視覚障害者きうっちの自立への道

視覚障害者きうっち(S52年生)が気の向くままに日々の生活をツラツラとつづるブログ

地獄の入院生活(04年1月)

2011-09-10 18:00:00 | 闘病日記
 ところでこの年(04年)の初め、自分は前にいた病室からさらに転室することになりました。
前いた病室は4人患者の相部屋で常に看護士さんが2人常駐していた部屋だったのですが、
今回移った部屋は6人患者の相部屋で看護士さんが特に常駐していることもなく、何か用事がある時は自分でナースコールを押して看護士さんを呼ぶ形の
一番標準的な病室だったそうです。…とまぁ、確かにそんな標準的な病室には移れたんですけど、自分の病状は相変わらずひどかったわけで
それに対して特に喜ぶようなこともなく、毎日のリハビリと診察を淡々とこなす日々はまだまだ続くんですけどね…。
あ、それとこの入院生活を記した記事のバックナンバーはこちらに目次形式で記してあるので、ご希望の方はどうぞ。

■超久しぶりのお風呂♪
 この時期まで自分は入院生活を始めて以来、一切お風呂に入ることができなかったのですが、この04年の1月、久しぶりに、本当に久しぶりにお風呂に入ることができました♪
この頃、自分もだいぶ長い時間車椅子に乗っていられるようになってきたし、車椅子に長時間乗っていても、気管切開で開けていたノドの穴から分泌物、いわゆるタンがあまり出ないようになっていたので、
担当医から『きうっちさん、そろそろお風呂に入ってみる?』と薦められ、念願のお風呂に入ることとなりました♪

 ただ、この時点の自分は立つことはおろか、足はほとんど動かせなかったので、お風呂に入るにも少し工夫が必要でした。
この頃の自分がお風呂に入る時は、車椅子に乗って入ることになるのですが、その車椅子は普段自分が乗っているのとは違う、濡れても別に構わない、ほとんど廃棄寸前のものでお風呂場に行っていました。
ちなみに本来であれば、このようなケースの場合、車椅子の人がお風呂に入る際に使用する専用の車椅子、いわゆるシャワーチェアーというものがあるのですが……でもそのシャワーチェアーが自分がこの時入院していた病院には無かったので、この時は別のもので代用という形を取っていました。
そして気管切開をして開けていたノドの穴からお風呂の水(お湯)が入ってしまわないように、そこをタオルで入念にカバー。さらにその時着ていた服は病室でほぼ全て脱いでしまってから、自分の乗っていた車椅子を看護士さんに押してもらってお風呂場へいざ出陣!お風呂場では3人ほどの看護士さんに体や頭を洗ってもらっていました。
ちなみに『お風呂に入る』といってもこの時点の自分がいわゆる湯船に浸かるのはとても無理な話で、お風呂場ではもっぱらシャワーをずっと浴び続けていましたね。30分程度。
それでも自分は病に倒れて以来、4ヶ月以上お風呂には入っていなかったわけで、お風呂でシャワーを浴びている時の自分は本当に幸せな気分でした♪お風呂って何て気持ちがいいんだろう……と。

■今月のリハビリメニュー
 この頃にしていたリハビリのメニューをご紹介……といっても実は先月としていたことはほとんど変わらなかったんですけどね。まぁ一応この頃のリハビリのメニューを挙げておくと

1.リクライニングベッド(自分が普段寝ていたベッド)を目一杯起こし、なるべく座った状態に近い姿勢にして両腕の体操。
2.ベッドサイドに座り(もちろん解除されて)、自分の目の前に配置された簡単な机(たぶん机の脚が1本だけの単純なものだったと思う)を支えにして座る練習
3.これと平行して、先月までにしていた口元のリハビリと手の指の可動域を広げるための運動も続行
4.手でニギニギするグリップ(名称不明。誰か名前知っていたら教えてください(汗))を用いて、握力を鍛える訓練。

えっと、1.~3.までは先月とやっていたことはほぼ同じなので、もし詳しい解説が知りたければ、そちらを参照してください。
で、今月から始めた4.について。別に何の障害を持たないみなさんも、手でニギニギするグリップのようなもので、握力を鍛えようとした経験のある人はいると思います。
先月までゴムボールをニギニギして握力を鍛えていた自分も、この頃になるとだいぶ握力が戻ってきていた(それでも握力は10未満だったと思いますが)ので、この時期から少しランクを上げてこのニギニギグリップ(正式名称不明なので、自分はこう呼んでいます)で握力を鍛えることにしました。
で、自分がこの時使用していたのが、ニギニギグリップの根元の部分を少し動かすことでグリップの重さが5段階に変えられるもの。一番軽い段階は小さな子供でも握れるような超軽いもので、一番重たい5段階目にすると握力が最低20はないと、連続で数回も握れないような重さになるものでした。
ちなみにこのニギニギグリップは約7ヵ月後の退院の時まで、ずっとお世話になることになりました。この頃の自分はまだまだ握力も弱かったので、一番軽い段階で毎日ニギニギしていたわけなのですが、
半年もすると一番重たい段階にしても全然大丈夫なくらいにまで握力を戻すことができましたからね。この握力を鍛えるニギニギグリップは今後、自分自身が体の回復具合の目安を計る一種のバロメーターのような感じにもなっていたと思います。
何より、これ握っているの結構楽しかったですからね、本人的には。先にも触れた通り、本人的には自分の力の『戻り具合』が一番実感できるものでしたし。

■FM-NACK5との出会い
 ところで、自分がこの頃入院していた病室には毎日ラジオ(FM-NACK5(ナックファイブ))が流れていました。自分はそれまで、ラジオなんて全然聴いたことがなかったし、
最初は、この病室で消灯時間以外(7:00-21:00の間)に流れていたNACK5の放送も何となく聴いているだけでした。ところが……それまで何となく聴いていたNACK5もちゃんと聴いてみると……結構面白いじゃん!ということに気づきました(笑)。
特にNACK5の平日夜の看板番組である鬼玉(おにたま)を初めて聴いた時は衝撃でしたね。何ていい加減な番組なんだと(笑)。でもまぁ、それにも増してこれまでTV視聴では味わったことのない、独特の面白さを感じることもできましたけど。

 思えばこの時から今の自分へと繋がる、ラジオ人生が始まったようなものでした。特に自分の入院生活は体が動かないうえに目まで見えなくて本を読んだりTVを持ち込んだりして
暇をつぶすことができなかったので、このNACK5ならびにラジオとの出会いは本当にありがたかったですね。この頃、早速携帯ラジオを両親に買ってきてもらって
入院中はそれこそ、リハビリをしていた時間以外はラジオばっか聴いていたくらいですし、一時期は自分がよく聴いていた局(前述のNACK5とTBSラジオ)の一日の番組プログラムをそらで言えたくらい、ラジオにどっぷりハマっていましたからね。
それにしても、全然関係のない話ですが、いい加減NHkのラジオ第一が早くラジコで聴けるようになってくれないですかねぇ……そうすれば正月の箱根駅伝もラジコで聴けるようになるんだけどなぁ…。

■『失明』の決定的宣告
 これまで何度も述べてきましたが、この頃自分はようやく車椅子にそれなりに長い時間乗っていられるようになったので
念願だった(この時期、一体いくつ念願があったのかは自分でも分かりませんが(苦笑))眼科へ視力検査に行くことができました。そこで視力検査をして、ちゃんと今の自分に度のあったメガネをかければそれなりに目が見えるようになるんじゃないのか-。この時期の自分はまだ『自分が失明していた』とは本気で思っていなかったので
そんな甘いことを考えていました。それでこの先の入院生活にも文字通り光が見え、今後のリハビリ、ひいては今後の人生にも力が入るのではないかと。…ところが-。みなさんのご想像の通り、結果は無残なものでした。厳しすぎる現実を突きつけられただけでした。
これを書いている8年後の現在も目は全然見えてないのですから当然この頃もちっとも見えていないわけで、この時測った視力は左右とも0.01以下、というかほぼ計測不能で色も光も判別することができず、まぎれもなく『全盲』と呼べる状態でした。

 以前から薄々感じてはいましたが、この結果を突きつけられた時は本当にショックでした。よくボクサーが『網膜剥離で失明の機器』なんて話はそれまでも何となく耳にはしていましたが、03年9月に病気で倒れるまでは自分が失明してしまうなんて想像もしたことは無かったですから…。
ああ…これで自分の大好きなTVゲームはもう一生できなくなってしまうのかな……もう例えこの先手足を動かすことができるようになったとしても二度とクルマは運転することができないな……
その日、眼科から視力検査で『現実』を突きつけられて病室に戻ってきて自分のベッドに寝転がった後、そんな悲しい現実を考えていたらだんだん目頭が熱くなってきて……
そのすぐ後に、その時いた数人の看護士さんや自分の担当医から次々と『まだ見えるようになる可能性はあるんだから!きうっちさんは眼球は傷ついてないんだからあきらめちゃダメ!』と次々と励まされて……その時の自分はもう涙がこらえきれなくなっていました。
でもそれはみんなに励まされて出てきた涙では無かったですね。たぶん、『自分はまぎれもなく失明した』と現実を突きつけられ絶望し、この先の自分の人生に光が見えるどころかまったく見えなくなって、もうどうしたらいいのか分からなくなって自然と出てきた悲しみの涙だったと思います。

 この後、正直2、3日くらいはショックで何もヤル気が起きなかったですね。でもその後、結局自分は日々のリハビリを黙々とこなすようになっていました。
その原動力が何だったのか?-。それは正直、8年後の今でもよく分かりません。確かに病気になるまで勤めていた会社からは、約2年間の休職期間をもらっていたので
05年11月までに会社に復帰できればいいということにはなっていました。自分もそれまでは一応、会社に復帰できるようにということを一つの目標にしてリハビリはしていたつもりです。
ただ、これまでの自分の体の回復のペースや目が完全に見えなくなったことを考えると、この頃の自分もさすがに『それはたぶん難しいだろうな…』というのは感じていました。(その後、2年後には現実に会社を退職することになったのでそれはあたっていたのですが)
じゃあ一体何が原動力になっていたのか?-。たぶんそれは、何も原動力なんて無かったんだと思います。じゃあ何で何も原動力が無かったのにリハビリに勤しんでいたのか?-。それは他に何もやることが無かったからだと思います、今思うと。

 そのことが良かったのか悪かったのか、この頃の自分は病院のベッドの上ではやることが本当に何もありませんでした。やることといえば、前述の『携帯ラジオ』を聴くことくらいでしたから。
だからリハビリをすることしか、毎日体を動かすことくらいしか、暇をつぶす方法が無かったんですよ、悲しいですけど…。
それに体を動かしていた方が、自分に突きつけられた『悲しい現実』を少しでも忘れることができましたしね。というか少しでも『そのこと』を考えないようにしないと、自分の精神状態が本当におかしくなってしまいそうでしたから…。

■リハビリ病院への転院
 この時期、04年も1月くらいの頃になると、自分もだいぶ体の状態はよくなっていました。それに伴って先生に観て貰えるリハビリのメニューも徐々にグレードがアップしていきました。
そこでその時の自分の担当医からこんな提案をされました。きうっちさんは体の状態も入院当初の頃と比べるとだいぶ良くなってきたし、リハビリ専門の病院に転院してみる?-。と。
病院に入院している患者というのは同じ病院にずっとは居られないらしくて、どんな患者も長いサイクルで半年くらい経ったら他の病院に転院しなければいけないみたいなんですよね。
ま、この話は自分がその時近くにいた看護士さんから小耳に聞いた話をよく調べもせずにうろ覚えの記憶で書いているので、真偽のほどはさだかでは実はないのですが…。
まぁともかく、自分もそろそろ他の病院に転院をする時期となり、だったらきうっちさんはリハビリをこの先効率よくやるためにもリハビリ専門の病院に移った方がいいのでは?ということで、自分はこの月の待つ、リハビリ専門の病院へ転院することになりました。
で、自分がこの時転院する病院となったのが『国立障害者リハビリテーションセンター』という病院。…このブログをずっと読んでくれていた人なら、この名前を聞いて『あれ?』と思ったかもしれません。
そうです。自分がこの夏(11年7月)まで入っていた寮があった施設で、その同じ敷地内にあった病院が今回の転院先の病院でした。
この時から、自分と国立障害者リハビリテーションセンター、通称国リハとは不思議と縁があった、というわけなんですよ。

 ところで、この時自分が入院していた私大病院から国リハ病院まではだいたいクルマで1時間半弱の道のりでした。
で、この頃の自分はだいぶ状態はよくなったとはいえ、大きなワゴン(軍の装甲車のようなクルマの大きさを想像してもらうといいかも)に自分の車椅子を載せてクルマで移動するのは、正直キツいものがありました。
どうもそのことは病院側でも考えていたらしく、この時自分が転院する時には『ベッドに寝た状態のまま』クルマに載せて移動できるように病院側で配慮してくれていました。
病院関係のドラマなんかが好きな人は知っていると思いますが、いわゆるストレッチャーを浸かって自分を寝かせたまま、そのストレッチャーをクルマ(恐らく救急車?)に載せて
所沢の国リハ病院まで行くことになりました。おかげで転院の際の移動はかなり楽でしたね。同時にこの頃の自分にはまだ、車椅子で座ったままクルマで遠出するのはちょっと難しいかなとも感じていました。

 で、約1時間半後、無事国リハ病院にたどり着いたわけなのですが、その時転院先の国リハ病院で
自分の乗った(載せられた?)クルマまで迎えに来ていた、国リハ病院の看護士さんたちが自分の病状を見て
非常に驚いていたのが印象に残っています。たぶん、こんな風に思っていたんでしょうね。
この人、こんなにひどい状態なのに本当にここの病院のリハビリ頑張れるの?ホントに大丈夫なのかな…-。と。

~来週へ続く
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする