橋詰めであったが、橋の上からのぞきこんでいると、やがて土管の中から、ひょっこり彼がとび出してきた。数寄屋橋の西詰めの北側に口をひらいていた土管の水は、日比谷の角からまっすぐに、内濠の水が外濠に流れ落ちるものであったということは、このときの小憎さんとの体験で、わたしの実感したことである。」(「銀座の柳」)
 日比谷から数寄屋橋まで約五百メートルである。その真暗な土管のなかを、一点の光をめざして這いつづけた小僧の気力は並々ならぬものである。またそれを見守って、どこから出てくるのか確かめた池田少年の好奇心もさすがである。」

なんというのか、まだ都市の裏側の構造が極めてシンプルに出来ていた時代なのだなと、しみじみ思う。都市が巨大化していても、まだ複雑怪奇な目に見えない情報が何もかも支配するようになるよりも、遙かに前の時代。見えるもので全てが形作られていた時代と言えるのかもしれない。内堀の角から、数寄屋橋の外濠まで土管が真っ直ぐに通じていたという話だけでも充分に面白い。中を覗き込んで遙か彼方に光が見えたれ場こそ、この冒険に挑戦する気になったのだろうが、それにしてもよくぞ試してみようという気になったものだと思う。こんなことをしてみようと思うのも、銀座を地元にして暮らしていればこそなのかもしれない。余所者には、そもそもからしてそこに気付くまでの観察眼を持つことが容易では無かろう。

「数寄屋橋界隈にも激しい移りかわりがあった。橋は昭和三十三年三月に撤去され、外濠はうめたてられた。いま、あたらしい数寄屋橋公園がつくられ、『君の名は』の作者菊田一夫の筆蹟による「数寄星橋ここにありき」の碑がたてられている。その碑が建ったとき、池田さんは、
「数寄屋橋の下で泳いだことのない奴に、なにがわかるもんか」
と言い放ったという。これは銀座のよしのや靴店を生家とする矢代静一氏が記録したところである。」

少し前に池田弥三郎氏を評して、「銀座育ちであっても昂ぶる表情もなく、人を見下すところもなく…」と書いているのだが、外濠すら埋め立てられて生まれ育った町が変わり果てた姿になっていく中で、綺麗事の石碑が建てられて事足れりといった風になれば、人一倍自分の待ちに愛着があればこそ、悲しみも深いものであったのだろう。外濠が泳げるほどの状態であったのは、一帯いつ頃までのことだったのだろうか。そんな水に親しい時代からの町の住人であればこその言葉であったことが偲ばれる。


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