視覚障害者きうっちの自立への道

視覚障害者きうっち(S52年生)が気の向くままに日々の生活をツラツラとつづるブログ

昏睡状態のち緊急入院へ(03年9月 その2)

2009-06-29 16:54:48 | 闘病日記
~前回更新分からの続き

 その日はぐっすりと眠り週明けの仕事に向け少しでも体調の回復を…といきたかったのですが
何だか救急車で運ばれる前からずっと気分が悪いし、熱は相変わらずほとんど下がってない感じだったしで
全然ぐっすり眠れるわけなんかなく、結局ほとんど寝付けないまま朝を迎えることに。で、朝から昼を迎えようとしても
相変わらず熱は下がらず体調はほとんど変わらず、昨日と同じようにほぼ動けないような状態だったので
もうどうしようもなく泣きつくようにして母親に電話でお助けコールをすることに。

 その後、午後3時頃に実家のクルマに乗って自分の家に到着した母親と相談し、
『もうそこまでどうしようもない状態だったらいっそこっち(実家)に帰ってきたら?』ということになり母親の乗ってきたクルマに乗せられて隣の県にある実家へ帰る事に。

 で、ここからの話なのですが…実はこの後3週間、9月末までの記憶が全くないのですよ(苦笑)。
人づてに聞いた話によるとここから3週間ほど、自分はほぼ意識がなく昏睡状態だったらしいのですが……なのでここから先しばらくは両親など身内から伝え聞いた話などを元に記事を作成。

 意識を朦朧とさせながら実家へと帰ってきた自分は、早速布団に寝かされて体調の回復を計ることに。
しかし自分の体調は一向に回復の兆しを見せることもなく、それどころか体温は42度近くまで上昇。
そして遂には前述の通りほとんどまともな意識が無くなってしまうことに。そんな中でも意識のない自分は、当時仕事が比較的忙しかった事もあり
『仕事は?会社に、会社に行かなきゃ…』などとうわごとのように口走っていたそうです。…そんな話をこの数年後親から聞いた時には『オレってそんなに仕事熱心だったのか?』などと思ったものですが(笑)。
 その後、1週間ほど実家で体調の回復を計っていた(というよりもそうする事しかできない状態だった)自分なのですが、相変わらず意識はほぼ失われたままで
回復の兆しすら見えない状態。そんな状況だったので両親もさすがに見かねて実家の近くにある市民病院(内科)に自分を診せに言ったそうです。
ところでこの時、実家のクルマの後部座席に乗せられて市民病院に行った(というより運ばれていった?)自分は
『H君が、H君が呼んでる…行かなきゃ、行かなきゃ…』などという事を例によってうわごとのように言っていたらしいです。『H君』とは自分の大学時代に知り合った同級生で
不幸にもその大学時代に亡くなってしまった友人のこと。…もしかしたらこの時自分は、その彼に『三途の川』の向こうから呼ばれていたのかも?
この時彼の呼びかけに応えていたら今、自分はこの世の人ではなかったのかもしれない……後でこの話を聞いた時はそんな馬鹿な事をふと思ったものです。

 そうして近くの市民病院に連れてこられた自分は再び検査をすることに。そしてそこで入念に検査した結果下された診断はこのような病名だったそうです。

急性散在性脳脊髄炎(きゅうせいさんざいせいのうせきずいえん)

…数年後、初めてこの病名を聞いた時は『何だか呪文のような名前だな』などとナメた感想を思ったものです。
横浜の中華街にこんな感じで書かれた中国語の看板がありそうだよな、とも(笑)。

 ま、それはいいとして…この病気の症状は簡単に言うと『脊髄が外から多量の菌に冒されてしまい、全身のあらゆる機能が麻痺してしまう』というものらしいです。
ちょっと補足すると、人間の脊髄というのは体のあらゆる神経を司っているらしいのですが
その影響は全身のあらゆるブイ、体の機能にまで及んでいるらしいです。
例えば手足を思うように動かす運動系の機能もそうですし、体内の排泄物を処理している膀胱の働きや
目の眼球が捕らえた映像を脳へ正確に伝える働きもそうですし、はては口から物を食べた時に
物を『ゴクン』と飲み込む機能なんかもそうだったりしますね。これに関しては実際に喉の真ん中を触ってみれば分かると思うのですが
物を飲み込んだ時にいわゆる喉仏(のどぼとけ)が『グイッ』と動いている、上がっているのが分かるかと思います。
 ところで何でこんな重たい症状の病気が少し前の検査で発見できなかったのかは未だによく分かりません。
ただ、自分の拙い脳ミソで想像するならば、恐らく病の症状が以前よりも進行していたから
発見できたのかもしれないですね。でも本当にそんな事が病気の発見が遅れた理由で
あるのならばちょっと悔やんでも悔やみきれないのですけれども…。ま、今さらそんな事を言ってもしょうがないのですが。

 ともかくこれである程度今の自分がどういう状況に置かれているのかは正確に分かったわけですが、
こんな重い症状の病気を小さな町(市)の市民病院で手に負えるわけなんかもなく、そこから一番近く、
その市民病院から約20kmほど離れた場所にあった割と大きめの私大病院を紹介してもらい、
自分はその私大病院へ緊急入院することになり、そこでちゃんとした治療を受けることになりました。

 その私大病院で自分が真っ先に施された処置は気管切開というもの。
これはちょうど喉仏の少し下辺り、気管のある場所に直径1cm強の大きさ、逆Uの字型の穴を開けて気道確保をする処置の事です。
また開けた穴にはカニューレというカバーというか小さな筒のようなものを挿入。これは開けた穴を開けっぱなしにしておくと、外部の清潔とは言えない空気と処置のために開けたいわゆる『傷口』が直接触れてしまうわけで、そのままにしておくと非常に不衛生だからですね。
…とまぁここまでもっともらしく書いてはみたものの、実のところこの処置を実際に一年以上もされていたにも関わらず、自分もこの気管切開の事についてはちゃんと理解できてなかったりするのですよ(汗)。
というわけでちゃんとした説明はこちらの方に任せるとして(苦笑)。
 ただこの処置を実際にされてみて自分が一番感じていた事は、呼吸が明らかにラクになるということですね。
でもそれはよく考えてみれば当たり前の事で普通、人間の呼吸は胸部にある肺と口とで空気を行き来させて
行うわけですけれども、その下にある気管に穴を開けるということは
空気の流れもその気管と肺とで基本的にはやり取りされるわけです。当然、空気を取り入れる外部への入り口(普通の健常者は口や鼻の穴)と肺の
距離も近くなるわけだから、呼吸もラクになるというわけですね。この時点で自分は1週間以上昏睡状態だった事もあり、さらには肺を始めとして呼吸する働きが随分弱くなって、ほとんどまともな呼吸活動ができてなかったので
この処置が必要だったのかな?と自分自身は勝手に理解していますが。ただ、この時点の自分はそれでも不十分だったみたいで
先に述べたカニューレのさらに上から『人口呼吸器』をつけて呼吸を補助していたのですが。
こんな感じでとりあえず『生かす』ための応急処置を施された自分は、
最も重病の患者が入る集中治療室、通称ICUのベッドに寝かされてそのまま入院することに。

 しかし自分は相変わらずほとんど『死んだように』眠ったまま。ずっとこんな状態が続いているわけなのだから
当然お風呂に入れるわけなんかもなく、日々の世話をしてくれる看護士さんたちがベッドの上で『死んだように』眠っている自分の体を
濡れたタオルで拭いたりしてくれるわけです。その体を拭く時には当然体の向きを左右入れ替えたり割と体を動かしているはずなのですが(もちろん外から他の人の力で)
それでも自分の意識が戻る気配は一向に見られません。こんな状態がこの後2週間は続いたそうです。
 またずっと後で聞いた話なのですが、このような息子の窮状を見るに耐えなくなっていた母親はずっと泣いていたらしいです。
自分がICUで昏睡状態に陥っていた同じ時期に心労から、別の病院で1週間ほど入院していたとも。
まぁこの時の担当医に『きうっち君はもうずっとこのまま(目が覚めないまま)かもしれない』などと宣告されたらしいのですから
それも無理からぬこと、というかこの話を初めて聞かされた時は自分は何も言えませんでした。
ただただ申し訳なく思った次第だし、本当に人生最大の親不孝をしてしまったのだなと気持ちが沈んでいったのを覚えていますね。

 でもよく考えてみれば入院していた期間の中ではこの時期が本人的には一番ラクだったのかもしれないな…と不届きな管理人は時々思ったりもするのですが。
確かに周囲には迷惑かけっぱなしですけど、本人はずっと意識がなかったわけですし
目が覚めた後もこの頃の事はまったく覚えていないわけですからね。
…そもそも何でこのような『不謹慎な事』を考えるのかといえば、それはこの後1年弱にも及ぶ入院生活があまりにも凄まじかったから。
それはまさに『生き地獄』そのものでしたね。その生き地獄のような入院生活については……次回に続くということで(苦笑)。

~以下 次回更新分へ続く


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病は突然やってきた(03年9月 その1)

2009-06-27 16:54:48 | 闘病日記
 自分は2001年4月にコンピュータ関係の仕事に就き、普通のサラリーマンとして仕事もプライベートもそれなりに楽しくやっていました。…26歳の誕生日を迎える直前、2003年8月までは。

 その生活の全てが暗転したのは2003年9月。確か9月第2週の土曜日だったと思います。
その時自分は前日ぐらいから頭が少し熱っぽい事もあり1日前、金曜日は会社を早めに切り上げてその日の夜はさっさと床に付いて体調の回復を計っていました。
ところが次の日になっても体調がちっとも戻らず、それどころか前の日より益々体がだるくなっているような感じ。
何だか体もあちこちでしびれているような感じだったし、何よりもただ部屋の中を歩く事すらツラいような状態でした。
そんなわけでこれはさすがにヤバイ、ととりあえず自分の正確な状態を知るために体温を測ってみたら何と40度超!
その時の自分は結構仕事が忙しかった事もありストレスも溜まっていたので、それで少し疲れが体にきたのかな?自分もその時点ではその程度の認識しかありませんでした。

 その時会社の借り上げアパートで一人暮らしをしていた自分は、いつもなら土日祝日は1週間溜まっていた洗濯物を片付けたり食料品を買い物に行ったりなどをしていました。
が、この時点での自分はそんな事をする余裕もなく、それどころかまともに動けないので病院に行く事もままならないような状態。
幸い実家が隣の県にあったので、あまり気は進まないけど母親の助けを呼んで、身の回りの世話をやってもらうつもりでした。
…ところがこの母親を呼んだ事が結果的に自分の命まで救う事になったのだから、人生何が幸いするのか分からないものです。
 お昼の3時ぐらいに母親に来てもらった自分は、洗濯物を片付けてもらったりほとんど物が食べられない自分が食べやすいものを作ってもらったりして
その間も自分は相変わらずまともに動けないので布団の中でずっと寝ていました。そんなこんなで陽も落ちた午後7時頃。
その日は朝からほとんど何もお腹に入れてなかったし、さすがにそれはマズイだろ?という事で前日にコンビニで買っていたカツドン弁当があったのでそれを夕食に食べるつもりでした。
…今から考えるとこの体調でそんなものを食べようとしていた時点で既に無謀というか間違っていたような感じですが(汗)。
ま、それはいいとして(苦笑)その弁当を暖めるため冷蔵庫の上に置いてあった電子レンジに行き、その弁当を温め終わりご飯を食べるため足の短いテーブルへ向かおうとしていた時、それはやってきました。

ドターン!!!

 後頭部から冷蔵庫に向かって突然力なく倒れる自分。突然の事態にあわてふためく母親。頭の中がグルグル回って何が起こったのか分からない自分。
悲鳴を上げながらあわてて救急車を呼ぼうとする母親。自分は「別にいい、大丈夫」と言うも
その声はかすれ気味でいかにも弱々しく、歩くどころか立ち上がることもままならない状態ではその言葉に説得力なんかあるわけもなく
おとなしく人生初の救急車を受け入れることに。

 そして救急車は約15分後にけたたましく例のサイレンを鳴らしながら自宅のアパート前に到着。その時二階に住んでいた自分は、
相変わらず一人では歩くこともままならない状態だったので、母親やアパートの手すりに体を支えてもらいながら、どうにかこうにか
アパートの前に止まっていた救急車の前までよろよろと。そこからは担架に横になって乗せてもらい、そのまま後ろの方から救急車へ。
それにしても人生初の担架は結構痛かった…その時点での自分は180cm80kg弱とガタイも割りといい方だったので
担架の端っこ、人を乗せるシート?(あの部分は何て言うんだろう?)を支えている二本のパイプが肩や腕にゴツゴツと当たって意外なほど痛かった覚えがあるなぁ。
それともこの担架に乗せてもらった時のゴツゴツした感じというのは誰でもそうなのだろうか…?
 そしてその約15分後に近くの総合病院へ搬送された自分は、そのまま病院の中で色々と検査を受けたような気がします。
…『気がします』というのはこの時の記憶がかなり曖昧なので(汗)。何しろその時の自分は相当の高熱と体調不良で頭が朦朧としていたし、
何よりももう6年近く前のことなもので…ただMRI検査(磁気共鳴画像装置)が『ゴォンゴォン!』とやたらうるさかったというのはハッキリと覚えていますが(笑)。
あの検査の前にはちゃんと耳栓をしてもらえるのだけれども、あの音のデカさではハッキリ言ってほとんど『焼け石に水』のような感じさえしますね。

 結局この時点での検査では『何も問題ないからとりあえず帰っていいよ』という事だったのでとりあえず帰る事に。
(結果的には『何もなかった』わけではなく、もしこの時もっと『適切な処置』をしていれば今の自分は変わっていた、少なくとももっといい状態から入院生活を送れたのかもしれませんね。あまりそういう事は考えないようにしていますが)
そして帰りもまた救急車に乗せられて(もちろんあのゴツゴツと痛い担架に乗せられて)自宅のあるアパートへ。
例によって母親やアパートの手すりに何とか体を支えてもらいながらよろよろと自分の部屋へ。しかしこんな状態で今さら何かをする気力なんかあるわけもなく、
そのまま布団の中へ。その時まで付き添っていた母親は『何かあったらすぐ電話しなさいよ』と言い残してクルマで実家へご帰宅。
…それにしても今思うと(たまたまとはいえ)この時母親を呼んでいて本当に命拾いしたと思う。数時間前、ドターン!!と倒れた時、もし部屋の中に
自分一人しかいなかったらどうなっていたことやらと改めて考えるとゾッとしてきます。一人では恐らく救急車を呼ぶ事もままならなかっただろうなぁ、と考えるとこれに関しては本当に運河良かったよなぁ…と今になってしみじみ感じてます。
ホント、その時そこにいてくれた母親には今さらながらもっと感謝しないといけないよなぁ…ただ現在普段の生活には
その『感謝の気持ち』はこれっぽっちも表れてはいませんが(苦笑)。

~以下 次回更新分へ続く



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