視覚障害者きうっちの自立への道

視覚障害者きうっち(S52年生)が気の向くままに日々の生活をツラツラとつづるブログ

はじめてのけんさにゅういん

2014-08-15 22:49:45 | 闘病日記
 記事タイトルを何となく「はじめてのおつかい」っぽくしておりますが(^^;
ようするに、今回の大腸・内視鏡での検査入院で体験した出来事を(前日の準備段階から含めて)記録に残してみようと思います。
後でわたし自身が読んで参考になる(思い出す)かもしれないし(笑)。

■いよいよ苦行の始まり
 8月13日。この日はまだ検査入院はしていなかったのですが、
既に「入院のための準備段階」として前日やっておくべきこと、色々な制限が病院側から指示は事前に出されていたので、それらを実施していました。
まずこの日からかなりキツめの食事制限。あんまり詳しく覚えてはないのですが、前日に食べても良いと病院側から言われていたのは
おかゆ、おじや、具が何も入っていないうどん、冷ややっこ、(朝だけ)卵焼き、デザートに何か食べたいのならヨーグルト-。とまぁこんなところで、ようするに「形のあるもの」はまずアウト、
そして「繊維質が多く含まれている食べ物」もアウトと言われました。おかげでこの日はほとんどロクなもの食べてません(TT)
朝は炊飯器で作ったおかゆとヨーグルト。味をつけるために入れた塩が、ちょっと入れすぎてしょっぱかった(苦笑)。で、お昼はヨーグルトだけ食べて、晩ご飯はミニ豆腐で作った冷ややっこ2丁。

 ただ正直、この日は「こんな食事」でも十分でした。というか食べたいと全然思わなかったんすよ。それが以下に述べる、病院側から指示されていた「前日しておくべきこと」なのですがorz
それは朝晩1回ずつ下剤を飲むこと。加えて水分もたくさん摂りなさいと。そしてなるべく腸の中をキレイにして病院にやってきなさいと。
検査の内容を聞く限りは確かにそうなので、この日は朝8時頃まずこの日1回目の下剤を飲んで、
続けて朝8時から3時間くらいの間に、500mlのウーロン茶のペットボトルを5本ほど飲みほしました!おかげでお腹がく、苦しい…orz
そして11時くらいからいよいよ「下痢の波」がやってきて、その後はほとんどトイレとお友達状態。もうキミとは一生離れない!みたいな(笑)。
いや、早く離れたかったんですけど……で、そうやって下痢地獄に散々苦しんで午後2時半頃にはようやく「波」もおさまり、
明日からの入院へ持っていく物などの準備。ちなみにこの日は昼くらいから両親にも来てもらい、入院のための準備を手伝ってもらっていたのですが
正直かなり助かりました、いやホントに…m(_ _)m正直、もうこの時点で体力的にも精神的にもかなり消耗していたので。

 で、その後は下痢と闘い疲れて、夕方6時くらいまでぐっすりとお昼寝をし(苦笑)、午後7時前までに晩ご飯は食べなさいとの指示もされていたので
上述の晩ご飯をいただきました。たったミニ豆腐2丁の冷ややっこ(それもただ豆腐にしょうゆをかけただけ)でも何と美味しかったことか(笑)。
それから8時くらいに下剤をまた飲んで、この日は午後10時半頃就寝。実はこの日夕方くらいからは、あんまり水分は摂っていませんでした。
それはまた散々下痢に悩まされて眠れなくなってしまうのが嫌だったから。それに朝の下剤で相当出していたという手ごたえ?もそれなりにありましたし、
そもそも次の日もまた下剤いっぱい飲んで下痢と闘わなければならないと分かっていたから(TT)、まぁ気分的にこの日は「お願いだから今日はもうカンベンしてくれ…」という感じでしたね…(>_■いよいよ検査入院当日
 8月14日。この日からいよいよ検査入院本番。この日は午前6時頃に起床し、とりあえずシャワーを浴び、
その後はひげを剃ったり適当に朝の洗面ルーチンをこなして……以上(苦笑)。当然この日から水以外は何も口にしてはいけないので、まぁ出かける前にやることなんて言ったら正直こんなものです。
そして午前8時半頃、いよいよ入院先の病院へ到着。それにしても昨日からずっと下剤を飲みっぱなしだからなのか、
朝からお腹が常にユルユルしてて気持ち悪い感じ。まずは医師との問診と同時に検温と血圧の測定。続けてレントゲンの撮影と心電図の検査。
たぶんこのあたりはどんな検査で入院することになってもする「お約束」みたいなもんなんだろうな。これら検査の前段階のお約束を午前10時頃までに修了させ、
いよいよ下剤をたんまり飲むため(TT)わたしは検査室へ-。ではなく、わたしは個室の病室へ行きました。
何で個室の病室(一泊二日で約3万円也。ちなみに相部屋であれば食事代だけなので2000円以下とのこと)なんてブルジョワなことをしたのかというと、それはやはり自身の障害のことを考えて、というのが一番ですね。
このブログの読者ならご存知の通り、わたしは目が全く見えていません。加えて両足も少々不自由なため、歩くことは平均的な全盲の視覚障害を抱える人よりもちょっと大変です。
加えて11年前の病気の後遺症なのか、お尻の穴も少々ゆるい感じなので、間違いなく何回もトイレに駆け込むことになる今回の検査、
一番、というか唯一不安に感じていたことといえば、正直この点でした。でもトイレが病室の中にある個室の病室であれば、
極端に言ってしまえばトイレを「占領」トイレへ「籠城」してしまっても全く問題ありません(笑)。何より、自身が精神的に感じていた不安を大きく取り除けるのであれば、
二日で3万円というのもまぁ仕方がないか-。7月下旬に今回の検査入院の予約をした際こんなことを思っていたわたしは、まぁ正直言うとこのことについてそんなに深くは考えていませんでした。
ただしわたしはこの日の夜、大腸・内視鏡の検査を終え、ベッドの上に寝転がりながらしみじみと思いましたね。3万円ケチらないで、個室の病室を取っておいて本っ当に良かったなと(苦笑)。
以下その顛末。

 午前10時半頃、担当の看護師からこれから飲む下剤の説明を受け、いよいよ下剤をガボガボガボガボ飲むことに。
まず点鼻薬より少し大きい容器に入った下剤を一気に飲み干し、続けて袋のボトル?に入った下剤(約1.8リットル)を少しずつコップに継ぎ足してもらって、1時間程度かけてゆっくり飲みほします。
ところでこの下剤、事前の説明を受けた際「味はアクエリアスみたいな味」と聞かされていたのですが、まさに味はアクエリアスでした(笑)。
下剤を飲み始めて15分語。↑のようなくだらないことを確認する余裕がこの時にはまだあったのですが、だんだんそんなことを愉しむ余裕すら無くなってきます。
下剤を飲み始めて30分後。この時点で「下痢の波」はまだ来ていないですが、お腹はもう正直結構苦しい感じ。
下剤を飲み始めて45分後。まだ「波」は来ず。でもお腹はかなりキツい…orz下剤も一生懸命(苦笑)飲んでいた成果なのか、この頃にはもう全体の4分の3くらいは飲みほしていました。
下剤を飲み始めていよいよ1時間後。「波」はまだ来ず。最初に手渡された下剤もこの頃には全て飲みほしてしまい、むしろまだ「波」がまだ来ないことに段々不安になってくることに(^^;;
事前の説明で「下剤の味に飽きたらお茶や水と合わせて飲んでもいいですよ」と言われていたので、追加で爽健美茶のペットボトル(500ml)をさらに飲むことに。…で…でも…し、正直苦しい…orz(>_<)
そして下剤を飲み始めてから1時間半後。いよいよ「波」がやってきましたよ、怒涛のように!
もうこんな勢いで押し寄せられてきたら、わたしのお尻にはとても押さえきれません!(笑)早速トイレへ駆け込む駆け込む。紙パンツを履いていたからセーフでしたが、この時点で既にちょっと漏れていたと思われorz
そしてこの後30分くらいトイレを占拠するわたし(苦笑)。いや、だって本当にトイレ立つことができないんだもん(TT)
全然力入れていないのに、お尻の穴からそれこそおしっこみたいな便が断続的にチョロチョロ出ている状態なんだから…orzでも看護師さんにトイレを流さないで溜めておいた便の状態を見てもらわないといけないことは分かっていたので、
ある程度お腹が落ち着いてきたら(と思いこむことができたら(^^;)、看護師さんに便の状態を見てもらうことに。
こんだけ便が汁っぽいのだからもう良いでしょ?う~ん…残念ながら、これではまだまだ不合格ですね(^O^)とにこやかに回答する看護師さん。
去り際に「水分が足りないようでしたらもうちょっと水分摂ってお腹の中キレイにしてくださいね(^O^)」との捨てゼリフを残して去っていく看護師さん。
別にこの看護師さんは全然悪くないのですが、去っていくこの看護師さん、もとい白衣の小悪魔さんをうらめしそうな瞳で見送るわたしorz

 そしてこの時点でもうかなり精神的に滅入っているわたし…orzもうやけくそ気味に爽健美茶をちびちびと飲んでいると、またすぐに「波」がやってきてトイレへ駆け込むことに。
で、またトイレを30分近く占拠。あぁ…お仕事って楽しいなぁ…なんて現実逃避もしつつ(^^;
午後1時半頃。もうこの1、2時間で何回便が出ただろう。
もうすがるような目で「…どうですか?」と看護師さんに便の状態を確認してもらい、ようやくOKをもらいました\(^o^)/
ただこの後、お腹がある程度落ち着いてくれないと5階にあったわたしの病室から地下1階にある検査室まで
正直「安心して」検査に向かうことはできないので、「波」がある程度おとなしくなってから、いよいよ検査を受けに検査質へ。この時点でだいたい午後2時半くらいだったかな。
ちなみにこの大腸・内視鏡の検査を受ける際は、お尻の部分が大きく開いてる専用のパンツを履くことになるのですが、
自身は前述しているような不安があったので、病院側にお願いしこのお尻の部分が開いていたパンツを履いて、その上からパットをお尻に当てるという、何だかよく分からない状態で検査室へ向かうことに。
で、この後いよいよ検査開始。車椅子で検査室まで運ばれていったわたしは、検査室に行ってまず検査をするためのベッドのようなところに乗って
ゴロンと横向きにさせられます。いわゆるお尻を検査担当の医師に見せているような状態。そしてこの後痛みどめの麻酔を点滴を通して流されました。
で、麻酔が全部体内へ流れたらいよいよ検査本番-。のはずなのですが、気が付いたらわたしは自身が入っていた病室のすぐ傍にいて、ストレッチャーで運ばれている状態でした(^^;
検査の内容としては、お尻の穴からファイバーを入れて、そのファイバーの先端に付けられている小型のカメラで腸の中を撮影、ポリープのようなものがあれば
同じくファイバーの先端に付けられているレーザーのようなもので焼き切る-。とは事前に説明を受けていたのですが、この病院では大腸・内視鏡の検査を受ける際には
患者に麻酔をしてから、というやり方を取っているらしいので(他の病院ではしてないところもあるらしい)、わたしには残念ながら検査している間の記憶が全くありませんorz

 ちなみにこれで、今回の検査入院の「主な検査内容」は修了。後は以降の検査結果が出るまでの過程や
今後の日程などの説明を担当の看護師から聞いて、この日は修了。
この時点でだいたい午後5時くらいだったのかな。この後は消灯時間までもう完全に自由時間。やっと優雅な入院ライフを過ごすことができました(笑)。
ちなみにこの日の晩、早速夕食を食べることはできました。確か献立はおかゆっぽい白いご飯に味噌汁、煮魚にじゃがいもと大根の煮物という感じ。
というかいきなりこんな形のあるもの食べていいものなのか?わたしは全然大歓迎なのですが(苦笑)。
で、この日は結局消灯時間前の午後9時頃就寝。↑で述べているように、この日はとにかくもうヘトヘトでしたね…(>_■めでたく順調に退院。ですが…
 8月15日。夜中に一度トイレに立つため目覚めつつ(いつもこんな感じ(TT))、この日は午前6時前に起床。
それから7時頃担当の看護師が今日の予定について説明をしにやってきて、午前8時頃朝ご飯。
ちなみにこの日の朝ご飯は不通の白いご飯におかかのふりかけ、味噌汁、白菜のおひたしに牛乳。というか本当にもうこんな「普通のもの」を食べていいのか(^^;?
で、この後9時過ぎに両親と今回の検査結果を医師へ聞きに行き、その後病室を引き払う準備をして(病院へのアンケートを記入したりだとか)
午前10時半頃、会計を済ませてあっさりと退院。午前11時過ぎには、親の車でもう自宅へ戻っていました。
で、これで今回の検査入院の件は全て修了、めでたしめでたし!-。と、言いたいところなのですが、
何か来週またこの病院へ来てくれって病院側からの指示が(苦笑)。幸い、今度は土曜日に来院しても良いと言われたので、8月23日(土)にまたこの病院へ行ってくることにします。
ただ、今回は「ただ検査結果を医師から説明されるだけ(これも既にやってもらっているような気がするんだけど(^^;)」だから、もう厄介なことにはならないと思っているのですが。

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ついに退院(04年8月以降)

2011-12-24 12:00:58 | 闘病日記
今月分の記事も一応、この入院生活を記した記事のバックナンバーはこちらに目次形式で記してあるので、ご希望の方はどうぞ。

■長い長い入院生活の終わり
 2003年9月11日に突如倒れ、救急車で病院にかつぎこまれてから始まった自分の過酷な入院生活。
病に倒れてから既に11か月が経とうとしているのですが……でも、そんな生活もようやく終わりを迎えることができました!
先月(04年7月)から毎週末の土日を利用して、自分は2、3回程度の仮退院を行い
『実家での生活』が滞りなくできるのか?ということを確認していました。
そしてそれも『家の中を改修工事すれば』という条件付きですがクリアすることができたので
2004年8月6日を以て、晴れて自分は正式に退院をすることができました!いや~それにしても長い長い入院生活だったよなぁ……(号泣)

ちなみに自分の名前には健康の『健』という一文字が入っているのですが、その名が示す通り、これまで自分は入院するような病気は一度もしたことはなくそれどころか骨折すらしたこともありませんでした。
そんな自分が最初に経験した入院生活がこれでしたからね。今思い返してみてもやっぱり相当辛い時期でしたよ。
入院当初は、自分の名前の中にある『健』の一文字に引っかけて『名前の通り全然健康じゃないじゃん!』と意味不明な怒りと憤りを両親にぶつけていましたこともありました。
でもこの入院生活で一番キツかったことといえば、やはり毎日の精神状態でしたね。
最初の頃は自分の体はほとんどまともに動かせなかったし、口から物を食べることもできない。しゃべることもできないからまともにコミュニケーションを取ることもままならない。
それに目も全然見えないから、本を読んだりTVを観たりして退屈な入院生活の暇つぶしをすることもできない。この頃の自分ができたことといえば、携帯ラジオを聴くことかリハビリくらいなものでした。
そして最初の頃は自分の体は一向に良くなる気配がないし、特に足は9か月近く動き出す気配がありませんでしたからね。
しかも入院生活は非常に孤独でした。まぁこれは自分自身が、あえて病気前の知り合いを遠ざけていたというのもあったのですが。この頃は自分の変わり果てた姿を今までの知り合いに見せたくないという思いが強かったですからね。

 そうなるとだんだん精神的に追い詰められていくんですよ。先の見えない不安といら立ちとで。
そのせいか、入院していた頃の自分はかなり無口でした。最初の半年ぐらいは『ほとんどしゃべれなかった』というエクスキューズがあったにせよ
入院していた頃の自分は、何を効かれても首を縦や横に振って自分の意思を『何となく』示すだけでしたし、
しかもその頃の自分は常に、眉間にしわを寄せている、常にブスーッとしている不機嫌そうな表情を浮かべていたそうです。まぁ実際に毎日かなり機嫌は悪かったのですが。

 でも、そんな入院生活からようやく解放されることができました。もちろんこれはこれで嬉しかったんですけど
ただ、実は正直なところ、まだまだ心からは喜べなかったんですよね。
確かに長い入院生活から抜け出すことはできましたけど、この時点ではまだまだ社会復帰へのメドは全然立っていませんでしたから。
『これから一生懸命リハビリをしていけば再び会社に戻れるのだろうか?それよりもこれからの自分の人生は一体どうなるのだろう?』と不安ばかりが頭をよぎりましたし。

 でもあんまり不安がってばかりいてもしょうがないですからね。とりあえず今できることを精一杯やっていこうと。
で、退院したばかりの自分が一番最初にしていたこと。それは病気前の知り合いにとにかく電話をかけまくることでした。
何しろほとんどの人とは1年近く音沙汰のない状態でしたからね。とりあえずこの約1ねんもの間、自分が入院していたということは知り合いにはちゃんと知れ渡っていたみたいでしたけど
自分がどういう状態で入院していたのかということまではほとんど伝わっていなかったみたいでしたから、まずはその報告をと。
それからしばらく何の音沙汰も無かったことへのお詫びと、久しぶりに会いたいですね!というお願いをして(苦笑)。
上でも触れている通り、何しろ入院していた頃の自分は『人との触れ合い』がほぼ皆無でしたからね。
今にして思えばこの頃の自分は人との触れ合い、コミュニケーションには相当飢えていたと思います。

■退院直後の自分の体の状態
 ここで退院時の自分の体の状態について整理しておこうと思います。

・両腕や手の力と動き
この時点で両腕の腕力はほぼ元に戻っていましたし、腕の動きも両腕とも背中に腕が回せて背中が掻けるくらいには動かせるようになっていました。
また手の平の関節もこの時点ではほとんど病気になる前と変わらないくらい動きましたし、手の握力もこの時点で左右とも35前後はありました。

・首や腹筋、背筋など腕以外の上半身
入院当初、生まれたての赤ん坊のように立たなかった自分の首はこの頃にはすっかり元に戻りました。
腹筋、背筋に関してはこの時点での状態は『まだまだ』といったところでしょうか。
腹筋は2か月くらい前にようやく、あお向けに寝転んだ状態から腕を使わずに起きあがれるようになったばかりでしたし。

・食事について
入院当初は『流動食』を胃の中に流し込んで何とか生きながらえていたようなわたくし。
そんな自分もこの頃には、ほとんど普通に食べ物を食べられるようになっていました。
唯一、普通の食事と違っていた点といえば、お茶などの水分をわざわざとろみをつけて飲むようにしなければならなかったということでしょうか。

・言葉をしゃべる能力、気管切開で開けたノドの状態
03年9月、気管切開の処置でノドの気管のあたりに穴を開け、それ以来そのノドの孔には
カニューレというノドの孔をカバーするための医療器具が挿入されていたのですが、それは実をいうとめでたく退院を果たした04年8月初旬の時点でも挿しこまれたままでした。
ただ退院3か月前の04年5月頃からは、かなり普通におしゃべりすることができるようになるスピーチカニューレをほぼ常時装着していたので
退院した時点ではかなり普通に話すことができていました。感じとしては、やや滑舌の悪い人くらいにはしゃべれていたと思います。退院後に知人と久しぶりに電話で話をしても、この時の自分が少ししゃべりにくいからと事前にことわっていても『ほとんど病気前と変わらない』とも言われましたし。

・両足の力と動き
両足については退院2か月前の6月に動き始めたばかりであり、正直足の力、動き共にまだまだ、いや、まだまだまだまだまだまだという感じでした。
両足はとりあえず『どうにかスムーズにズボンを履ける』くらいまでは自分の意思で動かせるようにはなりましたが、正直この時点ではまだ『自分の足で立つ』というのは、何かの支えや掴まる物があったとしても無理でした。
当然『自分の足で歩く』なんてことはまだ夢のまた夢の段階でしたし、外はもちろん家の中も退院後1年半は、車椅子を使っての移動でしたね。

・排尿、排便の方法
排尿に関しては退院をする3か月前くらいから始めた、使い捨てカテーテルと滅菌グリセリンという2つの道具を使って行う
自己導尿という方法で溜まった尿を出していました。でも最初の頃はこれが中々上手くいかなくて……退院をしてしばらく、いやかなり長い期間は
便器の中に出していたはずのおしっこが外に漏れていることもしばしば…(汗)。また、排便に関しても病気の後遺症で
だいぶ弁を押しだす力が弱くなっていたので、退院してからは『座薬』をお尻の穴の中に入れて弁を出すようにしていました。
そして今も同じような方法で弁は出しております……実はこれを書いている11年12月の自分にとってこの『トイレ問題』が一番悩ましい問題なのかもしれないですね。
正直、目が見えないことに関しては自分が『開き直ること』で何とでもなりますし。

・目の状態、見え方
ちなみに目の『見え方』に関しては入院当初、これを書いている11年12月の時点まで一切変わっていません。
具体的な見え方を言葉で表すと、色や光の判別はまったくできません(涙)。
自分の50cmくらい前を動いている物であれば、何となく分かる……のかなぁという感じかな(汗)。
ここで『分かる…のかなぁ』と言葉を濁したのは自分でもよく分かっていないから(苦笑)。
確かに自分の50cmくらい前だったら『物が動いた』ことは分かるのですが、それが『本当に目で見えている』からなのか
『物の動いた気配で感じているから分かる』からなのか、自分自身でも判断できないんです。…まぁ正直、どっちでもいいですけどね。どちらにしても目に関してはほぼ『使い物にならない』のは分かっていますから(涙)。

■退院後にしていたリハビリのメニュー
 退院後にしていたリハビリのメニューなのですが、結局その退院後、実家にはほぼ丸5年ほどいたので、その時の自分の体の状態によって
こなしていたリハビリのメニューもだいぶ変化していました。ここでは退院後にしていたリハビリのメニューを年単位で紹介していこうと思います。

・退院後から04年末まで
この頃やっていたリハビリのメニューは、基本的に退院直前の頃とあまり変わらなかったですね。
腹筋、背筋運動をして体幹を鍛える運動をしたりだとか、ベッドにあお向けに寝転んだ状態から足上げ運動などをして
とにかくひたすら足を動かしたりだとか、そんなことをしていました。この年くらいまでは正直、歩くことはまだまだって感じでしたね。

・05年にしていたリハビリのメニュー
この頃くらいから『歩行器』というリハビリ用の道具を使って歩く練習を始めました。
歩行器の詳しい説明等については、上記に貼ってあるwikipediaのリンクを参照していただきたいんですけど
自分がこの時使っていた歩行器は、上のリンク中の説明に即していくと
ロレーター型、または小車輪付き歩行器・歩行車
と言われる物で、自分はしばらくの間、この高さが胸のあたりまである歩行器を使って
それに覆い被さるような形で上腕部を乗せ、体の全体重を歩行器に預けるようにして
少しずつ、50メートル、100メートルぐらいの距離から歩く練習をしていました。こうやって『文章』だけで説明をしようとすると正直かなり難しいんですけど
たまに小さな子供(万1歳にもならないような幼児)が保護者の監視下の下、ベビー用の歩行器を使って遊んでいることがありますよね。
あれを大人用に大きくしたものをリハビリに使っていた-。と考えると何となくイメージしやすいのかもしれません。
ただ、上のwikipediaのリンクには、歩行器の写真も掲載されているみたいなので、目の見えている人は『それ』を見てもらうのが一番早いんでしょうけど。

・06年にしていたリハビリのメニュー
この頃は主に地元自治体が運営している『福祉トレーニングセンター(?)』へ親に連れて行ってもらって
マシンを使って足のトレーニングをしていました。(ちなみにこの頃はまだ外は車椅子に乗り、その車椅子を後ろから押してもらっての移動)
ちなみにこの頃使っていた主なマシンは、手すりに掴まってその場で走る動作をするルームランナーと(ただしルームランナーのベルトの回る速度はかなり緩めて。だいたい4kmから4.5km程度)
自転車、いわゆるエアロバイクを30分程度漕いでいましたかね。
後は両手を目の前のバーにかけて、足元のペダルのような物を踏んでいくマシン……ところでこれは何て言うんだろう(汗)?
チラッとネットで調べてみたらこのマシンは『ステップ』というのがどうやら一般的らしいのですが。

・07年から08年頃にしていたリハビリのメニュー
この頃にしていた主なリハビリとしては、マンションの階段の踊り場を使って
片方の手で会談の手すりを掴み、階段の一番下の段を使って昇り降りの運動、
普通は平均台を用いて行う、いわゆる『踏み台昇降』のようなことをしていました。
この運動、実は06年頃からやっていたのですが、06年頃はセンターでのマシントレーニングの方がメインだったので
この運動はここでの紹介。

思えばこの頃は、毎日毎日同じこと、同じようなリハビリを繰り返す日々ばかりで
精神的にも相当病んでいましたね。肉体的には入院していた頃の方がずっとキツかったですけど
精神的にはこの頃が一番ツラかったような気がします。05年末に病気前まで勤めていた会社を退職することになってしまい、
将来への展望が全然見えてこない時期でもありましたし。

・09年初めから6月までしていたリハビリのメニュー
この頃くらいから、外出する時に白杖をついて
訪問で歩行訓練士の方に週1回自宅へ来てもらって
自宅の周りで歩行訓練をしていました。ただし、白杖を使い始めた最初の頃は
足元のバランスがだいぶ悪くて、何でもないアスファルトの道でも歩くのにだいぶ苦労していたので
この頃の自分が外を出歩く時は、左手に白杖を持ち、右手に体を支えるための杖を持って歩いていました。

こうすることで確かにフラつかないし体は安定するんですけど、これはこれで今度は両手が塞がってしまうため
歩いている時は手に『何か』を持つことはできません。特にこの状態で一番苦労することといえば、雨が降っている所を歩く時。
何しろ普通に『傘』を差すことができませんから。

■退院後の自分の活動
 そして最後に、退院後から09年7月に所沢の国立障碍者リハビリテーションセンター(以下国リハ)の寮に入るまでにしていたことを
箇条書きでザッと紹介しようと思います。

・04年8月から04年12月
退院後、しばらくは実家でのんびりとリハビリ療養生活。
同時に所沢の国リハの生活訓練を実家からの通所で受けられるように準備。

・05年1月から05年7月
所沢の国リハへ1度目の入所。この頃国リハの生活訓練を受けていた最大の目的は
とにかく足を中心とした下半身の強化とリハビリ。
同時に音声読み上げソフトを利用したPCと点字の訓練も受けていましたが、正直この頃自分の精神状態が相当病んでいたせいもあってか、これらについてはあまりマジメに訓練していなかったかな…。

・05年8月中旬頃
丁度、一度目の所沢の国リハでの生活訓練を終えた直後の05年8月中旬頃、
自分は実家近くの私大病院へ、3日間ほど短期入院をすることになりました。
その理由は入院時に気管切開の処置を施したため、ノドに開いてしまった穴を埋める治療を行なうためです。
ただ、治療といってもこれに関しては特別に麻酔を打つようなことはしませんでした。治療の方法は本当に単純で、まずノドの穴に挿しこんでいるカニューレを
『スポッ』と抜く。そしてそれまでカニューレを挿しこんでいたノドの穴を、バンソウコウ、包帯などで手厚く保護して外からばい菌が入り込まないようにします。
で、その後は1、2週間ほど放置しておく。意外と思われるかもしれませんが、実は気管切開の処置で開けたノドの穴は
人間の自然治癒の力で自然と塞がっていきます。身近な例でいうと、転んだりして擦り傷を負ってしまった時のことを思い返してみてください。
転んで負ってしまった傷口は、やがてかさぶたとなり、気が付くとそのかさぶたも取れて傷口だった所もいつの間にか元通りになっていると思います。
ようは気管切開の処置で開けた穴も、これと同じ要領で埋まってしまうというわけです。

ただ、自分の場合はどういうわけか『その穴』が目論見通り埋まらなくて
しかもそれに気が付かなくてしばらく放置していたせいでずっと後、2009年10月になって
自分は結局、この『不完全に埋まってしまったノドの穴』を完全に埋めるための手術を受けることになってしまうのですが……なお、このノドの穴を完全に埋めるための手術の模様はこちらに記しているので、興味があればリンク先のページをご覧くださいませ。

・05年11月末
この頃、病で倒れるまで勤めていた会社からもらっていた休職期間が終わったため
結果的に会社を退職せざるを得なくなる。ちなみに会社に勤めていた期間は実質2年半でしたが、一応『スズメの涙』程度の退職金はもらえました(苦笑)。

・06年から08年
この頃は上のリハビリ紹介の項でも触れているように、地元の福祉トレーニングセンターに週1、2回程度通いながら
『何の目的もなく』ただ何となく、漫然と実家でリハビリ療養生活を送る。
上でも少し触れているように、この頃は会社をクビになり、それまで唯一の目標だった
『会社からもらっている休職期間の間に何とか働けるレベルまで、体の状態を戻して会社に復帰する』というのが完全に消滅した時期だったこともあり
この頃の自分は何の目的も目標も無く、ただ漫然と、かといって自ら『死』を選ぶようなことをするでもなく
何となく生きながらえていました。

・09年1月から6月
上でも少し触れている通り、この頃熊谷江南地区にある『日本ベーチェット協会』という民間の施設にお願いして
週1回、歩行訓練士の人に実家に来てもらって
実家の周りで歩行訓練を受けていました。
同時に再び所沢の国リハへ入所できるように、今回は本格的に訓練を受ける覚悟を決めて
また訓練により専念するため、寮生活をすることも決めました。

…そして話はこのブログの2009年7月5日の記事へと戻ります。
おおっ!?何課仏典にある輪廻世界のような感じで上手くまとまったぞ(笑)。

 まぁそれは冗談として最後にこんな稚拙な回顧録を読んでくださったみなさまへ。
全14回にも渡ったこの自分の闘病の記録に最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
思えば自分がこのブログを始めた目的の半分は、この『闘病の記録』を文章の形にして残すということでした。
当初、これを書き始めた頃は5、6回に渡って書けば十分書き表せるだろ?と軽い感じで書き始めてみたものの
書いている内にあれもこれもと、書いておきたいことが次々と出てきて気がついてみたら
全14回という、結構な量になってしまいました。おかげでこの記録を全部執筆するために2年半もの期間を要するハメになってしまいましたし、
途中約2年もの生活訓練、職業訓練の期間を挟んでいたこともあり、そのため長い長い中断期間があったこともあってか
正直、一時は『もう別に書き上げなくてもいいかな…』と思ったこともありました。ただ、何打かんだでこうして最後まで書き上げることができました。
これもひとえに、こんな稚拙な『闘病の記録』に最後まで付き合ってくださった読者の方々のおかげです。本当に心から御礼申し上げます。 m(_ _)m
また、今後ともこの『視覚障碍者きうっちの自立への道』のご愛顧のほどを、どうぞよろしくお願いいたします。

~完

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地獄の入院生活(04年7月)

2011-12-17 12:00:23 | 闘病日記
今月分の記事も一応、この入院生活を記した記事のバックナンバーはこちらに目次形式で記してあるので、ご希望の方はどうぞ。

■足を、下半身を徹底的に鍛える!鍛える!鍛える!
 先月(04年6月)の時点で自分の足が、下半身がようやく動き始めてくれました。
なのでこの頃くらいから足に関しては、本当に色々と、考えられうることをやりましたね。
先月の段階ではベッドの上にあお向けに寝転がって足をズリズリ引きずって足の伸縮運動、というようなことくらいまでしかできませんでしたけど
今月の段階ではもうちょっと動くようになっていたので、例えば同じようにベッドにあお向けに寝転がった状態で
足を上下に動かして上げ下げの運動をしてみたりだとか、それもある程度できるようになってきたら
足首に重り(リストバンドのような形をしたもの)を付けて少し負荷を与えた状態で同じ足の上げ下げの運動をしてみたりだとか、
他にも色々やっていたような気はするのですが……忘れました(汗)(何しろこれを書いているのが7年半後のことですからねぇ…さすがに記憶が…)。まぁ、ともかく色々とやっていました。足に関しては。それも自分で課したノルマを毎日毎日。

 ただ、この時点では正直立つのはまだちょっと難しかったですね。
自分のすぐ後ろに何か、例えばベッドサイドに密着した状態で立つことは、実は結構楽だったりするんです。
でもこの時点での自分はまだ、それすらもできませんでした。その原因は単純。
この頃の自分はまだ、自身の両足で自分の全体重を支えられるだけの筋力や膝の耐久力が無かったから。
何しろこの頃の自分は太腿なんかも相当細くなっていましたからね。自身のどちらかの手で掴めるんじゃないのか?というくらいの細さでしたし。
だから足に関しては『動きの改善』よりもむしろ『自身の全体重を支えられるだけの筋力や力強さ』を身に着けることの方が大切でしたね。
それに足がある程度動いてくれるんなら、やっぱり『自分の足』で歩けるようになりたかったですから。ま、そのためにはまず『自分の足で立つ』ことができるようにならないとお話になりませんからね。

■腹筋や拝金も鍛える
 また、ここまで特には触れてこなかったのですが、自分はついこの頃(04年7月)くらいまで
実はうつぶせ向きになって寝転がるということができませんでした。何でなのかはいまだに自分もよく分からないのですが
ともかくこの頃くらいから、ようやくうつぶせになることができるようになってきたので
この頃から自分は、ベッドの上で背筋運動をすることにしました。
背筋運動も背筋が全然無いと頭がちっとも上がらなくて、はたから見ると
まな板の上に乗っかっている、まだ生きている魚がピチャピチャ動いているような感じで正直ちょっと間抜けです(苦笑)。

 また先月分(04年6月)の記事にも記した通り、この頃くらいになって
やっと『普通の』腹筋運動ができるようになってきたので、それも合わせて毎日こなしていました。
以前にも少し触れましたけど、この頃くらいには
自分の腕の力や動き、手の握力はもうほとんど戻ってきていたので
(具体的にいうと、両手の握力はこの頃にはだいたい35近くまで戻っていました)
それらの体のブイに関しては、もう意識してリハビリをする必要がないくらいになっていましたからね。
またそれに合わせるように都合良く、ようやく腹筋や背筋、両足を中心とした下半身が『鍛えることができるくらい』まで回復してきましたから、
今後は退院後も含め、腕以外のブイを中心に体を鍛えていました。
…それでもやっぱり一番重点的にリハビリをしていたのは両足でしたね。上で述べていることの繰り返しになりますけど、やっぱり自分の足で歩けるようになりたかったですから。

■約10か月ぶりの実家への帰還
 先月分(04年6月)の記事にも書きましたが、今月(04年7月)に入って仮退院をすることが初めて許されました。
03年9月に倒れ親のクルマに乗せられて実家に帰ったのが03年9月のことだから、実家に戻るのは約10か月ぶりになります。まだ仮退院の段階ではあるのですが……ここまで来るのは本当に長かった…(号泣)。
でもそれだけ感激していた割には、久しぶりに実家に戻って何していたのかと聞かれれば、もう8年も経っているせいもあって全然覚えてない(汗)。
まぁ確か母親に好きな食べ物をたくさん作ってもらったような記憶はありますね。何しろ、病院ではあまり味の濃くない、正直味気のない料理の毎日でしたから(苦笑)。
ただ正直なところ、この頃の自分はそんな料理が毎日続いても実はそれなりに満足はしていましたけどね。
そもそもそれまで半年以上も『口から食べ物が食べられない』状態が続いていましたから。食べることそのものに飢えていたから、あまり味気のない料理が続いてもそんなに気にならなかったのでしょうね、今考えてみると。

 ただ、久しぶりに実家で過ごす上で問題となることが2つほどありました。それは『トイレ』と『入浴』をどうするのか?ということ。
それは次の項で説明する『特殊な車椅子』を使って解決することになるのですが…。

■シャワーチェアーという特殊な車椅子
 実は車椅子には部屋の中や外出中での移動に用いることになるごく一般的な車椅子の他に
シャワーチェアーという特定の目的のために使うことになる車椅子があります。この車椅子は一般的な車椅子と違って座面に柔らかいクッション、緩衝材のようなものがありません。
普段車椅子を利用して生活をしている肢体に障害を負っている人たちは、長時間連続で車椅子に座っていなければならないため
長い時間圧迫されることになる、車椅子利用者のお尻に褥瘡ができてしまわないために
一般的な車椅子には普通、お尻を保護するための柔らかいクッションや緩衝材のようなものを座面に敷いています。

 ただ、このシャワーチェアーの座面にはそれらのものはありません。そもそもそれらを座面に置くことすらできない。
何故か?それは座面の中心に大きな穴(だいたい直径30cm程度の炎上の穴)が開いているから。
実はこのシャワーチェアーという車椅子は、普段車椅子を使って生活をしている、足をまったく動かせない人たちが
トイレや浴室を利用する時に使用するための車椅子なんです。
ではどのように使うことになるのか?-。それをこれから説明していこうと思います。

■シャワーチェアーを使ってトイレを利用する方法
 最初にトイレを利用する場合について。まず、普通の車椅子からシャワーチェアーに乗り換えます。
ちなみに自分はまだ足にほとんど力が入らなかった頃、普通の車椅子からシャワーチェアーへの乗り換えは
2つの車椅子、普通の車椅子とシャワーチェアーをベッドサイドに並べて
一度自分の体をベッドの上に上げてから乗り換えるようにしていました。非常に面倒くさいですが
仕方ありません。車椅子を乗り換える際に床に落ちてしまったら、もう独力ではリカバリーすることはほぼ不可能ですから。
あ、それからトイレや浴室に向かう前にはベッドの上で履いているズボンや下着を脱いでいくことも忘れないようにします。
これは車椅子の人が車椅子の上でズボンやパンツを脱ぐことは大変難しいから。実際に普通の椅子の上でやってみると分かると思うのですが
両足を使わないで自分のお尻を浮かせ、かつその状態のままズボンやパンツを履いたり脱いだりするのはかなり難しいですからね。それこそ腕が4本くらいあればできそうな気もしますけど(苦笑)。

 話が少し脇道に反れてしまったので元に戻すと、まず普通の車椅子からシャワーチェアーに乗り換え
そしてそのシャワーチェアーに乗ったままトイレに向かいます。さらにそのシャワーチェアーを後ろ向きにして、トイレの中にある便器へ向かいます。
イメージ的には一般的な乗用車を後ろ向きに駐車場の駐車スペースへ入れる、いわゆる車庫入れのような感じで
シャワーチェアーを便器の上から覆い被せるように動かします。
これでシャワーチェアーが便器の真上にあるはずなので、あとはその状態で用を足すだけです。
でもそれだと車椅子(シャワーチェアー)がビショビショになるんじゃね?-。と思われそうですが、そうはなりません。
それは上でも述べているように座面の中心部に大きな穴が開いているから。ようはここから
用を足して出てきた排泄物が便器に落ちてくれるので、これで車椅子の人も無理なくトイレを利用することができるんです。
そしてトイレで用を足し終わった後は、最初と同じようにベッドを利用して普段使っている車椅子に乗り換える。
非常に面倒ですが、これが車椅子の人がトイレを利用する方法の一例ですね。

 ただ、このシャワーチェアーを使ってトイレを利用する場合
一つ大前提となることがあります。それはシャワーチェアーがトイレの便器を跨げるということ。
これは当然といえば当然なのですが、実は一般的なトイレにある便器は結構大きさがあって
大概はシャワーチェアーで跨げないんです。自分の実家も改修工事をする前はそうでした。
実家のトイレも自分がシャワーチェアーでトイレを利用することができるように、わざわざトイレの改修工事を行いましたからね。仮退院が決まってから急ピッチで。
また、シャワーチェアーを使ってトイレを利用する場合、当然ながらトイレにはある程度のスペースの余裕が必要となります。
ま、これもよく考えれば当然なんですけどね。家の中のトイレ(特にマンション)は意外と狭いですから。車椅子での生活を一度でも体験したら『そのこと』を嫌というほど感じると思いますよ。

■シャワーチェアーを使って浴室を利用する方法
 続いてシャワーチェアーを使って浴室を利用する方法。これもやることは『トイレを利用する場合』とほとんど変わりません。
ある程度、着ている物をベッドの上で脱いでシャワーチェアーに乗って浴室に向かい、そのまま浴室に入る。
そしてシャワーチェアーに座ったままシャワーを浴びる-。基本はこんな感じですね。
ただ、車椅子の人が浴槽に入ろうと思ったらそれはそれでまた一段と乗り越えなければならない壁が出てくるんでしょうけど、
でも実はわたし自身、車椅子に乗った状態の時、お風呂の浴槽に入ろうとしたことがないので、それについては実はちょっとよく分からないんですよ(汗)。
なのでその話についてここで書くことはちょっとできないのですが…。

 また、シャワーチェアーに座ったままシャワーを浴びて浴室から出てきた後は、濡れた体をバスタオルで拭くと同時に
一緒にシャワーを浴びたシャワーチェアーも拭かなければなりません。でも同じシャワーチェアーを使って
トイレに行ったりもするのだから、そんなことはよくよく考えてみれば当たり前といえば当たり前なのですが。
でもこの浴室から濡れて出てきたシャワーチェアーを拭く作業、実を言うとわたくしはちっともやっておりませんでした(汗)。
浴室から濡れて出てきたシャワーチェアーを拭いていたのは、もっぱら両親でしたね。いや、今更ながら両親にはお世話になりっぱなしです。

~来週に続く

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地獄の入院生活(04年6月)

2011-12-10 18:00:00 | 闘病日記
今月分の記事も一応、この入院生活を記した記事のバックナンバーはこちらに目次形式で記してあるので、ご希望の方はどうぞ。

■車いすの人がベッドへ乗り移る方法の一例
 ところでみなさんは、車いすの人がどのような方法で車いすからベッドに乗り移っているのか-。その方法を知っている人は、案外少ないのではないかと思います。
自分も自身が車いすを使って生活をするようになるまではちっとも知らなかったのですが、幸か不幸か、自分は今回の入院生活を送る中で『その方法』の一つの例を知ることとなりました。
何しろ今回の病で倒れて緊急入院をすることになってから、退院するまでずっと車いすで生活をするハメになりましたからねぇ…。まぁ車いすからベッドに『足を使わないで』移るためには
ある程度腕の力がないとできないので、実はほんの2か月くらい前まで、自分は複数の看護士さんの力を借りてベッドに乗り移っていたんですけどね。
でも2か月くらい前から、自分も両腕の力がだんだんついてきて、両腕をひじかけに乗せて自分の体を車いすから少し浮かせる運動-。いわゆる『プッシュアップ』が徐々にできるようになってきました。
実は車いすの人がベッドに乗り移る時、このプッシュアップ運動が非常に重要な役割を果たすんです。
ちなみに自分が車いすを使って日々の生活を送っていた頃、自分は次のような方法でベッドに乗り移っていました。

 まず、自分が乗っている車いすをベッドの横へ、車いすの進行方向と垂直の向きにセットします。
次に自分の両足をベッドの上に乗せ、さらに車いすの向きを変えないまま、なるべくベッドに密着させるように車いすを動かします。
そして自分の体を『プッシュアップ運動』を使って車いすから浮かせ、同時に自分の体をベッドの方へ徐々に移動していきます。この際、プッシュアップ運動をした時に車いすが動いてしまわないように、車いすのストッパーを忘れずにしておきます。

 上でも述べたようにこの方法はある程度腕の力がないとできない方法ですし、恐らく違う方法で車いすの人がベッドに乗り移る方法もあると思うのですが
自分が入院生活で得た感触としては、たぶんこんな感じの方法が車いすの人がベッドに乗り移る際のもっともポピュラーな方法なのかなと思います。
また、家にひじかけとキャスターがついている椅子がある人は、恐らくこの方法の途中の段階までは何となくできてしまうと思うので
実際にやってみるとここに書いてあることがより分かるかもしれません。ただ、本当にプッシュアップ運動をしてベッドに乗り移ろうとすると、自分の体の下にあるキャスター付きの椅子がどうしても動いてしまうので
そこまでは止めておいた方がいいと思います。どう考えても危険極まりないですから(苦笑)。あくまで途中まで、椅子からベッドに乗り移ろうとする前の段階までにしておいてください。

■さらに手先の器用さを鍛えましょう
 先月の時点で、自分は手先の器用さを鍛えるという意味で一片が数cm、全体でも20ピースくらいしかない、かなり大きなジグソーパズルを使って訓練をしていました。
そして今月(04年6月時点)ではさらにその能力を高める(取り戻す)という意味で、もっと細かい作業に取り組む訓練をしていました。
具体的には、細さ数ミリ、全長が1、2cm程度のセラミック製(?)のピンのような物を、
大きさが15cm×20cmくらいの作業板の中にある小さな穴にハメこんでいくということをやっていました。文章で説明すると少々分かりにくいかな……というかこの場合は完全に自分の文章力の不足ですね(汗)、スミマセン m(_ _)m。

 この作業も目が見えていれば恐らくそんなに苦労するようなことでもないと思うのですが(少なくとも針の穴に縫い糸を通すのよりは遥かに楽)
視覚が働かないとやはり結構苦労します。この時自分がこの作業に取り組んでいた時の方法としては
まず穴にハメたいピンを右手に持ち、続いて左手の人差し指で穴(穴の大きさは数ミリ程度)のある場所を探ります。
そしてその左手の人差し指で穴の場所を押さえながら、右手に持っているピンをその穴にハメこむために
押さえている左手の人差し指を少しだけズラしてピンを穴にハメこむ-。というような感じでこの作業に取り組んでいました。
…とまぁ、こうして文章に起こすと別に大したことない作業のようにも思えてくるのですが、自分はこの作業相当四苦八苦しながら取り組んでいましたね。特にピンが穴に全然はまらなくて…

ウキィィィィィィィ!

というような状態に常になっていましたから(苦笑)。だいたい、自分は元々こういう細かい、チマチマした作業は苦手、というか嫌いでしたからね。
宅配で取り寄せた物を、入っている段ボール箱から取り出す時には大概は『力ずく』で段ボール箱を開けていましたし(笑)。
ちなみにこの作業は退院するまで続けさせられたんですけど、これだけは一向に上手くなりませんでしたね。我ながらあきれるくらい。

■車いすからクルマの助手席へ移る方法の訓練
 また、この頃から車いすに乗っている状態からクルマの助手席に乗り移るための訓練をし始めました。
でもそもそも何でそのような訓練をし始めたのかというと、それは……ついに!ついに『仮退院』をすることが許されたからなんです!
で、所沢で入院していた自分は約1時間かけて親のクルマで自宅へ戻ることになったため、その前に『自分の力で車いすからクルマの助手席に乗り移れる』ようになっておく必要があったというわけです。
そしてこの時の自分は、以下のような方法で車いすからクルマの助手席への乗り移りを行なっていました。

 まず誰かにクルマの助手席の扉を開けてもらい、そこに自分の乗った車いすをクルマの進行方向と平行になる形で止めます。
次にクルマの天井、助手席の扉のすぐ上にある取っ手を探し出します。そしてその取っ手を右手で掴み
左手で車いすの左側のひじかけに手をかけ(この時車いすは当然ストッパーをしておく)、両腕の力を使って自分の体を持ち上げそのまま助手席の椅子へ体を持っていきます。
これで車いすからクルマの助手席への乗り移りは完了です。ポイントは自分の体を持ち上げる時、車いす右側のひじかけを乗り越えられるように上手く自分の体を持ち上げることですかね。
また上で触れている『車いすからベッドへの乗り移り』と同じように、いやそれ以上にこの作業も両腕の力が必要です。
何しろ車いすから助手席へ乗り移る時に一瞬、右腕一本で体全体を支えなければならなくなりますからね。

 また、この方法はあくまで車椅子の人が『誰か』に付き添ってもらう形で
助手席に乗り移る時のやり方の一例です。例えば車いすの人がクルマを運転して一人で会社へ通う。その際に発生するクルマからの乗り降り、というのは
上で紹介しているような『車椅子から助手席への乗り移りの方法』なんかよりもずっと大変らしいですよ。自分も詳しくは知りませんが。でも正直、そんなこと想像したくもないよなぁ…。

■やっと食べられるようになったまともなご飯
 食事は先月(04年5月)までの段階では、ご飯だけはごく普通のおかゆが食べられるようになった、
いわゆる訓練食2の段階までリハビリを進めることができた、と書きました。そしてその後、リハビリを進めていった結果、ついに!ついに固形物を多く含んだ訓練食3、すなわち普通に近い形の食事を摂れるようになってきたんです!それも3食。
(ちなみに訓練食の段階とその詳しい内容についてはこちらの記事の中にある説明を参照してください)
病気になってこの時点で、はや9か月ちょっと。入院生活を始めて最初に訓練食3を食べた時は『やっとここまでくることができた…』とさすがに感慨深いものがありました。

 そしてこの訓練食3の段階では、ようやく自分の大好きな『お肉』が食事に入ってくるようになりました。でもまだあんまり形の大きい肉は食べられなかったかな…。
この訓練食3の段階になって、自分が初めて食べた『肉を使った料理』がビーフシチューだったんですけど、このビーフシチューが本当に美味しかったですからね!
この、約10か月ぶりに肉を食べることができたあの食感と感激は7年経った、2011年現在でも本当に忘れることができません(号泣)。

 結局、この食事のリハビリに関しては退院するまで今回紹介した訓練食3のまま、毎日の食事を摂ることになったんですけど
この時の自分はそれでも全然満足でしたね。何しろそれまで約8か月間、口からまともな食事を摂ることができなかったんですから。
この頃くらいですかね。毎日のお食事を食べることが楽しくなってきたのは。
それにこの頃の自分は食事を食べる前に『本当に』両手を合わせて神様に感謝していましたからね。『今日も美味しく食事をいただけることを感謝いたします』と。病に侵される以前の自分からはとても考えられない心理状態でしたよ。

■足が…足が動くよ、ママァ(号泣)
 自分が病に侵されて約10か月、これまで触れてきた通り足はピクリとも動きませんでした。
ですがついに!ついにこの頃くらいから足が自分の力で、自分の意思で動かせるようになってきたんです!
これは本当に感涙ものでした。何しろ足に関してはかなり絶望視していた部分がありましたから……(号泣)。

 ただ、実はこの2か月前、04年の4月くらいから『何となく』足が動いてくれそうな感触はありました。
それはそれまで感覚すら無かった自分の足(特に膝から下)に、触れられている感覚がだいぶ戻ってきていたから。
それに気のせいかもしれませんが、左右の足を内側に閉じようとした時、足が何となく内側に動いているような感触が、足に何となく力が入っているような感触がありましたからね。
…ただ、これらのことは周りの目が見えていた人たちからは『別に動いているようには見えない』状態だったらしく、この時点ではあくまでただの『自分の希望的観測』にしか過ぎませんでした。
だからほんの1、2か月前までは『もう自分の足は二度と動かないんじゃ…』という不安は正直ずっとありました。これまで何度も書いてきているように、
この頃から自分は既に目が全然見えていませんでしたし、その上足も全然動かせない状態でしたから、自分で場所移動をすることはほぼできない状態でした。
せいぜい車いすからベッドに乗り移るようにするだとか、本当に平らな場所の決められたルートをしっかり覚え、その道順を左右どちらかの手すりを辿りながら
どうにかゆっくり移動するだとか、その程度にしか場所移動できませんでしたからね。
何よりもう、自分の足で地面を踏みしめて立つことや歩くことなんてないだろうな-。と思っている部分がかなりありましたから…。

 だから、退院を間近に控えたこの時期に足が動き始めてくれたことは本当に嬉しかったですね。
いや、嬉しかった-。というのはちょっと正確な表現ではないかもしれない。ともかくこの約1年に渡る入院生活の中で、一番感激したのがこのことだったと思います。

 また、これまでのリハビリ生活の経験から、手や足などは『ある程度』自力で動かすことができれば
後は自分次第でどうにでも鍛えられる-。ということを何となく感触として肌で感じていましたからね。
だからこの時期くらいから、両足については毎日、徹底的に動かすようにしていました。
といっても最初はベッドの上にあお向けに寝た状態から、左右どちらかの足を『ズリズリ』とベッドの上をひきずりながら
足を曲げたり伸ばしたりすることくらいしかできませんでした。

 でもこの時期の自分はそれでも全然落胆するような感じはありませんでしたね。それよりも『やっと足が動いてくれた…』という喜びの方が大きかったですから。
何よりこの頃までに自分の両腕は動き、力ともにほとんど元に戻っていましたから。半年ほど前までは歯を磨くことすら四苦八苦していたにも関わらず。
そんな経験をしてきたから、この頃の自分は足に関してはまだまだショボイ感じでしたけど
不思議と気分的には前向きでしたね。ここからはドラゴンボールの孫悟空よろしく、ひたすら修行の虫になればいいや-。今思うと、自分の中でそんな風に割り切れていた部分があったのかなと思います。

~来週に続く

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地獄の入院生活(04年5月)

2011-10-15 18:00:00 | 闘病日記
■何かあんまりタンが出なくなってきたんですけど…
 以前の記事で入院していた頃の自分は、気管切開の処置で開けたノドの穴からたくさん分泌物、いわゆるタンがたくさん出てくると書きました。
でもこの頃くらいからそのタンが何だかほとんど出なくなったんです。以前は20分に1回くらいは専用の吸引機でタンを吸ってもらっていたんですけど、
この頃には数時間に1回くらいのサイクルになっていました。そもそも何でそうなったのか?-。原因は正直なところ、自分もよく分かっていないのですが
ともかく自分的にはこれは非常にありがたかったですね。以前にも書きましたけど、この『気管からタンを吸引される作業』というのは本当に苦しいですから。

 それと同時に、この頃くらいからスピーチカニューレを装着して、ノドの気管を人為的に塞いだ状態にしても呼吸が苦しくなることがなくなりました。
これはちょっと分かりにくいと思うんですけど、気管切開でノドに穴を開けている間、自分はそのノドの穴と肺とで酸素のやり取り、呼吸をしていました。
で、このスピーチカニューレを装着してノドの穴を人為的に塞いでしまうと、呼吸をすることが急に苦しくなっていたんですよね。
これは『ノドの穴←→肺』で空気のやり取りをしていたものが、人為的にノドの穴を塞いだことで『口や鼻の穴←→肺』、いわゆる普通の人と同じ状態で空気のやり取りをすることになってしまったことで起こっていました。
何でそんなことになってしまうのかというと、以前にも少し触れましたが、その理由は単純に『空気のやり取り』をする距離が長くなってしまうから。
ちょっと考えれば分かると思いますが、ノドの穴と肺、口や鼻の穴と肺、とでは『空気のやり取り』をする距離が違いますからね。

 まぁこれは入院生活を始めたばかりの頃の自分の体の状態があまりにも悪かったから、呼吸をする力があまりにも弱かったから
こんなことが起こっていました。でもこの頃の自分はスピーチカニューレを装着してノドの穴を人為的に塞いでも、
ようするに『空気のやり取り』を普通の人と同じ状態に戻しても、全然苦しく無くなっていました。それだけ、この半年の間に自分の体の状態がよくなった、ということですね。

 また、これでこの頃の自分には『違う希望』が見えてきてもいました。
ノドの穴を塞いでも呼吸が苦しくなることは無くなったし、これでノドの穴からタンが全然出なくなれば、気管切開で開けたノドの穴塞げるんじゃないのか?-。と。
やっぱり人間、誰しも『普通の状態』でいたいと思うのが人情ってもんですからねぇ…。

■自己導尿のすゝめ
 自分はこれまで、尿を自分の力で出すことが難しかった(少なくとも本人はそう思っていた)関係で、
排尿をする手段には、自分の膀胱に常に『バルーンカテーテル(以下バルーン)』というものを挿入した状態にしておいて、そのバルーンを使って導尿という形で尿を取ることにしていました。
まぁバルーンを用いた導尿について詳しいことはこちらを読んでいただきたいのですが、実はこのバルーンを用いて尿を取り出す方法というのは一つ大きな問題があるんです。

 ところで、このバルーンを用いて取り出した尿は一体どこにいっているのか?-。膀胱に繋がれたバルーンの管の先には取り出した尿を溜めておく袋のようなものがついているのですが、実は取り出した尿というのはその袋のようなものに流れ込むようになっています。
そしてこのバルーン、繋がれている膀胱からその袋までの管の長さというのは1メートルもないくらいの長さしかないんですよ。これが何を意味しているのか?-。つまりバルーンを常に装着して生活している人は、この『おしっこの入っている袋』を常に体の近くに持ち歩いていなければならないわけなんです。
で、このおしっこの溜まった袋というのは『袋』というだけあって、その強度はハッキリ言って大したことはないんです。不意に強い衝撃にでも晒されれば簡単に破れてしまうような代物です。
そして中におしっこがいっぱい溜まった『その袋』が何かの衝撃で破れてしまったら一帯どうなってしまうのか?-。……ここから先のことはもう、あえて書く必要はないと思います(涙)。
もっとも、そうでなくても『こんなもの』を常に持ち歩いて外になんかハッキリ言って出たくありません。それが人情ってもんだと思います。

 でも残念ながらこの時点での自分は尿をちゃんと自分の力で出すことができません。正確に言うと、膀胱に溜まっている尿を『自分の意思』で全部出し切ることができない。
よく年配の方などが『残尿感』に悩まされている、なんて話をたまに耳にすることがありますが、この時の自分が感じているそれはハッキリ言って『そんなもの』じゃないですね。正確に測ったわけではないですが、たぶん自分の力だけでは、膀胱に溜まっている尿の半分も出すことができなかったでしょう。
そしてそれは、実は現在(2011年9月)もほとんど変わっていないんですよ、これが(泣)。では現在の自分はどうやって尿を出すことにしているのか?-。それが今回の記事で取り上げる『自己導尿』というものなんです。

 まず、ある程度個人差はあるかもしれませんが、自己導尿をする際には以下の3つの道具を使います。

1. 自分の手や尿の出る場所(つまりペニス)を消毒するための『消毒綿』
2. 尿を取り出すために膀胱へ挿入する管、いわゆる『使い捨てカテーテル』と呼ばれるもの
3. 2で紹介した使い捨てカテーテルを消毒するための液が入った、高さ5cm程度の小さな瓶、いわゆる『滅菌グリセリン』と呼ばれる消毒液

 そして『自己導尿』をする手順としては次のような感じ。まず1の消毒綿を使い、自分の手などを消毒する。
次に2の使い捨てカテーテルを3の滅菌グリセリンの瓶に入れて消毒し、その消毒した使い捨てカテーテルを自分の膀胱の中に挿入する。
…こう書くと、自分の『大事な場所』にいわゆる異物を入れることになるわけで(汗)何だかとっても痛そうなのですが、
実はそんなことは全然ないんです、これが。それは挿入するカテーテルを滅菌グリセリンで消毒してあるから。コイツで使い捨てカテーテルを消毒しておくと、本当にカテーテルが膀胱に『スルスルスルスル…』と入っていくんです。
で、しばらく2の使い捨てカテーテルを膀胱に入れていくとその内おしっこが『チョロチョロ』と出始めるので、そのおしっこを何らかの手段で処分します。
ちなみに、自分なんかは普通の様式トイレの便器の中にそのまま出すようにしていますね。こういう風にすれば、普通に座って用を足すのと何ら変わらない状態になりますから。
そして尿が全部出きったら、その時使った2の使い捨てカテーテルと1の消毒綿をゴミ箱に処分し、3の滅菌グリセリンも元に戻す。その後、トイレを流して『排尿をする作業』は完了です。

 で、こうして一連の『おしっこをする動作』を記すと『きうっちさん、そんな面倒なことを毎回やってるの?』なんて思われそうですが……正直言って、これ結構面倒ですね(苦笑)。これを5年以上やって慣れて来た2011年現在でもそう思います。
何より、おしっこをちゃんと便器の中に出さなければ『大変なこと』になってしまうので、そこは毎回かなり気を使っていますね。
そして自分が用を足すためには、毎回の外出中、常にこの『おしっこ3点セット』を持ち歩いていなければならない。これって、正直なところ結構ストレスなんですよ、ホントに。
…でもまぁ、もう自分としては『自分はこういうものなんだ…』と正直割り切って、今のこの状態の自分と上手く付き合うことにしていますね。
それに正直、大変は大変ですけど『2011年現在の自分』が本当に大変だと思っている障害は、目が全然見えていないことと『コイツ』くらいですからね。それ以外は、特に食事制限があるわけでもないですし、結構毎日楽しくやれていますから。
世の中にはもっと大変な障害を抱えて生活をしている人たちもいるんだから-。そう考えれば、自分なんかはまだまだマシな方だよな、と。最近はそう思うようにしていますね。その方がよっぽど『健康的』だと思いますし。

■ジグソーパズルをして手先の器用さを鍛えましょう
 この頃、自分は1ピースが5cmくらいあるような、木製のジグソーパズル(全体で20ピースもないような小規模のもの)を使って手先の器用さを鍛えるリハビリをしていました。
先月くらいまでは、自分の太腿を持ち上げたりする運動をしたりだとか、割と自分の筋力、腕力を鍛えるようなリハビリメニューが多かったのですが
この頃になると、当初は弱々しかった自分の腕力もみちがえるようについてきました。半年ほど前はナースコールを押すことに必死になっていたことが嘘のように。
そんな自分の状況の変化をリハビリ担当の先生も考えてくれていたみたいで、それなら『きうっちさんは腕力を鍛えるメニューより手先の器用さを鍛えられるようなリハビリをしよう』ということになったみたいです。そもそも、手先が器用といっても
『目がちゃんと見えている状態』と『目が全然見えていない状態』では意味するところが全く違いますからね。簡単な蝶結びをするだけでも、目が見えていた頃とは違う、ちょっとしたコツのようなものが要求されますし。

■再びまともなお食事をするための長い長い道のり
 先月(04年4月)からゼリーやヨーグルトを使って本格的に口から物を食べる練習を始めたわたくし。
この頃から自分は一日3食の内の1食、ないしは2食を、いわゆる『普通に口から食べるご飯』に徐々に切り替えていったわけなんですけど
実はその『口から食べるご飯』も最初から、いわゆる普通のご飯を食べられたわけではありませんでした。
先月はゼリーやヨーグルト、プリンを使って徐々に『口から食べる』練習をしてきた自分なのですが、
一言で『口から物を食べられるようになった』といっても、実は『普通のご飯』に辿りつくまではとても長い長い道のり、ある程度段階を踏んでいかなければならないんです。…まぁよくよく考えれば、そんなことは当たり前のことなんでしょうけど(苦笑)。
ちなみに、その段階とは簡単に書き表すと↓こんな感じになります。下に行くほど段階が上がって普通のご飯に近づいていく、と思ってください。

1.導入職
ゼリーやヨーグルト、プリンなど柔らかくて、口の中で形がすぐ崩れてしまう物、ノドにひっかかりにくい物を使って
これらのものを15分程度かけて、ゆっくりと食べる練習。食べる際には、キチンと飲み込んで、食べた物が気管に入ってむせてしまわないことに一番注意しつつ、食べた物を上手く飲み込めるようにすることをなるべく意識しながら食べる。

2.訓練食1
このあたりからデザートではなく、普通の食卓に並ぶような食材を使って食べる練習をする。ただし、ご飯が『普通の形』で出てくることはまずあり得ません。
まず各種食材は基本的にミキサーで細かく切り刻んだ状態にし、さらにそれにとろみをつけてほとんど液状化させた状態にしてから器に盛られてきます。
当然、食べてるこっちの方としては一体何を食べてるのかサッパリ分かりません(苦笑)。一応、食べた時の『味』でなんとなく分かるものもありますが。そしてこれは『おかゆ』ですらも当てはまります。
また、飲み物もいわゆる『普通の状態』のものが出されることは無く、バナナジュースやコーンポタージュなど、少しとろみがかったものが出されてきます。
またお茶や水など、ほとんどとろみのない水分を飲むことになった際は、わざわざとろみをつけてから自分に飲ませるようにします。
当然、この段階では自分の好きな肉類なんかを食べるというのは夢のまた夢のお話…(涙)。

3.訓練食2
実はこの段階でも、基本的なことは訓練食1とあまり変わらなかったりします。飲み物を除いた食材が、訓練食1ほどとろみがつかなくなったとか
おかゆがとろみをつけずに普通の『おかゆ』が食べられるようになったとか、少しずつ形のある物がおかずとして出されるようになっただとか、
少しずつの『小さな変化』は訓練食1から確かにありましたけど、実は大きな変化が訪れるのはこの後の訓練食3の段階になってからでしたね。

4.訓練食3
上でも触れている通り、この段階から出されてくるご飯の内容が劇的に変わってきます。言い換えれば、ご飯が『普通の状態にかなり近くなる』ということです。
まず訓練食2までは『おかゆ』だったお米が、いわゆる普通に炊いたご飯になります。そして出てくるおかずはほとんどの物が形のある固形物になってきます。
そして!そしてついに!この段階でやっと『肉』が食べられるようになりました(号泣)。ただ、といってもハンバーグや焼肉のような形で食べられるわけではまだなく、
この段階ではビーフシチューのような、少し汁物にからませてやっと食べることが許されたといったような感じですかね。それでも『久しぶりの肉を使った料理』の味は格別でしたけど。…まぁこの詳しい話は、またいずれ触れようと思っています。
それとこの段階でも、うどんやそばのような『麺類』は何故かNGでした。その理由は『麺類は実は普通の固形物と比べても飲み込みにくい部類に入るから』とのこと。…まぁ確かにそういう部分はあるんですよね、普段何気なく食べていればまず気づかないですけど。

5.常食
ちなみに常食とは、読んで字のごとく『普段常に食べているお食事』のことであり、この段階までくると実はほぼ食事制限はありません。
まぁ人によっては、常食にしても最初の内は、お茶などの水分にとろみをつけておくとか、そんな細かい制限はあったりしますけど
基本的には食事制限は『ほぼ無し』ですね。もうこの段階までくれば普通の人が食べているお食事と何ら変わらない、といっていいと思います。

 …とまぁ、いわゆる普通のお食事である『常食』に辿りつくまでには非常に長い長い道のりが待っているわけなのです。
そして、自分は今月(04年5月)の段階ではまだ、やっと訓練食2に辿りついたという感じでしたね。
上でも少し触れていますけど、この段階では正直何を食っているのか分かりませんし、当然食べている物が美味しいわけなんかありません(泣)。何の変哲も無い『おかゆ』がこの段階では一番美味しいと感じていたくらいですから。

 ということで、この段階での『お食事』はまだ正直そんなに楽しくなかったですね。本当に、ただ『食べる練習のため』だけに毎日口からご飯を食べているような感じでした。
まぁ食べ始めて1ヶ月そこそこでこの段階まで来ている自分は、専門化の医者から言わせれば『相当早いペース』だったそうなのですが、
当の本人からすればそんなことは全然なかったですよ。…本人としては早くまともな物が食べられるようになりたい!早く大好きなお肉が食べられるようになりたい(笑)!の一心でしたしね。
まぁさすがに、そんなに駆け足で会談を駆け上がれるわけはないので、それはもうちょっと『我慢』をすることになるのですけど…。

■今月のその他のリハビリメニュー
 また、この頃には他にこんなリハビリメニューをこなしていました。

1.先月に引き続きのリハビリ。手でニギニギするグリップを用いて、握力を鍛える訓練。
2.車椅子に座った状態から肘かけに両手を添え、そこから自分の体を持ち上げる、いわゆる『プッシュアップ』をして両腕の腕力を鍛えるリハビリ
3.マットの上に足を伸ばした状態で座り、その状態で両手を体の左右について自分の体を腕の力で持ち上げ、体をマットの上で移動するリハビリ

 1と2のリハビリは先月(04年4月)もやっていたので、その説明は先月分のことを記した記事を見ていただきたいのですが、
3のリハビリは今月から始めたことなので、もう少し詳しい説明を。まぁ、ようはこれは本当に『読んでそのまんま』なんですけど(汗)
みなさんも体育館などに敷かれたマットの上で『こんな感じのこと』をしたことがあるのではないかな、と思います。
マットの上で柔軟体操などをし終えた後、他のことをするためにちょっとマットの上を動かなければならない。
でも一度立ち上がって移動するのは正直面倒くさい。じゃあ座ったまんま移動すんべ-。というような時は、たぶん上に挙げたような
両足を伸ばした状態にして、手をついて腕の力を使って自分の体を移動させると思うのですが…。

ところで、この入院生活はまだもうちょっとだけ続くのですが、実はまだこの先の記事、出来上がっていないんですよね(汗)。
この闘病日記は8月の後半くらいから、自分のブログ記事を書く意欲がパチンコの確変モードに入ったように(笑)書きまくった結果、
かなり書き進めることができました。ただその『確変モード』もどうやら収束してしまったようで(汗)
しばらくはこの闘病日記、書くことはお休みとさせていただきます。
またいつか、確変モードに入ったら(笑)この続きを、今度はもう最後まで書いてしまおうと思っています。

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